ゆうきまさみ総合58【新九郎 奔る!】
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>>515
どこがそう感じるのか…。福島jrも将器と褒め称えてたやん。実際勇ましい。 お前らはどこに初詣いくの?
伊勢神宮?熱田神宮?日光東照宮?出雲大社? 東急が萌えキャラ荏原七福神イベントやるから、備前の荏原に行く代わりに行ってみようかと
虚しいけど >>517
福島家が生き残る線と併せて考えると
福島息子が孫五郎と福島父の首を手土産に龍王丸に帰参とかだったりして >>518
家臣にコントロールされるなんて君主の資質として一番アウトな要素 >>518
領地が駿府の近くにある家老格の三浦が裏切ったらどうなるのかも考えず
福島に乗せられたまま喧嘩を売ってしまったじゃん
あれじゃ福島以外の人間がよく思わない
実際庵原も興津も三浦の「孫五郎も頼りない」に同調してやる気を無くした あと、孫五郎の性格じゃ当主になったあとにどこかで意見合わなかったら徹底的に干されるの想像できるし
すでに福島の神輿になってるから担ぐメリットは少ない 前線に出てる三浦他がどうやって龍王方と話をつけるのか楽しみや なるほどね、福島のあやつり人形化してるの見透かされてるのか。
しかしワンチャンこの物語的では助命&改心して龍王の臣下になる可能性はあるような。 >>526
虫談義で龍王と仲良くなった竹若がいるから >>528
それは茶々丸の時にやるからなあ
新九郎も京都帰ったり伊豆行ったりしなきゃならないし 新九郎自身が念を押して孫五郎だけはって言ってるからなぁ
それに従来通り新五郎と弟が討死でも良かったわけだけど
弟を新五郎が引き下がれない理由にするために死なせて甥っ子出したわけだし 伊豆紀行 〜鎌倉右幕下の古跡を訪ねて〜の折りに学んだのでは
海路移動多かったし
>>519
遠くの有名どころもいいがまずは地元の寺社にお参りするのがいいぞ 2巻の大内の「船が7部(略ってやつでは
当番当たってるから地元の氏神様かな 今年限りで現役引退する田中勝春騎手が今日ここまで2勝 >>523
単純に年齢的な問題であって人物が頼りないと言ってるわけじゃないでしょ >>538
作品読んでない?
龍王丸はうつけで国を任せられないという印象を孫五郎が報告してるから小鹿側では龍王丸はうつけということになってる
今週では三浦が「確かに龍王丸は頼りない、でも孫五郎も同じ」と福島が優秀だと持ち上げまくった孫五郎は
(小鹿側では)うつけとされる龍王丸と同じだと言って庵原も興津も反論しない 龍王はハジメちゃんが脳内に住んでいて時々顔を出すバカボン >>534
裏切り者でも改心して働きが良ければ「美濃・尾張」をくれてやるぞと言われて頑張ったのに、最終的に「みのおわり(身の終わり)」をもらった人もいるからねぇ >>541
そいつはごうつく過ぎる
婿をその主君共々手恩目当てにぶち殺して
期待外れだったからって手土産にした首の息子側に寝返るとか 事前に約束したでもなく土壇場で裏切る奴の末路なんてろくなものじゃない 寝返りの段取りちゃんと踏まないとただの身の破滅っていう 読んだ
船はいいけどさ
発見されにくく、相手の近く、素早く乗り降り
みたいな場所に丁度、接舷出来るの?
そんな場所限定されてない?
強襲揚陸艦とかじゃないんだし
史実なのかな? >>547
作中描写では伊達領である入江荘で降りてるのでそこから陸路だろ。
手勢をつけて案内するって言ってるし。距離は10km 遡って考えると電撃作戦のルート上の伊達を調略してたんだな
実は三浦も新五郎方の諸将を陽動して戦地に釘付けするためにわざとひと芝居を打ったのかも >>548
長谷川さんだっけ?新九郎が初めて駿河に来た時港で出迎えた人 >>552
今回の上陸地点の清水湊は伊達
長谷川さんが味方に引き入れたっぽい 箱根の坂の長谷川正宜は小川湊の法永長者と呼ばれた商人の面が強かったが
こちらはいかつい如何にもな武士なんだな
あと鬼平こと長谷川平蔵の先祖の一人なのか >>554
焼津にある長谷川氏の居館跡とされる小川城は発掘調査によると堀と土塁に囲まれた150×80mの典型的な武士の方形居館なので、商人よりもそちらの性格の強い一族だというのは推測できる
内部の建物跡も当時の武士の典型的な様式を持っているし、馬場や矢場らしい空間もあるそうだ >>554
いかついか?
本作ではニコニコしたおっさん
後年長谷川氏が城主になる田中城は摂津が治める益津郷にあるんだよな
穏便に解決させるか押領しちゃって京都での人間関係がギスギスしちゃうか 横領なんてしてませんよ
何故か領民がうちに自発的に年貢を納めてくれてるだけですよ
うちは慕われてますからね いかついというのは子孫から逆算して描かれた清水湊の伊達さんじゃない? 伊達政宗にとっては駿河伊達氏は
同祖で同じ苗字を受け継いでいるだけの
縁の遠い同族なんだろうけど 鎌倉や室町期に手柄立てた奥州伊達氏が土地貰って散らばった格好なのかな
本拠地からはるか遠い土地が褒美なんて当たり前だったし 入江の吉川氏は出てこないな、やっぱり狩野氏の流れだから傍観しているのか? >>562
100話で茶々丸がさんざん質問しまくって結局理解しきれんかったほどややこしい >>565
上総武田
甲斐武田
若狭武田
安芸武田
ではこれで
○○武田はこれで全部よね
甲斐武田が有名だけど、安芸武田も大内と良い勝負してて強いんだよな
上総武田は里見に滅ぼされた・・・ >>562
治承・寿永の乱(源平合戦)と承久の乱が大きくて、この時に平氏や後鳥羽上皇についた武士が多く没落して領地(正確には荘園を管理する職「しき」という権限や権益)を失い、その後任に東国の武士が将軍に任命される地頭として補任されることで西遷御家人と呼ばれる武士たちが多く西仁移動することなった
千葉氏なんかはそれで各地に広がり、東北や九州にもその姓を持つ人が多かったりする
那須氏も与一の活躍で平氏方についた兄弟が助命され、そのひとりが与一に代わって荏原荘の地頭となったのが備中那須氏の始まりとも伝わっている
武士はその歴史の始まりにおいては実際の所有者である朝廷・摂関家(本家)やその下の貴族や寺社(領家)から荘園を管理する権限と権益を与えられた雇われ店長みたいなもので、鎌倉室町と時代が下るに従って武士の権限が強化されていき、戦国を経て太閤検地で荘園制度は完全に崩壊する
特に鎌倉時代に頼朝が御家人制度を作り、自分の部下を地頭として各地の荘園の管理者として任命することでそれまで本家や領家が持っていた人事権を奪い、武士に対する強い支配力を持ったのが大きな契機になっている
これを知っていると、なんで備中那須氏が明らかな偽文書である「頼朝公の下文」を大事にしてたのかとか、荏原荘は将軍の御料所(所領)で伊勢氏が所有しているわけではないというのがどういうことかわかってくる 荏原の那須氏も元は下野だしな
新九郎も後代が北条を名乗らなかったら伊豆伊勢氏とでも呼ばれてたかな? 今は河内(狭山)伊勢氏なのか、武蔵(信濃町)伊勢氏なのか >>570
当代で相模を支配下においてるから相模伊勢氏とかちゃう? >>563
吉川氏は中先代の乱で入江庄を失っている
その後入江庄は観応の擾乱の後に駿河伊達氏のものになった 伊達氏は備中にもいたという話が前に出たけど、井原市の中央を流れる小田川の南岸は伊達氏が支配していたらしくて、城主だったと伝わる戸木荒神山城,や伊達館跡がある
弘治年間(1555~58)に城主の伊達大蔵が伊勢長左衛門尉長盛なる人物(盛頼の子孫か?)に破れ討ち死にしてその歴史は終わるが、新九郎が荏原を巡って盛頼と揉めたり川の氾濫に悩まされていた頃対岸には伊達氏がいたということになる
この伊達氏も駿河の伊達氏も本家と分かれて数百年経ってるから同族意識なんてなかっただろうけど >>574
なおこの記述は幕府が編纂した大名・旗本の家譜集である「寛政重修諸家譜」にあるそうで国会図書館デジタルで閲覧もできるけど、全部で1530巻もあるので裏は取ってない
こういう系図って都合よく改変されてたり人名が間違ってたりすることもあるので完全に信頼できるというわけではないけど、「公式」にはそういうことになってる
那須氏も本家が2つに分かれて延々揉めてたせいで記録が散逸し、那須与一伝説は備中那須氏の方に伝わっていたということだけど、肝心の那須与一の実在は同時代の史料には信頼できる記録が残ってなかったりするし そもそもいなかったんじゃないかね与一って
平家物語成立以前にどっか登場してるのかな
最新号に登場した伊達氏については
ゆうき先生も大体この人だと思うとツイートしてるね 与一が存在しないもしくは扇当てが無かったとしても那須家の誰かしらが源平の時に活躍するか源氏の中枢にいなきゃ荘園貰えてなくね? >>574
同族意識はあるやろ
そういう出自は大切にしてる >>578
宇都宮氏と豊前城井氏は結構距離離れているのに交流あったみたいだな >>577
那須兄弟で源氏についたのが二人だから
もう一人の方が存在して活躍したんじゃね? >>579
宇都宮で相続問題など揉め事起こるとわざわざ豊前から出向いて介入したんだってね
惣領制による本家思いなのか単に乗っ取りなのか >>582
下野宇都宮氏じゃなく北九州にも宇都宮氏いたの? 人名に関しては理解諦めてる
理解してるマン凄いな
あとあの辺りの戦でもきっちり野戦築城してるもんなんだな
逆茂木とか堀は基本中の基本だし古今東西活用しない民族の方がまれなんだろうが 東国の武士が西国に移住するパターンは多いが
西国の武士が東国に行くと他国の兇徒と言われて排斥される
おかしい 平氏や源氏は平安時代に西から関東に来ているけどね
鎌倉時代以降、南北朝期を除いては武士の移動は東から西が多かった >>585
荏原篇で那須さんたちも戦の準備で堀切作ってたっけか >>588
工兵が居ない時代の堀とかせいぜい1m位で掘り返した土を土塁にして高低差が2m
突撃してくる人間の勢い殺して少人数で守る目的にはその程度でも十分なのかね
それこそ弥生時代辺りの集落でもそれくらい備えてたそうだし 逆茂木設けた東海道の端っこがどうなってるか気になる 立ち止まらせるように作った場で立ち止まれば上から弓矢で狙い撃ちダカラネ >>579
承久の恩賞で荘園もらって信濃に土着した信濃島津氏ってのがいるんだけど、戦国時代の薩摩にその信濃島津氏の人が来て、系図を書写して先祖の墓参りして帰ったとか >>595
新九郎奔るの世界だと本当にありそうだから困るw >>586
いやまあそれは新九郎さんちが嫌われただけでw
武家の起こりの一つは中央の官人が地方に派遣されて現地化するか種撒いて帰った結果なわけだし
豊臣政権が成立すれば西国出身の武士で東国に移転した人なんていくらでもいるわけで 新九郎が京都下りだから兇徒とかけたんだな
坂東武士も味なことをする 上杉氏は元は藤原氏系の下級宮人(昇殿も許されない地下)で、宗尊親王に従って鎌倉に下向する時に上杉荘をもらって名字の地としてるので丹波発祥というわけでもない 河川敷に陣を張るのは上流で堰を切られて押し流されるフラグ 川がでかすぎてダムクラスの規模堅牢性が必要なんじゃ? 川を堰き止めてから堰を切って押し流すって戦記物じゃ定番の奇策だけど
それ実際にやった例ってあんま聞かんよね
パっと思いつくのって日中戦争の黄河決壊作戦ぐらいだわ >>608
半ば戦記物の類いではあるが韓信が斉を攻めてる時に龍且と周蘭を討ち破った時に水計を使っているな
史記に載っていて比較的近い時代なだけにある程度信用は出来るか? >>595
ヘルメット被ってライト振ってる野明が居そう >>608
大河で、相手がタイミングよく渡河作戦を実施してくれる必要があるからな 相手に気づかれないぐらい上流でせき止める必要があるし水が貯まるのを待たないといけないのに雨が降ったら川に近づいてもらえないし
既存のダムを破壊する場合以外には使えない戦法なんじゃないの? 変則なら三成が忍城攻めで築いた堤防が破壊工作で切られて自滅という笑い話があるな 忍城も高松城もお金あっての策だからなあ
日本だと川の上流堰き止めて水計やるには地形や動員能力が中国と違い過ぎるのでは 渡河も難しい規模の河を堰き止める技術って相当なもんじゃね
木製バリケード程度で止めるの無理だろ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています