ゆうきまさみ総合58【新九郎 奔る!】
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>>474
その有名な一族がほろばされる何代か前に枝分かれした傍流っぽい 有名な三浦さんとか有名な伊達さんとかの親戚多すぎ問題 両方に良い顔したいと言われる三浦だが宴を急ぎ知らせてくれるから完全に内応組だな
庵原と興津を調略してくれてるし サンドの伊達ちゃんも南北朝あたりに枝分かれしたところの子孫なんだっけか
まあ鎌倉時代から有力者やってるような家は
子孫があちこちに散ってるよね >>434
それで堀越に仕えるようになるんじゃないかと思ってる >>448
まじか?
もう何百年か経ってるだろうに
うち島と島の間の干拓地
100年前は田んぼ 100年くらい前の地図と今のマップを比べられるアプリいいよな
たまに遊んでるわ >>481
大地震がほぼ無いというところに望みを持ってる >>484
山崎断層が歴史上最大規模で動けば岡山もかなり揺れると思う。岡山県中央部は今のところ活断層は見つかっていないっぽいが、どこの地方でも「未知の活断層が動いた」という例があるのでご用心を。 >>476
三浦さんは地名だからあの辺からポコポコ生えて来るやろ 姉上が建てた寺をGoogle Mapで見たが、なるほど川が丸見えだな。 >>463
よく見ると船は3隻しか書いてないけど帆の数を見ると5隻だから急襲部隊は伊達と合わせて300人居そう 三浦氏は相模の名族で源頼朝に仕えて鎌倉幕府の重臣となるけど、執権北条氏とその外戚の安達氏と対立し宝治合戦で宗家は滅亡した
この時北条氏に就いた一族の佐原氏が名を継承して相模三浦氏を再興し15世紀末には扇谷上杉氏に仕え、その没落後に戦国大名となるが三浦義同(道寸)の代に伊勢宗瑞に滅ぼされた
その終焉の地になったのが、戦死者の血で海が油のようになったという逸話から名付けられた油壺
今川氏に仕えていたのはこれとは別の駿河三浦氏で、宝治合戦で死んだ三浦朝村の子孫とされるが該当する人物が史料では確認できない
この後どうなったかはネタバレになるので ちなみに朝比奈氏は藤原氏だけど、和田義盛の息子で和田合戦で敵中突破してそのまま落ち延び行方知れずとなった朝比奈義秀の子孫という伝承もある
作中の時期には遠江朝比奈氏(備中守家)と駿河朝比奈氏(丹波守家)に分かれていた
和田氏は三浦一族だし、この辺の武士は鎌倉以来の古い家が多いので遡っていくと意外な繋がりがあったりする >>490
流石にそこまで多くはないわあ
役職だったり地形からだったりする >>496
「古代中世の役職と思しき名字も調べてみれば、いったんそれが地名となったのちに、その土地の所有者の名字となる道筋をたどったものがほとんどである」って柳田國男が書いてたよ
健児さんなんて古代の健児の子孫っぽいけど実際は「健児の詰め所である健児所が地名になり、そこから起こったものである」とか これより手勢をつけて道案内…
五千騎位ついたらワロす >>478
伊達家9代目政宗(独眼竜は17代目)の弟の宗行がサンド伊達家の家祖
代々大條(おおえだ)氏を名乗ってたが明治に伊達に復姓
江戸時代に政宗の血を引く女性が大條氏に嫁ぎ子孫続いたんでサンド伊達もマー君の子孫ではある >>499
サンド伊達氏は伊達政宗の話題になると必ず「政宗公」と呼ぶのが律儀で良い。 >>495
ベイスターズの監督
番長と呼ばれた元プロ野球投手
リーゼントロックの馬主
とかいろいろいるからな >>477
それでも龍王方が完全に劣勢になったら小鹿勢のまま丸子に乗り込むくらいの計算はしてるだろうが 龍王丸方が確保してる奥さん達の助命と小鹿氏および自分に就いた連中の存続と引き換えに範滿が全責任をとって切腹という形で手打ちしそうだな
自分が寝込んでいる間に状況が動いてしまったとはいえ事後承諾しているし >>500
怪しげな家系図持ち出して有名武将の子孫だって言い張ってるような子孫()連中と違ってハッキリしてる家系だからこそ逆にその辺はキッチリしてるんだろうな 藤がつく名前はみんな藤原系列みたいな事を
NHKの日本人のお名前でやってた いまだに現役のプロサッカー選手であるお好み焼き屋の息子や
ちびまる子ちゃんを描いた八百屋の娘も静岡市の三浦 >>493
いやウチが宅地化される時にいい加減な工法とってない保障は無いわけで
ウチも干拓されたのは江戸時代でも
宅地化されたのはずっと後だもの
人口急増期ってどうしてもそうなるよねという話 そもそも現代の話を書いたただけで、
過去がそうだったかは俺はしらん >>507
当該地区の宅地化工事が完了したのは震災のほんの10年あまり前
水田=保水層の上に砂を盛るという液状化確実な構造
理由はよく知らんが一帯は激しい地盤沈下も起こしていて地下水位が上昇するという完璧な条件が揃ったところで揺さぶられた >>499
復姓するパターンはあったみたいだね。西郷局の父親の戸塚忠春の子孫が明治になって勝間田に戻したとかあった。 岩城、留守、亘理の3家は明治になって伊達から元に戻している 宇喜多秀家の子孫も浮田に改名してたけど
明治維新で宇喜多に戻したとか >>504
某プロスケーターの織田信成が信長の子孫というのは怪しい 孫五郎が討たれて、観念した新五郎が自害って流れかな 孫五郎が討たれて、観念した新五郎が自害って流れかな
ああいう若さはむしろ哀しい
龍王の臣下になれる器じゃないにしても >>515
どこがそう感じるのか…。福島jrも将器と褒め称えてたやん。実際勇ましい。 お前らはどこに初詣いくの?
伊勢神宮?熱田神宮?日光東照宮?出雲大社? 東急が萌えキャラ荏原七福神イベントやるから、備前の荏原に行く代わりに行ってみようかと
虚しいけど >>517
福島家が生き残る線と併せて考えると
福島息子が孫五郎と福島父の首を手土産に龍王丸に帰参とかだったりして >>518
家臣にコントロールされるなんて君主の資質として一番アウトな要素 >>518
領地が駿府の近くにある家老格の三浦が裏切ったらどうなるのかも考えず
福島に乗せられたまま喧嘩を売ってしまったじゃん
あれじゃ福島以外の人間がよく思わない
実際庵原も興津も三浦の「孫五郎も頼りない」に同調してやる気を無くした あと、孫五郎の性格じゃ当主になったあとにどこかで意見合わなかったら徹底的に干されるの想像できるし
すでに福島の神輿になってるから担ぐメリットは少ない 前線に出てる三浦他がどうやって龍王方と話をつけるのか楽しみや なるほどね、福島のあやつり人形化してるの見透かされてるのか。
しかしワンチャンこの物語的では助命&改心して龍王の臣下になる可能性はあるような。 >>526
虫談義で龍王と仲良くなった竹若がいるから >>528
それは茶々丸の時にやるからなあ
新九郎も京都帰ったり伊豆行ったりしなきゃならないし 新九郎自身が念を押して孫五郎だけはって言ってるからなぁ
それに従来通り新五郎と弟が討死でも良かったわけだけど
弟を新五郎が引き下がれない理由にするために死なせて甥っ子出したわけだし 伊豆紀行 〜鎌倉右幕下の古跡を訪ねて〜の折りに学んだのでは
海路移動多かったし
>>519
遠くの有名どころもいいがまずは地元の寺社にお参りするのがいいぞ 2巻の大内の「船が7部(略ってやつでは
当番当たってるから地元の氏神様かな 今年限りで現役引退する田中勝春騎手が今日ここまで2勝 >>523
単純に年齢的な問題であって人物が頼りないと言ってるわけじゃないでしょ >>538
作品読んでない?
龍王丸はうつけで国を任せられないという印象を孫五郎が報告してるから小鹿側では龍王丸はうつけということになってる
今週では三浦が「確かに龍王丸は頼りない、でも孫五郎も同じ」と福島が優秀だと持ち上げまくった孫五郎は
(小鹿側では)うつけとされる龍王丸と同じだと言って庵原も興津も反論しない 龍王はハジメちゃんが脳内に住んでいて時々顔を出すバカボン >>534
裏切り者でも改心して働きが良ければ「美濃・尾張」をくれてやるぞと言われて頑張ったのに、最終的に「みのおわり(身の終わり)」をもらった人もいるからねぇ >>541
そいつはごうつく過ぎる
婿をその主君共々手恩目当てにぶち殺して
期待外れだったからって手土産にした首の息子側に寝返るとか 事前に約束したでもなく土壇場で裏切る奴の末路なんてろくなものじゃない 寝返りの段取りちゃんと踏まないとただの身の破滅っていう 読んだ
船はいいけどさ
発見されにくく、相手の近く、素早く乗り降り
みたいな場所に丁度、接舷出来るの?
そんな場所限定されてない?
強襲揚陸艦とかじゃないんだし
史実なのかな? >>547
作中描写では伊達領である入江荘で降りてるのでそこから陸路だろ。
手勢をつけて案内するって言ってるし。距離は10km 遡って考えると電撃作戦のルート上の伊達を調略してたんだな
実は三浦も新五郎方の諸将を陽動して戦地に釘付けするためにわざとひと芝居を打ったのかも >>548
長谷川さんだっけ?新九郎が初めて駿河に来た時港で出迎えた人 >>552
今回の上陸地点の清水湊は伊達
長谷川さんが味方に引き入れたっぽい 箱根の坂の長谷川正宜は小川湊の法永長者と呼ばれた商人の面が強かったが
こちらはいかつい如何にもな武士なんだな
あと鬼平こと長谷川平蔵の先祖の一人なのか >>554
焼津にある長谷川氏の居館跡とされる小川城は発掘調査によると堀と土塁に囲まれた150×80mの典型的な武士の方形居館なので、商人よりもそちらの性格の強い一族だというのは推測できる
内部の建物跡も当時の武士の典型的な様式を持っているし、馬場や矢場らしい空間もあるそうだ >>554
いかついか?
本作ではニコニコしたおっさん
後年長谷川氏が城主になる田中城は摂津が治める益津郷にあるんだよな
穏便に解決させるか押領しちゃって京都での人間関係がギスギスしちゃうか 横領なんてしてませんよ
何故か領民がうちに自発的に年貢を納めてくれてるだけですよ
うちは慕われてますからね いかついというのは子孫から逆算して描かれた清水湊の伊達さんじゃない? 伊達政宗にとっては駿河伊達氏は
同祖で同じ苗字を受け継いでいるだけの
縁の遠い同族なんだろうけど 鎌倉や室町期に手柄立てた奥州伊達氏が土地貰って散らばった格好なのかな
本拠地からはるか遠い土地が褒美なんて当たり前だったし 入江の吉川氏は出てこないな、やっぱり狩野氏の流れだから傍観しているのか? >>562
100話で茶々丸がさんざん質問しまくって結局理解しきれんかったほどややこしい >>565
上総武田
甲斐武田
若狭武田
安芸武田
ではこれで
○○武田はこれで全部よね
甲斐武田が有名だけど、安芸武田も大内と良い勝負してて強いんだよな
上総武田は里見に滅ぼされた・・・ >>562
治承・寿永の乱(源平合戦)と承久の乱が大きくて、この時に平氏や後鳥羽上皇についた武士が多く没落して領地(正確には荘園を管理する職「しき」という権限や権益)を失い、その後任に東国の武士が将軍に任命される地頭として補任されることで西遷御家人と呼ばれる武士たちが多く西仁移動することなった
千葉氏なんかはそれで各地に広がり、東北や九州にもその姓を持つ人が多かったりする
那須氏も与一の活躍で平氏方についた兄弟が助命され、そのひとりが与一に代わって荏原荘の地頭となったのが備中那須氏の始まりとも伝わっている
武士はその歴史の始まりにおいては実際の所有者である朝廷・摂関家(本家)やその下の貴族や寺社(領家)から荘園を管理する権限と権益を与えられた雇われ店長みたいなもので、鎌倉室町と時代が下るに従って武士の権限が強化されていき、戦国を経て太閤検地で荘園制度は完全に崩壊する
特に鎌倉時代に頼朝が御家人制度を作り、自分の部下を地頭として各地の荘園の管理者として任命することでそれまで本家や領家が持っていた人事権を奪い、武士に対する強い支配力を持ったのが大きな契機になっている
これを知っていると、なんで備中那須氏が明らかな偽文書である「頼朝公の下文」を大事にしてたのかとか、荏原荘は将軍の御料所(所領)で伊勢氏が所有しているわけではないというのがどういうことかわかってくる 荏原の那須氏も元は下野だしな
新九郎も後代が北条を名乗らなかったら伊豆伊勢氏とでも呼ばれてたかな? 今は河内(狭山)伊勢氏なのか、武蔵(信濃町)伊勢氏なのか >>570
当代で相模を支配下においてるから相模伊勢氏とかちゃう? >>563
吉川氏は中先代の乱で入江庄を失っている
その後入江庄は観応の擾乱の後に駿河伊達氏のものになった 伊達氏は備中にもいたという話が前に出たけど、井原市の中央を流れる小田川の南岸は伊達氏が支配していたらしくて、城主だったと伝わる戸木荒神山城,や伊達館跡がある
弘治年間(1555~58)に城主の伊達大蔵が伊勢長左衛門尉長盛なる人物(盛頼の子孫か?)に破れ討ち死にしてその歴史は終わるが、新九郎が荏原を巡って盛頼と揉めたり川の氾濫に悩まされていた頃対岸には伊達氏がいたということになる
この伊達氏も駿河の伊達氏も本家と分かれて数百年経ってるから同族意識なんてなかっただろうけど ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています