ゆうきまさみ総合58【新九郎 奔る!】
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津田信澄 一段の逸物
天野康景 とちへんなし
堀秀政 名人久太郎
朝倉景冬 朝倉の小天狗
木曾義在 風流太守
馬場信房 不死身の鬼美濃
北信景 南部の光り武者 斎藤道三 美濃の蝮
も忘れてたわ
>>106
元就も憧れていたとか >>105
文明17年の動乱では1492年まで生きてたはずの飯尾元連が布施英基と一緒に殺害されたことになってるから、史実で生き残るからと言って作中でも生き残るとは限らないぞ >>105
>>112
堀越源五郎あの描写で生きてたは無いだろ
これは歴史書ではなくゆうきまさみの創作作品なのだ
瀬名一秀の事績を今後描くか分からんが
それにしたって実はいた弟が後を継いでとか可能 >>80
隔月誌でも休載しまくる技来先生ディスってんのかテメーーーー
>>105
脇腹ブスっだから下に鎧着込んでたら或いはレベル
去年の鎌倉殿の比企能員がそれだった
結局首ちょんぱされちゃったけど >>112
詳しい事知らんけど、それってなんか最近の研究では実は通説と違い……みたいなパターンだったりしないんか?
一応結構しっかり専門家に歴史考証してもらってるっぽいし、生きてるはずの人間死なせるのは可能性低い気がするんだけど 金田一の佐木パターンで全く同じ顔の弟登場とか
刺されたのが足とかならこっちも生きてそうって想像できるけど腹ざっくりは流石にねえ この作者なら脇腹にスピリッツ仕込んでたとかやりかねない >>116
飯尾元連は奉行衆だけあって幕府の文書で名前が確認できるので間違いはないと思われる こいつ信用できねー、って貼られたレッテルってかっこいいか? >>122
昌幸さんは名将なんで、もっとカッコイイ異名が有ってイイ。 >>120
斬りつけた以上、小鹿さんサイドが堀越殿を生かしておくメリットを感じないんだが…
あれを切り抜けて生き延びていたなら暗殺者はどんだけの下手くそだよ? >>123
今で言う卑怯者という意味じゃなくて、謀略が凄い奴みたいな意味だぞ
悪太郎みたいなもので当時としては褒め言葉 >>124
真田昌幸、曽根昌世 我が(武田信玄)の両眼の如き者 >>126
次男坊のおかげでそんな好意的な言い方もされるけど、
昌幸の場合はやらかし方がひどすぎるから…
天正壬午の乱中に三回帰属を変え、関ヶ原では家康の寄騎大名になっているのに砂引っ掛けて籠城
天正壬午の乱の場合、中央で豊臣政権が成立してそれに縋らなければ流石に潰されていたろうし
ちょっとあれはねーわと当時でも思われて当然
表裏比興ってアイツ信用できないと周囲から宣告されたようなもんじゃないかな
武田滅亡の際勝頼が頼らなかったのも、判断ミスじゃなくてなにされるかわからないと当時から信用なかったんじゃないかと う~ん、伊勢宗瑞の異名は、24時間働け働けますか?伊都 >>129
あの宇喜田直家を嬉々として歓迎した秀吉が昌幸程度の裏切りでそんな事考えるかよw >>89-91
狙っていたサークルの姫をかっさらわれた因縁の相手だな
まぁ40年も昔のことだが 宇喜多は何処にも行きようがなく羽柴と一蓮托生だったから
位置的に独立独歩は難しいし毛利方にももう戻れない
新九郎に話をつなげると伊勢家の後裔も毛利方で参陣していたのか wikipedia情報だけど
伊勢貞興は義昭の備後下向には従わず信長の家臣明智光秀の与力となり、天正10年(1582年)の本能寺の変では貞興は明智勢として二条御所の織田信忠を攻め滅ぼしたが、最終的には山崎の戦いで羽柴秀吉勢に敗れ戦死した。 東荏原手放したら太郎はトモカク御家人衆のホワイトベース組は消えるヨナ? >>135
新九郎の兄貴史実では結構長生きなんだな
やはりあそこで殺したのは作劇上の都合か >>138
貞興さんは貞興さんだけど貞藤さんの子孫の貞興さんだから別人だよ 天王山まで生きてたら長生きってレベルじゃねぇ
126歳以上確定だぞ >>136
ホワイトベース組って誰のこと指すの? 初代ガンダム見たことあるけど、新九郎の家臣達と結びつかない。俺の想像力がないのか。 ブライトもカイもリュウもいる
ルパンと五右衛門もいる
次元がいなくて寂しい 又次郎 ブライト
三郎 カイ
太郎 リュウ
か、確かに似てるかも 甲斐の虎とか越後の龍とか古くから言われるけど
相模の獅子はここ最近から聞く感じがするな(昔からあった?) 信玄謙信の龍虎に絡めようと無理に名付けた感じがしないでもない>獅子
誉め言葉として獅子は日本じゃあまり使わんような >>116
検索してみたら「室町幕府奉行衆と禅林」という論文があって文明17年の事件の顛末が述べられてるんだけど、作中とはいろいろ違ってるな
論文によると飯尾元連は8月に義尚の元に帰参して赦免され、以降布施英基に代わって奉行衆の筆頭として活動してるのに対して、作中では布施英基同様に12月に帰参したことになってる
論文によると布施英基父子と一緒に討たれたのは元連ではなく飯尾新右衛門・孫三郎兄弟で、二人は布施英基の縁者とのこと
飯尾元連は数々の資料によってその後の活動も確認できるので、文明17年に死んでないのは間違いない
おそらくゆうき先生の勘違いなどではなく意図的に、義尚の苛烈さを分かりやすく描くために元連を赦免せず討たせたことにしたのではなかろうか >>137
荏原に家も田畑もあって荏原が東西に別れれば両方に仕えるって
完全に土地付きなんだけど >>155
家臣団生え抜きで年長の又次郎や三郎はそれぞれの兄貴達が土地相続してるだろうし、そろそろ東西の荏原も盛頼の差配で一本化する頃
そしたらむしろ帰る家がなくなるわけで カイさんは東荏原に田畑あるから叔父の寺領さえ横領しようとするカモンノスケが黙ってないとオモウ 荏原を手放すのが今川から土地もらったあとなら家臣団にも土地分けて駿河在竹家誕生とかになるんだろうけど もらってもスデに土着の豪族が居るだろうし
ソーユーののココロを掴んで平定するまで二代目までかかってるしネ。 新九郎の直臣クラスも、新九郎に付いて年の大半、京都に滞在するようになった段階から、荏原の田畑からの収入に加えて、新九郎から給料もらってたのでは無いか?じゃないと無理だろ
どっかに俸禄というセリフもあったしな
存竹三郎だって荏原の初めのころ描かれていた存竹父から分け与えられた猫の額のような畑と三郎に仕える腰を痛めた爺さんひとりだけでは、京に住んで妻と子供がいる生活は難しい >>161
荏原で畑仕事していた頃から10年以上経つもんな
龍王帰駿の下準備のために新九郎が費やした金の中には家人たちへの追加報酬も含まれているだろう この時代の武士はヤッパリ一時金じゃなくて土地ダヨ。 >>163
京で発行した割符を備中国で換金できる時代だぞ、土地は大事だが、完全に金の時代だろ。
在竹三郎の農地持ってたり次兄が自ら畑耕してるシーンはいわゆる土地に根付いた古いタイプの地侍として描きたかったんだろうな。
一方荒木彦次郎、山中才四郎、多目権兵衛は農地持ってる感じしないから、俸禄なんだろう。 >>165
雪の峠なんかセキガハラの後なのに、江戸への早馬という一時雇いで
シブエナイゼンが自分が拝領した所領を削って関わった者全員雇うヨウダワって言ってるのに
マダマダ武家のリアルっつーモンがワカッテナイ御様子のモナミ。
モラッテツカッタラオシマイト(◕ω◕)テイキシュウニュウトドッチガウエデゴザルカムッシュ? >>166
「金杯で乾杯できれば去年の完敗はノーカン!」 >>167
冬の日本海を船で秋田県まで素早く到達するとかいうトンデモ漫画かw
あれは笑ったわ
作者は後で恥ずかしくなってジタバタしてるだろうな 当時の河川の交通網とか今のカンカクで語っちゃうとゼンゼン違うカラネェ。 >>170
ホープフルSも思い出してあげて
『じゃじゃ馬』の頃にはなかったけど >>175
あれで喜んだ知恵遅れがここにいたw
さすがにないわ
小学生レベルのネタだぞあれ 船で来たとは言ってるケド海を廻って来たとはダレモ言ってないノヨネェ〜
サタケサマがその後カジワラさんに海のそばも捨てたもんじゃナカロウとは言ってるケドw
このマンガでも川から小鹿館に行ったりしてるんだけど読んでナイノカナ? 佐竹やら島津は、この時期は何やってたの?って聞かれたら
とりあず内ゲバと答えておけば間違いはない 100年前くらいに子がなく山内上杉から養子が入る→一族が反発→新九郎の頃くらいにようやくおさまる >>177
峠を通らずに船で来たから早いって話なのに
どこから船に乗ったんだよw
そして峠なしの航路はどれも普通に峠を行くより困難なルートしかないという笑い話
まあ岩明が秋田の位置を勘違いでもしてたんだろ
仙台辺りだと思ってたんじゃねw >>180
逆に北条以外の大名なんて内ゲバばっかり リアルを売りにした作風だと時代考証とか地理とかしっかり考えてないと色々ツッコミ入るよなぁ
仕方ないけど作者も辛いとは思う >>182
普通に峠を行くもナニモ雪で峠通るのがタイヘンっつーのがこのハナシの根幹ヤン?
船の方が早いヨw 小学生レベルはさすがに極端で
大学出ててもわからん者にはわからん 江戸から秋田にどうやって船回したんだろうとはちょっと疑問に思ってはいた
けどまあそもそも岩明均の歴史物はファンタジーってのが基本だし、ストーリー面白けりゃいいでしょ なんでこのスレでそんな話を・・って思いつつ
あの話って、佐竹が関東にまだ力を持ってるって所を家康に見せつけてってネタだから
使ったのは関東の水路だろう?常陸の水路は江戸時代に整理されて霞ヶ浦、利根川にまとめられてるけど
戦国時代はもっと川だの湖だのだらけで水路が網の目みたいになってたのよ
これから新九郎でも描かれるかねえ・・・ 普通に陸伝い津軽海峡経由で江戸-秋田の海路あるだろ
無けりゃどうやって収穫米現金化するんだよって
所要時間は、風次第天気次第ではあるけど東北道が整備されるまでは雪の山脈幾つも越えるよりはマシな場合もあるんでない 南北朝期だけど、昔の常陸の地図がのってた
qr.paps.jp/DWscP 江戸時代でもやってない冬の津軽海峡通過しての秋田行きとかやってたら無駄に偉業だね 人間の営為は漸進的に限るって思い込みは進歩的歴史観中毒の典型だな どうやって移動したんだという話に関してはゴールデンカムイの距離感覚には及ばない >>194
江戸時代って米の現金化は関西じゃなかった? 江戸は江戸で張り紙相場が出る程度にはあったんじゃないの米市場
じゃなかったら米将軍もハゲなかっただろ 秋田から江戸に米運んでたら本間家も大富豪にはなれなかっただろうなw 札差は末端の武士の換金だからちょっと違うか
蔵屋敷は大阪が1番大きいけど江戸にももちろんある
西国は大阪に東国は江戸に
当時は西国が米所だから圧倒的に大阪の方が取引量が多い 調べてみたら秋田から江戸まで米運んでないこともないんだな
ただし日本海から瀬戸内海通って紀伊半島回る西回り航路だけど
つーか河村瑞賢とか名前だけ聞いたことあるけど、こんな事(航路開発)やってたんやな 現代の水上輸送と陸上輸送のコスト比1:100という試算があってな
速達性が無い前機械化時代ではトータル評価がさらに水上に傾く 出羽から東回りの廻船がないのは津軽海峡が難所だからか? 太平洋側は海流のせいなのか難所多かったらしいね
江戸時代までは日本海の方が海運盛んだったって聞くし ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています