戦前の政治家、胎中楠右衛門(たいなかくすうえもん)がいまの神奈川県海老名市に最初の「憲政碑」を建立したのは
1933年、5・15事件の翌年だった。
所属する立憲政友会総裁の犬養毅首相が凶弾に倒れ、憲政功労者の慰霊の場を、と発起した犬養らが貫いた政党政治が
軍部の台頭によって衰退していく時代である。

碑には「政党否認ノ声ヲ聞クニ至テハ是等先輩ニ対シ深ク慚愧(ざんき)ニ堪ヘサルナリ」とある。
政党不要論まで巻き起こし、憲政の先達たちに合わせる顔がないという胎中の嘆きだ

それから85年。時代は違うが、政党が弱体化する状況は似ている。森友・加計問題や陸自の日報問題など
官僚や自衛隊の不祥事を与党は解決できず、分裂と再編を繰り返す野党に政権交代のエネルギーは乏しい

機能不全の責任はまず与党にあるが、野党の漂流も際立つ。連休明けに新党「国民民主党」が誕生するという。
「民主」を冠する主要政党はこれで四つ。国民と民主の合わせ技とくれば重複表現のくどさも感じてしまう。
ことばのアピールだけでは国民は振り返らない

政党政治は専制的な藩閥政治に反発した明治の自由民権運動から生まれた。
審議拒否をするなら、いっそ街頭に繰りだして国民に直接訴えるのも野党の姿ではないか。
まなじりを決し行動を起こしてこそ世論は動く

胎中は4年後、二つ目の憲政碑を東京・浅草に建てている。しかし、立憲政治の再生の願いもむなしく
戦時体制の荒波の中で政党は解散し、その理想は国難の名の下に消えていった。

毎日新聞
https://mainichi.jp/%61rticles/20180429/ddm/001/070/130000c
2018年4月29日 東京朝刊