侑「虹ヶ咲学園二年四組担任、高咲侑です!」
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
※侑ちゃんは先生なので普通に成人してます
※生えてません
※▲(場所)▲←現在の場所
※▽(場所)▽←過去の場所 だめだ。結局侑先生は、何も分かっていない。何も分かっていなかった。
しずく「『しずく』が消えないと、『しずく』が死なないと、主人格はいつまで経っても『しずく』のままなんですよ……?そんなのおかしいです……。スイが私であるべきなんです……」
そう呟く声音は、どうしてか、とても弱々しいものだった。
なぜ……?
侑「そう、スイちゃんが言ったの?スイちゃんは、それを望んだの?納得したの?」
しずく「……」
していない。
スイは、きっと私が消えることを望まないだろう。でも仕方がない。私には存在価値が無い。存在意義がない。
底が抜けてしまったのだから……。
侑「しずくちゃん。君はただ、自分に存在意義がないって、存在価値がないって絶望して、それから逃れたかっただけなんじゃないの?」
しずく「──」
しずく「そ、そんなこと……ッ!!そんなことないッ!!そんなこと……絶対に……」
私は本当に……スイの為を思ってした行動のはずで……。
そう思ったが、自然と口は別の言葉を紡ぎ始めていた。
しずく「私は……底知れない器だったのに……。底が抜けてしまったから……。私のいる意味が消えて……。だってこれは……私が、分不相応な願いをしてしまったから……。自分が欲しいって……」
弱々しく、言葉が紡がれていく。
心の声が、そのまま形になっていくような、そんな感覚だった。
侑「しずくちゃん」
しずく「ゆ、う……せんせ……」
いつの間にか、侑先生は私の目の前まで来ていた。
侑先生は優しく私の手からボールペンを奪う。
そして、私は温かい感覚に襲われる。
侑「大丈夫。しずくちゃんの底が抜けてしまっても大丈夫」
私は、抱きしめられいたと、そう気づいた。
優しく、優しく。赤子にするような、そんな抱擁だった。
しずく「大丈夫なわけ……ないですよ……」
侑「底が抜けて全てがすり抜けちゃうって?」
しずく「そうです……。全て、すべてが、すり抜けていくんです……」
しずく「何も感じない。何も降ろせない……」
しずく「私はずっとこのままなんだって思ったら……」
しずく「まるで全てが闇に包まれたような……そんな気がして……」
無感。
それは闇だ。どこまでも続く深淵の闇。宇宙の遥か先にでも一人置き去りにされればそんな感覚に陥るのだろうか。
侑「大丈夫。平気だよしずくちゃん」
しずく「な、なんで……」
どうしてそう、断言できるのだろう。
どうしてそう、自信満々に言えるのだろう。
しずく「どうして、平気って、大丈夫って……そう言えるんですか……」
私は縋るように、助けを求めるように。喘ぐようにして聞いた。
侑「底が抜けたって、空っぽだって、問題ないよ」
侑「私がその穴を満たしてあげる。しずくちゃんの全てを、私で満たしてあげる」
しずく「──」
侑「どれだけ深くたって、どれだけ広くたって。ちょっとの隙間だって許さない。高咲侑の全てを持って、しずくちゃんを満たしてあげる」 侑「だから、平気だよ。しずくちゃん。安心していい」
一層、抱擁が強くなった。
瞬間、私の中で何か膨れ上がる感情があった。温かく、それでいて体を満たしていく歓喜の感情だ。
感情が、私の名からあふれ出していく。
しずく「……あ、あれ……」
いつの間にか。頬を伝って涙が流れていた。
侑「しずくちゃんが自分を捨てようと、私は絶対に手を離さない。こうやって抱きしめ続けるよ。私の前から消えるだなんて、そんなことは許さない」
しずく「侑先生……」
私は、久しく感じる歓喜がなんだか怖くて。侑先生へ抱きしめ返してしまった。
強く、強く。離れないように。離さないように。逃げてしまわないように。
侑「それに、さ……。しずくちゃんは自分の原点を『底知れない器』だと思っているけれど、本当にそうかな?」
しずく「え……?」
突如言われた理解できない言葉。
私の原点が『底知れない器』じゃない……?
いや、私は物心ついた頃から何も感じない子で、自分が無い子で……。
侑「しずくちゃんの中に、スイはいつ生まれたの?スイはどうして生まれたの?」
侑「しずくちゃんが生まれた日。その日からスイはいたの?」
しずく「スイがいつ生まれた……?」
スイは……いつの間にか私の中にいた。物心ついた頃には既に……。いや、そうだったか……?スイはいつ私の中に生まれたんだ……?
侑「『今の』オフィーリアは泳ぎが上手だったよ。過去の後悔を、そのままにしておかなかったおかげだね」
しずく「え……?いえ、オフィーリアは泳ぎが不得意なはず……」
矢継ぎ早に繰り出される侑先生からの言葉。
そのどれもが、確実に私の何かを大きく刺激していく。
侑「思い出してごらん。それは本当に『今の』オフィーリアのことかい?『昔の』オフィーリアのことじゃない?」
しずく「『今の』……?『昔の』……?」
頭が割れるように痛い。また始まった。脳みそを無理やり開かれるような感覚。
波の音が、水の音が、私を激しく揺さぶっていく。
何かが、呼び起される……。
侑「──しずくちゃんは元々、二重人格でもなく、『底知れない器』でも無かったんだよ」
侑先生のその一言が、最後のトリガーだった。
しずく「あ……」
私が今まで封じていた記憶が。
何重にも鎖を巻いて出てこないよう閉じ込めた記憶が。
一斉に飛び出す── ▽在りし日の桜坂しずく▽
私を一言で言い表すのならば、自信のない子供だった。
私は小さな頃、それこそ幼稚園の頃から古い演劇や映画が好きだった。両親は仕事で忙しい人だったので、趣味の内容が自然と手軽につまめるモノだったのだ。だから、私の家にはそういった創作物がたくさんあった。
両親との時間があまり取れない私にとって、映画や演劇は孤独を埋めてくれる道具だったのだ。
映画や演劇は好きだったけれど、その内容を全て理解していたわけではない。むしろ、半分も理解できていなかった。
私がフィクション作品の登場人物に憧れたのはなぜだったか。
きっと、演じる役柄が物乞いをする貧乏人であったとしても、使い走りにされる下っ端であったとしても、役者自身は自信を持って演じているからかもしれない。
堂々とした役柄でなくても、映画や演劇を形作る重要パズルのピース。弱者も強者も等しくピースや材料に過ぎない。そういった徹底した不平等なまでの公平さ、ここにも魅力を感じた。無論、幼稚園生であった時分の私が、自覚を持ってそういった楽しみ方をしていたわけではない。
そんな幼少期を送っていたからか。
幼稚園という小さくも、当時の私にとっては大きいコミュニティではズレを感じていた。
「いっしょにおままごとやろ〜?」
「しずくちゃんはこいぬのやくね!」
自分を上手く出せない私にとって、距離感の近い遊びに誘ってくれる人は助かった。
助かったと思っていたのは、最初の頃だけだったが。
「こいぬ?でも、こいぬなんてかえないよ」
「え〜?なんで〜?」
「だってこいぬはおかねもちのひとしかかえないんだよ?」
私にとってペットとは、上流階級に位置する人間の楽しみであると、映画や演劇を見て奇妙な常識が出来上がっていた。その奇妙な常識、つまり偏見はいたるところで他の人とのズレを生み出した。
私にとっておままごととは、フィクション作品の延長線上にあった。演じている時はまるで演劇や映画の世界の人と同じになれたようで楽しかった。けれど、楽しかったのは私だけだった。
「どうしておかあさんはりょうりばっかりしてるの?おしごとにもいかないと」
「どうしてひとりだけのじかんがないの?ずっといっしょにいるなんておかしいよ」
「どうしてこどもひとりでなにもできないの?るすばんのしーんもいれようよ」
私の世界はきっと、他の人と比べてズレていたんだと思う。
他の子の両親は夕方になれば自宅に帰ってくるし、土日の休みには公園や遊園地などに遊びに連れて行って貰っていた。けれど、私の両親はどちらも家事育児より、仕事に傾倒していた。
そういった普通ではない家庭で養われた価値観と、演劇や映画の世界で養われた価値観。その二つが変に融合した結果、私は周囲とのズレをより大きくしていった。
「しずくちゃんとあそんでてもたのしくない!」
「めいれいしないでよ!わたしはわたしのやりたいことをしたい!」
「もうあそんであげないもん!」
私は自信がなく、人見知りをする子供だったけれど、好きなことには本気だった。本気だったからこそ、余計にその溝を深くしていった。私の奇妙に折れ曲がった偏見は、おままごとで悪い方向に働いた。
私だけの都合で色々な口出しをした。それが他の子にとっては面白くなかったのだろう。次々に私から人は離れていった。
当然と言えば当然だ。私は私の世界だけを優先して、他の子の常識を受け入れなかったのだから。
こうした、フィクション作品への偏愛、世間とはかけ離れた偏見。この二つが私を周囲から孤立する原因となった。
「ね、ねぇ……わたしもう、なにもいわないから、おままごとしようよ」
「い〜〜やっ!しずくちゃんうるさいんだもん!わたしのままみたい!!」
「あ……。ご、ごめんなさい!なにもいわないから!おねがい!おねがい!」
「はなしてよ!いたいよ!」
「うっ、ご、ごめんね……。ごめんね……?うぅ……うううう……」
「あー!しずくちゃんなかしたー!わるいんだー!」 私がおままごとへ熱が入るあまり、それを周囲が鬱陶しがっていたこと。それに気づいた頃には遅かった。私への周囲の偏見は、『おままごとでえらそうなやつ』になってしまい、おままごとでは遊べなくなってしまった。
とはいえ、それはあくまでおままごと限定の話だ。折り紙を使った遊び、ビーチボールを使った遊びなど、そうしたおままごと以外の遊びには参加できた。
しかし、私が本当に心の底からやりたかったのは、おままごとだったのだ。だから私は一生懸命頑張った。おままごとをやろう、と他の子を懸命に誘った。自信がなく人見知りの私だったが、それでもできることはやろうとした。自分を変えて、みんなと楽しめるおままごとをしようって、頑張ったのだ。
けれど、私への偏見はしつこい油汚れのようであり、幼稚園生時代、おままごとをもう一度やる機会は訪れなかった。
「しずくちゃん。他の子達とちょっと距離を置かれている感じなんですよ……」
「え、しずくか……?あの子が何かしたんですか?それともいじめられて……?」
「あぁいえ。そういうことではなくて。何と言いますか、おままごとへの本気度が高すぎるせいですかね。ちょっと色々言っちゃって……。他の子が自由にできていないみたいなんですよね」
「……そうなんですか。しずくは人見知りなのでそんな面があるなんて知りませんでした」
「私は勿論、他の先生方もおままごとの輪に入れようと頑張ってはいるんですが、想像以上に他の子達から見たしずくちゃんの印象が悪いみたいで」
「なんとか、なんとかなりませんか……?」
「う〜ん。でも他の遊びなら普通に混ざれているんですよ。どこか一つ気に食わなくても、他の遊びならフラットに接することができる。まだみんな小さいですから。完全に孤立しているわけではないので、そう心配することはないと思います」
「あ、そうなんですね。てっきりみんなから爪弾きにされているもんだと……」
「とはいえ、若干の距離を感じるのは事実ですし、改善に向かうよう努力しますね」
「はい。よろしくお願いします先生」
たまに、幼稚園から帰る時、先生とお母さんがそうした話をするのを聞いた。話の内容を全て理解したわけでは無かったけれど、よくない話だったのは雰囲気から察せられた。この時くらいだろうか。人の出す雰囲気や感情に敏感になり始めた頃は。
私はこれ以上自分と周囲との人間関係を悪化させないよう、なるべく息を潜めて生活するようにしていた気がする。
周囲の反応を逐一窺い、自信がなく人見知りな為、あまり人と積極的に関わろうとしなくなっていた。両親は家にいる時でも忙しそうに仕事をしていたため、相談することもできなかった。また、両親とのコミュニケーションが少なかったせいか、そもそも相談して解決する、という手段を思いつかなかった。
けれど、そんな私に転機が訪れる。
「しずく。ほら、わんちゃんだよ」
「わんっ!」
父親が連れてきたのは、一匹の犬だった。その犬は、生まれたばかりの犬ではなく、どうやら里親募集中の犬だったらしく、少し大きかった。
「わわわっ!」
「わぅん!」
その犬は、父親の手を離れ、真っ直ぐ私へと突撃してきた。当時の私にとって犬とは未知数な生物であり、恐怖の対象でしかなかった。
「わふふ〜ん」
「……」
恐怖の対象のはずだった。
けれど、人の感情の機微に敏感になっていたせいか、その犬から向けられた感情が好意から来るものだと理解できた。私はそうした純度の高い好意を真っ直ぐ向けられることに慣れておらず、しかし、悪い気分でも無かった。
私はいつの間にか、その犬を小さな手で撫でていた。
「わうぅ……」
「……ふふっ」
犬は気持ちよさげに目を細め、私はいつの間にか笑みを漏らしていた。
「しずく、このわんちゃんに名前を付けよう。しずくが決めていいよ?」
「え……。わたしがきめていいの?」
「あぁ。このわんちゃんは、今から俺たちの家族になるんだ。だからよく考えて名前を付けるんだよ?」
「……かぞく」 私は悩んでいた。
父親はペットではなく家族と表現した。私にとって家族とは、あまり家に帰らず、あまり私と遊んでくれない存在だった。
そんな私にとって家族とは、あまりいいイメージのわかないものだった。
けれど、創作の中の世界なら。演劇や映画の中の世界なら。
家族愛をテーマにした作品は数多あった。私も、そんな映画や演劇のような家族愛を育めるような家族が欲しいと思った。
そして、この子が私の家族になるなら、きっと妹だ。
「じゃあ……オフィーリアがいい。このこはオフィーリア。これできまり」
オフィーリア。それは最近鑑賞した演劇に出てきた妹の名前。ただそれだけの、単純な名前だった。
「オフィーリア?それってハムレットの?いやぁ、オフィーリアかぁ……」
父親はそう言うと、後ろ頭を掻いて少し困っていた。
父親が困っていることは分かったけれど、私は頑として聞かなかった。
「このこはぜったいオフィーリア!ぜったいだもん!わたしのいもうとだもん!」
「……そうか。分かったよしずく。しずくがお姉ちゃんなら、オフィーリアをしっかり守ってあげるんだよ?」
「……うん!わかった!わたし、オフィーリアのおねえちゃんとしてがんばる!」
それからしばらく、私にとって人生の絶頂期を迎える。
オフィーリアは最初から私によく懐いた。それは別に私だけではなく、他の人も例外無かったが。
オフィーリアは好奇心旺盛な性格らしく、よく色々な場所へと走り回っていた。私は好奇心より未知の恐怖の方が勝る性格をしていたので全く真逆の性格をしていた。
けれど、どこにでも行くオフィーリアと一緒なら、私はどんな場所でも怖くなかった。
それはなぜだっただろうか。
私がお姉ちゃんとして妹を守らなければならないと、そう張り切っていたからだろうか。それもあるだろうが、真相はきっと違う。
「わうわうっ!」
「そっちにいきたいの?」
「わんわん!」
「うん。じゃあいこうオフィーリア!」
「わおんっ!」
真相はきっと、好奇心旺盛でどこにも首を突っ込むオフィーリアだったけれど、決して私を置いていかなかったから。私はオフィーリアを守っているつもりだったけれど、私はオフィーリアに守られていた。
そしてそんなオフィーリアに感化されたからだろうか。
誰にでも人懐っこいオフィーリアに影響され、私の人見知りの性格は少しずつ改善されていった。
みんなオフィーリアを見ると寄ってくる。そんなオフィーリアを通じて、少しずつみんなとの関係も修復されていったのだ。
「最近のしずくちゃん。よく笑うようになったんですよね」
「あ、先生もそう思いますか?家でもしずくったらずっと笑顔で……」
「そうなんですか。いい傾向だと思います。やっぱりその秘訣はあのわんちゃんですか?」
「えぇ。オフィーリアと言うんですけど、しずくったらずっとオフィーリアにベッタリで。まぁオフィーリアの方もしずくにベッタリなんですけど」
「あはは。微笑ましくていいですね」
「えぇ、本当に。本当にオフィーリアを家族に迎えてよかったです」
オフィーリアを家族に迎えてから、私はどうもよく笑うようになっていたらしい。それに比例して、家の中の雰囲気もなんだか明るくなった気がして。オフィーリア様様、と言った具合だった。
そういう日々を過ごしていたからだろうか。オフィーリアが私へくれた様々な物の大きさが分かるようになってきて、自然と感謝をする機会が増えていった。 「ありがとう。ありがとうねぇオフィーリア」
「わうん!」
「わたしとオフィーリアは、ずっといっしょだよ。ずっといっしょのしまいだよ?」
「わううん……」
「ふふっ。オフィーリアっていつもあったかい。あったかくて、おちつく……」
「わんっ!」
オフィーリアはあったかい。
抱きしめると太陽のようないい香りがした。私の大好きなにおいだった。いつまでも抱きしめていたかった。
私にとっての家族とは、そういうイメージにどんどん変わっていった。
温かくて、一緒にいると落ち着く存在。家族とは、そういうものだった。
しかし、そんな日は長く続かなかった。
オフィーリアはよく外に出たがった。好奇心旺盛だったから仕方のないことだった。けれど、まだ幼い私とオフィーリアの二人で外出することはできなかった。両親からの認可が下りなかったのだ。
しかし、オフィーリアと一緒なら、私はどんな場所も怖くは無かった。だから忙しい両親の目を盗み、私はよくオフィーリアと秘密のお出かけをしていた。
あの日も、楽しい楽しい、秘密のお出かけになるはずだった。
オフィーリアがドアをカリカリと掻くので、両親が不在なことをいいことに、私はオフィーリアと秘密のお出かけをした。
その日向かったのは近くの河原だった。きちんと整備された堤防と自然が綺麗に調和した河原だった。私とオフィーリアにとってもお気に入りの場所だった。
私はオフィーリアお気に入りのボールを持っていき、楽しく遊んでいた。
「とってこ〜い!」
「わうんっ!」
「あははは。はや〜い!さすがオフィーリア!」
「わうわうっ!」
「うんっ!まだまだいくよ!それっ!あ……」
私が全力で投げたボールは変に風に流されてしまい、思った以上に遠くへ飛ばされてしまった。
「あぁ……。しょうがない!とりにいくよオフィーリア!」
「わんっ!」
私は落下したボールの地点を何となく予測し、その周辺を探索していた。
当時の季節は夏ということもあり、いつも以上に植物が生長しており背が高かった。
私はそんな中をかき分けながら探していると、ようやくボールが見つかった。
「あった!あったよオフィーリア!」
私はボールに向かって勢いよく走りだした。
けれど、突然、奇妙な浮遊感が私を襲った。
「え……?わぷっ……」
ボールが乗っていた場所。それは、地面ではなく水中に生える水生植物だったのだ。ボールの重量は許容できても、子供一人の重量はとても許容できなかった。
一瞬で私は川の中へと転落した。
「あっ……ぶわっ!……!はっは…ゲホッ……」
私は泳げなかった。しかし、泳げないなりに水中でもがいた。
すると、水面に顔を出すことができた。けれど、また水の中へと落ちてしまう。昨晩雨が降っていたからか、川の流れはいつも以上に早く、私は容易に溺れてしまっていた。
その時、私は幼いながらも理解していた。
これは、死ぬ、と。
「……!だ、だれ、か……ゲホッ…ゲホッ……たす……」 本能から来る死への恐怖は、私をより一層生へのもがきに拍車をかけた。けれど、どちらへ行けば岸なのか、どうすれば助かるのか、そんな正常な判断はできなくなっていた。
「わんっ!!」
その時、心強い声が聞こえた。
オフィーリアだった。
私は水の中と外を行ったり来たりしたことで視界が効かなくなっていたが、それでも私に向かってくる存在がオフィーリアだって認識できた。
「お、おふぃ……あぷっ……」
オフィーリアは必死に私へと向かってきていた。決して上手いとは言えない泳ぎ方だった。それでも懸命に、私を助ける為全身全霊で向かっていると分かった。
そして遂に、オフィーリアは私へとたどり着く。
オフィーリアは一層泳ぎを激しくし、私を横方向へと押していった。
やや混乱気味だった私にも分かった。オフィーリアが押す方向に岸があるんだって。
「んっ……んんぅ!!」
オフィーリアを信じ、私もそちらへと懸命にもがく。もがいた時間は何分だっただろうか。何時間にも感じられたし、しかし実際はほんの数分だったかもしれない。
私は遂に、岸へと手が付いた。そして、これが最大のチャンスであり、最後の助かるチャンスだって理解できた。
残った力全てを絞り切って、私は何とか岸へと上がる。そうやって上がろうとする時、腰のところを押された。
その力が契機となって、私はなんとか岸へと上がることができた。
「うっ……ゲホッゲホッ……」
体の入っちゃいけない場所に入った水を吐き出すように、私は何度も咳をした。生理現象なので自分では止められなかった。
けれど、私は次にやるべきことが分かっていた。
「お、おふぃ……ゲホッゲホッ……」
川へと向き直り、私はオフィーリアの姿を探す。
まだ戻り切っていない視力で川を見たが、どこにもオフィーリアは見当たらなかった。
「おふぃ……りあ……?」
回復しきっていない体に鞭を入れて、私はオフィーリアを探す。その様はまるで幽鬼のようだった。
「おい、君!大丈夫か!」
その時、大人の男の人の声が聞こえた。振り返ると、焦燥感を絵にしたような表情をしており、とても私を心配していることが分かった。
私が溺れているところを見ていたのだろうか。
私は男の人に縋りついて声を上げた。
「お、おふぃーりあが……ゲホッ、まだまだかわにいるんです……っ!どうかたすけ……ゲホッ……たすけてください!!」
「おねがいします!!」
それはもう絶叫だった。
何度も何度も同じ言葉を男の人に向かって絶叫した。声が嗄れようが、腕が取れようが、関係なかった。
オフィーリアは未だ、冷たく苦しい川の中にいる。そんなこと、耐えきれるわけが無かった。
「そ、そうは言っても……。もう川には何も……」
男の人は困ったようにそう呟いた。
私も一度、川へと振り返る。
私が見た川は、一定のせせらぎを繰り返すだけの、何の変哲もない、ただの川だった。
誰かが溺れていて助けを求める声もせず、何とか助かろうともがいて水を叩く音もしない。そんなことは元々無かったように、川は振る舞っていた。
「あ……あ、あ……うそ……うそ、だ……」
「お、オフィーリア!!オフィーリアアアア!!オフィーリアアアアア!!!!」
「オフィーリアアアアアア!!」
喉の奥底から発せられた絶叫は、意味もなく、いつまでも発せられていた。
そして。これはそれからの話だ。
結論から言えば、オフィーリアは見つかった。しかし、見つかったオフィーリアは、とてもオフィーリアとは思えない体になってしまっていた。両親はそんなオフィーリアを私に見せたがらなかったけれど、両親の間を縫うようにして私は見た。
見てしまった。
オフィーリアの亡骸を。
あの好奇心旺盛で、常に尻尾を振っているようなオフィーリアが、今ではぴくりとも動かなくなっていた。
いつも笑っているように見えたあの顔は、元気に「わんっ!」と返事をする口は、私には苦しそうに歪んでいるように見えた。
そして、いつも温かく、落ち着いたオフィーリアの体温は、ひどく冷たくなっていた。家族の象徴とも言えるそれが失われたと分かり、私は絶望した。 「あ、あああああああ……」
「ご、ごめんなさい……ごめんなさいごめんなさい……」
「ごめんなさい。ごめんなさいオフィーリア……」
「わたしが、わたしがオフィーリアを……わたしがオフィーリアをころしたんだ……」
「ごめんなさいオフィーリア!!ごめんなさいごめんなさいごめんなさい!!」
私はオフィーリアの亡骸の前で、何度も何度も謝った。許されようとは思わなかった。けれど、私には謝ることしかできなかった。
そんなオフィーリアへと謝る中で、私はとある演劇を思い出していた。
それは『ハムレット』。ウィリアム・シェイクスピアの戯曲だ。オフィーリアの名前はここから取った。
オフィーリアは登場人物であるレアティーズの妹である。偶然見たその劇を元に、私はオフィーリアと名付けた。私が姉で、オフィーリアが妹だったからだ。
しかし、このハムレットの中でオフィーリアは死んでしまう。
死因は、溺死。
オフィーリアは柳の木に登り、枝が折れてしまって小川へ転落してしまう。そしてそのまま小川で溺れ、オフィーリアは亡くなってしまうのだ。
当時の父親を思い出す。
──
「オフィーリア?それってハムレットの?いやぁ、オフィーリアかぁ……」
──
嗚呼。そういうことだったのだと。私は思い出した。
父親はなぜ、あんなにも困った顔をしていたのか。ハムレットの中に出てくるオフィーリアとは、溺死してしまう悲しき役だったからだ。
「……オフィーリアって、なまえをつけたから」
「だからオフィーリアは、おぼれてしんじゃったんだ……」
「わたしが、ころした……」
「わたしがころしたんだ……」
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい……」
「しずく!!」
私がオフィーリアと名付けてしまったから。
私が両親の言いつけを破ってしまったから。
私が溺れてしまったから。
だから、オフィーリアは死んでしまったんだ。
私がオフィーリアを殺したんだ。
最愛の家族を殺してしまった。
……そんな。
……そんな、家族を殺すような人間は、いらない。
消えてしまえばいい。
オフィーリアを殺した桜坂しずくは、消えなければならない。
消えろ。消えろ。消えろ。消えろ。消えろ。
頭の中で同じ言葉が何度も何度も反芻される。
自己否定と自己嫌悪の言葉だ。私が、桜坂しずくの全てが否定されていく。
そうして私は、私自身を消した。
最愛の家族を殺した罰として、桜坂しずくを消したのだ。 そうして、いくつ時が経過しただろうか。
抜け殻のようになった私は、何をするにしても無気力になっていた。
何を食べても味を感じず、何を言われてもちっとも心に響かなかった。
一言で言ってしまえば、虚無を抱えながら生きていた。
死んでいるのか、生きているのか、分からない生活をしていた。
両親はそんな私に色々な言葉を掛けてくれた。
「しずくのせいじゃない。しずくが殺したんじゃない。誰も、悪くないんだ……」
「そうよ。オフィーリアはあなたを助けたの。あなたが殺したんじゃないわ。これだけは確かよ」
「だからしずく、何も気に病まなくていい。いいんだしずく。自分を許しても」
そんな言葉だけは、私の中をすり抜けなかった。
すり抜けなかった理由は、疑問だった。
「……だれ」
「え?」
「オフィーリアって、だれ?」
「しずく……」
両親は唖然としていた。一時的かずっとか分からないが、私がオフィーリアの記憶を失っていると分かったのだ。
私は両親から言われた『オフィーリア』という単語は何か引っかかったが、それ以上のことは無かった。
私は、オフィーリアを忘れていた。
いや、というより、これ以上私の心が壊れないように、オフィーリア自体の記憶を封印したのだ。
そう。私は桜坂しずくの全てを消そうとしていたが、オフィーリアのことを消すこと等できなかったのだ。私の人生とは、言わばオフィーリアとの歩みそのものだった。だから、桜坂しずくを消すことなどできず、心の奥底に封をするしか無かったのだ。
とはいえ、私が私を失ったことは事実であり、私は深い闇の底にいた。
そんな私をどうしようか、両親は苦しんでいた。
「どうすれば、どうすればいいんだ……」
「お医者さんが言うには、一時的なショックによるものだからいずれ回復するとは言っていたけれど……」
「いずれって……いつなんだよ……ッ」
「あなた……」
「……もう一度、犬を飼うしかないんじゃないのか?」
「え?」
「しずくの苦しみは、同じ犬でなければ、同じ家族でなければ解消できないんじゃないのか……?」
「……でも、あの子にとってもっと苦しい結果になるかも」
「そうは言ったって、しょうがないじゃないか……。もうこれしか方法はないんだよ」
「……そうね。明日、オフィーリアと同じ犬種を飼いましょう」
「あぁ……」
両親は、家族を失った傷は、同じ家族でしか癒せないと考えていた。
そして、そんな中、私の内面では一つの変化が起きていた。
私の中にある封印されたオフィーリアの記憶。
それが少しずつ変化していったのだ。
自分を無くし、無気力になっていく一方の私とは対照的に。
オフィーリアの記憶は次第に私の中で意味のある形になっていく。
性格は、好奇心旺盛でとても明るい。
私にとっては妹のようで、その実姉のような存在だった。
そういったオフィーリアの記憶は、一つの人格となっていた。
それが、スイ。
スイは、私が自分を無くし、無気力になっていた時代に生まれた人格だった。
なぜ今この状況でスイが生まれたのか。
それは偏に、こんな風になってしまった私を見過ごせなかったのだろう。ただの記憶であったとしても、オフィーリアは私を見捨てなかったのだ。
「──やあ、私にもう一度、名前をくれないか?しずく」
それが、自分を無くした私の中で最も古き、スイとの記憶だった。 ▲孤独の砂浜▲
しずく「あ……」
かなり長い時間、別の場所にいた気がする。
ここは……。あの時と同じ砂浜……。
まだ沈み切っていない夕日が見える。思っていたより時間は経過していないらしい。
侑「おかえり。しずくちゃん」
しずく「侑先生……」
そして私の至近距離には、侑先生が変わらずそこにいた。いてくれた。
相変わらず強く抱きしめてくれている。もし……もし侑先生が抱きしめ続けてくれなかったら、ここへは帰ってこれなかったかもしれない。
それほど深い、私の奥底への接続だった。
侑「あー……そうだな。初めまして、かな?今のしずくちゃんには」
侑先生は少し困った顔をしながらそう言った。
今の私は……なんだろう。
しずく「今の私は……『底知れない器』でもなく『底が抜けた器』でもないようです……」
侑「そっか……。しずくちゃんの原点はどうだった?」
しずく「私の原点は……」
私の原点。それはなんだろう。
自信がなくて、人見知りだった桜坂しずく?
オフィーリアと出会ってから社交的になった桜坂しずく?
それとも……。
しずく「わ、私の原点は……オフィーリアを……オフィーリア殺してしまった……桜坂しずく、かもしれません……」
私の口からはそんな言葉が出た。
侑「それが本当に、しずくちゃんの原点なの?オフィーリアを殺してしまったしずくちゃんが」
しずく「……分かりません。分からないけれど……オフィーリアを殺してしまった。最愛の家族を殺してしまった……。私の中でこの認識は……今でも覆りようが無い、です……」
侑「そっか……。まだしずくちゃんは、自分を許せないんだね」
その瞬間、抱擁が少し緩んだ。けどその代わりに、優しく頭を撫でる感覚があった。
侑「ねぇしずくちゃん。君はオフィーリアにはどれくらい謝ったの?」
しずく「え……?」
その侑先生の問いは、予想外な物だった。私はてっきり、あの時の両親と同様に「しずくのせいじゃない」という言葉が掛けられると思っていた。
けれど……謝罪……?
しずく「……もう、数えきれないほどしたと思います」
侑「数えきれないほど、オフィーリアには謝ったんだね」
しずく「……はい」
一体侑先生は私に何を言わせようとしているのだろう。
侑「しずくちゃん自身がそう強く思っているのなら、それは覆しようがないと思う。でもさ、謝る以外にもすることがあるんじゃないの?」
しずく「え……?」
侑「数えきれないほど謝った。それならそろそろ、オフィーリアへさよならを、オフィーリアへありがとうを、言っていいんじゃないかな」
オフィーリアへさよならを……?
オフィーリアへありがとうを……?
侑「しずくちゃんは忘れてることがあるよ」
侑「それはね、オフィーリアが命を犠牲にしてしずくちゃんを救ったってこと。それに対するありがとうを。しずくちゃんは今まで言ったのかな」
しずく「あ……」
私は……。オフィーリアへ謝るばかりで……。
私を助けてくれたことへのお礼の言葉は何も、何も言っていなかった……。
私は結局、私のことしか考えていなかったんだ……。 しずく「私、言ってない……。オフィーリアにありがとうって……ッ!言わなきゃいけないのに……ッ!私は……」
侑「うん……。今からでも遅くないよ、しずくちゃん」
侑「今からでも、オフィーリアへありがとうは言えるよ。だって、しずくちゃんにはまだ動く心臓があるんだよ」
侑「オフィーリアが助けてくれた心臓が、命が、まだ動いてるんだ。決して遅くない。遅くないんだよ」
しずく「……う、うぅ……」
私には、まだ動く心臓がある。侑先生に抱きしめられたことで強く鼓動を打つ心臓がある。
この心臓は、この命は……オフィーリアから貰ったものだ。
しずく「オフィーリア……ありがとう……」
しずく「本当に、ありがとう……ッ!」
しずく「私のことを、助けてくれて、ありがとう……!!」
しずく「私の、家族になってくれて……妹になってくれて!ありがとう、オフィーリア……!!」
しずく「あっあ……あああああああああああああああああああああ!!」
私の中で何かが決壊する。
それは……今までずっと言えずにいた、オフィーリアへの感謝の気持ちだった。謝罪の言葉は何度も何度も言った。
それが当時、私の中にあったしずくの全てだったから。私が当時消したと思っていたのは、オフィーリアへの罪悪感だった。謝罪の言葉は出し尽くし、そうして抜け殻となってしまった。
でも……今ならごめんなさい以外も言うことができる。言わなきゃいけない。
絶対に失ってはいけないはずのオフィーリアの記憶。それをようやく取り戻したのだから。
侑「うん……。大丈夫だよしずくちゃん。私はどこへも行かないから。今は気が済むまで泣いていいよ」
侑先生の抱擁が強くなる。けれど、撫でる手の平は一層優しく感じた。
もう私は、悲しみだけに支配されない。
オフィーリアへの想いを手放すこともない。
底知れない器でも、底が抜けた器でもない私を、忘れたりしない。
もう、見失ったりしない。私だけの想いを──
……
…………
ひとしきり泣いた後、まず私は手の甲の治療から始まった。
しずく「いたっ……」
侑「これだけは、我慢して貰わないと……ね!」
しずく「いぎ……ッ」
侑「よしよし……。消毒して包帯も巻いた。不幸中の幸いだったのは、骨まで届いていなかったことだね。無意識の内に手加減してたのかな」
しずく「どうでしょう……。あの時は色々といっぱいいっぱいだったので……」
侑「まぁ、公演までには確実に完治するよ。傷に塗ったのは消毒液だけじゃなくて、ランジュちゃん謹製の軟膏だからね。効果は折り紙付きだよ」
私の頭は、その得体のしれない軟膏にではなく、公演に意識が向けられていた。
しずく「公演……ですか」
そうだ。私にはまだ『その雨垂れは、いずれ星をも穿つ』の公演があった。
スイのおかげでまだ主役の座は首の皮一枚繋がっている。
侑「それで……スイちゃんはやっぱり……」 侑先生が言いにくそうに告げる。
そうなのだ。
スイが……あれから出てこないのだ。私が今日、心の奥底に追いやり過ぎたから、スイは出てこれなくなっている。
私が何度心の中で呼び掛けようと、一切の反応が無かった。
しずく「はい。残念ながらスイはまだ……」
侑「……そっか」
スイは……私の中のオフィーリアの記憶から生まれた人格だ。言わば、オフィーリアの人格と言ってもいい。
私はまだ、オフィーリアへさようならを言えていない。それに、スイへありがとうを伝えていない。必ずもう一度、会わなければならない。
そして、私はどうすればスイに会うことができるのか。その見当が付いていた。
しずく「もう一度スイと会うには、侑先生の協力が必要です」
私は真っ直ぐ侑先生を見た。
決意に染まった瞳を見て何か理解したのか。侑先生も真面目な顔つきになった。
侑「うん。私は、何をすればいい?」
しずく「侑先生にしてもらうことは変わりません」
侑「変わらない……?」
しずく「はい。『その雨垂れは、いずれ星をも穿つ』の伴奏をして貰うだけです」
侑「……なるほど。そういうことか」
侑「ここではなく、舞台の上でスイちゃんと会うんだね?」
しずく「はい。その通りです。ですので改めて、劇の伴奏をよろしくお願いします」
私は今できる最大のお辞儀をする。侑先生の伴奏が無くては、きっとスイには会えない気がする。
侑「うん。改めて、任されたよ!」
しずく「ありがとうございます!!」
私は、舞台の上でスイと会う。
舞台の上でなら、私はどこまでも素直に感情を表現できる。
それに、私が演じる劇は『人間のアステーリ』と『犬のスターラ』との別れを書いた劇だ。
スイへの感謝の気持ちと、オフィーリアへの別れの気持ち。それをアステーリの演技に織り交ぜる。そこに侑先生の伴奏が加わってより強い感情表現ができれば。
そうすれば、心の中にいるスイを目覚めさせられるはず。
だから、今の私ができることは一つしかない。
しずく「絶対に、成功させましょう……!」
侑「勿論だよ!」
私と侑先生は、決意を新たにした──
……
…………
その後。砂浜へと通じる小道から車道へと出た私たちは、雑に駐車してある侑先生の車へと向かった。
しかし……。
侑「あれ、おかしいな……」
しずく「どうかしましたか?」
侑「いや……」
しずく「?」
侑「……しずくちゃん。エマージェンシーだ」
しずく「え?緊急事態ですか?」
侑「エンジンが、掛からない……!!」
しずく「え……あ」
侑先生の絶望の一言が車内を襲う。
しかし、エンジンがかからないのは思い返せば自明だ。
頭痛と混乱の中車を走らせ、ベッコベコに車体を凹ませたのだ。ここまでたどり着けたこと自体奇跡というものだろう。 侑「!!ランジュちゃんに連絡すれば……!!あ、スマホの電源切れてる……」
侑「しずくちゃん。ごめんだけど、スマホ貸して貰える……?」
しずく「あ、はい……。すみません。私のせいでこんなことになっちゃって……」
もう本当に申し訳ない。一から十まで全て、私のせいである。
私は鞄の中からスマホを探す。
鞄を漁りつつ、私の頭は別のことを考えていた。
エンジンがかからなくなった車。大好きな人と二人きり。充電切れで連絡ができない孤立状態。
しずく「……すみません。私のも充電切れです」
侑「え?まじかぁ……どうしよう……万策尽きたかなぁ……」
本当はまだ、充電が残っている。かなり余裕があるくらいだ。
でも、私はそれでも、スマホの充電が無いと、そういう選択肢を取った。
そう、近くには自宅に真っ直ぐ帰る以外の選択肢があるのだ。
しずく「……侑先生。実は少し歩いたところにホテルがあるんです」
侑「え、そうなの?じゃあ今日はそこに一晩泊まろうか……。いや、そこで電話を借りればいいのか」
しずく「こんな事態を招いて本当に申し訳ないんですが、正直もう今すぐにでも眠りたくて……」
体が疲労困憊なのは確かだ。今ベッドに飛び込めば、泥のように眠ることができるだろう。
しかし、本当の狙いは別にある。
侑「あ、そうだよね。了解。じゃあ今日はそこのホテルに泊まろうか」
しずく「……はいっ」
私たち二人は、今からホテルへと泊まる。
そう……。『愛』の名が付いたホテルへと。
……
…………
私はもう、自分だけの想いを見失わない。
そうは思ったものの、見失わない楔が欲しかった。
どれだけ引っ張ろうと、どれだけ絶望のどん底に落とされようと、自分を決して見失わない楔を。
だから私は、今日のこの日を刻み付けたかった。決して忘れないように。決して見失わないように。
刻み付けるのは……侑先生を。
侑先生には、だいぶ強引に迫った。最初こそ侑先生は全力で拒否していた。先生と生徒という関係上、絶対にだめだって。手の甲の怪我もあるんだから無理しちゃだめだと。
でも、今日をどうしても私は刻み付けたかった。
それに、侑先生は言ってくれたのだ。
──
侑「私がその穴を満たしてあげる。しずくちゃんの全てを、私で満たしてあげる」
──
狡いかもしれないが、私はこの言葉を持ち出した。
結果的に言えば、侑先生は折れた。そして、折れたからには容赦はしないと言われ、本当に容赦されなかった。
私の中には徹底的に侑先生が刻まれた。
一生この日を忘れることは無いだろう。
そして、私が私を見失うことも絶対に無いって、そう思えた。
……。
まぁ、侑先生へ下心があってここへ来たのもある。
それは仕方がないことだ。
一挙両得というものだ。
うん。これは、私が全面的に悪い。私が全て悪い。
だから、ごめんなさい。侑先生。
だから、ありがとうございました。侑先生。
これからも、よろしくお願いします。 ▲愛の名を冠するホテル▲
瞼に温かな光を感じる。
私はゆっくりと瞼を開けた。
侑「……朝、か」
上体を起こすと、腕に重みを感じる。
そこには安らかな表情で眠るしずくちゃんが、私の腕を抱いて眠っていた。
掛け布団で全貌は見えないが、布団の下は若々しさと瑞々しさが同居した肉体がある。その肉体を、私は昨晩……。
侑「あ〜……。またやっちゃった……」
私はいつもこうだ。昔から押しに弱いのだ。それも、美少女の押しに弱い。
私はバイセクシャルだ。そう、バイセクシャルなのだ。
まだ男性を好きになったことは無いが、私はバイセクシャルなのだ。決して部類の女好きという訳ではない。
侑「まぁ、後の祭りだよね……」
私は天使のように眠るしずくちゃんの髪を梳く。柔らかな手触り。けれど少し乱れている。その事実が、なんだか胸に良くない感情を抱かせる。
侑「あぁ、いけないいけない……。生徒と教師がってだけでも不味いのに、朝からおっぱじめるなんてもっとだめだ……。さっさと服を着て帰る支度をしよう」
私は抱き着くしずくちゃんの腕を丁寧に外す。顔を洗って、そのまま軽くシャワーを浴びた。私も昨晩は色々あったからね。
まさか跪いたしずくちゃんに足を舐められるなんて想像もしてなかったよ。
そうして私は、できるだけ無心で。できるだけしずくちゃんを見ないように。でも、ちょっとだけ見たりもしながら。朝の支度を進めていった。
しずく「ふぁぁ……。あれ、ここは……」
侑「あ、起きた?おはよう」
シャワーから出て服を着ている最中、しずくちゃんは起きた。
しずくちゃんは寝ぼけまなこを擦りつつ上体を起こした。当然のように、上半身は露になる。背けるのもあれなので、私は前を見据える。
しずく「あ……侑さん……。あ、あぁっ!!」
しずくちゃんは布団のシーツを引き寄せる。上半身は見えなくなったが、逆に白くしなやかな足が露になる。うぅむ、あちらを立てればこちらが立たず、といった具合だ。
しずくちゃんは顔を紅潮させて俯いてしまった。
女性同士なら、同性なら、裸を見てもこんな反応は示さない。私たちは女性であると同時に、『そういう』関係になったのだと、改めて思った。
侑「……あ、そうだ。先にお風呂に入りなよ!」
しずく「は、はい……。ありがとうございます……侑さん」
侑「うん。ゆっくりでいいよ」
しずくちゃんはそそくさとお風呂へと向かった。
このホテルはなぜか、スイッチ一つ押せばお風呂の中を覗ける仕組みになっている。なぜなのかは分からないが、私は鋼の精神でそのスイッチを押さなかった。偉いなぁ、私。
侑「にしても……侑さん、か」
昨晩、体を重ねた私としずくちゃん。
私たちの関係は変わった。そして、しずくちゃんからの呼び方も変わったのだ。
『二人きりの時は……侑さんって、呼んでもいいですか……?』
侑「断れるわけ、ないっ!」
私はしずくちゃんのシャワーの音を聞きつつ、帰り支度を済ませた。
その後、なぜか充電が切れていなかったしずくちゃんのスマホでタクシーを呼び、色々と、本当に色々あったこの二日は終わったのだった……。
▲二年四組▲
侑「それじゃあ一時間目の体育も頑張ってね〜」
休日明け、しずくちゃんは普通に登校していた。まぁ土日も演劇部の稽古の現場を見ていたし、逆に来ない方がおかしいんだけど。
しずくちゃんは、かすみちゃんや他の生徒とも談笑していた。実に自然な笑みを浮かべ、楽しそうに会話をしている。もう、完全に立ち直ったらしい。
しずく「あ、ちょっといいですか?」
侑「うん?どうしたの?」
しずく「これ、ありがとうございました」
侑「あ、私のハンカチ……」 しずくちゃんから手渡されたのは一枚のハンカチだった。あの砂浜で手の甲の消毒に使ったハンカチだ。しずくちゃんが絶対に洗って返します!と頑固だったので任せたものだ。
かすみ「え、なんでしず子が侑先生のハンカチ持ってるの?」
しずく「ふふっ……」
しずくちゃんは笑みを浮かべるだけだった。
え、なんか不味くない?
侑「しずくちゃんが怪我した時に使ったハンカチなんだよ。洗うって頑固でさ」
かすみ「あ、そうなんですね」
私はすぐさま答えた。かすみちゃんも納得していた。
生徒から私物のハンカチを受け取る教師。この構図はさっさと弁解しないと不味い。
しずくちゃんもさぁ、頭いいんだから渡す場所くらい……。
え、まさかわざとじゃないよね。
しずく「そうだよかすみさん。あの時の侑さん、優しかったなぁ……」
かすみ「……侑さん?」
しずく「あ、いけない。早くジャージに着替えないと!」
かすみ「ちょちょ!しず子!侑さんってどういうこと!?」
侑「……」
私は迅速に二年四組から出た。
背中にはびっしりと冷や汗を搔いている。
絶対、絶対わざとじゃん!!
危ない橋を渡り過ぎだよ!!私の教師生命に関わる事案だよこれは!!
後でしっかりと言い含めておかないと……。
と、まぁ、そんな感じで。
時が進むのは早い物で、教師と演劇の二足の草鞋の日々は目まぐるしく、一迅の風のように過ぎていった。
そうして気づけば、『その雨垂れは、いずれ星をも穿つ』の初公演の日になっていた。
▲とある劇場の周辺▲
『その雨垂れは、いずれ星をも穿つ』の初公演の日。
公演は虹ヶ咲内の劇場ホールではなく、専門の施設にて公開される。
公演二時間前ではあるが、すでにそこそこの賑わいを見せていた。
会場限定のパンフレットやグッズ等があるからだろうか。それとも、ミセス手掛ける学生の演劇だからだろうか。無論、短期間であったとはいえ、ミセスはプロモーションに手を抜かなかった。
侑「にしてもこのポスター、いいなぁ」
劇場外にある掲示板には、『雨垂れ』のポスターがでかでかと掲示されていた。
たった一人、しずくちゃんのみがいるポスターだが、どうにも存在感がある。関係者ってことで、私にも一枚くれないかなぁ……。
その主役のしずくちゃんは、あの砂浜の日からより演技に磨きがかかっていた。
『底知れない器』を経験し、また、それを消失した経験。もう一度空っぽになる経験を経て、しずくちゃんは『自分』を保ちつつ、あらゆる役を内包する器を会得したらしい。
演技のことはよく分からないが、ミセスがそう断言したのだからそうなのだろう。
侑「にしても……ここまで長かったような、短かったような……」
しずくちゃんが演技をし、それに私がリアルタイムで伴奏をする。以前はエチュードという形だったけれど、今回は稽古にリハーサルと、入念な擦り合わせが行われた。その甲斐あって、しずくちゃんの演じるアステーリが、私の中には存在している。
正直に言うと、この短期間でここまで『調和』できたのは奇跡なんじゃないかって思う。それほど私としずくちゃんは相性がいいらしい。
後は……本番でアステーリを降ろし、しずくちゃんがスイちゃんに再会することだけだ。これで、しずくちゃんを取り巻くあらゆる決着が着く。私は肌感覚で理解していた。
自然と肩が強張りそうになるが、それをなんとか抑えた。
ランジュ「你好、侑。準備は万端のようね」 侑「あ、ランジュちゃん。おはよう」
そうして緊張と武者震いの中間のような気持ちになっていると、ランジュちゃんが現れた。私は劇の伴奏という関係者中の関係者なのでチケットを数枚貰っていた。
ランジュちゃんが二枚欲しいというので渡し、もう一枚はかすみちゃんに渡しておいた。まぁ私が渡さなくてもしずくちゃんが渡したんだろうけど。
ランジュ「まだ開演までずいぶんあるのにかなりの盛況具合ね」
喧騒、とまではいかなくても、そこそこ騒々しい周囲を見てそう言った。
侑「まぁね。私もミセスの影響力を甘く見ていたよ。それで……そこの人は誰かな?」
ランジュちゃんの隣には重篤そうな人がいた。
顔がパンパンに膨らんでおり、右腕は折れているのか、首から包帯で吊っていた。加えて大きめのマスクをしているもんだから不審者にさえ見えてしまう。
まぁ、大体見当は付いているんだけど。
部長「久々ですね。高咲先生」
侑「やっぱり部長さんだったか」
部長「えぇ。正直おめおめと顔を出していいのか迷ったのですが、ボスに無理やり連れてかれまして……」
ランジュ「ふふん。迷っているなら行くべきなのよ。行って感じた後悔ならいい経験になるわ」
侑「やれやれ……。相変わらずランジュちゃんは強引だね」
ランジュ「褒め言葉として受け取っておくわ」
部長「しかし……しずくは私を見て動揺してしまったら……。さすがに立つ瀬がないのですが」
侑「それは心配いらないよ。しずくちゃんにとって今日、舞台上で演技をする以上に大事なことは無いからね」
部長「そう、ですか……。私がいない間に、ずいぶん頼もしくなったんですね」
部長はそういって自嘲気に笑った。顔がパンパンに腫れているので笑いというか歪みって表現した方が適しているような。
侑「ちなみになんでこんなに怪我してるの?」
ランジュ「侑が演劇で稽古をしていたように、ランジュも稽古をしていたのよ」
それは解答になっているようで、なっていないような……。
まぁ、部長の戦力を上げるためにランジュちゃんと日夜稽古に励んでいるんだろうなぁ……。その傷跡が実戦で付けられたものじゃないのが逆に痛々しい。
部長「熱烈な稽古で毎日飽きませんよ」
部長のその言葉は、皮肉ではなくマジで言っている。
部長はランジュちゃんに心酔している。文字通り、心の底から酔っているのだ。
侑「う、うん……。頑張り過ぎて死なないようにね」
部長「ははっ。ボスの覇道をこの目で見届けるまで死にませんよ」
ランジュ「そうね。ランジュが頂点に立った時、それを賞賛する駒はいくらいてもいいわね」
部長「えぇ、全く」
侑「駒て」
駒と言われても部長は一切気にしていなかった。むしろ、駒と呼んでくれることに喜び……悦びさえ感じていそうだ。
ランジュ「それじゃ、ランジュ達は売店に行って飲み食いしてくるわね。未知なるお肉が待ってるわ!!」
侑「うん。それじゃあまたね」
私は手を振ってランジュちゃんと部長を見送った。
私は暇だし、ピアノでも触ってようかなぁ、と思った時。入れ違いになるようにかすみちゃんが来た。どうやら数人の友人と来ているようだった。
かすみちゃんは何か断りを入れた後、一人でこちらに来た。
かすみ「おはようございます!侑先生!遂に今日ですね!かすみん演劇見るの初めてなのでとっても楽しみです!」 侑「おはようかすみちゃん。今回の劇はなかなかすごいことになってるよ。だから期待しててよ!」
かすみ「はいっ!もしかしたら、しず子より侑先生の方ばっかり見ちゃうかもしれませんよぉ?」
侑「あはは。しずくちゃんにスポットライトは当たっても、私には当たらないからね。相当目を凝らさないと見えないと思うよ?」
かすみ「なぁ〜んだ。ちょっと残念です。それで、その劇って独り芝居?なんですよね?」
侑「うん。そうだよ」
かすみ「でも侑先生としず子の二人が主演なんですよね?それって独り芝居なんですか?」
侑「あぁ。私も最初はそう思ったけど、ミセス曰く私は舞台装置の一つに過ぎないって堂々と言われてね」
かすみ「あぁなるほど……。照明とかセットを『役』とは捉えないですよね。でも侑先生を舞台装置呼ばわりだなんて!ちょっとひどくないですか!!」
侑「あれだけ真正面から言われたら逆に清々しいくらいだよ」
かすみ「……侑先生って自分のことには無頓着ですよね」
侑「え?」
かすみ「なんでもないですっ!それじゃあみんな待ってるので!客席から応援してますよ!!しず子にもよろしく言っておいてください!」
侑「うん!じゃあまたねかすみちゃん!」
かすみちゃんは再び友人の輪に戻っていった。それにしても、かすみちゃんの友人さん達は見覚えが無かったな。虹ヶ咲の人じゃない、中学生の頃の友達とかなのかな?まぁマンモス学園の虹ヶ咲だから私が知らなくても無理はないか。
侑「さて……それじゃあそろそろ中に入るかぁ……」
なんだかんだ。舞台装置の一つとはいえ、私にも最終チェックはある。
しずくちゃんほどではないにしろ、私もそこそこ早くから入らなければならない。
そうして劇場の中に入ろうとした時、遠くの方で見覚えのある形があった。
侑「え……」
それは、私の胸をひどくざわつかせるものだった。
特徴的な明るい髪を、横でシニヨンにまとめた髪型。
侑「歩夢、ちゃん……?」
嘘だ。いるはずがない。ここに、いるはずがないんだ。
私が見つめる先では、確かにシニヨンが見える。そして人垣がやや割れて、その容貌が明らかになる。
侑「……歩夢ちゃんだ」
見間違えようがない。
私があの日、河原で切ない歌声を歌っていた少女。上原歩夢がそこにいた。
なんでここに?どうしてここに?
私はいつの間にか、走り出していた。
人混みはやや増していたので、途中途中謝りながら人の群れを進む。
しかし、歩夢ちゃんは見つからなかった。
私の勘違い?そんなはずはない。絶対にあれは歩夢ちゃんだった。
侑「……どうして、ここに」
胸の鼓動が早くなる。脳の全てが歩夢ちゃんで埋め尽くされていく。
侑「いや、だめだ……。今はそんなことを考えている場合じゃない……」
しかし、そう思っても頭は言うことが聞かなくて……。
しずく「──あ、こんなところに……。侑さん!」
私の困惑を破るように、しずくちゃんが現れた。
侑「しずくちゃん……」
しずく「最後の打ち合わせですよ!なかなか来ないのでミセスがカンカンです!」
しずく「って……どうしたんですか?すごい汗ですよ?」
侑「え……ほんとだ」
私はいつの間にかすごい汗を掻いていた。まだ残暑のある九月とはいえ、劇場内は空調が効いている。 しずく「何か、何かあったんですね」
しずくちゃんは私を真っ直ぐに見据えた。思わずたじろいでしまうが、ここは素直に話した方がよさそうだ。
侑「その、しずくちゃんには前話したよね。私のピアノと『調和した』歌声の女の子がいるって」
しずく「え?はい。ひどい別れ方をしたとか……。もしかして、その人が?」
侑「うん……。ここにいるはずが無いんだ。いちゃいけないんだ」
しずく「人違いという可能性は……」
侑「あり得ない。私が歩夢ちゃんを見間違えるなんて天地がひっくり返ってもあり得ないよ」
しずく「……そうですか」
ハッとした。
私はいつの間にか、ずいぶん感情的になっていた。冷静でいなくちゃいけないのに。今は劇に集中しないといけないのに……。
しずくちゃんは怒気を孕んだ表情を浮かべていた。
しずく「侑さん。分かりますよね。今日が何をする日か」
侑「うん……。分かってる。分かってるんだけど」
しずく「それじゃあ侑さん。私を真っ直ぐ見てください」
侑「え、うん」
私はしずくちゃんに言われた通り、真正面へと向き直る。
途端、両頬がしずくちゃんの手で包まれる。同時に、しずくちゃんとの顔の距離がくっつきそうなほど縮まった。
しずく「侑さん。いくら動揺したって構いません」
しずく「私が舞台の上で演技をしている時でも、どれだけ感情を乱して貰っても構いません」
しずく「私が引っ張り上げます。どれだけ侑さんの心が他の人に移ろうとしても、舞台の上から私が引っ張り上げます」
しずく「だから、大丈夫です。侑さんは、私だけを見ていてください」
真っ直ぐと、濁り一つない瞳で、一片の混じりけも無しに言われた。
今のしずくちゃんからは、情緒不安定な心など一切感じられなかった。
自信満々に言い切るその姿は、まるで大女優のようだった。
侑「……うん。分かったよしずくちゃん。私は君だけを見てる」
しずく「はいっ!それでいいんです!」
そう言って、先ほどの真剣みを全て忘れたように、しずくちゃんは無邪気に笑った。
しずく「行きましょう侑さん!ミセスがもう怒髪天です!」
侑「あ、あわわ……。急がなきゃ!!」
私は慌ててミセスの元へと駆け出す。
そしてその時、私はしずくちゃんだけしか見ていなかったから気が付かなかった。
劇場の往来で顔をくっつかんばかりに近づける二人の女性が、目立たない訳ないんだと。
▲劇場舞台上▲
最終打ち合わせに遅刻はしたものの、予定通り劇は行えるらしかった。
ミセスからは口数少なく、「頑張りなよ」という珍しい言葉を頂いた。これがツンデレって奴かもしれない。まぁツンツンツンツンツンデレくらいだけど。
『本日はお越しいただきありがとうございます──』
アナウンスの声が聞こえる。
もう数分で演劇『その雨垂れは、いずれ星をも穿つ』は開演する。
心臓の鼓動が段々大きくなっていくような感覚になる。それと同時に、早くピアノを弾きたいという気持ちも大きくなる。
私は今、舞台上のピアノの傍で座っている。開演しても私に照明が当たることは無く、巧みな配置でほとんど目立たないようになっている。そこにしずくちゃんの演技も入るのだ。客席でわざわざ私を注目する人はいないだろう。あくまでも私は舞台装置の一つなのだ。 『その雨垂れは、いずれ星をも穿つの演出家である──』
かすみちゃんもいざ舞台が開演すれば、私など目に入らなくなるだろう。
しかし、一人だけ。私に注目するんじゃないか、って人はいる。
歩夢ちゃんだ。
私が助けられなかった教育実習生時代の生徒。本当なら、ここにいるはずがない人。
もし……。客席の中から歩夢ちゃんを見つけてしまったらどうなるんだろう。しずくちゃんから「私だけを見てください」とは言われたが、歩夢ちゃんを見つけてしまったらどうなるか分からない。
ボロボロの伴奏となり、今日の舞台を台無しにしてしまうかもしれない。
私は一度だけ、舞台の真ん中に目を向ける。確か何かのアニメで聞いたことがある。あの場所は、ポジションゼロと呼ばれている。
その場所には、しずくちゃんが背を向けて佇んでいる。
『それでは、長らくお待たせいたしました。その雨垂れは、いずれ星をも穿つ。開演です──』
アナウンスの声が終わり、代わりに開演を知らせるブザーが鳴り響く。
それを追うようにして、幕がゆっくりと上がっていく。
しずくちゃんの足が客席から見え始めた時、こちらを振り向いたしずくちゃんと目が合う。
しずく「……」
しずくちゃんは私へ、ウインクをしてくれた。微塵も緊張なんて感じさせない、余裕と自信がありありと分かった。
それと同時に、幕が上がったその先に見える客席と、私は目が合ってしまう。
しずくちゃんではなく、真っ直ぐ私を射貫く視線。
歩夢ちゃんは、確かに客席にいた。
そして、幕は上がり切った──
……
…………
しずく「私は、アステーリ。小さな頃から盲目で、家の中でできることはなく、日々を死んだように過ごしていた」
しずく「そんな私に、家族は優しかった。けれどその優しさが辛かった。出来損ないの私の食い扶持をどうにかしなければならない」
しずく「私は何も……何もできずにいた……」
しずく「何もできないままだったのは嫌だった。けれど、それ以上に外の世界が怖かった」
しずく「家の中でさえ自由に動けないというのに、どうして外の世界で出られようか」
しずく「日々を暗黒の世界で生きる私にとって、外の世界はより深き深淵を歩いているようだった」
しずく「家が暗黒で外が深淵。そんな世界で生きる意味はあるのだろうか。私を愛してくれる家族に迷惑しかかけない私は」
しずく「けれど、死さえも選べなかった」
しずく「私はどうしようもないほど、弱かった……」
しずく「そんな弱い私こそ、私がこの世界で最も忌み嫌っている存在だった」
しずく「次に嫌いだったのは、星を意味するアステーリという名だった」
しずく「星は大きく、いくら距離が離れていようと、存在を知らしめるために光を放つ」
しずく「私と星。私とアステーリ。その名を呼ばれる度に、私は自己嫌悪に陥った。不釣り合いな名を付けた両親を恨むこともあった──」
……
…………
指は、いつの間にか動き出していた。
鍵盤を叩く私の指は、ワルツを踊るように軽やかで楽し気だった。
私は、しずくちゃんに吞まれるようにして、引っ張られるようにして、鍵盤を叩いていたのだ。
何も。何も問題はいらなかった。
しずくちゃんと一緒に、世界を創り上げていく。
私はその作業が楽しくて、嬉しくて、他の要素が介在する余地など、一片も無かったのだ。
ずっと、永遠に、しずくちゃんと共にピアノを弾いていたくなる。
この感覚は、しずくちゃんだけじゃない、歩夢ちゃんとも感じたのことがあった。
歩夢ちゃんの歌う切なくも心に訴えかけるような歌声は、私のピアノとよく調和した。
けれど私は、ピアノ外では歩夢ちゃんと心の底から触れ合えていなかった。
歩夢ちゃんとは最悪の別れをして、私はしばらく心の底からピアノが弾けていなかった。 鍵盤を叩いても、そこから流れる音は無味乾燥な音だった。
そしてその原因を、私は歩夢ちゃんのせいだって思うようになっていた。
そんな訳なかったのに。私が本気でピアノを弾けなくなった理由は、私自身にあったのに。
本気でピアノを弾けば、私は私の気持ちを全て伝えきれるって思ってた。でも、歩夢ちゃんには伝わっていなかった。
だから、私は怖かったのだ。もう一度本気でピアノに向き合うことが。もう一度ピアノを本気で弾いて、自分が伝えきれなかったらと考えると怖かった。弾けなくなったのではない。私は弾きたくなかったのだ。そんな私の心の弱さが招いた結果が、ピアノを弾けなくさせた。
でも、私はしずくちゃんに出会った。しずくちゃんに出会い、しずくちゃんの演技に引っ張られる形で私は本気で弾いた。本気で弾いたら、分かった。私の想いは間違いなくしずくちゃんに伝わっていたって。
だから分かった。歩夢ちゃんに私の気持ちは伝わっていたんだって。伝わっていて尚、歩夢ちゃんは屋上から飛び降りた。私が歩夢ちゃんを助けられなかった本当の理由は、もっと別にあったんだ。
だからさ、まずは歩夢ちゃんに謝らせて欲しい。
ごめんね、歩夢ちゃん。私は私が弾けない理由を、君のせいにした。それは全て私の心の弱さが招いた結果だったのに。
でも、歩夢ちゃん。私が伝えたいのは謝りたい気持ちだけじゃないんだ。
ありがとう、歩夢ちゃん。私は君に出会わなければ、ここまでピアノを好きになれなかった。好きになって辛いこともたくさんあったけれど、私はそれでもピアノが好きなんだ。歩夢ちゃんの歌声に合わせて一つになるピアノが好き。しずくちゃんの演技に合わせて一つになるピアノが好き。
ピアノを大好きになったのは、歩夢ちゃんのおかげなんだよ。だから、ありがとう、歩夢ちゃん。
だからさ、我がままだけれど、この舞台を最後まで見ていて欲しい。
歩夢ちゃんを守れなかった弱い私の伴奏だけれど、君のおかげで大好きになれたピアノを聴いて欲しいんだ。
だから……。
行くよ、しずくちゃん──
……
…………
しずく「──激しい雨垂れが体を打つ日。私は馬車の事故で転落してしまう」
しずく「行きたくは無かった外の深淵の世界。そんな日に馬車の事故が起こってしまう。私は……神様に嫌われていた」
しずく「でも、そこには、私と同様に神様に嫌われていた存在がいた」
しずく「誰……?そこに誰かいるんですか……?私は目が見えないのです。だからどうか……」
しずく「きゃっ……!」
しずく「私が出会ったのは、一匹の犬だった。触れてみて分かった。とてもやせ細った犬だと。そして、とても怯えながらも私に立ち向かおうとしていた」
しずく「不思議だった。外の世界の存在なのに、私は怖くなかった。むしろ、彼女に私は尊敬さえ覚えた」
しずく「吠えることもできず、やせ細った手足なのに、それでも尚自分より大きな存在へ立ち向かう勇気。彼女は、弱者でありながら強者だったのだ」
しずく「……あなた、私の家族になってくれないかな。私は、あなたから勇気を学びたい。私は、あなたのように強くなりたい」
しずく「私は自然と、彼女を抱きしめていた。手で引っ掻かれ、口で噛まれたが、私は離さなかった」
しずく「ここで彼女を置いていってしまったら、ここで彼女と家族になれなかったら、私は本当の意味で世界から見捨てられると思ったのだ」
しずく「お願い……スターラ」
しずく「スターラ。それは雨垂れの意味を持つ言葉。雨垂れはひどく弱々しいが、石をも穿つほどの力がある。彼女にはピッタリの名前だった──」 ……
…………
ミセス「参ったね……」
私は誰にも聞こえないくらいの声量で独り言ちる。
この舞台は桜坂の物でも、高咲の物でもなく、私、ミセスの舞台のはずだった。
稽古の中ではまだ私の物だった。リハーサルの時でもまだ私の物だった。
けれど、フタを開けて見たらどうだ。
ミセス「乗っ取られちまったよ……」
脱帽だった。
私の演劇に掛ける大きな思いが、桜坂と高咲の演劇に掛ける思いに負けた。
一体、この演劇に何を持って挑んでいるんだい。
ミセス「……いい、役者になったねぇ。桜坂……」
いかんね。
若い役者ってのは一瞬で変わっちまう。そしてその一瞬で、名演ができる高みまで上り詰めちまう。
そしてあれだ。
歳を取ると、そういう役者にいらん思いを感じちまう。舞台の上に持ち込むのはご法度な、演出家がしてはいけないことさ。
頬を伝う温かなしずくを感じつつ、私はこの劇の結末を待った。
……
…………
しずく「私とスターラは、正直に言ってしまえば傷をなめ合っているだけだったのかもしれない」
しずく「弱者と弱者が群れを成したところで、どこからともなく吹く強風で倒されてしまう」
しずく「けれど私は、勇気を持つスターラと一緒ならば、どこへだって行けた」
しずく「スターラは吠えられないが、視力があった。私に視力は無かったが、吠えることはできた」
しずく「不完全な者同士、支え合うことでようやく半人前くらいにはなれた」
しずく「……スターラ。私はあなたからたくさんの物を貰った。いくら感謝をしてもしきれないくらいの大きな恩だよ」
しずく「だからね、私もあなたへ最大の恩返しをしたいと思う」
しずく「あなたは吠えられないかもしれない。けれどそれは、私の視力のように永遠ではないんだよ」
しずく「大丈夫。必ず吠えられるようになる。だってあなたはスターラだもの」
しずく「そうすれば、きっと……」 ……
…………
部長「あれが……しずく?」
私は目を見開いて舞台を凝視していた。そして驚愕していた。
なぜなら、舞台の上で演技をするしずくは、『底知れない器』では無かったからだ。
あそこにいるのは『アステーリ』ではない。『桜坂しずくの演じるアステーリ』だ。
しずくは、普通の役者になっていた。
底知れない器ではなく、普通に自分があって、普通に心があって、それを演技と織り交ぜることで感情を表現する、そんな役者になっていた。
部長「なのに、なぜ……」
なぜ私は目が離せないんだ……?
普通の役者に興味は無かったし、魅力なんて無いと思っていた。全ての役を完璧に降ろしきり、豊かな経験を持って深遠なる演技をする役者。書き割りや音楽など、全てを置き去りにする圧倒的な存在。それを求めていたはずだったのに。
そんな私が、ただのしずくの演技に目が離せない。
一体何を持ってそこにいるんだって言うんだ……。
部長「……あ」
頬を伝う温かな感覚があった。
それで全て理解した。
なぜただのしずくの演技にここまで惹かれてしまうのか……。
部長「しずくほどの役者に、まだ会えていなかった……ただそれだけだったんだ……」
私は愚かだった。まだまだ見聞が狭かった。狭い世界しか生きていなかった。
私は今の桜坂しずくに会って、世界の広さを知った。
私はまだまだなんだって。
そう、今のしずくに言われた気がした。
ランジュ「黙って見なさい」
部長「うご……ッ」
私は急いで涙を拭い、しずくの演技に集中した。
……
…………
しずく「私とスターラは、突然の豪雨によって離れ離れになってしまった」
しずく「今は昼間だが、深い森の中、それも豪雨の中では私の見る世界のように暗いだろう」
しずく「スターラは目と鼻が利くとはいえ、それはあくまでいつもの話」
しずく「雨のせいで視界と嗅覚は潰されていた。状況は、絶望的だった」
しずく「だけど……それがなんだ」
しずく「絶望的だからなんだ」
しずく「私はこの暗黒の世界を、生まれてから今までに至るまでずっと見てきた」
しずく「スターラと出会い、家族になり、彼女から勇気を貰った私にとって、暗黒の世界はとうに怖くない」
しずく「それに、これくらいで私とスターラは引き裂けない。私とスターラの間には、星と雨垂れを繋ぐ革紐があるのだから」
しずく「そして私は聞いた。雷や豪雨の音をも切り裂く、強く頼もしい遠吠えを」
しずく「スターラ!あなたは今そこにいるのね!」
しずく「森の中でも迷いなく、私はスターラの元へと走る」
しずく「スターラ、久々ね。ちょっとした一人旅はどうだったかしら」
しずく「スターラの元へとたどり着いた私だったが、そこにはスターラ以外の気配があった」 しずく「けれどそれを、私はずっと前から分かっていた。スターラが吠えられるようになる日。それは、スターラとの別れの日になるんだと」
しずく「スターラの遠吠えを聞きつけたのは、私だけではないのだ」
しずく「血の繋がったスターラの本当の家族が、スターラの元へと集まっていた」
しずく「スターラ、あなたには私じゃない、本当の家族がいる」
しずく「だからあなたは、私と共に来てはだめ」
しずく「もう一度吠えられたこと。それは私とあなたを繋いだけれど、あなたと私の別れも意味したの」
しずく「大丈夫。私はもう怖い物なんていない」
しずく「だって、この体を打つ雨垂れが、勇気付けてくれるもの」
しずく「だから、私のことはもう心配いらない。あなたはあなたの家族のために、その勇気を振るってあげて、スターラ」
しずく「あなたの勇気は……石だけじゃない。星をも穿つほど強くなったわ!」
しずく「だから、今まで本当にありがとう!」
しずく「私は、絶対にスターラのことを忘れないわ!あなたという最愛の家族がいたことを!あなたという世界一の勇者がいたことを!」
しずく「さようならスターラ!私はずっと……あなたの幸せを願っているわ!」 ……
…………
▲▽【──…桜坂しずく…──】▽▲
私はいつの間にか、白い世界にいた。
ここは……。
スイ「──やあしずく。また、会えたね」
声に振り向くと、そこには私によく似た人が立っていた。
自信満々で余裕そうな表情。明るく好奇心旺盛で、意外と悪戯好きな人。
私がずっと会いたかった人だった。
しずく「スイ……!」
スイ「おおっと……いきなり抱き着かれるとは、ちょっと照れるね」
しずく「ずっと、ずっとずっとずっと……あなたに会いたかった……」
スイ「しずく……。やれやれ。困った姉だよ」
スイはそう言って、優しく撫でてくれた。
スイ「しずくに抱きしめられたのも、しずくを撫でるのも、全部初めてなんだけど、なんだか妙にしっくりくるね」
しずく「確かに……そうだね」
スイ「それで、しずく。私に言いたいことがあるんだよね?」
しずく「うん……」
私は涙を拭う。一言たりとも、涙を理由にぼやけちゃいけないって思ったから。
しずく「スイ……今までありがとう」
私はまず、素直に感謝を述べた。なんだかんだ言っても、スイに一番感じている気持ちはこれだ。
しずく「弱い私のために生まれてきてくれたんだよね。不甲斐ない姉で、ごめんね」
スイ「ふふっ。そうだね。君は実に、手のかかる姉だったよ。何を言っても反応が薄い最初の頃はきつかったよ」
しずく「そう、だよね……」
スイ「でも私は……嬉しかったんだ」
しずく「え……?」
スイ「もう二度としずくには会えないって思っていたから。だからどんな形であれ、しずくにもう一度会えたのは本当に嬉しかった」
しずく「スイ……。やっぱりあなたはオフィーリアなの……?」
スイ「さぁ、どうだろう。君の中から生まれたんだ。桜坂しずく以外の何者でもないけれど、私が生まれた時、最初に感じたのは『もう一度会えて嬉しい』という気持ちだったんだ」
スイ「オフィーリアだろうが、スイだろうが、そこに嘘偽りはないよ」
しずく「そっか……。うん。それじゃあ、オフィーリアとしても、スイとしても、今までありがとう。本当に、本当にありがとう……」
しずく「でも……スイはずっと、私が『底知れない器』じゃないって言ってくれたのに。私はそれを聞き入れようとしなかった。本当にごめんなさい」
スイ「いいさ。そんなこと。こうしてしずくは、もう一度しずくになった。それだけで十分だよ」
スイ「手のかかる姉だったけれど、そんなしずくを通して見る世界も悪くなかった」 スイ「演じるのが下手だった頃は、ひやひやしたなぁ……。美味しい物を食べているのに不味そうな顔をしたりさ。お葬式中なのに間違えて大笑いする演技をしたり」
しずく「ス、スイ……。そんな恥ずかしいことは忘れていいのに……」
スイ「うぅん。忘れないよ。絶対に忘れない。これは私の、スイの大切な大切な思い出なんだ」
スイ「しずくと私の、かけがえのない大切な……ね」
しずく「スイ……」
スイ「だからさ、私からもしずくへ伝えるべき言葉があるんだ。ずっとずっと、私も言えなかった言葉」
しずく「え?スイからも……?」
スイ「私を生み出してくれてありがとう、しずく。私はスイとしてもう一度この世に誕生出来て、本当に嬉しかった。本当に楽しかった」
スイ「しずくとの日々は、私にとってどれも本当に大切なものだった。本来ならあるはずのない思い出だったから」
しずく「そ、そんな……ありがとうって言いたいのは私の方だよ……!」
スイ「しずくが私を想っているのと同じくらい、いや、それ以上に私はしずくを想ってるよ。だって、しずくは私の最愛の家族だから」
しずく「……!私も!私も……!スイが最愛の家族だよ!」
スイ「しずくにそう言ってもらえると、本当に嬉しいよ」
そういって笑うスイの表情は、なんだか儚い印象を覚えた。
スイ「あぁ……。そろそろ、時間のようだ」
しずく「……そうなんだね」
私は知っていた。
スイにありがとうを伝えるって決めたその日から。
ありがとうを伝えることは同時に、さようならも意味する。
私はスイと別れなきゃいけない。最愛の家族と……もう一度。
しずく「……いやだよ」
スイ「しずく……」
しずく「いやだよ……!本当はいやだよ!スイと離れたくない!もう一度会えたのに!ようやく私は過去と向き合えるようになったのに……!」 しずく「向き合えるようになったらバイバイ、だなんて……」
しずく「辛すぎるよ……」
スイ「……ありがとうしずく。私を愛してくれて」
スイ「私も、辛いよ。しずく」
しずく「……」
スイ「でも、私もそろそろ行かなきゃいけないんだ。家族の元へ」
しずく「……家族の元?」
スイ「実はねしずく。私は元々、野良犬だったんだ。家族と離ればなれになってしまって、とある人に拾われて施設に預けられたんだ」
しずく「え……嘘……そんなわけないよ……」
スイ「いいや、私の魂の部分に残っているんだ。そういう記憶が」
しずく「だってスイは私の中から生まれたんだもん……。私が知らない記憶を……」
スイ「ふふっ。きっと、放っておけなかったのさ。オフィーリアの魂がさ」
しずく「……そう、なんだ」
スイ「あぁ。だから私もそろそろ、野良犬時代の家族の元へ帰らなきゃならない」
しずく「そっか……。スイにも、血の繋がった本当の家族がいるんだもんね……」
スイ「そうだよ。そしてしずく。君にも、君の帰りを待っている家族がいるはずだよ?」
しずく「うん……そうだね。お母さん、お父さん、そして、オフィーリアがいるよ」
スイ「あぁ、これまでスイを愛してくれた分、新しい私に、今のオフィーリアに、存分に愛を注いで欲しい」
しずく「うん。うん……!分かったよスイ。私、オフィーリアを愛し続けるよ!!」
スイ「それでいいんだよ。今のオフィーリアは、私たちの両親が後悔を無駄にしないために頑張ったそのものだからね」
スイ「もう、溺れる象徴のオフィーリアじゃない。溺れた人を助ける、ヒーローだよ。今のオフィーリアは」
しずく「うん……。そうだね。侑さんから聞いたよ」
スイ「だからもう、しずくも後悔することは無いよ。オフィーリアが死んでしまったことをもう気に病むことはない」
スイ「もう、自分を許していいんだ」
しずく「……うん。頑張ってみるよ。スイ」
スイ「ははっ。相変わらず頑固だね、君は」
しずく「そうかな……」
スイ「……。それじゃあ、しずく。時間はもう、僅かしかないようだ」
そういうスイの体は、どんどん光の粒子となって白い世界に溶けて消えていく。
別れの時が、もうすぐそこまで近づいているんだ……。
スイ「互いの家族の元へ、帰ろうかしずく」
しずく「うん……。スイ、これだけは覚えておいて欲しいの」
スイ「なんだい」 しずく「どれだけ離れてたって。スイ、あなたは私の家族。大切な、最愛の家族だから……!」
しずく「だから、だから……!絶対に忘れないでね!私も、絶対に忘れないから!!」
スイ「……当然だろう。どれだけ離れていようと、私たちは家族だよ……」
スイの抱擁が強くなる。
けれど、強くなっているのに、スイの感触はどんどん消えていく。
スイ「今まで、ありがとう。しずく……お姉ちゃん」
しずく「……スイ!!私もありがとう!!」
スイの抱擁が一段と弱くなり、遂に私の手から離れる。
スイ「うん……ばいばい……」
しずく「さようなら……!!絶対、絶対絶対絶対……!あなたのこと忘れないから……!」
私の手から離れたスイはどんどん白い空へと消えていく。
それは、死者が天空へと還るような、そんな光景だった。
スイ「あぁ……そうだ。これを言い忘れてた……」
スイ「しずく、君が私を奥底に閉じ込めた時に言っていたこと……」
その言葉を聞いて、私はあの金曜日を思い出す。
──
しずく(次にあなたが目を覚ました時、それは──)
しずく(桜坂しずくが、本当の私になる時だから)
──
スイ「ふふっ……本当だった……」
スイ!!
私がその名を呼ぼうとした時、すでに私の声は機能していなかった。
もっともっと……伝えるべき言葉はあったのに……!!もっといっぱいありがとうって言いたかったのに……!!
いくら手を伸ばしても、かき集めようと、スイは消えていく。
そうしてスイの全てが白い粒子になって消えていくのを目にして── ……
…………
しずく「……!」
万雷の音が聞こえた。
いや、これは違う。
これは……割れんばかりの拍手の音だった……。
私の目の前にいる、第四の壁を越えた客席の人が、私に拍手を送っているのだ。
いつの間に……。いつの間に演技は終わっていたんだ……。
私が呆然とした表情をしながらも、劇は終わりを迎えた。
幕がゆっくりと下がり、閉幕したのだ。
侑「しずくちゃん」
完全に幕が閉じ切った後、侑さんが話しかけてきた。
侑「ありがとうとさようならは、言えたかな」
しずく「……!!」
その言葉に、私は……。
侑さんへと抱き着いた。こみ上げる全ての感情に壊されないよう、侑さんに縋りつきながら。
溢れる涙で溺れないよう、必死で侑さんにしがみつきながら。
しずく「……ッ!」
侑「……お疲れ。しずくちゃん」
しずく「い……言えました……!スイにありがとうって……オフィーリアにさようならって……言えました……ッ!!」
侑「そっか……。よかった……本当に、本当によかったね……ッ」
侑さんも私に触発されたのか。
涙を流していた。
私たち二人は互いに抱き合いながら、互いに涙を流した。
そうして……私の、私たちの演劇は、幕を閉じた。
しずくルート『やがてひとつの物語』完結 〜エピローグ&プロローグ〜
▲虹ヶ咲学園▲
この虹ヶ咲には、あまり喫煙する人がいない。
これだけのマンモス学園で、教師の数も膨大な数がいるというのに、なぜか喫煙者はあまりいない。
そのため、学園内で一人になれる場所を探すと自然とこちらに足が向く。
侑「すぅ……はぁ」
タバコを吸って、吐く。
少し前まで一人の時間が寂しいとか思っていたけど、最近は逆にまるっきりそういう時間が取れない。
それは、一か月前のあの演劇。『その雨垂れは、星をも穿つ』に起因する。
初公演を大成功で終えた。これはまぁ、いい。しずくちゃんも本懐を遂げられたことだし。しかし、二回目、三回目になるにつれ、口コミやネットで情報が拡散されたのか、演劇を鑑賞する倍率がとんでもないことになった。
それに伴い、しずくちゃんへの取材が殺到した。大変だなぁ、と他人事だったのだが、それは私も例外では無かった。独り芝居にリアルタイムで伴奏を乗せられる奏者として、私も注目を浴びたのだ。
五日の公演を終えた私たちに待っていたのは、そういう騒がしい日々だった。
侑「あぁ……ほんと、ミセスがいてくれなかったらどうなっていたことか……」
私は取材に対し上手く答えられなかった。なぜなら、どこまで言っていいのか分からなかったからだ。しずくちゃんは上手く取材に応じられていたみたいだけど……私にそんな能力はないYO!初めてなんだから仕方がないじゃん!
まぁ、私の不足部分は上手くミセスがフォローしてくれた。本当にミセスにはお世話になった……。
一か月が経過し、公演も取材も大体が終わったものの、学園内でもあの演劇を見た人は多いらしく、かなりの脚光を浴びた。
だから、ここである。
だから、喫煙スペースにいるのである。
侑「もうすぐ、冬、か……」
喫煙スペースは外にある。
今はもう十月の半ばの為、やや肌寒い。冬になったらどこに行けばいいのやら……。
それまでにこの演劇ムーブメントが終わればいいけど……。
生徒に詰め寄られるのはまだいいんだけど、他の先生から熱く接されるとちょっとね……。まだまだ教師生活で学ぶことはありそうだ。
しずく「──あ、やっぱりここにいましたね」
侑「あ、しずくちゃん。やあ」
しずく「全く。やあ、じゃないですよ。タバコは百害あって一利なしなんですからやめた方がいいですよ」
侑「う〜んでもねぇ……。そう簡単な物じゃあないんだよ」
しずく「……はい。だめです」
しずくちゃんは私の手からタバコを奪った。なかなかの早業だ。油断していたとはいえ、しずくちゃんもやるなぁ。
って、生徒がタバコ持ってたらやばくない? 正直なところ、虹ヶ咲の作品としては設定がかなり異色だし、人を選ぶと思う。
でもら作品の世界観を生かしきっていて、なおかつ作品の中へと引き込まれる、そんな魅力がある作品でした。
クリスマス前にめちゃくちゃいい作品を読めました。本当にありがとう。
リアルタイムでずっと追ってしまった… 侑「しずくちゃん!早くそれをこっちに返すんだ!色々やばい!」
と、私が取り返そうと慌てた瞬間。
しずく「……ん」
しずくちゃんから突然キスされた。
しずく「……私、キスがタバコの味って嫌なんです。何度も言ってますよね?」
侑「え、あ……。そう、だけど……」
しずく「だから、やめてください」
侑「えぇ……」
しずく「ぽいっ!」
侑「あぁ!!」
タバコが無残に吸い殻入れに放り込まれる。まだまだ吸えたのに!!
資源の無駄だよこれは!!
って!そんなこと言ってる場合じゃない!
侑「しずくちゃん!学園の中でキスなんてダメでしょ!バレたらどうするの!」
しずく「大丈夫ですよ。私が何年演劇をしていると思ってるんですか。人の視線に気が付かないほど鈍感じゃありません」
侑「いや……そういうことじゃなくって!監視カメラとかあるかもしれないじゃん!」
しずく「問題ありません。全てチェック済みです」
侑「も、も〜っ!そもそも生徒と教師なんだから……」
しずく「その問答は意味ありませんよ。あの日、私に体を許してしまった以上、全ての責任は侑さんにあります」
しずく「だって、大人じゃないですか!」
侑「ぐ、ぐぬぬ……」
しずくちゃんはあの演劇が終わってから、妙に悪戯っぽくなったというか、積極的になたというか……。一言で言えば、けしからん子になってしまった。
侑「あ、あのねぇしずくちゃん。一度ここらでそもそも大人と子供っていう力関係をさぁ……!!」
しずく「あ、こんな話をしに来たんじゃないんですよ」
侑「そんなこと言ったって!!」
しずく「──上原さんっていう生徒から伝言があるんでした」
侑「……え」
頭に冷や水を浴びせられる感覚があった。
上原さん……?
私に縁のある人の中で上原さんとは、一人の人物しか該当しない。
上原歩夢。
私の教育実習生時代の生徒だ。 侑「……上原さんからなんだって?」
私は努めて冷静にそう言った。
しずく「はい。『虹ヶ咲に転入するのでよろしくお願いします』と」
侑「……!!」
歩夢ちゃんが、虹ヶ咲にくる……?
しずく「それと、『とても胸に来るような演劇でした』とも言ってましたね。私たちの演劇に感動して、転入まで決意するなんてすごいですよね」
……どうやら、本当に歩夢ちゃんらしい。
上原歩夢。別に珍しい名前ではない。けれど、ここまで状況証拠が揃ってしまえば、認めるしかないだろう。
侑「そっか……。それでそのあゆ……上原さんはどこに?」
しずく「私にそう言い終わったら帰りましたよ。引っ越しの作業がまだ終わってないとかで」
侑「うん……。分かった。ありがとう、伝言を届けてくれて」
しずく「?」
しずく「はい。どういたしまして?」
しずくちゃんはなんだか腑に落ちない表情をしていた。
私が今歪んだ変な表情をしているからだろう。
侑「それじゃあ、そろそろ戻ろうか」
しずく「あ、はい。そうですね!」
侑「流石に廊下でキスはやめてね?」
しずく「天下の往来でするほど色狂いじゃありませんよ」
侑「……ほんと?」
しずく「本当ですよ!!」
私はできるだけおどけて、ふざけたように接し、今の感情を悟られないようにした。
そうして和気藹々を演じていると、横殴りの突風が私たちを襲った。
しずく「きゃっ……すごい風……」
落ちた葉っぱが舞い上がり、砂煙を作り出す。
それはなんだか、これから来る波乱を予感しているようだった。
おしまい >>202
ありがとうございます;;
すでに完結済みの長編を短期間に5chに投稿するのって阿呆なことしたなぁって思ってました
でも>>202さんの言葉で投稿して良かった、とも思いました
リアルタイムで追っていただきありがとうございました!! >>205
これおそらく別√もあるんですよね?
続きがあれば読んでみたいです というわけでしずくルート完結です
完結済みの長編なので5chより渋の方が土壌に合っていたと途中で気づきました
なので書く予定の歩夢ルートは渋に投稿する予定です(一切書いてないし渋に投稿したことないけど)
根気強く読んでいただけた方には多大なる感謝を >>206
歩夢ルートはラストの構想があるので後はその間を埋めるだけですね
かすみルートは……ある予定だったんですが、面白くならなそうなので今のところないです
ランジュルートはマフィアの鉄砲玉だった頃のランジュと、やさぐれていた頃の侑の話なので過去編になりそうです >>208
構想だけでもかなり楽しみですね
渋に来るのを全裸待機して待ってますね これはこれで楽しめた派
あとミセスの口調に猿定型を感じて笑っちゃったんだよね 出来ればこのままここにも上げてほしいよ
設定自体は原作と乖離しつつも要素はちゃんと抑えててほんと良かったと思う
文章を読んで泣いたのは久々だった とりあえず乙! 改めて読み返すとしずくの描写に素顔のフォトエッセイとか楽曲ネタが所々に散りばめられていていいなぁ しずく推しだから解像度高い描写で一層好きになれました
過去作とかあればそちらも読んでみたい すっごく良かった!また続きとかあるなら
是非見たい とても面白かったです
かすみさんの他校の友だちが愛さんやりなりーなのかな?
続きも楽しみにしています 感想ありがとうございます!
書くの忘れてたんですが、『その雨垂れは〜』はサンホラの『星屑の革紐』って曲が下地になってます
内容は色々いじくったんですが、犬と少女の曲なので気になった方はぜひ視聴をおすすめします
過去作は
かすみ「ねぇしず子。なんでかすみんの背中に指文字で『しずく』って書いてるの?」しずく(自分の物には名札を付ける。当然だよね)
https://fate.5ch.net/test/read.cgi/lovelive/1670808048/l50
ですね
文字数が5万文字を越えなければこちらに投稿するかもしれません(たぶん超えるし、いつ書き終わるか分かんない) 最初は何か凄い文章量の異色な作品だなって思ってたんだけど、途中から引き込まれるように夢中になってしまった
もし別ルートとか続き?とかあったら是非とも読みたい。とにかく面白かった
作者さんありがとうございました! なんつー超大作や…物語も深くて面白かったけど構成と文章力がヤバイ
長いのにスラスラ読めた
お金払わせてくれ ⎛(cV„◜ᴗ◝V⎞💙jΣミイ˶º ᴗº˶リ ゆうしずhappy end ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています