侑「虹ヶ咲学園二年四組担任、高咲侑です!」
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
※侑ちゃんは先生なので普通に成人してます
※生えてません
※▲(場所)▲←現在の場所
※▽(場所)▽←過去の場所 しずく「いえ。特に何も」ニコッ
侑「そっか。それじゃあ稽古を鑑賞しよっか」
しずく「はいっ」
今日は部長が不在、と。
う〜む。前後即因果の誤謬、ではないけど、ちょっと気になっちゃうよね。
▲廊下▲
かすみ「えぇと。今日はこの後何するんだっけ」
風紀委員の仕事は多岐に渡る。
毎日しなければならない仕事もあるし、急に入ってくる部同士の仲裁とか、やるべきことはたくさんだ。
でも、可愛い学校づくりの為には大事な仕事。面倒くさいと感じることもあるけど、重要な仕事だから手は抜けないよね。
かすみ「確か……。生物飼育部から、他の生物を飼うために部室を拡張したいって要望だっけ」
かすみ「十中八九生徒会で棄却されるだろうけど、一応見ないとね」
部室で飼ってる動物達も見たいし。
そう思うと、自然と足が速くなる。
部長「──風紀委員の中須さん」
かすみ「ぴゃあっ!」
唐突に話しかけられてビックリした。
振り向くと、そこには……確か演劇部の部長さん?がいた。
かすみ「ど、どうしたんですか?今って演劇部の稽古中じゃないんですか?」
部長「あぁ。そうだよ。ちょっと中須さんに用事があってね」
風紀委員ではなく私に用事?なんだろう。
かすみ「なんですか?今から生物飼育部へ行くので用事は早く済ませたいんですが……」
部長「ごめんね。じゃあ手っ取り早く聞くけど、大倉庫での一件で高咲先生に何かなかった?」
かすみ「え。侑先生に何か、ですか?」
部長「うん。気になったこととか、不思議に思ったこととか。なんでもいいんだ。聞かせて欲しい」
そんなことなんで演劇部の部長さんが知りたいんだろう?
あれ。そういえば確か、侑先生って代理の演劇部顧問だっけ。じゃあ担任じゃなくても繋がりはある、と……。
部長「少々、高咲先生が気になっていてね」
侑先生が気になっている……。
はっ!もしや……! ☆かすみん脳内お芝居☆
しずく『ふっふ〜ん♪』
部長『あれ、しずくどうしたの。ずいぶんご機嫌だね』
しずく『んふふ。あ、ぶちょ〜。実はちょっと困っちゃったことがあってぇ♪』
部長『どうしたんだい?』
しずく『実はぁ〜♡侑先生に私、助けられちゃったんですぅ♡』
部長『え……』
しずく『こう、迫りくる柱の数々を一瞬で捌いて、私にかかる苦難をぜ〜んぶ退けてくれたんですよぉ♡』
しずく『かっこよかったなぁ、あの時の侑先生っ♡すきすき侑先生♡』
しずく「それにきっと、侑先生も私のこと大好きなんだろうな〜♡はぁもう困っちゃうなぁ。あぁ、困った困った♪」
部長『し、しずく……』ググッ
部長(高咲先生は、私が狙ってたのに……!!)
☆かすみん脳内お芝居終了☆
そっか。部長さんも侑先生のことが好きなんだ。全く、モテモテで困っちゃうね。私のナイト様は。
しず子にマウント取られて悔しくなっちゃったんだね……。
かすみ「う〜ん。でも。私としず子は同じ体験をしたはずですからねぇ。しず子以上のことは聞けないと思いますよぉ?」
部長「……。なるほど。それもそうか。でも、何でもいいんだ。何か一つでも気になったことがあれば聞かせて欲しい」ズイッ
かすみ「うっ……」
部長さんの目力、めっちゃ強い……。
でも気になったことって言ってもなぁ……。私は侑先生に抱き着いてただけだし……。あーあ、もう一回抱きしめてなでなでしてくれないかなぁ……。
あ、そういえばあの時……。
かすみ「そういえばあの時確か……」
部長「おや、何か気づいたかい?」
かすみ「はい。確か侑先生、あの出来事の後右腕を抑えてたんですよね。チラッとしか見てなかったので確証はないんですが、たぶんあの時、腕を痛めたんだと思います」
部長「……ほう」
かすみ「まぁアレだけのことがあって、腕を痛めるくらいで済んだのはよかったのかもしれませんね。不幸中の幸いって奴です」
部長「なるほど……」
かすみ「どうですか?」
部長「ふふっ……。これは良いことを聞いた」ボソッ かすみ「え?」
部長「あぁいや。心配だと思ってね。今日の授業中とかどうだったんだい?」
かすみ「う〜ん。そういえばいつもより板書が少なかったような……。そんな気がしないでもないですねぇ……」
部長「なるほど。ありがとう中須さん」
かすみ「はい。あまりお役に立てそうもない情報でしたけど」
部長「いいや。十分過ぎる情報だったよ」ニコッ
そう言って部長さんは笑顔を見せた。
その笑顔はなんだか、狩猟を行う寸前の猛禽類を思い出させた。
部長「これは忙しいところをお邪魔したことへの迷惑代、とでも思って欲しい」スッ
かすみ「え?これは……」
部長「これは高級中華料理屋のコース無料券だよ。場所は路地裏の奥にあって分かりづらいけど味は保証するよ」
かすみ「えぇ!!そんなの貰っちゃっていいんですか!?」
部長「勿論。風紀委員の大事な職務を邪魔してしまったわけだしね。これくらいの返礼は当然だろう?」
かすみ「そ、そう言うのなら……。ありがたく受け取っておきます」スッ
高級中華料理屋……。
頭の中では北京ダックとか麻婆豆腐とか、あのくるくる回るお皿とか、そんなイメージがポヤポヤ浮かんだ。
部長「三人分あるし、誰かと一緒に行くのもいいかもしれないね」
部長「期限は明日まで。それで、今日は定休日だ。明日の夕食になんかどうかな?」
かすみ「わわっ。ほんとだ。期限あと少ししかないじゃないですか。危ない危ない」
部長「ふふ。私は用事があって行けないからさ、ちょうど良かったよ」
かすみ「はいっ!ありがとうございます!」
部長「こちらこそ。それじゃあ、またね。中須さん」スタスタ
かすみ「はい。また……。また?」
何はともあれ。明日は北京ダックを食べまくりの会を実施ですね……!
うおおおおおおおお。フカヒレとかも出るのかな?食べたこと無いし楽しみ!!
かすみ「るんるん♪」
その後私は、生物飼育部から「ヨシキリサメ」を育てたい!という要望があったが、丁寧に断った。 ▲高級中華料理屋『珠宝』周辺▲
かすみ「こんなところに本当にあるんですかぁ……?」ビクビク
しずく「う〜ん。でも隠された名店ってフィクション作品にはよくあるし、逆に『らしい』のかも」
かすみ「しず子は漫画の読み過ぎだよ!」
しずく「なっ!漫画より演劇とか映画の方がよく見てるもん!」
かすみ「そういうことじゃなーいっ!」
侑「まぁまぁ。仲がたいへんよろしいのはいいことなんだけど、誘ったのはかすみちゃんでしょ?場所分からないの?」
かすみ「いやぁ……。この路地を右に行って、謎のドラム缶が三つあるところを左に、そして黒猫のフィギュアがあるところを直進して──」
しずく「何その道案内──」
かすみ「えぇ。引かないでよぉ」
しずく「──ワクワクするね!」
かすみ「……。しず子が楽しそうで私は嬉しいよ」
侑「ま。場所が分かってるならいいよ。それに、何かあっても私がどうにかするから安心してね」グッ
かすみ「ゆ、侑先生〜♡ナイト様ですぅ♡危ないから手、握りましょ!」ギュッ
しずく「ああッ!!」
しずくちゃんがとんでもない目でかすみちゃんを睨む。こわい。
侑「やれやれ。甘えん坊だねぇ……。ほら、しずくちゃんも」サッ
しずく「え……っ。いいんですか……?」
これはいわゆるリスクヘッジという奴。勿論そんなことは臆面に出さず、私は笑顔で伝える。
侑「もちろん。でも路地裏でちょっと道幅狭いし、嫌ならいいけど」
しずく「い、いえっ!お言葉に甘えさせていただきます!」ギュウッ
侑「ん〜。いいねこれ。これが両手に花って奴だね!」ホクホク
かすみ「かすみんが両手を握ってもいいんですけどね。でもしず子にもおすそ分けしてあげるよ!かすみんは余裕のある女だからね」 しずく「はいはい。そういうことにしてあげる」
しずく(……侑先生の手。思ったより硬いけど、温かくて頼もしいな……)ドキドキ
侑「あの、しずくちゃん。そんなニギニギされるとちょっと恥ずかしいというか……」テレテレ
しずく「ああっ。すみませんついっ」
かすみ「むふふ。しず子もやるねぇ……」ニヨニヨ
しずく「……くっ」
侑「ははは。三人だとこんな道でも楽しいねぇ」
そう言いつつ、私は周囲の警戒を止めない。
しずくちゃんの言う通り、隠れた名店というのは確かに存在する。でもそれはヤクザとか極道とか、あっち系の人が常連と言う場合も多い。今回ももしかしたらそうかもしれない。
でも、高級中華料理屋の『珠宝』。この店名には引っかかるところがあって……。
かすみ「あっ!見えました!あそこですよあそこ!!早く行きましょう!かすみんおなかぺっこぺこだおう!」
しずく「だおう……?」
かすみちゃんの指差す先には、虎が描かれた絵に『珠宝』という看板が見えた。
侑「虎、ね……」
予感は的中していた。
そしてこれから少しひと悶着あるんだろうなと考え、私は気を引き締めた。
▲高級中華料理屋『珠宝』▲
私たち三人は無料券を三人分見せ、案内されるがままに席に着いた。
二人はなんだかお店の内装に圧倒されているっぽい。
かすみ「ひえ〜〜……。なんだか気後れしちゃいますねぇ……」
しずく「確かに。内装が豪華っていうか……ちょっと奢侈だし。豪華絢爛ってこんな感じなのかな」
侑「まぁすぐ慣れるよ。料理を食べに来たんだし、そっちを優先しよう」
かすみ「そ、そうですね。うおおおお!北京ダックを食い散らかしますよぉ!」メラメラ
しずく「食い散らかすって……。もしかしてかすみさん、北京ダックってあの大きなお肉をそのまま食べると思ってる?」
かすみ「え?違うの?漫画肉みたいな、そんなお肉じゃないの?」キョトン
しずく「えぇとね。北京ダックって大体皮の部分しか食べないんだよ」 かすみ「えぇ!!嘘!!あんなに大きいのに皮だけしか食べないの!?それって勿体なくない!?」
しずく「うん。薄いお餅みたいな生地に、野菜とかお肉とか入れて食べるの。でも、残ったお肉はどうするんだっけ」
侑「残ったお肉は別の野菜炒めとかに使われるよ。流石にあのまま捨てるのは勿体ないからね。ちなみにそういう使われ方をするのは広東式って言って、お肉の部分を最初から食べる北京式ってのもあるんだよ」
しずく「あ、そうなんですね。なんだか慣れている様子ですけど、侑先生って中華料理に詳しいんですか?」
かすみ「確かに。さっき店員さんに中国語?で話かけてましたよね?」
う。見られてたのか……。まぁ別に隠すことじゃないし……。
侑「中華料理に詳しいというか、大学時代、中国に留学してた時期があってね。そこでまぁ……色々とね」
うん。嘘は言ってない。色々と、に、色々と様々、多種多様な意味を持たせたけど!
ランジュ「そうね。侑の大学時代にランジュと会ったのよね」ガタッ
侑「あぁうん。いやぁ、あの時のランジュちゃんと出会ったせいで色々と苦労を……って。うわあっ!!」ビクッ
びっくりした。ランジュちゃんに縁のある店だとは思ってたけど、まさか表に姿を現すなんて……。
かすみ「え、だ、誰ですかこの人……」
ランジュ「そういうあなた達は誰よ?」
かすみ「げっ。なんだか厄介そうな匂いがします……」
しずく「かすみさん!ちょっと失礼だよ!」
かすみちゃんを諫めると、しずくちゃんは姿勢を正し笑顔になった。
しずく「すみません。自己紹介が遅れました。私は桜坂しずくです。侑先生が担任をしている生徒です」ニコッ
う〜む。営業スマイル全開だ。
唐突に現れて場の雰囲気をぶち壊したランジュちゃんが間違いなく悪いんだけど、しずくちゃんはランジュちゃんが『ヤバい人』って気配で分かったのかな?営業スマイルだけど、こめかみに薄っすら汗が滲んでるよ。
ランジュ「そう。しずくね。侑が世話になってるわ。鐘嵐珠よ。覚えておきなさい」
しずく「はい。頭に叩き込んでおきます」ニコッ
かすみ「ひぃん。なんだか空気が怖いですよぅ侑先生〜」 かすみちゃんが涙目で抱き着いてくる。
侑「ヨシヨシ……怖くないよぉ。それでランジュちゃん、どうしたの。あ、それとこっちは中須かすみちゃん。しずくちゃん同様、私の生徒だよ」
ランジュ「そう。かすみ、鐘嵐珠よ。頭に叩き込みなさい」
かすみ「は、はいぃ……」ビクビク
ランジュ「ここへ来た理由は侑がいたから。ただそれだけよ」
侑「まぁそうだよね。ランジュちゃんって思い立ったがすぐ行動!って感じだもんね」
ランジュ「ふふん。行動力があるといいなさい」
かすみ「て、いうかっ!ランジュさんは無料券持ってないのにいいんですか!?無いとしてもお金を支払えるんですか!?」
ランジュ「無問題ラ。この店の支配人はランジュよ」
かすみ・しずく「え゛」
侑「……。まぁそういう訳だよ。ランジュちゃんがここで登場するのは予想外だったけど、悪い子じゃないから仲良くしてあげてね」
ランジュ「なによ侑。その言い方」
侑「二人はいい娘だからさ。ランジュちゃんとも仲良くして欲しいと思ってね」
ランジュ「全く。変わらないわね。それで、しずく、かすみ」
かすみ「な、なんですか……?」
かすみちゃん。なんだか警戒している猫みたいでちょっと可愛いな。
ランジュ「どっちが侑の女なの?それともどっちも?」
とんでもない爆弾を投下してきた。猫みたいで可愛いとか言ってる場合じゃなかった。
侑「ランジュちゃん!それは言っちゃあいけないことだよ!私と二人は先生と生徒なんだよ!?」
ランジュ「そう?粉をかけるのが早い侑のことだから、手籠めにしてるもんだと思ってたわ」
何でもないことのように言い放つランジュちゃん。くっ、まるで悪気はないんだろうな。本当に純粋な質問なんだろうな。
だからこそ一層質が悪い!!
かすみ「かすみんは、侑先生の女でも……」
しずく「わ、私は……」
ランジュ「あっちは満更でもない感じだけれど?」
侑「──」
嘘。嘘やん。なにこの修羅場。ランジュちゃん、君と関係を持ってから苦労も絶えないし飽きないけど、これは不味いよぉ。
ランジュ「ちなみに。侑はランジュの女よ」
……。こ、こいつはぁ!!
侑「そこまでだランジュちゃん!!これ以上はだめ!!」
暴走特急ランジュは止まる気配がないっ!! しずく「侑先生……」ジトッ
しずく(同性に好かれそうとは思っていたけど、ここまでとは……)
侑「い、いやあの……」アセアセ
なんでこんなに焦らなきゃならないんだ!私は何も悪くないのに!
くそぅ!かすみちゃんから高級中華って聞いてからひと悶着あると思ってたけど、私が予感してたのはこんなことじゃない!
教師の薄給では食べられない高級中華に釣られたのが間違いだったかな!?
店員「北京ダックデス」スッ
侑「うわぉ!!なんてベストタイミング!謝謝!!」
まだ付け出しのザーサイとかに一切手を付けてないけど!
北京ダックで流れを変えよう!!
侑「よ、よ〜し。ランジュちゃん!本場の北京ダックの食べ方見せちゃって!」
かすみ「えぇ!かすみんもっとランジュさんと侑先生の話聞きたいですぅ!」
ランジュ「ふふん。それもいいけど、まずは腹ごしらえよ!!」
ランジュちゃんの目がキラキラしている。ランジュちゃんがお肉好きでよかった……。
侑「よ、よ〜し。はいみんな手を合わせて〜いただきますっ!!」
かすみ・しずく「い、いただきます!」パンッ
ランジュ「う〜ん。やっぱり絶品ね!!」バクバク
侑「肉と野菜を取って包むまでが早すぎる!神業だ!!」
かすみ「これ。どれだけ塗ればいいんですかね」ベットリ
しずく「わわっ。かすみさん!それは甜麵醬だよ!つけすぎるとしょっぱくなり過ぎちゃう!!」
かすみ「しょっぱい!!でも美味しい!!」
……
…………
私たちはコース料理を余すことなく堪能した。
かすみ「ふーっ……。美味しかったです……。満腹でもう動けませんよぉ……」ニコニコ
しずく「よかったねかすみさん。私もちょっと食べすぎちゃった」
かすみ「でも、やっぱり辛かったなぁ……」ポンポン
ランジュ「あれくらいで辛いなら、本場の中国料理なんて食べられないわね」
かすみ「え゛これって本場の中華料理じゃないんですか」
ランジュ「『本場の中国料理』よ。かすみ」
しずく「あぁ、そういえば聞いたことがあります。中華料理は日本人の舌に合わせた中国料理で、中国料理はアレンジとかせずそのままだとか」
ランジュ「そうね。まぁ一概にも言えないのだけれど」
侑「本格四川料理とかはもうヤバいね。喉の奥から火炎放射が出るんじゃないかってくらい辛かったよ……」 ランジュ「ランジュからしたら、日本の中華料理の辛さは少し足りないわね」
かすみ「だから食べる前に辛そうなスパイスかけてたんですね……」ゲンナリ
侑「ま。確かにここの料理も結構辛かったけど、それ以上に旨味があったね」
しずく「そうですね。唇がまだヒリヒリしていますけど、食欲が止まりませんでした」
かすみ「うぅ。かすみん辛すぎて水を飲みすぎちゃったぽいです。ちょっとお花摘みに行ってきますね」
しずく「大丈夫かすみさん?私も付いていくよ」
かすみ「ありがとうしず子……」スタスタ
侑「気を付けてね」
……
…………
侑「あの、二人がいないから聞くけどさ。ここっていわゆる……」
ランジュ「えぇ。ランジュのフロント企業よ」
侑「あぁ……。やっぱり。う〜む。これで私はうら若き乙女を裏社会に関わらせてしまったのか……」
ランジュ「ここに来るんだもの。多少は予感くらいしてたでしょ?」
侑「まぁ、そうだね。後悔とかはないよ。微塵もね」
ランジュ「ふふっ。侑のそういう清濁併せ吞むところ、好きよ」
侑「ありがとう」
ランジュ「それで侑。学園生活はどうなの?」
侑「そうだねぇ。人前で授業をするのは緊張したけど、最初だけかな。慣れればそう大したことじゃないね。ただまぁ、虹ヶ咲は色々と規格外な所があるからさ。そこは毎日新鮮かな」
ランジュ「そう。今って英語を教えているのよね」
侑「うん。大学時代飛び回ったおかげでマルチリンガルだからね。ピアノ以外に特技があってよかったよ」
私がそう言って笑うと、ランジュちゃんはやや沈痛な面持ちになった。
ランジュ「ランジュは……。侑はあのまま音楽教師をやると思っていたわ」
侑「……まぁ。そうだね。でもやっぱり、一度教師の道を諦めちゃったからさ。色々日和っちゃった」
ランジュ「教師をやれるだけ重畳ってことかしら」
侑「まぁ……」
ランジュ「でも。あなたから音楽を取ったら一体何が残るの?」
侑「……」
相変わらず痛い所を突くなぁ。そこがランジュちゃんのいい所なんだけど。
ランジュ「あの時は一度諦めた教師をもう一度目指した。それだけで満足したわ。でも、もうあれから随分時が経ってる。それでもまだ、音楽はだめなの?」
射貫くような視線。ランジュちゃんは昔からずっと変わらない。ずっと、強い信念を湛えた美しい瞳をしている。
私は、そんなランジュちゃんに応えるように、視線を外さず口を開く。 侑「……あのねランジュちゃん。実はさ、ピアノ。もう一度弾けるようになったんだ」
ランジュ「え」
思い出すのは演劇部の顧問となった初日。
ただ、軽い伴奏をすればいいと思っていた。でも、私と調和してくれた相手がしずくちゃんで、虹ヶ咲学園の中でもしずくちゃんは規格外だった。
侑「最初は軽い気持ちだった。本気でピアノを弾くんじゃなくて、軽く弾く気持ちだった。でも、いつの間にか引っ張られてた。いつの間にか私は、前と同じように弾けていたんだ」
そういうと、ランジュちゃんはバツが悪いように視線を外す。
なんだか瞳がうるんでいるような感じさえする。
ランジュ「そう……。やっぱりランジュじゃ役者不足ってことね……」
侑「え……」
自嘲気にランジュちゃんは笑っていた。
ランジュ「一度閉じた侑の蕾を再び開いたのはどっち?かすみ?しずく?」
それでもランジュちゃんは二の句を継いだ。
だから私も、ランジュちゃんに正直でいようと思った。
侑「しずくちゃんだよ。私の弾く伴奏に、しずくちゃんは演技で応えたんだ。あの日惹かれた歌声に対して、私が伴奏で応えたように。『調和』、したんだ」
正直な気持ちを全て、口にした。
ランジュ「……そう。良かったわね、侑」
ランジュちゃんは笑った。たまに見せる弱気な笑顔だ。それはあまり、私が見たくない笑顔でもある。つい、いつものように抱きしめたくなる衝動に駆られる。
ランジュ「やめて侑。慰めはいらないわ」
侑「……そうだね。ごめんランジュちゃん」
ランジュ「侑。あなたに言いたいことは一つだけよ」
侑「……なにかな」
ランジュちゃんは姿勢を正し、再び射貫くような視線で私を見た。
ランジュ「私は本当の意味で侑の力にはなれないのかもしれない。けれど、侑が何をしようと、どれだけのことをしようと、ランジュはランジュのままよ」
ランジュ「だから、侑の信じる道を行きなさい」
侑「……うん。ありがとうランジュちゃん」
ランジュちゃんは変わらない。今も昔も。変わってしまうのは恐らく私だ。ランジュちゃんが私を裏切ることはないけど、私は分からない。
でも、私がランジュちゃんをたとえ裏切ったとしても、ランジュちゃんはきっと変わらないんだろうな、とも思う。我ながら、最低なことを考えていると思う。
侑「でもランジュちゃん、一つだけ訂正させて」 だからせめて、ランジュちゃんには伝えようと思った。
侑「私が教師を諦めなかったのは、ランジュちゃんのおかげなんだよ。私の力になれないだなんて、そんなことはないよ。絶対にね」
ランジュ「……。言葉だけ、受け取っておくわ」
互いに本音をぶつけた。でも、ランジュちゃんの言う通り、互いの言葉が本当の意味で届くことはないのかもしれない。それは他人にはどうしようもない、主観的な部分だからだ。
私とランジュちゃんの間には、やや変な空気が流れる。この空気をどうしよう、と数秒思案していると。
ブルルルルルル
唐突に、ズボンのポケットからスマホが震えた。
私は努めて冷静に、スマホをタップする。
侑「はい。もしもし」
部長『やあ、高咲先生。私のプレゼントした中華料理は美味しかったかい?』
演劇部部長の声だ。
SNSアプリの通話機能から掛けているらしい。
侑「うん。ありがとう部長さん。少し辛かったけど美味しかったよ」
部長「おや?あまり驚いていないね。今がどういう状況か、分かっていないのかい?しずくと中須さんがいないだろう──」
侑「──いいよ、御託は。そっちに行ってやるからさっさと場所を言いなよ」
今度はむしろ、苛立つような感情を声に乗せる。
部長「ふふっ……。そんな冷たい声も出せるんだ。役者になれるよ高咲先生」
愉快そうな部長の声が聞こえる。
侑「……」
部長「分かったよ。じゃあ場所をLINE経由で送るよ」
部長「勿論、応援なんか呼ばないでよ?二人がどうなっても知らないからね」プツッ
侑「ふぅ……」
心臓の鼓動は……うん、正常なリズムを刻んでる。頭も混乱してないし、煮えたぎるような激怒に支配もされていない。
普段通りの私だ。
侑「ランジュちゃん、じゃあ私行ってくるね」
行き先を特に言わないまま、自然な感じでランジュちゃんに告げる。
ランジュ「そう。じゃあ、また会いましょう。近いうちに」 侑「そうだね。それじゃあ……」
ランジュ「えぇ。状況開始と行くわよ」
私たちは同時に動き出した──
と思ったら。
ランジュ「そうそう。これを言い忘れていたわ」
侑「ん?」
なんだろう。何かあったっけ。
ランジュ「右腕の負傷」
侑「あ」
あ、やばい。食事中の所作で右腕の負傷がバレていたんだ。前電話した時は無傷って言っちゃったけど、結果的に嘘が露見した!
侑「あ、あの……これには深い事情が……」
ランジュ「いいわ。今は言わなくて」
ランジュ「今度は二人でゆっくり食事をしましょう?」
侑「う、うん!勿論だよ!」
ランジュ「それじゃ、再見、侑」
侑「またね!ランジュちゃん!」
私たちは二手に分かれた。
▽珠宝▽
店員?「お客様、お手洗いはこちらとなっています」
かすみ「あ、はい。うぅ、胃薬が欲しい……」
しずく「大丈夫?かすみさん」
私たちは店員さんに言われるがまま、珠宝の奥へと進んでいく。それにしても、この店員さんは日本語が流暢なんだ。
店員「一度、お外へ出ていただきます」
かすみ「え、外ですか」
店員「はい。ではこちらへ」スタスタ
しずく「……?」
奇妙な違和感が払拭できないまま、私たちは店員さんに追従していく。
違和感があろうと、私たちはここではアウェイ。新しく来る場所で私は気圧されていた。
しずく「そういえば……」
なんとなく。ふと気づいたことをかすみさんに聞いてみる。
しずく「あの無料券ってどうやって入手したの?」 かすみ「え?あぁ。しず子には言ってないんだ」
私には言ってない?なんだか胸が嫌な拍動になる。
かすみ「演劇部の部長さんから貰ったんだ。三人分。ちょうど今日までが期限だったからさ、ちょうどよかったんだよね」
しずく「──」
不味い。
鳥肌が一気に立つ。
しずく「かすみさん……!」
店員「──妙な真似はするな」
しずく「う……」
かすみ「え……」
突然、店員さんが豹変した。
やってしまった。違和感は確かにあったのに。高級中華料理屋のトイレが外にあるなんて普通に考えたらおかしい。
私は初めて来た場所ってことで認識を緩めていた。
分かってたのに……ッ。
店員「下手に騒げば……ほら、後ろにも仲間がいるぜ?」
チラッと後ろを振り向けば、続々と体格のいい男たちが姿を現していた。
かすみ「えっ……えっえ……」
かすみさんは状況が理解できないようで混乱している。
なんとか。なんとかかすみさんだけでも……。
男「妙な真似はすんなって言ったろ」
店員……いや男は、上着の中からナイフをチラつかせた。そしてその仕草が、脅しではないことを私は理解していた。
かすみ「ひっ……」
しずく「はい……。大人しく付いていきますから、手荒なことはしないでください」
男「あぁ……『今は』しないでおいてやるよ」
私にできるのはこれが精いっぱい……。
▽とある廃工場▽
私とかすみさんは、男に言われるがまま付いていき、到着したのはとある廃工場だった。大方の機械はすでになく、鉄パイプや一斗缶等が転がっている。
寒々しい空気が、場に流れていた。
部長「やあ、しずく、中須さん」
そこには部長が立っていた。悪い予感はしていた。そして外れていて欲しいとも思った。でも、目の前にあるのが事実だった。
かすみ「ど、どういうことですか……?」
依然としてかすみさんは理解が追い付いていないのか、体を震わせている。
しずく「部長。一応言っておきますが、助けにきてくれた、って訳じゃないんですよね」
部長「ふふっ。希望的観測はやめなよしずく。あるはずがないだろう?」
至極面白そうに、部長はクツクツと笑う。 部長「全く。しずくが悪いんだよ?本当はこんなことをする予定じゃなかった」
芝居がかった仕草で部長は言う。苛立ちが沸々と出てくる。しかし、一先ず部長との会話を試みるのが先決だ。
しずく「一体何の目的で私たちを誘拐したんですか?」
部長「ふむ。そうだね。とりあえず会話をしようか」
部長「と、その前に」ピポパポ
部長はスマホを取り出して電話を始めた。よく聞こえないが愉悦に歪んだ表情を見るに楽しい会話では無さそうだ。
部長「高咲先生が来るまでの余興だ。私のしずくへの思いの丈。それを聞いてもらおうじゃないか」
部長は両手をバッと広げる。過剰な演技、芝居に見えるので分かっていてやっているのだろう。
部長「私はね、しずく。君を非常に買っているんだ。どんな役を演じようと、君は難しい表現に挑戦する姿勢を崩さない。向上心の塊だよ」
部長「そして、演技の幅が広い。幼い少女の役から杖を付く老婆の役まで、その役柄はとても広く、人物への理解も深い」
部長「私はしずくに出会って驚いたよ。ここまで自らに役を憑依させられる人間がいるんだって」
部長「そして気になった。ここまで役を降ろせる秘密はなんだろうってね」
まさか。まさか部長は……気づいて?
心臓の鼓動が早くなるのを感じる。動悸が激しくなる。
かすみ「しず子……大丈夫?顔、青いよ?」
かすみさんが自らの不安を押し込み、私へ心配そうな顔を見せる。こんな時でも、かすみさんは他を優先できるんだ……。
しずく「ぶ、部長。それ以上は……」
部長「今は黙ってくれしずく。まだ私の出番は終わっていない。人の芝居の邪魔をするだなんて、役者失格だよ」
男「黙って聞け」
男の低い声が私を強張らせる。
気分が最悪だが、聞き役に徹するしかない。
部長「そう。それでいいんだよしずく」
部長「それから……。私はしずくの人間観察を始めた。しずくが一年生の頃からずっと、しずくの秘密を追い求めた」 部長「演劇の中の姿だけじゃない。友人との会話、私生活に至るまで。徹底的に観察したんだ。こういうのをストーカーと呼ぶのかもしれないね」
部長「それで気づいたんだよ」
部長「しずくが『演技をしていない時間なんてない』ってね」
しずく「──」
嘔吐しそうになる。でも、必死でそれを抑える。
かすみ「しず子っ!?大丈夫!?やめてよ部長さん!!どんな恨みを持ってるか知らないけど、しず子は悪い子じゃないよ!!」
かすみさんが優しく背中を撫でてくれる感覚がある。でも、今はこの優しさが辛い。
部長「心外だな。私はしずくを尊敬こそすれ、恨みなんてないよ。いや……。今は少し軽蔑しているかもね」
かすみ「え……?」
部長「まぁそれはいいよ」
部長「しずくは常に演技をしている。友人と接する時は『友人A』を。演劇部員と関わる時は『部員A』を。劇の中では『村人A』とか『少女A』とかかな」
部長「それで分かったんだ。しずくには、『自分がない』ってね」
しずく「……」
知られた。知られてしまった。
私には、私がないことを。
一体いつ?いつ看破された?
部長「しずくの中には『自分』が存在しない。『自分』がないのなら、どんな役にもなることができる」
部長「つまりしずくは『底知れない器』なんだよ。何でも詰め込めるし、何でも演じることができる」
部長「複数の役を演じなければならない役者にとって、これほどの天稟はそうないだろうね。クク……あはははははは!!」
なぜ。なぜそうも楽し気に笑うことができるんだろう。
私のコンプレックスを、楽し気に抉ることができるんだろう。
いつの間にか、私は膝をついて項垂れていた。
しかし、そんな私の隣で、かすみさんが毅然と立ち上がった。
かすみ「黙って聞いていれば……ペラペラペラペラ意味の分かんないことを!!」 項垂れる私の隣で、大きな声が聞こえる。
しずく「かすみさん……?」
かすみ「『底知れない器』だとか『自分』がないとか!色々言ってるけど!そんなことないよ!!」
吠えるかすみさんは、私の為に声を荒げてくれている。鉛が詰め込まれたように重い私の胸の中が、じんわりと熱くなっていく。
かすみ「私の知ってる桜坂しずくは!侑先生が本当は大好きなのに!それを認めない頑固なところがあるし!なかなか侑先生にアプローチできないヘタレなところがあるし!」
かすみ「でも……。ありがとう!って感謝を伝えるときだけは素直なの!!しず子は私の大好きな親友だよ!」
かすみ「それを……部長さんの勝手な妄想で、しずくを決めつけないでよ!!」
しずく「かす、みさん……あ、あれ……?」ポロポロ
いつの間にか、私の目からは熱いしずくが流れていた。
顔が熱い、胸が熱い、全身が熱い。かすみさんの私への感情が、一気に私に流れ込んでくる。
ふと、部長を見ると、苦々しい表情を張り付け、射殺さんばかりにかすみさんを睨みつけていた。
部長「……あぁ、全くだ。全く、全く持って忌々しいよ。中須かすみ。そして高咲侑」
しずく「……?」
なぜここで侑先生の名が出るの?
部長「──しずくは変わった。変わってしまった。役を演じる『しずく』から、ただの『しずく』へ。こうして普通に涙を流し、頽れているのが証拠さ」
部長「具体的に何でそうなったのかは分からない。けれど、君は演じない『桜坂しずく』として接することができるようになっていったんだ」
部長「でも……でもそれじゃあ!!『底知れない器』じゃない!『自分』ができてしまえば、何でも詰め込める器では無くなってしまう!!」
部長「全ての役を演じられて、音楽も書き割りも全て脇役にさせるような!!圧倒的な役者になんかなれっこない!!」
部長「私は……そんな今のしずくを認めない。心底軽蔑してるよ」 そんなことを……。部長は考えていたんだ。
しずく「……そう、なんですね。部長」
かすみ「大丈夫?しず子」
しずく「うん。ありがとうかすみさん」
私はゆっくりと立ち上がる。
足には、力が入る。手にも、力が入る。力なく頽れる桜坂しずくは、もう振り払った。
私は元々何もない存在だったかもしれない。けれど、そんな私をかすみさんと侑先生は変えてくれた。
何もなかった『しずく』を変えてくれた。
もう、大丈夫だ。私にはこの胸の中に燻ぶる熱い想いがある。侑先生への大きな恋心、そしてかすみさんへの多大なる友情。
それさえあれば、十分だって思えた。それを感じられること、それ自体が『しずく』のいる証明だと感じられた。
部長「ちっ……。中須かすみを連れてきたのは間違いだったか」
しずく「部長」
私は揺るぎない覚悟で部長と対峙する。
しずく「役者としての私に、そこまでの可能性を感じてくれたこと。感謝しています」
しずく「ですが、部長の望む私にはなれそうもありません」
部長「……しずくッ!!」
しずく「私の中には、こうして『私』がいます。『私』が生まれてしまった。それだけは揺るぎようのない事実なんです!!」
そう言い放つと、部長は目を伏せる。
暫しの沈黙。それを破ったのは目が据わった部長だった。
部長「……そうかい。まぁいいよ。そんなこと、今は些末な問題さ」
部長「元より以前のようなしずくへ自然に戻ることなんて期待してない。だからこうして場を設けさせて貰ったんだ」
部長「しずくの中にいる『しずく』を徹底的に犯して、穢して、壊し尽くして。もう一度真っ新な『桜坂しずく』に戻ってもらうためにね」
部長が手を上げる。それに従い、周囲にいた男たちが私とかすみさんへジリジリとにじり寄る。
男と私たち二人の距離はゆっくりとだが、確実に近づいていく。
しずく「……ありがとうね。かすみさん」
かすみ「え……」
自然と、私の口からはかすみさんへの感謝の言葉が出ていた。 しずく「私の友達になってくれて。私の親友になってくれて」
部長と対峙する覚悟はさっき決めた。今は、かすみさんを逃がすことだけを考えろ。
しずく「私が突破口を何としても切り開く。相手の喉笛を嚙みちぎってでも、かすみさんを絶対に逃がすよ。だから、安心して」
そういうと、かすみさんは悲愴な表情へと変わる。
かすみ「だ、だめだよしず子!!帰るなら一緒に帰らなきゃ!!」
しずく「大丈夫だよ。かすみさん」
私はそう言って微笑みかける。
しずく「私の中には、かすみさんから貰った熱い気持ちがあるから」
しずく「だから、行って!かすみさん!」
そう言って私は男たちへと駆け出す。
怖いという感情は無かった。けれど、やり残したこと、伝えていない想い。そんな全てが私に後ろ髪を引かせる。でも、今はただ、私の大切な人の為に動く──
侑「──そこまでだよ」
その時。
私の目に映ったのは。私の想い人その人、高咲侑先生だった──
▲廃工場▲
侑「そこまでだよ」
案内された場所は廃工場だった。
中には両手の指じゃ足りないほど体格のいい男たちがいた。かすみちゃんとしずくちゃん。そして一番奥には演劇部の部長がいた。
侑「全く、手間をかけさせてくれるね。部長さん」
部長「……高咲先生、そこで止まって。少しでも動けば……」
部長が軽く手を上げて男たちに指示をすると、男たちは上着からナイフや警棒等、武器を取り出した。
部長「これが二人に突き刺さるよ?いいね?」
侑「……分かったよ。かすみちゃん、しずくちゃん」 かすみ「は、はい!」
しずく「侑先生……っ!」
かすみちゃんは明らかに狼狽えている。私が来たことへの期待、そして来てしまったことへの不安。その両方が見て取れる。
しずくちゃんの方は……。私が来てしまったこと。その絶望感の方が強いようだ。
だから。
侑「大丈夫だよ。二人とも。安心して。必ず無事に送り届けるから」ニコッ
そう言って、自信満々に笑って見せた。
部長「いつまでその余裕な面が続くかな……?」
部長は苛立ちを隠せないように、ヒクヒクと笑っていた。だいぶイライラしているらしい。私が来る前に色々あったのだろう。
まぁ、後で聞けばいいだけの話だ。
事を進める前に、部長には一つ確認しなければならないことがある。
侑「ねぇ部長さん。一つだけ聞きたいんだけどさ。いい?」
部長「……。言ってみなよ」
侑「私の前任の顧問の先生。あの怪我を負わせたのも部長さんだね?」
部長「……。ふふふっ。まさかそこもバレるなんてね」
しずく「え……ッ」
しずくちゃんは驚愕の表情を浮かべる。無理もない。
部長「ま、単純に邪魔だったんだよ。あの人は演劇にとても熱い人だ。だからこそ、私とよく衝突した」
部長「『私の演劇部』に、熱のある先生なんていらなかったんだよ」
侑「やれやれ……。演劇部は君の王国じゃないんだよ?」
部長「黙れ!あそこは私の演劇部だ!あそこは私の王国なんだ!!」
侑「王国て……。本当に言っちゃったよ」
部長「ああ、もう黙れ……。これから一切口を開くな」
射殺さんばかりに睨まれる。これ以上煽ると本格的にどうなるか分からない。素直に黙っておこう。
部長「そう。それでいいんだ。ねぇ、しずく。どうして私が高咲先生をここへ呼んだか分かるかい?」
しずく「え……?」
部長「君の体をズタズタに壊すのに、一番有効な方法は何か、私は考えた。複数の男から屈辱を与えられること。これもいい」
部長「でも、『今のしずく』にとって、一番の有効打は……高咲先生を壊すこと。それに他ならないよねぇ……?」ニヤァ
部長は口を三日月にし、恐ろしいほど口角を上げた。
しずく「……ッ!だ、だめです!そんなこと!絶対だめです!!」
しずくちゃんは絶叫する。何が起こるか瞬時に理解したのだろう。
部長「止めろ」
しずく「だめ!!だめ!!侑先生!!そこから早く離れて!!」 しずくちゃんはこちらへ駆け寄るが、男に止められる。それでも尚、しずくちゃんの絶叫は止まらない。
部長「動くなよ。高咲先生。動いたらしずくがどうなっても知らないよ」
侑「分かってるよ。何をするか分からないけど、早くしてね」
そう、嘯く。
しずく「だめ!!だめェ!!侑先生!!!!」
侑「大丈夫だって。安心して。しずくちゃん」ニコッ
部長「その右腕で、どこまでこれを捌けるかな……!?食らえ高咲侑!!しずくの生贄となってもらう!!」
そう叫び、部長はポケットから出したリモコンを押す。部長の視線は私の直上、繋がれた太い鉄骨に向いていた。
直撃すれば間違いなく死ぬ。部長もなかなかに後先を考えない人だ。頭に血が上り過ぎている。
侑「……」
しずく「……!!」
ぐちゃぐちゃに潰された私の肉塊がそこには、あるはずだった。
けれど、鉄骨が落ちる轟音も、肉の潰れるような音も、何もしなかった。
何も、起こらなかった。
部長「……?なんだ?なんで、何も起こらない……?」
場には、静けさだけが残る。
恐らくあのリモコンを押せば、私へ鉄骨が落ちてくる仕組みだったのだろう。
そして私は大怪我か、死ぬ結末を迎え、しずくちゃんは心に大きな傷を負う、と。そういう筋書きだったのだろう。
それにしても、私が右腕を負傷していることに気づくとは、部長もなかなか洞察力がある。
部長「なんで、なんで落ちない!!なんでだよ!!」
部長は地団駄を踏んで何度もリモコンを押していた。
周囲の男たちも困惑しているのか、顔を見合わせたりしている。場に流れる主導権が、部長では無くなった。
なるほど。
今だね。
侑「ランジュちゃん」
私は呟くようにただ一言。ランジュちゃんの名を呼ぶ。
ランジュ「好啊ッ!!」
瞬間、ランジュちゃんが突然空中から登場する。 男「な……ッ」
ランジュ「反応が鈍いわ、ねッ!」
着地した時の勢いそのままに、ランジュちゃんは男たちに襲い掛かる。
まずはかすみちゃんとしずくちゃん近くの男たちを。
独特な中国武術から繰り出される拳と蹴り。男たちはなす術なくランジュちゃんに意識を奪われていく。
とはいえ、多勢に無勢という言葉はある。いくらランジュちゃんが強いとはいえ、この二桁代の人数は少し分が悪いかもしれない。
侑「よおしっ。私も参戦、っと!」
私はランジュちゃんの背後から襲い掛かろうとした男に目を付ける。
男は警棒を振り下ろそうとしているので、それが届かないよう男の足を踏む。
男「うお……ッ」
男は転ばないように前に足を出す。前に出そうとした男の足を払い、軽く背中を押してやる。すると男は、顔面から地面に叩きつけれた。これが崩し、というものだ。
ランジュ「行くわよ侑!」
侑「うん!後ろは任せたよ!」
ランジュ「えぇ、暴れまくるわ!!」
私の声に明るく返事をするランジュちゃん。獰猛な獣の如きギラついた瞳で、周囲を睥睨している。
ランジュちゃんは前へ、前へと積極的に相手に殴りかかる。
私は後ろ、後ろへと後退しつつ、受動的に相手の力を利用していく。
ランジュ「どうしたのよ!そんなモノ?まだまだ熱が足りないんじゃないの!?あはははははは!!」
ランジュちゃんの哄笑が後ろから聞こえる。ランジュちゃんはこうして相手を煽り、相手から怒りのままに振るう攻撃を誘発する。感情の赴くままに振るわれた拳ほど、回避し易いものもなく、お手頃なカウンターの餌食になるものもない。
侑「ふふっ。なんだか懐かしいねランジュちゃん」
ランジュ「あはははははっ!!最近はフラストレーションが溜まっていたから、一気に発散できるわ!!たまらないわね!!」
ランジュちゃんと一緒にいた留学時代は、よくこういう修羅場に巻き込まれた。あれから時は結構経過しているけれど、私とランジュちゃんのコンビネーションは未だに健在だ。
侑「よーし!このまま全滅コースだ!」
ランジュ「好啊!侑!」 ……
…………
そうしてちぎっては投げの攻防の後は、地に伏せた男たちがいた。死屍累々という奴だ。これくらいの練度なら、ランジュちゃん一人でも十分戦えたかもね。
未だ、数人の男たちとランジュちゃんは交戦しているが、明らかに男たちの戦意は削がれている。好戦的な笑みを向けられ、楽しそうに暴力を振るわれるんだもん。そりゃあ無理もない。
部長は目の前で起こっていることを理解できないのか、理解したくないのか、棒立ちになっていた。しかし、ようやく理解したのか、ゆっくりと口を開く。
部長「……嘘、だ」
部長「嘘だ嘘だ嘘だ……!!くっ……高咲ィ……お前さえ、お前さえいなければ!!」
部長は私の名を絶叫しながら突撃してくる。手には懐から取り出した漆黒のナイフが握られていた。
錯乱・混乱している人間の攻撃は、ひどく単調になる。それは間違いないが、頭のリミッターが外れていることもあり、火事場の馬鹿力を発揮されることもある。
私は半身になって慎重に部長を迎え撃つ。
部長「死ねェ!!高咲ィ!!」
その場で私が動かないと悟ったのか、部長はナイフで切るのではなく、そのまま刺すことを選んだらしい。まさにそれを、誘っていた。
息を吐き、集中を深くする。
すると、部長の動きがどんどんスローモーションに見えてくる。体感時間が遅くなり、部長の筋肉の機微さえも手に取るように分かる。鍛えた動体視力、そして深い集中力が織りなすことで得た世界だ。
錯乱しているとはいえ、部長は一人の人間だ。心臓は鼓動をやめないし、呼吸だってやめない。それは、瞬きも同様だ。
部長の瞼が一瞬だけ閉じる。
その間隙を縫い、私は部長の盲点となる場所まで移動する。
部長「……!?」
部長には、一瞬の間に私が消えたように思っただろう。とはいえ、一秒にも満たない間に、もう一度部長は私を視界に捉える。
だが、そのゼロコンマの隙、それだけで私には十分過ぎる。
部長の突撃してくる勢いを利用し、私は部長の手首を取る。軽くひねると、痛みで思わず部長はナイフを落とす。
部長「がぁ……ッ」 そのまま部長の足を払い、地面へと転がす。受け身を取れない部長は硬い地面に叩きつけられ、悶絶していた。
私は部長の持っていた漆黒のナイフを拾い、それを突き付けた。
侑「チェックメイトだよ。部長さん」
部長「ぐぅ……ッ。クソックソォ……」
一先ず、これで場の大方は制圧できた──
……
…………
ランジュ「全く、杜撰な計画ね」
ランジュちゃんは最後の男に膝蹴りをかました後、そう呟いた。
部長「ず、杜撰……だと!?クソッ!!リモコンさえ正常に作動していれば、せめてしずくの心だけでも……!!」
ランジュ「そこが杜撰って言ってるのよ。もしかして、リモコンが起動しなかった原因が偶然だと思ってるの?おめでたい頭ね」
部長「な、なに……?」
ランジュ「少し前に、侑から相談を受けていたのよ。怪しい人物を調査してくれってね。まさか調査の途中に、うちの店に来るとは思わなかったけど」
部長「な……ッ!?」
ランジュ「これは好機だと思ったわ。行動を誘発させるために、わざと人目に付きにくい場所であるここの無料券を渡したのよ。事に及ぶなら、人目に付きにくい場所、と考えるのは普通よね」
ランジュ「まさか本当に今日、行動するとは思っていなかったわ。ちょっと浅慮が過ぎるってものね」
部長「す、全て、お前らの手の平の上ってことだったのか……」
部長はそう言って、立ち上がろうとした腕の力を抜いた。
ランジュ「──所詮、素人ね。上手く行き過ぎていることに疑問を感じず、それを自分の力だと過信し陶酔する」
ランジュ「ランジュの舞台を彩る悪役としては、及第点にも届かないわ」
部長「……くそッ……。くそおっ!!」 ……
…………
ランジュ「侑、コイツの処分は私に任せて」
ランジュちゃんはピクリとも動かなくなった部長を指してそう言った。
侑「処分て。まさか溶鉱炉に落とすとかじゃないよね?」
ランジュ「そんな面倒なことしないわ。悪いようにはしない。それだけは約束するわ」
まぁ、ランジュちゃんがそこまで言うならいいかな。正直この後どうしようか迷ってたし。
ランジュ「二人を連れて表の世界に帰りなさい」
侑「うん。後は任せるよ」
ランジュ「えぇ。任されなさい」
侑「じゃあ、帰ろうか。二人とも」
かすみ「は、はい……」
かすみちゃんはパニックを起こしているのか、口数少なく返事をした。変に大騒ぎされるよりいいけど。
しずく「……。すみません侑先生。部長に、最後に一言言ってもいいですか……?」
しずくちゃんは何かを決意した表情でそう言った。
侑「え、う〜ん」
今の部長と接してプラスになることって少ないと思うけど……。でも、しずくちゃんの意志は固そうだ。その意志を尊重しよう。
侑「分かったよ。武器は没収したとはいえ、気を付けてね」
しずく「はい……ッ」
しずくちゃんは部長へと真っ直ぐ歩く。
しずく「部長」
部長「……しずく」
しずく「こんな状況で何ですが、正直に言うと、私は部長に感謝していました」
部長「ふっ……今さら何を」
しずく「全て、本心です」 しずく「『自分』が無かった私は、それだけで不安でした。だから望まれる演技をして、その場を凌いでいました」
しずく「相手が望んだように演技をすれば相手は喜ぶ。でも、私の中には何も残らない。そんな日々がこれからずっと続いていくんだと思っていました」
しずく「でも、そんな空っぽの私に価値を見出してくれたのは部長、あなたです」
部長「……」
しずく「『自分』のない私が普通に振る舞えるよう、変な子って言われないように身に着けた演技でしたが、部長はその演技を、演劇の楽しさに変えてくれました」
しずく「部長の指示で私が演じた時、私は演じる楽しさに気づいたんです」
しずく「空っぽの私そのものが人に求められて、確かに嬉しかったんだと思います」
しずく「だから、ありがとうございました。部長」
部長「……。ふっ。いいのかい?しずく。こんな最低な人間に感謝なんかして」
部長「私はしずくの演技に深みを与える為、という意味も含めて、心が壊れるような経験をさせようと考えていたんだよ?」
部長「没義道を歩むが如く所業をしたんだよ?しずくの心なんて一切考えていない。独善的で自分本位なことしか考えていない。それでも私に──」
しずく「はい。何度でも言います。ありがとうございました。私があの時感じた嬉しさ、それは確かにあったんですから」
部長「そう、か……」
しずく「……」
部長「……。しずく。最後に一つだけ、いいかい」
しずく「……なんですか?」
部長「私は君の『底知れない器』に魅力を感じた。でも、今『自分』があるしずくは『底知れない器』では無くなってしまった」
部長「だから私は思うんだよ。『底が抜けてしまわないか』と……」
しずく「え……」
部長「杞憂だと、いいんだけどね。変なことを言ったね。しずく」
しずく「……はい。さようなら、部長」
侑「……話は終わったみたいだね。それじゃあ、行こうか」
しずくちゃんとかすみちゃん。二人を連れて私は廃工場を出ていった。 ▲廃工場▲
ランジュ「さて、三人はいなくなったことだし、あなたの処分に移るわ」
部長「あぁ、どうにでもして欲しい。もう私に気力はないよ」
部長の目には、既に光はない。演出家として弁舌を振るっていた自分が、他人の手の平の舞台で踊らされていた。
全て凌駕された。演出家としての意地、集めた男たちという戦力。自分の全てが否定された気がしていた。
ランジュ「全く。情けないわね。こう見えてランジュはあなたを買っているのよ?」
部長「……は?」
ランジュ「てっきりあなたは、ランジュのシマを荒らすどこかの回し者だと思っていたわ。でも、正体はただの一般人だった」
ランジュ「そんな素人が、自分より遥かに体格の勝る男を従えている。そこに驚愕したのよ」
部長「……だからなんだって」
ランジュ「つまり。あなたには求心力がある。それは事実よ。それに、しずくにあれだけ言わせるってことは、なにか人を惹きつけるカリスマ性でもあるんでしょうね」
部長「……」
ランジュ「単刀直入に言うわ。あなた、ランジュの『孤虎会』に入りなさい」
部長「孤虎会……?」
突然の勧誘に、部長は目を丸くする。
ランジュ「孤虎会は私の所属する組織の名前よ」
部長「……?」
ランジュ「なに目を回しているのよ。あなたに選択肢は無いわ。これからは私の手と足となって動いてもらう。これだけが現実よ」
部長「私はあなたに敵対していたのに……。そんな私を?」
ランジュ「えぇ。酸いも甘いも嚙み分け、清濁併せ吞むことをモットーにしているの。有望な人材がいればランジュの陣営に引き入れる。ただそれだけよ」 ランジュ「あぁそう言えば、あなたには自己紹介をしていなかったわね」
ランジュ「私は鐘嵐珠。華僑系中国マフィア『孤虎会』、日本支部の幹部よ」
部長「……ま、まふぃッ!?」
ランジュ「それじゃあ、騒ぎになる前に撤収するわよ」パチン
部長「……?」
唐突に指を鳴らすにランジュに、部長は困惑した表情を浮かべた。
しかし、部長が次に瞬きをした瞬間。ランジュの周囲には男たちが整列していた。
部長「な……」
部長は口を開けて呆然としていた。そして部長はすぐに連中を理解した。
自分が集めたチンピラ紛いの連中とは程遠い、彼らは恐ろしく統率の取れた面々であることを。
ランジュ「やっぱりたまには現場に出て暴れなきゃ鈍っちゃうわね。その点、何の組織との繋がりもないあなたはいい鴨だったわ」
一人の男がランジュに上着を掛ける。
ランジュ「さ、行くわよ。付いてきなさい」
ランジュはそう言ってこちらに背中を向け、出口へと歩いていく。部長は暫し状況に付いていけなかったが、正気を取り戻し慌ててランジュへと付いていった。
侑に投げられた際の打ち身が痛むが、それを無視して歩いていく。
部長(格が、まるで違う……)
部長はそう思いながらも、圧倒的なまでのランジュの姿に、いつの間にか笑みを浮かべていた。
が、しかし。
ランジュ「──溶鉱炉に沈められた方が良かった、なんてこれから思うかもしれないわね。ふふっ、これからが楽しみになってきたわ!」
その言葉に、部長は背中に冷たい汗を掻くのだった。 最初からしずく√みたいな感じですが、共通√終わりです
にしても投稿するだけでもなかなかの時間ですね…… おつ
想像以上に展開が面白い
というかこれ共通√ってことはまだまだ続くな
楽しみ ▲高咲侑のアパート▲
あれからの話を軽くしようと思う。
部長との騒動があった後、部長は虹ヶ咲学園から転校した。そう、転校した、ということになっている。
実際はランジュちゃんの方で引き取ったそうだ。部長はランジュちゃんの下で馬車馬の如く働いているらしい。その部長は部長で、『圧倒的なまでの存在感!』とか言ってなんだか喜びを感じているらしい。この場合は悦び、かな?次に会う時まで、生きているといいけど……。
侑「まぁ鉄砲玉として使い捨てるには惜しい駒、だよね」ゴロン
ベッドの上で一回寝返るを打つ。思索に励む際はこの体勢がいい。
この一件は警察には言っていない。部長は表の人間だったけど、裏のお仕事をする人に喧嘩を売ってしまったわけだからね。逆に警察も困るだろう。下手に中国マフィアを刺激したらどんな報復が待っているか分からないし。勿論それは、マフィア側も同様だ。
故に、不可侵。故に、通報しない。これが正解なのだ。
侑「かすみちゃんも立ち直って良かった……」ゴロロン
あの件で一番心に大きな傷を残したのはかすみちゃんだ。あの中で一番因縁の無い人間だったからだ。あと一歩遅ければ一生残る傷ができていたかもしれない。そんな状況でも立ち直ったのは、偏にかすみちゃんの強さだ。
聞けばあの時、周りに男たちがいる中でも部長に向かって気炎を吐いたらしい。そんなことなかなかできることじゃない。生まれ持っての心の強さ、それだけで片付けではいけないと思うけど、本当の強さをかすみちゃんは持っていると思う。そんなかすみちゃんを私は尊敬している。
まぁ。あの一件以来、スキンシップがより過剰になったのは言うまでもないことだ。
侑「しずくちゃんは笑顔が素敵になったよねぇ」
あの場で一番のキーマンは間違いなくしずくちゃんだった。しずくちゃんを中心にあの場が作られたと言っても過言じゃない。一度は部長に膝を屈したしずくちゃんだったけれど、かすみちゃんのおかげで立ち直ったらしい。共に背中を預け合える私とランジュちゃんとの関係に似ているかもしれない。
しずくちゃんはあんなことがあっても尚、部長に感謝を言えたし、トラウマにもなっていないようだった。むしろ、いい人生経験になりました、と肯定さえもしている。役者に人生を捧げていそうなしずくちゃんならではの言葉だと思う。 その一方で、しずくちゃんは自分の気持ちを素直に言うようになったというか、以前よりクラスに馴染んだ感じがする。『クラスの真面目な優等生』から『クラスのちょっと不思議な優等生』みたいな立ち位置になったと思う。
それと……。かすみちゃん同様にスキンシップが増えた。最近は背中に『しずく』って指文字で書かれ、「今私が何を書いたか分かります?」と満面の笑みで言われた。私はその時、「自分の物にはちゃんと名前を書きなさい!」という小学生の頃母親に言われた一言を思い出した。
侑「……とりあえず、一件落着だね。よっと」スクッ
ベッドから跳ね起きる。
明日から七月だ。月日が経つのは早いもので、私が高校教師になってから既に三カ月が経過している。それでも、まだまだ気持ちは新鮮なものだ。毎日色々な発見があって忙しいし楽しい。
侑「それに。明日は演劇部の顧問の先生が帰ってくるそうだし、楽しみだなぁ」
部長に腰を痛めつけられた顧問の先生。どんな人なんだろう。竹刀とか持って周囲を威圧するような人じゃ無ければいいなぁ……。
▲学園内劇場ホール前廊下▲
侑「ふんふふ〜ん♪」
適当な鼻歌を口ずさみつつ、演劇部の活動場所である劇場へ向かう。今さらだけど、一介の部活が一つの劇場ホールを独占できるってなかなかヤバいよね。虹ヶ咲学園……改めてその規模と資金力が分かる。
侑「おや?」
劇場ホールへと続く外廊下を進んでいくと、そこには視線を右往左往させるおばあちゃんがいた。おばあちゃんは杖をついているので足腰が悪いのだろう。
侑「生徒の家族かな?すみませ〜ん。どうかしましたか?」
老婆?「あぁ、すみません……。私この学園の生徒の祖母なんですが、色々と道が分からなくて……。それであなたは……?」
侑「私は虹ヶ咲学園で教師をしている高咲侑です。そこの演劇部の代理顧問をしています。それで、生徒の学年とクラスは分かりますか?」
老婆?「あぁ、そうなのねぇ……」
老婆?「えぇ……それがねぇ……ちょっと分からなくてねぇ……。足が悪くなってからボケも始まっちゃったのかねぇ……」
侑「大丈夫ですよっ!一先ず事務室に行って落ち着いて思い出しましょう」
老婆?「そうかい?じゃあ悪いけど事務室まで案内してくれるかい?」
侑「勿論です!それじゃあ行きましょうか」
一体何の用だろう。事務員さんに丸投げするのもアレだけど……う〜ん、でも演劇部の活動も見たいしなぁ。それに顧問の先生も……。って、ん? 侑「……」
私は何となく、虫の知らせが働いておばあちゃんの動きを観察する。
杖を付く仕草。腰が痛むのか、時折腰をさすっている。実に、ステレオタイプのおばあちゃんだ。
だけど、段々私の中で違和感が膨らんでいく。
侑「あの、おばあちゃん」
私は試されている気がして、つい聞いてしまう。
侑「どうして足腰が悪いフリをしていらっしゃるんですか?」
老婆?「……」
おばあちゃんにそう言うと、おばあちゃんは動きを止める。
老婆?「ほう……?どうしてそう思う?」
一瞬でヒリつく空気に変わる。存在感というか、迫力が一気に上がる。今までのは演技らしい。
侑「う〜ん。どうしてと言われましても。少しばかり武術をかじっているからですかね。足運びと筋肉の機微で違和感が分かるんですよね」
老婆?「なるほど……面白い」ニヤッ
おばあちゃんは実に面白いとばかりに口角を上げる。弱々しい印象だったのに、今では到底そうは思えない。豹変、としか形容できない変貌ぶりだ。
なんだってこんな試すような真似を……。
だが、これでこの人の正体が分かった。間違いなく、今日来るはずの──
……
…………
ミセス「さて、ね。数か月ぶりに戻ってきたよ。寂しかったかい?雛鳥共」
居丈高に告げるこの人は、私が先ほど邂逅したおばあちゃん、もといミセスだ。
部長も少し不思議なところはあったけど、このミセスはより不思議……というか変人っぽい。
ミセス「部長のバカはどっかに飛んだみたいだけど、私は引き続き続投なようだ」
このミセス。還暦を迎え演劇の第一線を退いた後、部長によって呼ばれた外部顧問の先生らしい。ていうか、自分から呼んでおいて無理やり退場させるって滅茶苦茶してるなぁ、部長。
ミセス「まだ自己紹介が済んでいない、一年の雛鳥もいるだろうから、改めて自己紹介させて貰うよ」
ミセス「私はミセス。本名は秘密だ。私を呼ぶ時はミセスに統一しな。いいね。『さん』も『ちゃん』も何もいらない。ただのミセスで十分だ」
ミセス「雛鳥共の演技を見て、そこに口を出す厄介な婆だよ。嫌なら退部するといい。けれど、付いてくる奴らにゃあ、私の全てを教えてやる。分かったね?」
う〜む。なんというか、凄い人だ。ミセスが立つだけで身が引き締まる。強面の体育教師みたいな圧迫感ではなく、なんというか……カリスマ性があるって言うんだろうか。ミセスはそんな雰囲気だ。 ミセス「さて、早速だけれど、オーディションを行う」
侑「……え」
ミセス「今から三か月後に行う劇、『その雨垂れは、いずれ星をも穿つ』の役を決める。物語の詳細はオーディション終了後に発表する」
ミセス「私が演出家として全て取り仕切る。私のノウハウを間近で吸収したい奴はオーディションに出な」
とんでもない話がぶっこまれた。
とんでもない人だとは思っていたが、ここまでとんでもないとは。
ミセス「高咲」
侑「んぇ。は、はい!……なんですか?」
変な声が出てしまった。それにしても距離感も凄い人だ。
ミセス「今日休んでる奴は?」
侑「えぇと。確かいないはず、だよね?」
私は部長代理の人に聞くと、頷きが返ってきた。
侑「大丈夫っぽいです」
ミセス「そうか。それなら問題ないね」
部員A「え、ちょ、すみません!」
ミセス「なんだい」
部員A「オーディションって普通、台本を貰ってその役を深く理解してからやるもんじゃないんですか……?」
うむ。実にもっともだ。
ミセス「いらない。今回台本はいらない。私が今から出すエチュードの設定。それを演じて私のお眼鏡に敵う奴がいればそれで決まる。ただそれだけだ。分かったね?」
有無を言わせぬ鋭い目だ。こわやこわや……。
部員A「は、はいぃ……」
侑「すみませんミセス。私からも質問です」
ミセス「なんだい。さっさと言いな」
侑「その演劇の役って何人いるんですか?」
それによってエチュードの様相も変わるだろうし、部員達の為にも聞いておいた方が吉だろう。
そう言うと、ミセスは意地悪そうに口角を上げた。
ミセス「一人だよ。独り」
侑「え……?」
ひ、一人?
ミセス「『その雨垂れは、いずれ星をも穿つ』は『独り芝居』用の劇さね」
ミセス「その独り芝居主演の役は、『盲目の少女』。だからエチュードも『盲目の少女』を中心とした設定にさせて貰うよ」
侑「独り、芝居……?盲目の少女……?」
なんなんだこの人は。
突然オーディションかと思えば、公開まであと三か月しかないし、演劇の役は一人しかいないし……、盲目の少女と言えば前にやった盲目の設定を思い出すし!!
部長も滅茶苦茶な奴って思ったけど、ミセスはもっともっと滅茶苦茶だぁ!! ▲劇場の一室▲
部員A「私が何も見えないと、ただの弱い女に見えますか!?」
──
部員B「目が見えないからこそ伸ばした触覚と聴覚!」
──
部員C「この目ですか?自分で閉じちゃったんですよ。見たくないモノが多すぎてね」
──
部員D「あなたたちの瞳は、何のためにあるというんですッ!」
──
部員E「見えていますよ。目ではありません。心で見ているのです」
……
…………
ここは、劇場にある一室だ。ここで役のオーディションを行っている
他の人の演技が分からないよう、引っ張られないよう、一人一人入室から退室まで演技を見ている。演技を見ているのは私とミセス。私はいてもいなくても変わらないのでただの置き物と化している。
そして私の隣にいるミセスはというと……。
ミセス「……はぁ」トットット…
部員が退室してはため息を吐き、机を指で叩いている。明らかに不機嫌というか、呆れているような様子だった。
まぁ……その気持ちは分からなくもない。
ミセス「ったく……。なんだいこれは高咲……」
ジロリ、と流し目で私を睨むミセス。私が悪いんじゃないYO!!
侑「と、とりあえず、これでいったん半分が終わったので休憩にしませんか!?」
ミセス「……まぁ、そうだね。こうも同じ演技ばかり見せられちゃあたまったものじゃないよ」
侑「はい!」タッタッタ、ガチャ
侑「みんな!悪いけど一旦十五分間休憩ね!」ガチャ
侑「……ふぅ」
この十五分間の猶予。これは何も、私とミセスの頭を休ませる意味だけではない。オーディションを受ける部員全員に演技を考え直して貰う時間だ。
ちなみに今回の演劇のオーディションを受ける人は十数人だった。あの緊密なスケジュールと独り芝居という特異性。十数人が受けるだけでも、虹ヶ咲演劇部の意識の高さが伺える。でも……。
ミセス「高咲。もしかしてあんたの入れ知恵かい?」
侑「い、いえ!そんなことは全く持ってありません!!」
ミセス「じゃあ何なんだ!私のいない数か月の間に何があったんだ!あの部長のバカか!?あの野郎……次に会ったらポン刀で掻っ捌くしかないねぇ」
ミセスの目は危険な色を湛えていた。もしかして、だけど。部長がミセスの腰を痛めた犯人って分かってるのかな……? うぅむ。聞きづらい、けど。好奇心には勝てない!そんなこと聞いてる場合じゃないけど、休憩だもん!いいよね!
けど……怖いので迂遠に聞いてみよう。
侑「そういえば、ミセス。その……。腰の怪我は一体どちらで?」
ミセス「あん……?」
そう言うと、ミセスは私の目を貫かんばかりに凝視した。
ミセス「……。そうかい高咲。あんた知ってるんだね」
侑「うぇ……。な、なんのことでしょうかねぇ?」アセアセ
ミセス「やれやれ。演技が下手だねぇあんた」
うっ。電話口の部長には褒められたんだけどなぁ……。
ミセス「全く……。私が怪我をしたのはあの部長のバカが原因だって知ってるよ」
侑「……そうなんですか。やっぱり」
ミセス「あぁ。部長のバカは役者に対して、型にはまった指示をする方針でね。でも私は役者に対して、寧ろ可能性を伸ばす方針だったんだ」
ミセス「だからよく衝突して……。まぁ鬱陶しかったんだろうねぇ私が。自分の王国を自由自在にできないんだから。その辺、部長のバカは阿呆だったねぇ……。還暦を迎えた婆なんて厄介なだけの存在ってのに」
ミセス「だからってこんな実力行使に出るとは思わなかったけれどね」
侑「その、恨んでたりとかは……」
ミセス「あぁん?恨みも憎しみもあるに決まってるだろ!!だから次に会ったらポン刀で掻っ捌いてやるんだ!!」ギロリ
侑「ひょえぇ……」
ミセス「ま。けれどね。演出家ってのはそれくらい傲慢でなけりゃいけないとは思う。その点あの娘は、演出家の才能はあったねぇ……」
侑「……」
ミセスはそう言って遠い目をした。この分だと、部長はすでに裏世界の住人になってしまったことを察知しているかもしれない。
ミセス「無駄話が過ぎた。それで高咲。あの雛鳥共の演技はなんだ?どいつもこいつも背伸びした訳の分からん同じ演技しやがって……」
侑「あぁ……はい」
う〜む。これからの審査に響きそうだし、ちょっとボカして言うかぁ。まぁ一年生時代のしずくちゃんを見ているミセスはすぐに察しそうだけど。
侑「その、数か月前にやったエチュードで『盲目の少女』って設定があったんですよ。その盲目の少女役で、一番輝いていた演技がですね、『弱者としての盲目の少女』ではなく『強者としての盲目の少女』だったんですよ」 侑「恐らくですが、その娘の演技に引っ張られて、今度は『強者の盲目の少女』を演じる部員が増えたんじゃないですかね……。まぁあくまでも私の推測に過ぎないんですが」
ミセス「……はぁ。ったく、そういうことか……」
ミセス「厄介な……。本当に厄介なことをしてくれたもんだよ」
ミセス「高咲。なんで今までの部員の演技がダメか。その理由が分かるか?」
侑「えぇ?」
唐突に言われても。素人目線のことしか言いようがない。
侑「う〜ん。上手い人の猿真似をしても、実力が追い付いていないから余計酷くなってる、とかですか?」
なんとなくそれっぽいことを言ってみる。
ミセス「ダメダメだね高咲」
侑「うぅ。だって演劇は素人なんですよミセス……」
ミセス「私はね、演じる役柄とは彫刻に似ていると思うんだよ」
侑「……?はい」
よく分からないが、答えを教えてくれるらしい。
ミセス「このエチュード。私は『盲目の少女』等、いくつか設定をやった。そして役者はその設定に対し、さらに色々と考える。裏設定、バックボーンと言った演技が自然になるよう、その役の歴史をね」
それは前に部長が言っていたような。エチュードは『どれだけ役を落とし込めるか』『演技が自然に見えるか』という点が重要だとか。
ミセス「ここで役者は、大きな勘違いをする奴が多いんだ。与えられた設定に対し、役の設定を自分で考える。ここまではいい。けれど、これが『肉付けする作業』だけと思っている奴が多いんだ」
肉付けする作業?どういうことだろう。
ミセス「盲目の少女。それなら色々苦労してきたに違いない。悲しいこともあっただろうし、不幸な目にも遭ってきただろう。それは例えばああいうことで、例えばこういうことで……ってどんどん設定を重ねちまう。そうするとどうなるか分かるかい?」
ミセス「私が与えた『盲目の少女』っていう物語で一番重要なポイントが軽視されちまうんだ」
侑「……!なるほど……」
ミセス「与えた設定から考えられることなんていくらでもあるだろう。だが、それを全部乗っけちまったら、本当に考えなきゃいけないことが霞んじまう。だから数多ある設定から導き出されるバックボーンを取捨選択しなきゃならん」
ミセス「考え出した役柄の形。それを削って削って削って……そうして残った物が本当の役ってものさ。勘違いしちゃあいけない。役者は『その人になる』のが目的じゃない。役者は『その人を演じる』のが目的なのさ。演劇はエンターテインメントだからね」 侑「だから、彫刻ということですか……。なるほど」
ミセス「あの娘らの演技は全て、肉付けはしたがそれを削る作業が一切できてなかった。役がボヤけて何を伝えたいのか。この役はどういう人物なのか。それが不透明だった」
ミセス「役の設定が多ければ多いほど現実味が増すわけじゃあない。その人の価値観・哲学を作った体験がたった一つの経験、というのも珍しくないからね」
侑「う〜む。考えれば考えるだけいいってわけじゃないんですねぇ。演劇っていうのは奥が深いなぁ……」
ミセス「ま。考えることは悪いことじゃない。出し方が悪かったね」
ブゥゥゥゥゥゥウウウウン
侑「おっと」
どうやら休憩の十五分が終わったようだ。
休憩っていうか、ミセスの演劇哲学を聞いた時間だった。まぁ有意義と言えば有意義だったんだけど。休めた気はまるでしない。
侑「休憩も過ぎましたし、続き行きましょうか」
ミセス「……そうだね。さて、彫刻刀で役を削りだす役者はどれだけいるか……」
そう言ってミセスは据わった目になる。スイッチのオンオフができる人だ。
侑「はい!じゃあ次の人入って!!」
さて、期待に応えられる人はいるのかな……!?
……
…………
侑「……。次で最後ですよ。ミセス」ゲッソリ
ミセス「そうかい……」ゲッソリ
私とミセスは、遂にオーディション最後の一人を迎えた。
ここまで本当に長かった。ミセスに『役柄とは彫刻』という哲学を聞いたせいで、どんどん設定を増やしていく演技に目が行ってしまった。
ミセス哲学を知らなければ気にならなかったのかもしれないのに。視野が広くなるのはいいことだけど、生半可な知識を植えられると、逆に視野狭窄に陥る。上手くいかないもんだね。
侑「最後は……しずくちゃんか」
何の因果か、くじ引きで決まったはずなのに運命的なものを感じる。
ミセス「あぁ」
侑「ミセスから見てしずくちゃんってどんな印象なんですか?」
オーディションは一人一人やっていくが、演技をし終わった後評価を固めるため五分間の間を設けている。その時間を利用してミセスに聞いてみた。
ミセス「……あんたも桜坂を特別扱いしているのかい?」
侑「えっ……。別にそんなつもりは……う〜ん。無いとは言い切れないですねぇ。ちょっと色々あったので……」 依怙贔屓。身内贔屓は教師として絶対にやっちゃいけないことだ。それでも、しずくちゃんとは色々あり過ぎた。
ミセス「まぁいい。あの娘の役者としての才能は、この部内においちゃ敵無しだろうね。なんでかって言われりゃあ、器用なのさ」
侑「器用、ですか。役を降ろすとか、登場人物への理解が深いとかそういうことじゃないんですか?」
ミセス「全く、目が曇ってるねぇ高咲。桜坂の一番優れている部分。それは、多くの役を器用に演じられる点なんだよ。その他にも優れている点はあるかもしれない。けれど、他の役者と比較してみて最も天稟と言えるのは、器用に多くの役を演じられる点なのさ」
侑「ふむ……」
これも、彫刻の話に似ているんだろうか。私はしずくちゃんの役者における長所を色々知ってきた。けれど、多くを知り過ぎて逆に、本当に重要なところが見えていない。そういうことなのかな。
ミセス「あれほど多くの役を詰め込んで、以前演じた役に引っ張られない役者もなかなかいないだろうね」
ミセス「器用に役を演じられる、とは言ったけれど、本当は『演じる役に対して常にフラットな感情でいられる』。ここが一番のポイントかもしれないね」
演じる役に対して常にフラットでいられる、か。つまり、演じるスペシャリストの役者とはいえ、役者自身の人生があって、価値観があって、哲学があって、他の役を演じる時にそういった自分に引っ張られてしまう、そういったところがないのがしずくちゃんの長所なのだろうか。
部長の言葉を思い出す。
『底知れない器』
とどのつまりそれは、多くの役柄を詰め込むことができ、それを役として演じる際、何の柵もなく役を引っ張り出せる、ということかもしれない。
ミセス「ただ、そこが桜坂の短所でもある」
侑「え……?」
ミセス「フラットな感情でその役に入り込める。それは上等だよ。でもね、演劇とは独り善がりじゃいけないんだ。役者の前に、一人の観衆がいる」
ミセス「その観衆には、役者の『心と自分』が無けりゃ響き辛いものさ。ここが役者の辛い部分だね。自分をどこまでその役に織り交ぜられるのか。自分のこれまでのバックボーンをどこまで引き出して、役に真剣さを付与できるのか」
ミセス「その点を、あの部長のバカは理解していたよ。演技に深みを与える為、役者自身に多くの経験をさせるってことをね」
侑「それじゃあ、自分が無いと観衆を感動させることはできない、と?」 ミセス「そうは言ってない。純粋な演技力だけで感動を搔っ攫う役者だっている。けれどね、人の心にいつまでも残る演技ってのは、往々にして役者自身の主観的な体験が起因している場合も多いのさ」
侑「なるほど……」
ミセス「だからこそ、今回の独り芝居。役は一つしかないからこそ、心の底から演技ができる役者で無けりゃ、難しいと私は思ってる」
侑「それってつまり……。今回のオーディションにおいてしずくちゃんは厳しいってことですか?」
ミセス「開けっ広げに言っちまえばそうなる。けれどね、私が不在だったこの数か月。桜坂が激変する何かがなかったとも言い切れない」
そういってミセスは私に、意味ありげな視線を寄越す。
侑「……フタを開けて見ないことには分からないってことですか」
ミセス「あぁ。そら、五分経過したよ」
侑「あ、はい。それじゃあ次の人!入って!」
しずく「はい!失礼します!二年四組桜坂しずくです──」
しずくちゃんが入室した。
ミセスと部長の言ったことを総合すると、観衆に響く演技とは、役者自身の主観的な感情と、その役への理解、そしてどれだけ役を自分自身に落とし込めるか。この三つが重要らしい。
今までのしずくちゃんは、主観的な感情が不足していた。
しかし、今のしずくちゃんなら……。
しずくちゃんの演技が、始まる──
▽劇場の一室前廊下▽
しずく「ふぅ……」
廊下にある長椅子に、私は座っている。オーディションを終えた人たちは、別室で待機しているため廊下には今私しかいない。
スイ「ずいぶん緊張しているね。しずく」
しずく「スイ……」
スイ「君と体を共有しているんだ。いつもより鼓動が早くて息が詰まりそうだよ。それで、オーディションの自信はどうだい?」
しずく「うん。自信は……あるよ。このエチュードの設定の要諦は『盲目の少女』っていう設定。前にやったエチュードで、一番役を降ろせたのは私だった。だから、今回も大丈夫だと思う」
スイ「なるほどね」
しずく「前にやった設定に、より別の裏設定を肉付けしていく。そうしてより現実味を帯びさせる。そうすれば、もっとよくなると思う」
スイ「やるべきことが明確ならそれでいいさ。でも気を付けなよ。あの日やったエチュードは複数人だった。でも今回は一人っていう特例さ」
しずく「大丈夫。一人でも成立するよう、盲目の少女の一つの人生を下地にした演技をする予定。でも、詳細は詰めない。自然に見えづらくなるからね」 スイ「うんうん。しっかり考えているようで安心したよしずく」
しずく「最初から強者として演じるんじゃなくて、弱者から強者、その移り変わりを表現するんだ。そうすれば見ている人も、この落差で強者を感じやすくなる」
スイ「ちなみになんだけどしずく。どうしてこの役をやりたいんだい?」
しずく「それは……。ミセスが演出家として指揮を取る劇だもん。一人の役者として、魅力的に映らない訳ないよ」
スイ「それもそっか。ミセスの劇、好きだもんねしずく。でも、もう一つあるでしょ?オーディションに合格したい理由」
そういうスイの声音は心底楽しそうだった。同じ声帯から出ている声のはずなのに、自分から出ている気がしない。
しずく「……はぁ。それを言わせるつもり?私の心の声は駄々洩れなんだからさ、別に言わなくてもいいじゃない」
スイ「いいじゃないか。言葉に出すことで発奮することだってあるよ」
これは言わなきゃスイは諦めないな。こういうところスイは頑固なんだよね。
……。そういえば、かすみさんにも頑固って言われたっけ。
仕方がない。私はゆっくりと口を開く。
しずく「……。侑先生に、褒めて貰いたいから」ボソッ
スイ「え、聞こえないよ」
しずく「聞こえないなんてことないでしょ!侑先生に!!褒めて貰いたいの!!私は!!」
しずく「オーディション合格おめでとう!って!正直に言うとそれが一番だよ!私の凄いところを侑先生に見せて!認められたい!桜坂しずくはすごい人なんだって、侑先生の中に刻み付けたいの!!」
言い終わって、つい両手で口を塞ぐ。ミセスと侑先生の部屋は壁が厚いとはいえ、聞こえていたかもしれない。
スイ「ふふっ。それでいいんだよしずく。意中の相手に自分を深く知ってもらう。それはひどく重要なことだ」
しずく「全く……」
相変わらず、スイのこういう得意げな感じが嫌だ。上手く手の平で踊らされている気がする。
スイ「肩に力が入り過ぎてたんだよ。こんな緊張、初めてだね」
気づけば、肩の力は少し抜けていた。
しずく「……確かに。ちょっと力入ってたかも。でも、スイは私をからかうのが一番の目的でしょ?」
スイ「さぁ、どうだろうね」
肩に力が入り過ぎていたのは確かだ。その点はスイに感謝してる。その点だけは。
スイ「まいったね」 でも、まだ心臓の鼓動が激しい。今までこんなことは無かった。
今までは、与えられた設定の人物像を自分の中に降ろし、それを表現するだけだった。でも、今と過去はその『自分』がだいぶ様変わりしてしまっている。
心臓の鼓動が激しい。けれど、悪い気分じゃない。
『プレッシャーを感じる自分』がいること。確かにそういう自分がいること。それは逆に、嬉しい気持ちだ。
侑「それじゃあ次の人!入って!」
侑先生の声が聞こえる。行かなくちゃ。
しずく「……よし、行こう」
スイ「頑張ってね、しずく」
しずく「うん……っ」
私は確かな意志を携え、部屋の扉を開いた。
▲劇場の一室▲
しずく「私は……。貧しくもなく、富んでいるわけでもない。そんな村の少女」
しずく「村の危機はみんなの危機。村の幸福はみんなの幸福。だけど、私はそのどちらも感じることができなかった」
しずく「私は盲目。村の危機に立ち向かうこともできなければ、村の幸福を共に感じることもできない存在。生きているのか、死んでいるのか。私は分からなかった」
時代背景は、文明がまだそれほど進んでいない頃。農業が盛んに行われ、核家族化は進んでおらず、村社会が成立していた頃のお話。
しずく「一言で言ってしまえば、私は家のお荷物だった。生まれつき盲目の私は、世継ぎを作ったとしても、盲目になる可能性がある。そんな自分を嫁に貰う好事家な村人など、いなかった」
しずく「けれど私は、そんな私のままでいることを許さなかった」
しずく「私は手探りで家を出て、家の周りの手触りを全て確認していった。手触りだけじゃない。足で踏む感覚。耳で聞く外の状況。視力以外で感じられるものは全て使った──」
……
…………
侑「……」
しずくちゃんの演技。前に見た時と比べて中途半端に感じる。
前のしずくちゃんの演技には、『その人』そのものがそこにいる凄みを感じた。けれど、今のしずくちゃんの演技にはその凄みがない。
最初に見た時は、しずくちゃんの演技に圧倒されたのに。それがなぜ今はこんなにも感情が冷え切っているのだろう。
もしかして。これが、しずくちゃん独りで行うエチュードだからだろうか。他の役者がいた時は、しずくちゃん以外の人が表現する主観的な演技があった。それが隠れ蓑となって、しずくちゃんの人形のような感じが分からなかったんだろうか。 ……いや、違うか。それはあくまでも、過去のしずくちゃんの話だ。『自分』が無かった頃のしずくちゃんなら、独り芝居でそんな風に浮いていたはずだ。
けれど、今は違う。
一言で言ってしまえば、十把一絡げな演技。他の部員とは別のように感じる演技だけれど、他の部員同様に埋もれてしまう演技。そんな印象だった。
ミセス「……」
チラリと流し目でミセスを見ると。ミセスは退屈そうな表情をしていた。
冷酷な表情でもなく、激怒するでもなく、ただただ退屈そうに。
侑「……」
このまま、終わって欲しくないな。
他の部員には悪いけど、どうやら私はしずくちゃんに肩入れしてしまっているらしい。
私にできることはないけれど、せめてここから。しずくちゃんが何かに気づくことを祈ろう。
しずくちゃん。君自身の感情と、盲目の少女の感情。そしてこれまで生きてきた主観的な世界。
そこに重なる何かは、ないのかい?
……
…………
おかしい。
何かがおかしい。役が降りる感覚になればなるほど、私の発話する言葉の全てが虚ろに思えてくる。
しずく「──私のこれまでの全てが!実を結び、結晶となり!私をここまで大きくさせた!!」
心と体。その二つが別離してしまったかのような。そんな感覚に陥る。
私は、この盲目の少女を演じられていないのだろうか。
こんなこと、今までなかった。
なんで?なんでできないの……?
しずく「歩んだ道のり、無駄なモノ等一つもありはしなかった!」
語気は強い。けれど、何かが不足している気がする。今まではそんなことを感じることは無かったのに……。
今までそんなこと、無かった……?
あれ。
そういえば。
私って……。
部長の言葉を思い出す。
──
部長「──しずくは変わった。変わってしまった。役を演じる『しずく』から、ただの『しずく』へ。こうして普通に涙を流し、頽れているのが証拠さ」
部長「具体的に何でそうなったのかは分からない。けれど、君は演じない『桜坂しずく』として接することができるようになっていったんだ」
部長「でも……でもそれじゃあ!!『底知れない器』じゃない!『自分』ができてしまえば、何でも詰め込める器では無くなってしまう!!」
──
あぁ、そうか。そうだったんだ。
こうして、人前に出て、たった独りの壇上で演技をしてみて分かった。
盲目の少女を演じているのは、『底知れない器のしずく』じゃなくて『ただのしずく』になっちゃったんだ。 全てを詰め込める器でなくなった私は、ただ設定を詰めて演技をする人形のような存在では無くなってしまったんだ。
だから、人形のような演技をする自分に、違和感を覚えたんだ。今まではみんなに埋もれて気が付かなかったけれど、今までの私はこんなにも空っぽだったんだ。
しずく「転んで付いた傷の一つ一つ。それが今では愛おしい……!!」
嗚呼。笑ってしまう。なんだこの嘘くさい演技は。
『ただのしずく』が『底知れない器のしずく』だと思って演技をしてしまっている。だからこんなにもドが付くほど下手な演技をしている。
ここから巻き返せるだろうか。
いや、巻き返すしかないんだ。
これから私は、『ただのしずく』として生きていかなければならないんだから。
……
…………
ミセス「……っ」
おや。
何やら変わったね。
私が不在の前、部長のバカに怪我を負わされる前より、ずっっっっっと中途半端でド下手な演技になっていると思ったけれど、マシになってきた。
変わってきたと言えば、桜坂のこの下手な演技。これがそもそもの変わったことへの証明か。
何があったか分からないけど、変わってしまった自分に困惑している。けれど、演技をする自分と本当の自分、その差異を何とか埋めようと必死になっている。
いいじゃないか。その必死さ。
何でも詰め込める器だった、前の桜坂も魅力的ではあった。けれど、たった独りで前にいる観衆全てを圧倒できるような存在。その方が、役者としては魅力的だろう?
今桜坂は、そういう普通の役者になろうとしている。
ミセス「……ククク」
面白いねぇ、学生の役者ってのは。
熟した役者にはない、一朝一夕で変貌しちまう不安定さを持ってる。
フラットな感情で役を降ろせる?何を言ってる。そんなの役者人生が長けりゃみんなできるようになることさ。
今は自分の感情の赴くままに、演じる役と本当の自分を混合させて、化学反応を起こしちまいな。
……
…………
しずく「──だけどっ!!」
しずく「だけど……私のこの強さは張りぼて……。必死になって自分を強くするために行動したけれど、私の本質は結局変わっていないっ!」
そうだ。
私の以前抱いていた『底知れない器』としての強さは張りぼてだった。
何もない自分をさらけ出すのが怖かったから、私は演技を始めた。人の前で演技をして、強くあろうとした。 でも、それは何も進んではいなかった。『底知れない器』としての自分は、『空っぽの自分』からの逃避先だっただけ。
私の本質は何も変わっていなかった。
盲目の少女が、どんどん削られていく感覚がある。削られて、削られて、その中にある本質が、見えようとしている。
しずく「そんな強がる私を、賞賛してくれた人がいた。目が見えないのに素晴らしいと。その生き様に尊敬を覚えると。私はそれで少しだけ認められた気がした。嬉しい気持ちももちろんあった。けれど、心の奥底の一番深い部分では、満たされていなかった」
何でも詰め込める私と言う存在。
複数の役柄を短い期間に入れ替えて演じられる私。他の役柄に引っ張られず、私自身にも引っ張られないフラットな演技。それはとても、羨ましがられた。
どうすればそんなにも肩の力を抜いて表現できるのか、と。役の設定全てが演技に出ているようだ、と。
『あなたが桜坂しずくだって、演技をしている最中忘れちゃった!』と。
賞賛の言葉なのだろう。だけれどその言葉は、どこかで深く突き刺さっていた。
しずく「──でも、賞賛の言葉、尊敬の言葉、それ以外にたった一つだけ、心配する声があった。あなたはひどく強がっているように見える。あなたは、あなたのことを認められていますか?と」
私はそんな時、出会った。侑先生という、不思議なピアノを弾く人に。
私は今までに感じたことのない気持ちを抱え、演技をしていた。
それは、私の役を補強しているように思えた。それは、私が演じる役をより深い場所へ連れていく手助けのように思えた。
けれど、それらはどうも本質ではないらしい。
侑先生が表現した感情が、私の演じる役に吸い込まれ、とても感情的で、主観的な演技になっていたんだ。あの時、私は侑先生の手を借りて、心の底から主観的な演技をしていたんだ。
私はその時、『底知れない器』を逃避先になど気づいていなかったけれど、今は分かる。
しずく「私はその言葉で気づいた。私は、盲目であることをずっと否定していた。それは紛れもない、自分自身であるにも関わらず。盲目であること、それは逃れられようのない事実。だから、私はその弱さを!盲目であることを!まずは私自身が肯定しなければならなかった!!」
私は侑先生と出会い、かすみさんと出会い。自分という存在を少しずつ分かってきて、それを表に出せるようになってきた。でも、それでも、私は自分を出すことが怖くて、何もない存在だった頃を思い出してしまって。 でも、そんな私を、かすみさんは肯定してくれた。
頑固なところ。自信のないところ。そして侑先生が大好きなところ。そんな私のことを親友だと思ってくれているって。
だから、私は私を肯定できた。私は、『自分』を作ることができた。
しずく「私は、弱い。いくら強がろうと、私の本質は変わらない。けれど、弱さを抱きしめて前へ進もうとすれば、それがきっと強さへと変わる。私は、そう信じてる──」
私は未だに、演技をせずに人と接することが怖い。
でも、そんな自分も抱きしめよう。
人と接することが怖い自分でも、そんな私を認めてくれる、肯定してくれる人がいるのだから。
だから私は、自信を持って私を表現できる──
……
…………
侑「……あ」
終わった。
しずくちゃんの演技が、いつのまにか終わっていた。
私は、吞まれていた。しずくちゃんの出す迫力に。
それくらい、しずくちゃんの演技は真に迫っていた。
侑「あ、えっと。それじゃあ、合格不合格を決めるから一旦退室してもらって──」
ミセス「桜坂」
私のわちゃわちゃする進行を、ミセスが止めた。
しずく「はい」
ミセス「何があったとは聞かん。けれど一つだけ聞く」
しずく「はい」
ミセス「お前が演じたのは、『盲目の少女』かい?『桜坂しずく』かい?」
ミセスの目は、真っ直ぐしずくちゃんを見ていた。それに気圧されることなく、しずくちゃんは一切視線を外さず答えた。
しずく「もちろん、盲目の少女ですよ」ニコッ
しずくちゃんは満面の笑みでそう答えた。
それに対し、ミセスは心底おかしそうに口角を釣り上げ。
ミセス「ククク……。いい狸になったじゃないか、桜坂。クク……あっははははははは!!」
そうしてミセスは、大声で笑っていた。
……
…………
劇場ホールの一室には、先ほどオーディションを受けた部員が全員集められていた。
ミセス「オーディションの結果、主役である『アステーリ』を演じるのは桜坂、あんただよ」
しずく「はい……っ!桜坂しずく、全身全霊で臨ませていただきます!」
しずくちゃんは声を震わせながらも、強い意志を表明した。
ミセス「公開まであと三か月しかないからね。宣伝用のポスター作成から何から何まで、時間は足りん。弱音を吐こうが血反吐をぶちまけようが、私は一切容赦しないからね」
しずく「はい!」
ミセス「ククク……いい表情だよ、桜坂」 よかったよかった。不安な点はいくつかあったけど、最初からしずくちゃんのような気もしていた。あぁ、身内贔屓しちゃいけないのに……。頭を切り替えなきゃ……。
ミセス「さて、雛鳥共。桜坂以外はこの台本を渡しておくよ」
ん?
ミセスはどこから出したのか。そこそこ厚い冊子を取り出した。なにこれ。
ミセス「これは半年後にやる劇の台本だよ。半月後にオーディションをするからね。しっかり読み込んで役を落とし込んできな」
侑「え……」
ミセス「なにを驚いた顔をしてるんだ高咲」
侑「え、いやだって今オーディションが終わったばかりで……」
ミセス「何を甘っちょろいこと言ってんだい。部員がこんなにいるんだ。遊ばせてちゃあ勿体ないだろう?役者だけじゃない。演出家志望だって何人もいるんだ。進行する劇が一つだけなわけないだろう」
侑「あ〜……。虹ヶ咲の規模の大きさ、忘れてました……」
そりゃあそうか。この劇場ホールだけでも建物一個分だ。同時進行で幾つもの劇の稽古をするなんて、虹ヶ咲の設備をもってすれば可能なんだ。
ミセス「お前らは一日早く読み込める。そのメリットをふんだんに活かすんだね」
一同「はいっ!」
しずくちゃん以外の部員は、元気よく返事をした。
そういえば、しずくちゃんがアステーリって役を演じるのは分かったけど、劇自体の内容ってどんなんだろう。
ミセス「桜坂。ほら、『雨垂れ』の台本だよ。私謹製だから、ボロボロになるまで使い込むのが礼儀だよ」
しずく「はい。ありがとうございます」
あ、いいなぁ。
侑「その、ミセス?しずくちゃんが演じる劇ってどんな話なんですか?」
ミセス「あぁん……?」
ミセス「まぁいいか。高咲にも手伝って貰うことになりそうだしね」
侑「え、それは……」
ミセス「『その雨垂れは、いずれ星をも穿つ』は、いずれ盲目の少女アステーリと、吠えることができない『スターラ』という犬の物語さね」
ミセス「仕事ができないアステーリをどう扱っていいか分からない両親。吠えられず、威嚇もできないから他の動物から襲われるスターラ」
ミセス「アステーリはある日、ボロボロになったスターラを見つけるんだ。自分と同じ弱い存在を見つけ、この犬を見捨ててしまったら、自分自身を見捨てることになりそうだって感じるんだ」 ミセス「家に連れていくも、最初はなかなか歩み寄れない両者。けれどね、少しずつ二人の距離は縮まるんだ。スターラは目の見えないアステーリを助け、アステーリは吠えられないスターラの代わりに守った。一人と一匹は、大事な家族になるんだ」
ミセス「とある日。山で遭難してしまったアステーリはスターラを見失うんだ。雨が降っていたから、二人は互いを見つけられない。そんな危機に陥って、スターラは吠えられるようになるんだ。どこまでも響き渡る遠吠えをね」
ミセス「それでアステーリはスターラの場所が分かって助かるんだが、その遠吠えを聞いたスターラの本当の家族が姿を現すんだ。アステーリもそのことは分かっていた。いずれ別れが来るだろう、とどこかで予感していたんだね」
ミセス「アステーリはこちらに帰ろうとするスターラを静止するんだ。奇跡的に家族に会えたんだから、もう離れちゃいけない、と。それに、雨が降る度私は思い出せる。吠えられなかったあなたが、もう一度吠えられるようになったこと。弱い雨垂れでも、いずれ星を穿つことができるようになるんだと。雨が降る度あなたを思い出し、あなたに会えると」
ミセス「だからもう、目の見えない私を心配することはないよ、と。そうして、アステーリは、最愛の家族に別れを告げるんだ。アステーリは背中を向け、家に帰る。そして最後に、背中越しに聞くんだ。あの力強く、どこまでも響き渡る遠吠えを」
ミセス「これが『その雨垂れは、いずれ星をも穿つ』のあらすじさ」
侑「……う」
ミセス「う?」
侑「うぅ……ぐす、ぐすん。いい、お話ですね……」
ミセス「まさかあらすじを聞くだけで泣くとはね。ほら、高咲にも台本、渡しておくよ」スッ
侑「ぐすっ……。どうして私にも……?」
ミセス「ククク。私も演劇の新しい形を模索していてね。あの部長のバカと同じようで嫌だが、独り芝居にピアノの伴奏を入れる。その新境地を目指しているのさ」
侑「え、私がピアノを……?というか、どうして私がピアノを弾けるって知ってるんですか?」
ミセス「……。数年前に、河原であんたを見たことがある。これでいいかい?」
侑「……ッ!ミセス、知っていたんですね……」
ミセス「クク。あの時感じた私の中のときめき。こうして再会できたのは運命だと思ったよ。だから出会い頭に、ちょっとした小芝居をさせて貰ったのさ」
侑「……はぁ。特に何もいいません。私もしずくちゃんの演技に、伴奏を入れるの楽しいですし」 ミセス「そうかい。なら、あんたも頑張るんだよ。教師と劇の二足の草鞋。とはいえ、あんたの出番はまだまだ先だ」
侑「そうですね。首を長くして待ってますよ──」
▲学園からの帰り道▲
そうして。激動の一日は終了した。
現在私は、侑先生と一緒に帰途に着いている。オーディション終了後、褒めて貰いたくて侑先生にお願いした。
笑顔で了承してくれてとても嬉しかった。
しずく「侑先生、私、主役を勝ち取ることができましたよ!」
この報告がしたかった。まず最初に、あなたにしたかった。
この喜びを、あなたに伝えたかった。
侑「うん。おめでとうしずくちゃん。私もなんだか嬉しいよ!」ニコッ
しずく「ありがとうございますっ。侑先生」ニコッ
胸の内から喜びが沸いて出てくる。
その喜びを噛みしめていると、なんだか侑先生が微妙な表情をしていた。
まるで、罪を告解する人のような。
侑「あの、さ。しずくちゃん。聞いて欲しいことが一つあるんだ」
しずく「え、何ですか?」
侑先生はそれから数秒間、二の句を継げなかった。ポリポリと頬を掻いたり、深呼吸をしたり、色々と前準備をしていた。
侑「いやぁ、さ。今回のオーディション、一番応援してたというか……受かってほしいなぁ、って思ってのさ。しずくちゃんだけだったんだよね……」
しずく「え──」
侑先生が一番応援していたのは……私?
侑「教師という立場上、たった一人の生徒に肩入れしちゃいけないって分かってるんだけどさ。でも、しずくちゃんはさ、もう一人の生徒として見れないんだよね」
しずく「そ、それって……」
私も。私も既に、侑先生のことを一人の先生として見られない。一人の、女性として、見てしまう──
侑「修羅場をくぐったせいかな。ある種の仲間意識が生まれちゃってるんだよね」
しずく「……」
そう、だよね。分かってる。分かってた。
私と侑先生は教師と生徒。その関係は変わらないし、年齢だって一回り違う。私という小娘の相手なんて……。
でも、分かっていたけど胸が痛い。
侑「いやぁ、教師失格だなぁ、って思っちゃったらさ。色々と懺悔したくってさ……。ごめんねしずくちゃん」
しずく「いえ……。その気持ちは素直に嬉しいです」ニコッ
この場は、一先ず感謝を伝えておいた。
しかし、私の中で渦巻くやりきれない思いが煮え滾っている。表に出たいって、好きだって伝えたいって、爆発しそうになっている。
我慢したくない。思いを伝えたい。
しかし、役者としての私が顔を出す。
『こんな何気ない場所で、思いを伝えてもいいの?』と。
私は思いとどまる。
けれど、この想いが解消できないのなら。我慢したくないのなら。
多少は私を出してもいいよね?と強引に結論付けた。
しずく「侑先生」
自然な感じの声音を出す。
しずく「私、ご褒美が欲しいです」
侑「え、ご褒美?」
しずく「はい。他の部員に対して、罪悪感を覚えているんですよね?それはもう消えようがないと思います」 侑「まぁ、そうだよね……。特別に思うことを変えろって言われても、すぐにできるわけないし……」
しずく「それなら、とことん特別扱いしてください」ニコッ
侑先生が罪悪感を覚えているなら、もう突き抜けてしまえと。特別扱いするなら、もう徹底的にしてしまえと。そうすれば、罪悪感なんて覚えなくて済むと。
私はそう笑顔で告げる。
あくまで建前は、侑先生の罪悪感を消す為だ。
でも本音のところは……。
私だけを応援して欲しい。私だけを見ていて欲しい。
私だけを、特別扱いして欲しい。
そういう、爆発しそうな私の感情を抑える為だ。
侑「え、えぇ……?それは……どうなのかなぁ……」
しずく「ふふっ。別に表立って私だけに声援を送れって言ってるわけじゃないですよ?こうして私が役を勝ち取ればご褒美をくれたり、いい演技ができれば頭を撫でてくれたり。そういうことでいいんです」
それに、そうすれば益々侑先生は、私への特別感を強める。侑先生は私以外を応援できなくなる。
しずく「どうですか……?侑先生……」
侑「う……っ」
上目遣いでお願いする。完全に媚びた雌の誘い方だ。
侑「う、う〜……。分かったよ、しずくちゃん。とりあえず……ご褒美は考えておくよ……」
しずく「ふふっ。ありがとうございます。侑先生っ」
勝った。
勝ちました。
ずっと特別扱いして貰える確約ができた訳じゃないけど、それは追々詰めていけばいい話だ。こうしてご褒美や色々な特別扱いを重ねていけば、いずれそれは日常になる。
日常が、特別扱いになる。
いけない。頬が緩む。
侑「さて、ご褒美はどうしようかなぁ」
しずく「ご褒美をお願いしている立場で申し訳ないんですが、稽古が本格的になる前がいいのでできるだけ……」
侑「あ〜。そうだよね。じゃあ近いうちにでもご褒美を考えておくよ」
しずく「はいっ。お願いしますっ」
その後、侑先生とは駅で別れた。
帰りの足取りは軽く、空をも飛べそうだったので、ついついスキップしてしまった。
しずく「〜♪」
▲二年四組▲
侑「はーい。じゃあ今日はここでおしまい!日直さん!よろしく!」
生徒A「きりーつ。れーい。さようなら〜」
一同「さようなら!!」
侑「それじゃあ帰る人は気を付けてね。部活がある人は頑張ってね!」 オーディションの日から十日以上経過していた。私は自由に英語の授業をしているし、かすみちゃんは風紀委員の活動に精を出している。
しずくちゃんは、毎日演劇部の活動で忙しそうにしている。そろそろしずくちゃんにご褒美上げないとなぁ。ん〜、悩みどころだ。
侑「う〜む。これが、充実か……」
忙しくも楽しい日々。これが、大人の青春って奴……?
そういえば、最近のしずくちゃん。フラフラしてたけど大丈夫かなぁ。後でミセスには、過労で倒れないくらいの指導でお願いします!って言わなきゃね。
かすみ「侑先生?なに浸ってるんですかぁ?」
侑「おおっと。かすみちゃん。いやぁ、ちょっとね、毎日が幸せだなぁ、と思ってね」
かすみ「かすみんも毎日幸せです!朝から侑先生の顔が見られて、侑先生の顔を見て終わる!なんて素敵な日々ですか!!」
侑「んふふ。照れるねぇ、かすみちゃん」
かすみ「ま。それは置いといて。侑先生、最近のこんな噂、知ってますか?」
かすみちゃんがやや真面目な表情になる。風紀委員モードなかすみちゃんだ。
侑「噂?」
かすみ「はい。放課後、色々な空き教室からうめき声と何かがぶつかるような音が聞こえるそうですよ」
侑「ほぉ……。ポルターガイストって奴かな……?」
学園とか学校という狭いコミュニティでは、こういう怪談めいたものがたまに流行る。意図的に流された噂もあるし、自然と噂になるものもある。前者は面白がって流す場合と悪意を持って流される場合がある。
まぁそこまで警戒しなくていいかもしれないけど……。
侑「かすみちゃん。それを私に話したってことはつまり」
かすみ「はい。侑先生に付いてきて欲しいんです」
ううむ。風紀委員モードのかすみちゃんはキリッとしていてカッコいいなぁ。生徒に安心安全を届けるっていう責任感もあるのだろう。
よし、一肌脱いでやるってのが教師の務めだよね。
侑「うん。任せなさいかすみちゃん。大船に乗ったつもりでいてよ!」
かすみ「やったー!侑先生は本当に頼りになります!大好きです!」ダキッ
侑「あらら」
大倉庫での一件と、部長との一件。あれ以来、私を頼ってくれるのは嬉しいけど、ここまでスキンシップが過剰だと他の先生からなんて言われるか……。いや、女同士だから別にいいかな。
……いや、だめか。その前に教師と生徒か。
くっ……。かすみちゃんの抱擁を振りほどくのは断腸の思いだけど……しょうがない! 侑「ほら、噂の正体を調査するんでしょ。行くよ!」
かすみ「分かりましたよぉ……」パッ
侑「それじゃあ、『怪奇!空き教室で鳴り響く未亡人の絶叫!?』クエストの始まりだぁ!!」
かすみ「……意外とノリノリですね」
かすみ「かすみんのハグは噂の好奇心に負けたんですね……」ガックリ
──
侑「さて、空き教室を巡りつつ話を整理しようか」
かすみ「はい!まず、噂が出始めたのは本当にここ最近です。風紀委員に噂の投書があったのはちょうど九日前ですね」
侑「ふむふむ。うめき声があるから調査して欲しい、と」
かすみ「そうですね。その不安を取り除くのも風紀委員のお仕事です。同様の投書が複数の生徒から届いたため、風紀委員も動くことになったんです」
侑「噂のサンプル数も複数ある、と。ちなみに空き教室をのぞいて、正体を見ようとした人はいないの?」
かすみ「まぁ、虹ヶ咲は女子高ですからね。ホラーへの耐性持ってる人って少ないですから。不審者って可能性もありますし、そこまでできませんよ」
侑「藪蛇になっちゃ逆に学園側が困るからね。下手なことには首を突っ込まず、専用の組織に依頼する、と。うむうむ。自衛がしっかりできていて先生は嬉しいよ」
かすみ「でも、空き教室のうめき声の噂がこのまま広まった場合、面白そうと思う人が出るかもしれません。そうなると、意味もなく放課後に残る人とか出るかもしれませんし、できるだけ早く解決したいんですよ」
侑「おっけー。じゃあまずはここの教室から……」
……
…………
侑「う〜ん。探そうと思うと見つからないもんだね。マーフィーの法則だ」
かすみ「マフィン?美味しいですよね」
侑「そうだね」
かすみ「私マフィン作れるので今度ごちそうしますよ!」
侑「え、ほんと?」
かすみ「はいっ!だから今度、かすみんとデートしましょう?侑せんせっ♡」
侑「うっ……。上目遣いは狡いぞかすみちゃん!!……って、これは……」
かすみ「はぐらかそうとしたって……。あれ……」
ゴツンッ
ヌァァアア…
ガタンッ
ウアアアア…
侑「こ、これは……」
かすみ「あわわわわわわ……本当に出ちゃいましたよ!!」
侑「まさか一日目で出くわすとはね……。ふふふ。幽霊相手は初めてだから腕が鳴るね」
かすみ「お、お〜……。頼りになりますね!さすが侑先生です!連れてきた甲斐があったというものです!」
侑「もっとも、幽霊に関節技が効くのかは議論の余地がありそうだけど……」 かすみ「えぇ!?大丈夫ですよね!?」
侑「大丈夫!こういう時は先手必勝だよ!!」
ガララッ!!
侑「やいやいやい!迷える幽霊よ!高咲侑の名において命ずるよ!この虹ヶ咲学園から今すぐ出ていけば……命までは取らないよ!!」ババーン
かすみ「幽霊に命は無いんじゃ……」ヒョコッ
???「ア……」
侑「……って」
うめき声の発生源の教室を開けるとそこには。
しずく「何を言ってるんですか?侑先生。それとかすみさん?」
普通にしずくちゃんがいた。まぁ、何となくそうじゃないかって思ってたけど。
──
侑「ふむふむ。なるほどね。盲目の少女をより深く理解する為に、盲目の体験をしていた、と……」
しずく「はい……。まさか怪談とか噂になっているだなんて……」
どうやら噂の発生源はしずくちゃんのようだった。
盲目の少女という役柄を深く理解する為、目隠しをして教室を歩いていたらしい。
色々な空き教室を巡っていたのは、机の配置が違うことや、色々な物がある方が新鮮な体験ができる、とのことだった。
かすみ「何かの物音の原因は、しず子がバシバシ色んな物にぶつかる音だったんだね……。なんていうか、無茶だよしず子……」
かすみちゃんはちょっと引いていた。まぁしずくちゃんは演劇に対して真摯なだけだ。色々と極端だとは思うけど。
侑「なるほどねぇ。最近フラフラしてたのは色々と頭を打ってたからかぁ……。この稽古のこと、ミセスは知ってるの?」
しずく「はい。オーディションで合格してから、自宅ではほとんど目隠しをして生活しています。というか、ミセスの指示ですね」
侑「あ〜……。やっぱり結構ぶっ飛んでるなぁ……」
かすみ「侑先生は顧問なのに知らなかったんですか?」
侑「まぁね。こういう演技の稽古じゃない部分は、変な先入観を与えるから見ちゃだめって言われてるんだ。ミセスっていう外部顧問の人にね」
しずく「それくらい侑先生もキーパーソンって思われてるんですよ」
侑「そうだといいけど……。ん〜、でもこうして見ちゃったわけだし。今日はちょっとしずくちゃんの目隠し稽古に付き合うよ」
しずく「え……いいんですか……?」
侑「うん。スイカ割りの指示する人みたいなことしかできないと思うけど」
かすみ「……私もちょっと気になるので見学します!」
かすみ「目隠ししたしず子と二人きりにしたら何か起こりそうだし……」ボソッ
しずく「何か言った?かすみさん」ニコッ かすみ「い、いや何も……」
侑「それじゃあまずは、軽く障害物を作って、私たちの指示で動いてもらうよ!」
しずく「はい!」
……
…………
目隠しをする。すると、視界は遮断される代わりに聴覚が敏感になる。最近の目隠し練習の成果か、なんとなく物の気配が分かるようになってきた。
侑「はい、そこを右!右だよ!三歩くらい!!」
かすみ「横になった椅子が置いてあるよ!!ああ、危ない!危ないよしず子!!」
しずく「あぅっ」
障害物に躓く。見えている人が見えていない人に指示をするのは存外難しいらしい。そして、指示を完璧に理解する。それもなかなか難しい。
かすみ「ちゃんと避けなきゃだめだよしず子!!ああ!!ほら、そこ!!そこヤバい!!」
しずく「ヤバいじゃ分かんないよかすみさん!もうちょっと具体的に言って!!」
侑「ゆっくり前方に手を出してみて!うん!触ったそれはね、横にした机だよ!それを右に辿っていく感じで……」
しずく「はい!ありがとうございます!」
かすみ「え、違うよしず子!そこは左だよ!騙されちゃだめだよ!!」
しずく「え」
かすみさんの言葉に私はつい動きを止める。この稽古は騙す騙されつつもあるの!?そんな戦略性のある稽古なの!?
侑「ああ、違うよ!しずくちゃんから見て右ってことだよ!私は騙してないからね!」
かすみ「あ、そうだったんですか!なるほど!やっぱり右だよしず子!!」
しずく「え、右でいいんだよね?あれ、右ってどっちの右だっけ……?侑先生から見て右?私から見て右?今これどっちの右?あれ?頭がこんがらがってきちゃった!!」
侑「落ち着いて!まずは深呼吸だよしずくちゃん!」
しずく「は、はいっ!すぅ……はぁ〜……」
かすみ「……今思ったんですけどこれ。もしかして、指示する人がいない方がいいんじゃないですか?」
侑「え……。あ、確かに言われてみれば……盲目の人が目の前にいるのに、言葉だけで介助する人っていないよね」
かすみ「リアリティって点で言えば、手とか繋いで導いた方が、現実味がありそうです……」
え、障害物とか散々配置した後に言うの?
しずく「これはあくまで役に入り込む為のものだから!盲目の人の不自由さを体験する稽古なだけだから!」
とまぁ。色々と紆余曲折がありつつも、色々な目隠し稽古をした。 ──
私が指示する立場をしたり。
しずく「かすみさん!頭下げて!ぶつかっちゃうよ!」
かすみ「えっ!上にも障害物があるの!?どうやってくっつけたの!?」
侑「それはまぁ、色々さ」
かすみ「色々って何ですか!怖いですよぉ!目隠しとってもいいですか!?」
しずく「いやだめでしょ。私の稽古に付き合ってくれるんでしょ!頑張って風紀委員さん!!」
侑「そうだよ!頑張れ風紀委員!あそれ風紀委員!」
しずく「ふーきいいん!ふーきいいん!ふーきいいん!」
かすみ「お……うおおおおおおおおお!なんだか勇気が湧いてきましたよ!かすみん、張り切って行きます!!」
侑「あ」
かすみ「ぎゃんッ!?」
しずく「……ふむ。目が見えていない人を調子付かせてはいけない、と」メモメモ
侑「そんな冷静に……。って大丈夫かすみちゃん!?」
──
──
手を引いて貰いながら歩いたり。
侑「それじゃ、しっかりと私の手を握ってね!」
しずく「はい……」
侑先生の手。珠宝へ行くときに握って以来だ。相変わらず少し硬いけど、頼もしく温かい手をしてる。
やっぱりついついニギニギしてしまう。
しずく「……」
侑「あ、あの……そんなニギニギされるとやり辛いというか……」
しずく「あ、すみません」
これは稽古なんだ。自分の欲を優先させちゃあいけない。
かすみ「……かすみんだって握りたいですけど」
侑「え、今はだめだよ。しずくちゃんの番なんだから。っていうか、手を握る稽古じゃないからね?」
かすみ「分かってますけどぉ……!」
見えなくても分かる。
恐らくかすみさんは不満の表情をしているんだろうと。唇を尖らせて、もしかしたら私のことを睨んでいるかもしれない。
なんだろうこの感情は。これは……優越感、か……。
しずく「ごめんね、かすみさん。ふふふっ」
かすみ「あ、あ〜〜!!鼻で笑ったね!!かすみんも突撃だよこんなの!!」
侑「わわっ!これじゃあ稽古にならないYO〜〜!!」
──
……
…………
一通り、私がやりたかった目隠しの稽古は終わった。正直に言うと遊びの延長線上のようだったけれど、学んだことも多い。
侑「どうだった。しずくちゃん。私たち、役に立てたかな?」
しずく「そうですね……。当たり前のことですが、目の見えない人を先導するにも能力がいるんだと思いましたね」 かすみ「あぁ〜確かに。手を引けば指示なんていらないと思ってたけど、手を引きながらも指示しなきゃいけないことってたくさんあったし……」
しずく「うん。だからきっと、私が演じる盲目の少女のアステーリと、それを介助する犬のスターラは、かなり苦戦したんだろうなぁ、って思ったよ」
しずく「それに人と犬っていう種族的な差もあるから言語も通じない。そんな中で、最愛の家族とまで信頼し合えるようになるには、どれだけの山場を乗り越えてきたんだろう……」
やはり、頭で考えるだけでは限界がある。部長の言う通り、豊かな経験は役者の演技を豊かにさせる。侑先生とかすみさんがいてくれてよかった。
かすみ「ふぅん……。演劇のことはよく分からないけど、しず子ってすごいね」
しずく「え?」
突然の賛美に思わず疑問符が口から出る。
かすみ「私には分からない世界だもん。架空の人を演じるのに、ここまで本気になれるなんてさ。ほとんど遊んでいるように見えてたけど、しず子の中ではちゃんと真面目に考えられてたし」
しずく「そう、だね。私の中で演じるっていうのは、やっぱり特別な意味があるから……」
他の人から見たら、なぜ架空の物語にここまで本気になれるのか分からないのかもしれない。
でも、私にとって演劇とは、演じるとは、生きる上での処世術でもあり、単純に楽しい存在なのだ。
言ってしまえば……。
しずく「演劇は私の、生きる意味だから」
確信を持って、私はそう言えた。
しずく「生まれてから今まで、私はずっと『演じる』ことで生きてきたんだもん。演劇は私の生きる意味だよ。でも最近になって、私にとっての演技は、自分の思いを表現する場所になってきたんだ」
しずく「素直になれない自分。我慢しちゃう自分。上手く表現できない自分。そんな自分を、どこかの誰かを演じている時はストレートに表現できる」
しずく「それに、どこかの誰かを演じる過程で、私の中にいる私を再発見できるんだ。他の人の中から自分を見つけられる」
オーディションの時、今の私は『底知れない器』ではなく、『ただのしずく』だって再発見できたように。
しずく「今の私は、私の中にいる私を見つける為に、演劇をしているのかも……」
侑・かすみ「……」
あ、話しながら整理していたら、長い自分語りになってしまった。
侑「……うん。そうだね。自分の中にいる自分に気づくには、他の人のフィルターを通す必要があるかもしれない」
そんな私の自分語りに、侑先生は共感してくれた。 侑「私も、色々な物語に触れたり、色々な譜面を弾く中で、そういうことを思う時があるよ。語り手の文章に共感したり、逆に否定したり、自分はこのメロディが好きだなぁとか嫌いだなぁ、とか」
侑「先人の作品に触れる意味の一つは、自分探しなのかもしれないね」
しずく「……自分探し、ですか。まさに私が演劇をする目的かもしれません」
そうか。
私がここまで演劇にハマった理由って、どこかの知らない誰かを演じる中で、自分を見つけようとしていたからなのかもしれない。空っぽな自分が嫌で、でも、どこかにはあるんじゃないかって、模索し続けた結果が今の私なんだ。
私はかすみさんが好きだ。かすみさんが好きだって、かすみさんを通して『かすみさんが好きな自分』を見つけることができた。
私は侑先生が好きだ。侑先生が好きだって、侑先生を通して『侑先生が好きな自分』を見つけることができた。
もっと、空っぽで弱い自分のまま接していれば、こんなに悩むことは無かったのかな……?
かすみ「……?よく分かんない……」
かすみさんも今の話を聞いていたけど、よく分からなかったらしい。
侑「まぁ、なんだろう。やってみて初めて気づくことがある的なことだよ」
かすみ「じゃあそう言えばいいじゃないですか?」
侑「あはは。かすみちゃん、なんでもかんでも一言に収めようとするのはね、情緒がないって言うんだよ」
かすみ「じょ、情緒がない……。それはなんだかとっても嫌な感じがします!!しず子!私にも分かりやすく説明してよ!!」
しずく「えぇ。これを言語化するのはちょっと難しいっていうか……」
主観的なことだし、非常に感覚的な問題だ。でも、そういってもかすみさんは納得しないんだろうなぁ。
かすみ「だめ!情緒が無いかすみんとか可愛くないもん!情緒のあるかすみんでいたいもん!!」
しずく「情緒のあるかすみんて……」
侑「……じゃ、じゃあ私はそろそろ劇場ホールに行くから……」
いつの間にか、侑先生は教室の扉の前にいた。素早い。
しずく「ゆ、侑先生!私も行きます!かすみさんは風紀委員があるよね?付き合ってくれてありがとうねーっ!」タッタッタ
かすみ「あ、こらしず子!侑先生!逃がさないよぉ!!」ダダダッ
かすみさんの大声を尻目に、私は侑先生の背中を追う。
……ふふ。なんだか楽しい。
月並みな言葉だけれど、こんな日々が一生続いて欲しいって、そう願ってしまう。
でも、もし……。一つ悪い予感をしてしまった。
もし、どこかの誰かを演じる中で、自分が一切共感することができなくなってしまったら。
もし、どこかの誰かを通して、自分が一切何も感じることができなくなってしまったら。
そうなれば、私は生きる意味を失ってしまうんじゃないかって、私は本当の意味で私を失うことになるんじゃないかって、ひどく怖くなる。
そう不安に思った瞬間、私は部長の言葉を思い出した。 ──
部長「私は君の『底知れない器』に魅力を感じた。でも、今『自分』があるしずくは『底知れない器』では無くなってしまった」
部長「だから私は思うんだよ。『底が抜けてしまわないか』と……」
──
そんな日が来るのは、底が抜けてしまう日なんじゃないかって。
侑「ほらっ。しずくちゃん!早く!」
振り向いた侑先生は、楽しそうな笑顔を浮かべていた。
私は今の不安を悟られないよう、見たくない物にフタをするように、笑みを浮かべる。
しずく「……はいっ」ニコッ
今はただ、この幸福に身をやつしていたい。そう考えるのは、我がままなんだろうか。
▲高咲侑のアパート▲
まんべんなく体を洗った後、浴槽に浸かる。
侑「あっ……あふぅ……。風呂は命の洗濯、だねぇ……」チャプン
今日も今日とて疲れたが、充実感の方が強い。
他の先生との人間関係、生徒とのやり取り、教師自体の職務内容、その全てを段々自然に行えるようになってきている。つまり、高校教師として体が馴染んできた証拠だ。
侑「いい感じだ。うん。実にいい感じ……」
浴槽の縁に肘をついて、天井を仰ぐ。
しばらく、何も考えない時間が続く。
侑「……。いい感じだけど、やっぱりちょっと寂しいなぁ……」
教師になって人と関わる時間が増えたからだろうか。こうして独り身の部屋に戻ると、一層孤独を感じる。仕事は順調なはずだけど、プライベートが充実していないってことかもしれない。
侑「あぁ、そうだ……。しずくちゃんのご褒美を考えなきゃ……」
……。
今思ったけど、仕事上関わる生徒とプライベートで一緒に過ごすって、いいのかな……。まぁいいでしょ。しずくちゃんのお母さんとは面識があるし。親子公認(?)って奴さ。
侑「で、何をご褒美にするか……。物って言ってもなぁ……」
う〜ん。しずくちゃんが求めてるご褒美って、物を送ってはい終わり!って感じじゃないと思うんだよね。
演劇が好きなせいか、ロマンチックが過ぎるところがあると思う。だから、プレゼントを渡すとしても、それ相応の場所じゃなければしずくちゃんへのご褒美にならないと思う。
侑「あぁでも、褒めたり頭を撫でたり、とかでいいって言ってたっけ……。う〜む。それで納得するしずくちゃんでも無い気がする」
しずくちゃんはアレだ。腹に一物を抱えている。
表面上は感謝こそすれ、心の中では「ケッ。頭撫でたくらいで満たされるって思わないことですね!」とか思っているはずだ。
……いやいや。キャラ崩壊を起こしているかも……。
侑「とりあえず、今日のしずくちゃんでも振り返ってみるかぁ」
今日のしずくちゃんは盲目の少女役への理解の為、自ら目隠しをする体験をしていた。私は指示をしたりされたり、手を引いて先導したりした。
そういえば、手を握っている時、かすみちゃんにドヤ顔してたっけ。意外と……いや、よく考えると意外でもなく、しずくちゃんって独占欲強いよなぁ。
独占欲……。ふむ……。
侑「しずくちゃんと私だけの思い出となるような場所。それをご褒美にすれば、しずくちゃんも花丸をくれるかもしれない」
侑「よし!その方向で行こう!あ、ついでにオフィーリアとの散歩も一緒にしようかな」
侑「よーし。しずくちゃんへのご褒美は決まったぞーっ!早速LINEだぁ!!」ザバーン ▲桜坂邸▲
しずく「ふっふっ……」ノビノビ
お風呂上がりのストレッチ。これはいつもの日課。欠かさず行わないと、すぐに硬くなっちゃう。声の伸びにも関係するし、欠かしちゃいけない日課だ。
ブブブブ…
しずく「ん?あ、侑先生からLINE……」
侑『こんばんは。しずくちゃん』
侑『次の土曜日って演劇部の活動休みだし、前言ってたご褒美の日にしようと思うんだけど、どうかな?』
しずく「つ、遂に来た!!」
私は待ちに待った運命の日が遂に来たんだと舞い上がる。ご褒美の約束をしてから早数十日。もうすぐ八月にもなろうかとする今!
忘れちゃってるのかなって心配になった夜もあった。けれど、侑先生は真剣に考えてくれていた。
ここまで時間を空けて返事をしてくれた。とどのつまりこれは、私へ真摯な対応をしようと、苦慮していたからに他ならない!
しずく「え、えと……。『嬉しいです。土曜日よろしくお願いします』、と……」
しずく「ん……んふふ……」
いけない。頬が緩む。でも、誰も見てないし別にいいよね。今だけは緩みっぱなしのほっぺでも!
侑『それじゃあ、土曜日は朝早くから色々連れ回すからさ、覚悟しておいてね!あとオフィーリアも一緒にね!』
しずく「え?オフィーリアも……?」
そういえば、私が風邪で寝込んでいた時、一緒にオフィーリアの散歩に行けなかったことを悔やんでたっけ。その時のこと、覚えていてくれたんだ……。嬉しい……。
……。
どこにでもあるような河原を、オフィーリアと一緒に散歩をする私と侑先生。
侑先生は頼もしいけれど、オフィーリアの引っ張る力に負けちゃってたたらを踏む。あわや転んでしまう!というところでそんな侑先生を私が受け止める。
侑「あはは……。先生なのにちょっと情けないや……」
しずく「いいえ。ちっとも情けなくなんかないですよ」
侑「そ、そうかなぁ?」
しずく「私は、頼もしく強い侑先生だけじゃなくって、弱い侑先生のことも知りたいです。だからもっと、私を頼ってくれていいんですよ……?」
侑「しずくちゃん……」
しずく「侑先生……」
暮れなずむ夕日を背に、二人の唇はどんどん接近して──
スイ「妄想してるところ悪いんだけどさ、しずく」
しずく「はぅああっ!?」
スイ「いいのかい?既読してからもう数分以上経過してるよ?早く返信しないといらぬ誤解を招くんじゃないの?」
しずく「あ、あああ、う、うん……」
侑先生への想いがスイに筒抜けなのはもう今更のことだけど、今回は妄想に行くまでシームレス過ぎた……。ちょっとだけ恥ずかしい……。
しずく「えっと……『はい。オフィーリアも一緒ですね。了解です』っと」
しずく「『土曜日のデート、楽しみにしてます』っと」 しずく「ふぅ。これでいいかな」
スイ「……。ねぇしずく、私は最近君が天然なんじゃないかって思ってきたよ」
しずく「え?」
ブブブブ…
あ、侑先生からの返信……。
侑『大人の私が、しっかりとしずくお嬢様をエスコートしてみせますよ!私も土曜日が待ち遠しいよ!じゃ、おやすみ!!』
しずく「……?何この気取った言い回し……」
やや困惑気味の私の目が次に捉えたのは、先ほど私が送ったメッセージ。
『土曜日のデート、楽しみにしてます』
しずく「……」
しずく「……」
しずく「……!!!!!!!!」
しずく「ちょ、えっ……。で、でででででデートって送っちゃったぁ!?」
しずく「あ、あ、あ、あわわわわわわわわ!!」
しずく「ど、どうしようどうしよう……!!どうしようスイ!!」
スイ「ふむ……。私にいい考えがある。ちょっと体を貸してもらうよ」
しずく「さすがスイ!頼りになるね!!」
スイ「えぇと、『大人の魅力でメロメロになっちゃうかもしれないですぅ♡おやすみなさい侑せんせっ♡』っと」
しずく「お、おおおおおおおおお!?」
今まで出したこともない声が腹の底から飛び出す。
しずく「何やってんの!?」
しずく「任せたの私だけど!!悪ノリが過ぎるってもんだよスイ!!」
スイ「ははは」
しずく「はははじゃないよ!!あぁ、もうどうすればいいの……。変な子選手権に出たら一瞬でチャンピオン君臨だよ……」
スイ「ふふっ」
しずく「ふふっ、じゃないよぉ……。おやすみなさいって打っちゃったから訂正もできないし……あぁ、ほら、既読も付いちゃったし……。侑先生も困惑千万だよこんなの……」
スイ「困惑千万て……。まぁいいじゃない」
しずく「うぅぅ〜……」
スイ「……ご、ごめん、しずく。つい……」
しずく「うぅぅぅ〜……」
私はキッとした目で鏡を睨む。そこに映るのは私だけど私じゃない。
スイ「ごめんって……。前より変な子って言われるのが怖くなくなったしずくだからさ。ちょっとふざけてみたかったんだよ……」
しずく「……まぁ、確かに?前ほど人の目を気にしなくなったけど……。でも私は、クールで清楚かつ優等生な桜坂しずくとして、侑先生と接したいのに……」 これじゃあ悪ノリ不思議ちゃんな桜坂しずくのキャラが定着しちゃうよぉ……。
ブブブブ…
侑『そういうキャラのしずくちゃんもいいね!土曜日は色んなしずくちゃんを見せてね!』
しずく「……」
しずく「……スイ」
スイ「はい」
しずく「許す」
スイ「寛大な処置。誠に痛み入ります……」
まぁ、いっか……。
私の怒りはどこへやら、侑先生からの一言で霧散してしまった。
……私も。
侑先生と接する中で、いろんな自分と出会えそうです……。
しずく「あ、これいい」
しずく「これを返信にして、今日はもう寝よう……『侑先生と接する中で──』」
ブブブブ…
侑『なんだかちょっとかすみちゃんっぽいしずくちゃんだったね!』
しずく「……」
それは、どうなの。侑先生。
ここで他の女の名前を出すのはどうなの。
しずく「あーあもうっ!!なんだかモヤモヤが晴れたと思ったらさらにモヤモヤする!!」ガリガリ
スイ「それもまた、新しいしずくの一面じゃないのかい?」
得意げに指摘するスイ。上手いこと言ったって思ってるんだろうなぁ……ッ!
しずく「う〜……。スイ!あなたは今日一日!出てきちゃいけません!」
しずく「全然反省の色が見えません!何が『寛大な処置、痛みります』だよ!」
スイ(あ……強制的に封じ込められた……)
スイ(……。まぁでも……。よかったね、しずく。侑先生と出会えて)
スイ(ゼロからやり直した時と比べて、ずいぶんしずくらしくなった)
スイ(私は、今のしずくが大好きだよ)
しずく「あー、もう……どうしよう返信……」ポカポカ
こうして夜は更けていった……。
▲桜坂邸玄関前▲
デートの当日である土曜日に、なってしまった。思い返してみれば、期日が決まってからの一週間は、稽古に身が入っていなかった。私はオンオフの切り替えが上手な方だと思っていたけど、恋愛が絡むと形無しだった。
稽古中、ミセスから長い長いなが〜い説教をされた記憶もあるが、その時でさえ侑先生とのデートを夢想していた。「そんなだらしない顔で稽古ができるかいっ!」と言われた後は、さすがに自分を取り戻したが……。
しずく「ふぅ……。今日は待ちに待ったデート……。舞い上がり過ぎて変な行動取らないようにしないと……」
オフィーリアを撫でながら自分を諫める。 しずく「ねぇスイ。今日の私の格好、侑先生に可愛いって思ってもらえるかな……?」
スイ「しずく……。それ聞くの今日で何度目だと思う?何度も言うけど、しずくによく似合ってるよ」ゲッソリ
今日の私は、ノーカラーで淡い水色のワンピースを着ている。靴は涼し気にローヒールサンダルを履いている。私のトレードマークであるリボンも、念入りに手入れをしたものだ。抜かりはない、はず……。
スイ「朝からファッションショーを開かれるこっちの身にもなってくれよ……」ゲッソリ
しずく「ごめんね、スイ。でも、おかげで納得できたから!」
スイ「ついさっき可愛いって言ってもらえるかな、とか言ってたくせに……。私はずっと引っ込んでおくからさ、楽しんできなよ」
しずく「うん……ありがとう」
スイ「それじゃあね」スッ…
しずく「……。やれることはやった、かな……。それにしても、今日も暑くなりそうだなぁ……」
手庇を作って、まだ天頂へと昇りきっていない太陽を見る。すでに八月に入っており、夏の暑さは猛威を振るっている。
と、ここで。家の前に一台の車が停まった。
その車は侑先生の髪色同様、黒を基調としており、普通の車と比べると速そうな印象だった。
侑「おはようしずくちゃん」ガチャ
しずく「おはようございます。侑先生っ!」ニコッ
車から降りた侑先生は、デニムに白いシャツというシンプルな服装だった。しかし、普段見慣れているフォーマルな服装と違って、私服の侑先生はなかなか破壊力があった。
侑「う〜ん。いいねそのワンピース!清楚なしずくちゃんによく似合ってるよ!」
しずく「あ、はい……。ありがとうございます……。朝何時間も選んだかいがありました」ボソッ
ニヨニヨと頬が緩むが、鋼の意思でそれを抑えた。
侑「ん?なんて言ったの?」
しずく「い、いえ!特に何も!」
侑「そう?それじゃあ、しずくちゃんのお母さんに一言挨拶したいんだけど、いい?」
しずく「あ、母はもう仕事に出かけているのでいません。なので、私とオフィーリアしかいませんよ」
侑「あ、そうなんだ。じゃあデートから帰ったら、よろしく言っておいてね」
自然な風にデートと言う侑先生に面食らった。けれど、動揺を押し殺す。こんなことで一々動揺していたのでは心臓がもたない。
侑先生は冗談で言っているんだろうなぁ……。くぅ、圧倒的な人生経験の不足を感じる!
しずく「はいっ。では、行きましょうか」
オフィーリア「わふんっ!」
侑「お〜、オフィーリア。元気だった〜?行く前にちょっとモフモフさせてね!」モフモフ
オフィーリア「わうわうっ!」
侑「おぉグッドボーイグッドボーイ!」
オフィーリア「わふふ〜ん……」スリスリ オフィーリアは人懐っこい性格だけれど、侑先生には特に懐きが早い気がする。私との縁を取り持ってくれているのだろうか……。
嗚呼、それにしても、オフィーリアとたわむれる侑先生……素敵です。
しずく「……」パシャ
つい、撮影してしまう。うん。いい映りだ。
侑「あ、しずくちゃ〜ん。撮るんなら一緒に撮ろうよ!ほら!」
しずく「え」
侑先生は私の肩を抱く。慣れている感じの仕草だったけど、私はもちろん慣れておらず硬直してしまう。
侑「ほらほら、笑顔笑顔!はいチーズ!」パシャ
しずく「に、にぃ……」ニコッ
オフィーリア「わふわふ!」
女優の意地で自然な笑顔を捻出した。よし、なんとかやれそうだぞ、私……。あ、侑先生の手が肩から離れる……。残念。
侑「よし。モフモフは堪能したし!それじゃあ早速出発しよっか!」
しずく「はいっ!」
うぅん。焦ることはない。今日は丸一日侑先生とデートをするんだ。オフィーリアと侑先生のように、私と侑先生が触れ合う機会なんていくらでもある、はず……。
だから今は、元気に返事をしておく。
侑「オフィーリアは後部座席でね。車も慣れてるんでしょ?」
しずく「はい。お気に入りの散歩コースがちょっと遠いので、週一くらいのペースで車に乗ってそこまで行くんです」
侑「へぇ〜。いいねぇオフィーリア」
オフィーリア「わうんっ!」
侑「じゃ、しずくちゃんは助手席でね」
しずく「はい!」ガチャッ
助手席に座り、シートベルトを締める。すると、車内はなんだか独特の匂いがした。
他人の家に入るのと同様、他の人の車に入ると、その人特有の匂いがする。侑先生の車は……消臭剤で無理やり消したようなにおいがする。
たまに煙草の匂いがするし、今日の為に消臭したんだろうなぁ。
侑「よしよし。大人しくしてくれて偉いぞオフィーリア!グッドボーイグッドボーイ!」
匂いに対する気遣いは嬉しい。けれど、ちょっぴり残念かも……?
まぁ一先ずそれは置いておいて。侑先生には一言言っておくべきことがある。
しずく「侑先生。オフィーリアはメスです」
侑「あ……あぁそうなの!ごめんオフィーリア!グッドガールグッドガール!!」
オフィーリア「わうんっ!」
かくして。待ちに待ったデートは始まった──
▲繁華街▲
私は車を走らせ、まずは繁華街へと向かった。
犬も同伴可能なお店に行く為である。
侑「さ、ここが私おすすめのお店だよ!」
カランカラン…
しずく「へぇ……。雰囲気のいいお店ですね」
犬と一緒に食事が可能な喫茶店だった。
スペースが広めにとられており、他のお客さんとの距離がある程度離れていて、その分席数が少ない作りになっている。 侑「そうだね。私もたまに来て、他のお客さんが連れているわんちゃんを見たり、この喫茶店で放し飼いになってるわんちゃんに癒されにきてるんだ」
オフィーリア「わぅうん……」
侑「おや、オフィーリアどうしたんだろう。なんだか元気がないような……」
しずく「あぁ。大丈夫だよオフィーリア。ここはオフィーリアが入ってもいいお店なんだよ」ナデナデ
侑「え。入っちゃいけないと思って縮こまってたの?賢過ぎるよオフィーリア!」
オフィーリア「わうわうっ!!」
大丈夫と分かると、オフィーリアは尻尾をブンブンと跳ねさせていた。好奇心の赴くままに行動したいらしい。
侑「他のわんちゃんも自由に歩いてるし、首輪外しちゃおうか」
しずく「そうですね。行っておいで」ガチャ
オフィーリア「わふふ〜〜ん!!」ダッ
オフィーリアはそういって、犬用の遊具が置いてあるスペースへ突撃していった。実に元気である。
侑「じゃあ私たちも席に着こうか」
しずく「はいっ!」
私たちは店員さんから指定された席に座る。あらかじめしずくちゃんには朝ご飯を抜くように言っておいたので、ここで食べることにした。
侑「ん〜、しずくちゃんは何にする?私はいつも通りパンケーキにしようかな」
しずく「そうですね……。侑先生のおすすめってなんですか?」
侑「うむ、しずくちゃん。いい質問だよ。ここはね、わんちゃん用の食事も高水準ながら、飼い主用の餌もハイレベルなんだよ!!」
しずく「か、飼い主用の餌、ですか」
侑「うん!私のおすすめはこのパンケーキ!それと、このジャンボパフェ!」
私は素早くメニュー表を開き、該当のパンケーキとパフェのページを開く。
しずく「あ、確かに美味しそうです!でも、朝ご飯っていうかおやつみたいな気が……」
侑「甘い物は別腹とは誰が決めたのか。甘い物が主食でもいいじゃない!って、待てよ。しずくちゃんって甘い物苦手だった?」
しずく「あ、いえそういう訳じゃありませんよ。それじゃあ私はこのジャンボパフェにしますね」
侑「そっかそっか。それなら良かった……。オフィーリアにはこの、『わんチャンススペシャルデラックス』にしよう」
侑「ぷぷっwわんチャンスてw」
しずく「どんな物が出てくるのか、想像もできませんね……(一体何がそんなに面白いんだろう……)」
侑「あ、店員さ〜ん!注文お願いします!」
……
…………
侑「うっひょーっ!来たよ来たよ!お待ちかねのパンケーキ!」ザクッ
侑「いただきます!あ〜むっ!〜〜〜!!おいひぃなぁ……」
口の中に広がる甘さ、鼻腔を軽やかに抜けるパンケーキの馥郁……。たまらん。
私がモグモグしていると、しずくちゃんは目の前のジャンボパフェにより呆気に取られていた。 しずく「で、でっか……」
侑「まぁジャンボだしね」モグモグ
しずく「え、これメニュー表と違いません?逆パッケージ詐欺って奴ですか?明らかにデカすぎますよ」
侑「まぁまぁ。一先ず食べてみなって。ほら」
大きさに圧倒されるしずくちゃんはまず、食べた方がいい。
私はパフェ用の長めのスプーンでクリームを取り、しずくちゃんに差し出した。
侑「あ〜んしてっ」
しずく「あ、あ〜んですか……?ちょ、ちょっと恥ずかしいです……けどっ、あむ!!」
しずくちゃんは一瞬だけ逡巡した。なんだこの即落ち二コマは……。
しずく「〜〜!!」
しずく「美味しいですっ!ただの生クリームなのになんでこんな……」
僅かに頬を紅潮させつつ、ジャンボパフェの味に衝撃を受けていた。
しずくちゃんは手元のスプーンを手に取り、パフェを口に運び、また衝撃を受けるというサイクルを繰り返していた。
侑「見ていて飽きないねぇ。う〜んパンケーキも美味しい!!」
しずく「すごいです……。これがパフェの一つの到達点なのかもしれません……」モグモグ
そしてしばらく、しずくちゃんは目の前のパフェに夢中になっていた。演劇で培われた集中力が全て、パフェに注がれている気がする。
しずく「……あ」
その様子を、パンケーキを食べつつ見ていると、しずくちゃんが何かに気づいた。
しずく「そ、その、侑先生も、どうぞ……。あ〜ん、してくださいっ」
侑「……!!」
か、可愛い!!
私は迷いなく口を開けた。
しずく「……あ〜むっ。……どうですか?」
侑「……」モグモグ
侑「おいひぃよぉ……。しずくちゃん効果で美味しさが何倍にも跳ね上がってるよぉ……」
嗚呼、満たされる。可愛い生徒と……いや、可愛いしずくちゃんと一緒に楽しく食事をする。非常に心が満たされる……。独り身の部屋では絶対に満たされない何かが、ここにはある。
しずくちゃんへのご褒美のはずが、私の方がご褒美を受け取っている気がする。
侑「じゃ、私からもパンケーキをおすそ分け!はい、あ〜んっ!」
しずく「……あ〜んっ」モグモグ
しずく「〜〜!!パンケーキも美味しいですね!!ペットも可能ってだけでも凄いのに、味もこんなに美味しいだなんて……」
侑「でしょ?これからヘビロテするんじゃあない?」
しずく「そうですね。ここまで味も美味しくてオフィーリアと一緒に来られるなら……。あ、でも……」
それまで顔を輝かせていたしずくちゃんだったけど、突然顔を曇らせる。
侑「どうしたの?」
しずく「で、でも……次に来る時は侑先生がいないんだなって思ったら……。ちょっと寂しくなっちゃって」
侑「……!!」
な、なんだ今日のしずくちゃんは!!
私に好意を寄せてくれていることは分かってたけど、ここまで素直だったっけ!?
可愛すぎるよしずくちゃん!! 侑「じゃあ、次行くときは私にも連絡してよ!それならいいでしょ?」
しずく「は、はいっ!ぜひお願いします!」
侑「うん!ご褒美とかじゃなくて、普通にね」
うむうむ。普通に行こう。こんな寂し気な顔をするしずくちゃん一人で行かせられないよ。まぁオフィーリアもいるから一人と一匹だけど。
ん?待てよ?今回はまだご褒美って名目でのデートだけど、次に二人きりで行くときは普通にデートになっちゃう。いや、デートは言葉の綾っていうか冗談みたいなものだけど……。
これはもう、生徒と先生っていう垣根を余裕で超えているのでは?
依怙贔屓ここに極まれる!では?
しずく「〜〜♪おいしい〜」モグモグ
侑「……」
まぁ、いっか……。
学園の生徒全員と同じ仲良さでいることなんてできないんだし。そもそも私は教育実習生の時から割と依怙贔屓してたし。
うんうん。私を慕ってくる生徒には、それ相応の特別扱いをしてあげよう!!
しずくちゃんの満足げな顔を見ると、そう思ってしまった。
侑「しずくちゃん」
しずく「何ですか?侑先生」
侑「甘くて美味しいね」
しずく「はい!それはもう!」
私のこの考えは、甘すぎるパンケーキとパフェのせいにしてしまおう。
そんな風に思った。
──
侑「次はオフィーリアのペット用具を見に行こう!」
しずく「はい!」
侑「お、この赤いスカーフ……オフィーリアにめっちゃ似合う!」
オフィーリア「わふふ〜ん」
しずく「どや顔しているので気に入ってるんだと思います」
侑「あ、そうだ!どう?しずくちゃん、私にも似合うかな?」
しずく「……!!!!」ビビビーン
侑「え、固まってどうしたのしずくちゃん」
しずく「い、いえ……。侑先生にも赤いスカーフはよくお似合いで可愛らしいな、と……」
侑「あ、可愛い?しずくちゃんにそう言って貰えるだなんて嬉しいよ!」
オフィーリア「わうわうっ!」
侑「お揃いだねぇ、オフィーリア」ナデナデ
しずく「……」
しずく(犬用の道具を身に着ける侑先生……新しい扉を開いてしまったかもしれない……)
──
──
しずく「侑先生はもっと可愛い格好が似合うと思うんです!ボーイッシュなパンツ姿だけじゃなくて、スカートもいいと思うんです!」
侑「い、いやぁ……。私に可愛い系はあんまり似合わないと思うよ……?」
しずく「いえ、私のしずくアンテナがビンビンに告げています。しずくよ、高咲侑に可愛い格好をさせるのですって。だからほら!」ズイッ
侑「え、え〜〜。そこまで言うなら……」シブシブ
侑「ど、どうかな?」
しずく「……!!か、可愛すぎます!天使を見た時に感じる無垢な感動と、一片の下劣な想い……。あぁ、こんなところに天使はいたんですね……」ウットリ 侑「し、しずくちゃん?ちょっと暴走してない?」
しずく「いえ、至って平常運転です。レジに行ってきます」
侑「えぇ!?試着だけならまだしも、買うんなら私がお金を出すよ!」
しずく「だめです。生徒という立場が下の私が購入することで、侑先生はスカートを着ずに蔵の奥に仕舞うという選択肢が取りづらくなります。そこが狙いなんです」
侑「く、くぅ〜〜。なんて策士なんだしずくちゃん!!」
しずく「ふふっ。観念してくださいね」
──
──
おばあさん「おやおや、可愛いわんちゃんだこと。撫でてもいいかしら?」
しずく「はい、優しく撫でてくださいね」
おばあさん「よしよし……。あらまぁ、人懐っこいいい子ねぇ」ナデナデ
オフィーリア「わぅぅん」
侑「オフィーリアは誰にでも懐くよね」
しずく「いえ、そうでもありませんよ」
侑「え?」
しずく「任侠系とかギャング系とか、悪そうな人が出てくる映画を一緒に見て、懐いても大丈夫そうな人か判断させる訓練をさせているんです」
侑「そ、そりゃあすごい(ランジュちゃんと接触したらどうなるんだろう……。ちょっと気になるなぁ)」
おばあさん「うふふ。でも、私とあなたたちじゃあ、振りまく愛嬌が違うわね」
侑「え、そうなんですか?」
おばあさん「えぇ。年を取ると分かるのよ。犬でも人間でも。どれくらい信頼を置いて相手に接しているかって」
おばあさん「この子の飼い主さんは……あなたね。リボンのお嬢さん」
しずく「あ、すごいです。確かに私が飼い主です」
おばあさん「この子、なんだかあなたに『がんばれ!』って言っているみたいよ?」
侑「えぇ!!そんなことまで分かるんですか!?すごいですね!!って、何を頑張るの?」
おばあさん「うふふ……。それを言うのは無粋ってモノじゃないかしら?」
侑「……?」
しずく「……ガンバリマス」
──
▲繫華街内広場▲
オフィーリア「わふふ〜ん♪」
オフィーリアは侑先生に買ってもらった赤いスカーフを身に着けご機嫌そうだった。
あの後、私たちは昼食を摂ってゆっくりした後、繁華街の中にある交流スペースの広場へ来ていた。
侑「お〜。夏休みってこともあってまあまあ人がいるねぇ」
しずく「そうですね。ですが、夏真っ盛りなので多すぎるって感じではないですね」
侑「うんうん。暑くて外に出るのは億劫だけどさ、こういう広場は微妙に空調が効いてて涼しいんだよねぇ」 しずく「私たちもしばらくここにいましょうか」
侑「そうしよっか。昼食後の食休みってことで」
オフィーリア「わうっ!」
しずく「ふふっ。オフィーリアもこう言っていますし、そこのベンチにでも腰掛けましょうか」
私たちはやや大きな樹に併設されているベンチへ腰掛けた。二人用のベンチなので自然と侑先生との距離が物理的に縮まる。
侑「じゃあここで休憩した後、もう一時間くらい遊んだら車に戻ろうか。最後にしずくちゃんと一緒に行きたい場所があるんだ」
しずく「行きたい場所ですか?」
侑「うん。今は秘密だけどね。楽しみに待っててよ」
しずく「ふふっ。楽しみにしてます」
そうして侑先生と談笑していると、ふと、ピアノの音色が聞こえた。
しずく「どこかでピアノの音が……」
侑「あ、あそこからだよ」
侑先生が指差す方向には、柵で区切られた場所にピアノがあった。
侑「……」ウズウズ
一人のピアニストとして気になるのか、でもこの談笑を中断してもいいのか、そんな風に悩んでいるように見えた。
しずく「ちょっと聞いていきませんか?」
侑「あ、うんっ!」
しずく「ふふ」
やっぱり、侑先生って不思議な人だ。私を守ってくれる頼もしい大人な面もあれば、こうして好奇心に突き動かされる子供のような面もある。
……きっと、こういうところが、侑先生の人気のあるポイントなんだろうなぁ。
私たちはピアノの傍まで寄ってみた。
侑「……なるほど」
ピアノを弾いているのは、特にフォーマルって格好ではない普通の男性だった。
遠くにいる時は分からなかったけれど、こうして近くで聞いてみるとたまにミスタッチが目立つ。商売で弾いているわけじゃないんだろうか。
やがて、その男性は椅子から立ち上がる。
パチパチと、まばらに拍手が周囲から上がった。私と侑先生もそれに倣って拍手をした。演奏終了後、周囲にいた人たちは次第に散っていった。
男A「ははっ。久々だったけど、やっぱりピアノは楽しいな」
男B「お前ピアノ弾けたんだなぁ」
そんな声が聞こえる。
少し歩いてみると、『ご自由にお弾きください』という看板が立っていた。勿論、手荒に扱うのはだめ、という注意書きもあった。
しずく「侑先生。このピアノ、自由に弾いてもいいそうですよ?」
侑「あ、そうなんだ」
自由に弾いてもいいのなら、侑先生のピアノを聞きたくなった。
エチュードの一環として弾くピアノではなく、演技の後押しをしてくれるようなピアノではなく、純粋な音楽としてのピアノを。 しずく「私、侑先生のピアノ聞いてみたいです!」
侑「え、え〜……?それはちょっと困っちゃうなぁ〜?」ポリポリ
後ろ頭を掻きつつ、侑先生は実にシームレスにピアノの前へと移動する。どうやら弾きたくてウズウズしていたらしい。
侑先生が椅子に座った瞬間、こちらに視線が集まるのを感じた。広場のやや中央に位置する場所にあるため、どうしても目を引くのだろう。
しかし、侑先生はそんな視線を一切意に介していないようで、柳に風、といった風だった。
侑「じゃあ、そうだな……」
侑先生は手揉みしながら何を弾こうか思案しているようだった。
侑「……うん、そうだね。今の私の気持ちをしずくちゃんに送るよ。だから、楽しんで聞いてね!」
しずく「え、あ、はいっ!」
私の気持ち……?
よく分からないけれど、素直に聞くことにしよう。
侑「……」
優しく、それでいて厳かに侑先生の指先が鍵盤を押す。
当然のようにピアノは鳴る。しかし、私の大切な人が弾いているからだろうか。先ほどの男性が弾いている時とは全く別の音に聞こえた。
侑「……♪」
侑先生の表情は、満たされているようだった。
軽やかに動く指先は、鍵盤を優しく撫でているように見える。しかし、しっかりとピアノはそれに応え、美しい音階を紡ぐ。
曲調は……一言ではとても言い表しづらい。不規則にも不協和音にも、一瞬で変化しそうなのに、そうは絶対にならない絶対的なバランスだった。
たとえるなら、気の向くままにステップを踏むお転婆な少女の気持ち……だろうか。
聞いているだけなのに、私の気持ちも自然と上がる。私はいつの間にか、ピアノのメロディのリズムを体で取っていた。
と、同時に気づく。周囲にいる人たちが次々に足を止め、侑先生のピアノに聞き入っていた。
広場には依然として喧騒で満ちているはず。けれど、ピアノの周りだけはなんだか雰囲気が違って見えた。
侑「……ふぅ」ガタ
そうしていると、いつの間にか侑先生の演奏は終わっていた。
侑「どうだったしずくちゃん……って、人がいっぱいだぁ」
椅子から立ち上がった侑先生は、この人の多さに面食らっていた。
私は素直に、侑先生へと拍手を送った。すると、それに呼応するようにピアノ周りにいた人たちも拍手をしていく。大喝采、とは言わなくとも、確かに侑先生のピアノは周りの人たちの心に染み渡っていたようだ。
侑「あ、どうもどうも……。あはは、ちょっと恥ずかしいや」
侑先生は頭を下げつつ、こちらへと戻ってきた。
侑「いやぁ、コンサートホールで弾くのとはまた違った感じがあるね」
しずく「そうなんですか?まぁでも、素晴らしかったです!」
侑「あはは……。照れるねぇ」
しずく「侑先生の気持ち、ピアノを通して伝わってきました」
侑「そっか。伝わったのなら、弾いた甲斐があったね!私も楽しかったよ!」ブイッ
そうしてブイサインを作る侑先生を見て、なんだか無性に胸が高鳴った。
しずく「また、聞きたいです」
だから、私だけができるアンコールを要求した。
侑「うん。もちろん!」 ……
…………
それから、私たちは車に戻るまで結局談笑をしていた。
しずく「そういえば、どうして侑先生はピアノを始めたんですか?」
侑「あぁ、それはね。さっきしずくちゃんのためにピアノを弾いた理由と同じなんだ」
しずく「同じ?」
侑「うん。人に気持ちを伝える手段。それが私にとってのピアノだったんだ」
しずく「え……?」
人に気持ちを伝える手段?
侑先生は自分の気持ちを素直に伝えられる人だ。そんな人がなぜ気持ちを伝える手段として使っているんだろう?
侑「私がまだ学生だった頃、人に言われたんだ。『気持ちを口にしすぎ』だって」
しずく「口にしすぎ?それの何が悪いんでしょう」
侑「う〜んそうだね。一言で言っちゃえば情緒がない、ってことかな?」
情緒がない。その表現は最近かすみさんが引っかかっていた表現だ。
侑「私は何でもかんでもストレートに感情を口にしちゃう。嬉しいも悲しいも全部。だから逆に、もっと難しい表現で相手に気持ちを伝えてみなよ、って言われたんだ」
侑「その素直さが、逆に嘘くさいってさ。ちょっとひどいよね」
自分の気持ちに素直過ぎるから。
それは今までの私が抱えていた、自分の気持ちに素直になれないと、正反対の悩みだった。素直過ぎる感情表現だからこそ、人に伝わらない、響かない。そんなこと、考えたこともなかった。
侑「まぁでも、そのおかげでピアノを始めたんだから感謝はしてるんだけどね。実際、千の言葉、万の言葉を紡ぐより、音楽で表現した方が伝わることもあるって分かったからさ」
しずく「なるほど……。私にとっての演劇のように、侑先生にとって音楽は、素直な自分を表現できる場所なんですね」
侑「あぁ〜……。確かにそう言われてみればそうかもね」
しずく「なんだかちょっと嬉しいです。同じ感覚を共有してるみたいで」
侑「そうだね……。あぁ、だからかな?」
侑「最初にやったエチュードの時、やけに『調和』したのはさ」
しずく「あ……」
確かに……。そういうことかもしれない……。
侑「あはは。意外と共通点が多いのかもしれないよ、私たち」ニコッ
しずく「ふふっ……だとすれば、とても嬉しいです」ニコッ
車に戻る前、そんなことを話した。
▲侑の車の中▲
繁華街から出て車を走らせること早三十分以上。ドライブは続く。
時刻はもうすぐ夕方になろうとしており、真夏とはいえ、日が沈み始めていた。
侑「よ〜し。それじゃあ降りて、しずくちゃん、オフィーリア」ガチャ
しずく「こんなところでですか……?」ガチャ
車を停めたのは小さな駐車スペースのある場所だった。
特にどこかに看板がある訳でもない。そんな車道だった。 侑「さ、ちょっと歩くよ?ついてきてね!」
しずく「あ、はい!行くよ、オフィーリア」
オフィーリア「わうんっ!」
散歩だと思ったのか、オフィーリアはブンブン尻尾を振っている。
道路を挟んで侑先生に付いていくと、そこは森の中へ入る道になっていた。人があまり訪れていないのか、舗装された道ではあるけれど、若干けもの道のようにも見えた。
侑「あ、そうだ。虫刺されは嫌だからね。虫よけスプレーかけておくよ。はい、ブシュー」
侑先生は私へ虫よけスプレーをかけてくれた。オフィーリアは犬のため、肌が荒れるといけないのでかけなかった。
しずく「ありがとうございます。それで、どこへ行くんですか……?」
侑「まだまだ秘密だよ!ほら、散歩再開っ!」スタスタ
しずく「はい」
夕暮れ時で、こんな人気のない森の中に侑先生と二人……。オフィーリアはいるけれど……。
あれ、もしかして私へのご褒美ってまさか……。
──
侑『しずくちゃん。ここなら誰も見ていないから声を出しても平気だよ?』
しずく『だ、だめですっ!私たちは……生徒と先生だって、侑先生が言ったんじゃないですか……!』
侑『それは学園の中だけの話だよ?学園から出た今、しずくちゃんと私は違うよ』
侑『言ってしまえば、兎と狼、かな……?私としずくちゃん、どっちが狼かなんて、言わなくても分かるでしょ……?』
しずく『あ……ゆう、せんせ……』
──
そうして二人の唇の距離はやがてゼロになり……。
オフィーリア「わううんっ!!」
しずく「ピャッ」
オフィーリアの声で我に返る。
侑「しずくちゃん、到着したよ。ここが、私が連れてきたかった場所」
今までの妄想を全てかぶりを振ってどこかへやる。
そうして私の目の前に現れた景色は……。
しずく「わぁ……すごい……」
そこは、どこまでも広がる海だった。
今まさに大海原に沈もうとする赤き夕日があり、非常に幻想的だった。まさか、森を抜けた先にこんな場所があったなんて……。
侑「どうかな、気に入ってくれた?私、秘蔵の場所なんだ」
しずく「はい……。すごい、です……」
侑「小さいけどさ、砂浜もあるから下に降りてみようよ」
侑先生は手招きした。
今立っている場所は海を一望できるよう、柵のあるやや高い場所にあった。その隣には、狭く小さいものの、確かに砂浜のある場所へ続く階段があった。
オフィーリアと一緒に慎重に降りていく。
聞こえてくるのは潮騒と、階段を踏みしめる自分たちの足音だけ。車の走る音や誰かの声など、そういった雑音のない閉ざされた自然の空間。
一番下まで降りると、砂浜を踏む感覚があった。少し沈み、サラサラとした感じ。 侑「ちょっと海でも眺めながら座ろうよ。ほら、シートもあるし」スッ
侑先生は砂浜にシートを敷いた。私と侑先生、オフィーリアが座れるくらいの大きさだった。私は、侑先生と肩が触れるか触れないかくらいの距離で座る。
そうしてスペースを空けたが、オフィーリアは普通に砂浜に座った。
こ、これじゃあなんだか……。
侑「ここは、さ。落ち込んだ時とか、上手くいかない時とか、そういう時に来る場所なんだ」
ふと、侑先生が暮れなずむ夕日を眺めながらそう言った。
しずく「そうなんですか……。確かに、下手に明るい音楽とかを聴くより、ずっと気持ちが落ち着く感じがします」
侑「うん。やっぱり気持ちが沈んでいる時はさ、一人になりたいんだよ。ここは人も来ないし、本当の意味で孤独になれる貴重な場所なんだ」
侑「なんていうか、自分の中に沸いた嫌な気持ち、不安な気持ち。そういった、自分を全て受け入れてくれるような場所なんだ」
しずく「なるほど……」
寄せては返す波の音が聞こえる。その波は、今呟いた言葉も吞み込んだような、そんな気がした。
しずく「でも、そんな場所に私をつれてきてもよかったんですか……?」
人混みが好きそうな侑先生の、孤独になれる貴重な場所。そんな場所を教えて貰ってもいいんだろうか。
侑「うん。なんていうか……孤独になれる場所だけど、しずくちゃんとは孤独を分かち合えるような、そんな気がしたんだ」
しずく「──」
孤独を、分かち合えるような。
その言葉は、なんだかとても胸に響いた。
しずく「私、孤独はずっと味わうものだって思ってました。分かち合うなんて、考えもしませんでした」
侑「まあ、それが普通だよ。私としずくちゃんだから、孤独は分かち合える気がするんだ」
しずく「私と侑先生だから、ですか?」
侑「うん、そうだよ。ちょっと……私の話を聞いてくれるかな」
それまで暮れる夕日を見ていた侑先生は、私へと視線を向けた。
しずく「はい。話してください」
侑「うん……。実はさ、私は今英語教師をしているけど、元々は音楽教師を目指してたんだ」
しずく「え……」
音楽教師を……?
あ、だからピアノを弾くことができたんだ。でも、それならなぜ英語教師に。
侑「言葉じゃない、音楽で自分の気持ちを表現する。そんな素敵なことを、私は伝えたかったんだ。だから、音楽教師になりたかった」
侑「そんな気持ちを抱えていた時にね、私は一人の女の子に出会うんだ」
女の子……?
侑「とある河原でさ、たった一人で歌ってたんだよ。私はその歌声に惹かれちゃってさ、つい足を止めて聞き入っちゃった。そして聞けば聞くほど分かるんだ。その歌声が一途な想いで歌われていて、その全てが悲哀に満ちているって」 侑「その女の子が歌い終わるまで、私はそこを動けなかった。それほど私は、その女の子の歌声に惹かれてた。言葉ではなく、歌声で気持ちを表現できたからなんだろうね」
侑「それ以来、一生会うことはないだろうって思ってた。でも、教育実習生の時にその子に再会してさ。私のピアノに、その子の歌声を乗せたんだ」
侑「それが私の、『調和』のピアノの一人目だった」
しずく「……!!調和の、ピアノ……」
侑「嬉しかった。楽しかった。ずっと続けばいいって思ってた。でも、その子とは酷い別れ方をしちゃってね。私は、今までのようにピアノを弾けなくなってたんだ。自分の言葉以上に伝わると思っていたピアノが、伝わっていなかったんだって」
しずく「……侑先生」
侑「音楽教師へはなれない、なりたくないって思った。そんな私を立ち直らせてくれたのはランジュちゃんだったんだ。そして、もう一度あの時みたいなピアノを弾けるようになったのは……しずくちゃん。君のおかげなんだよ」
しずく「……え。わ、私、ですか……?」
侑「うん。しずくちゃんの演技にリアルタイムで感情を合わせる。その調和する感覚がさ、あの時の女の子と同じだったんだ。それで私はその時、ようやく理解したんだ。伝わってないなんて、そんなことは無かったって。問題は、もっと別にあったって」
侑「だから、ありがとう、しずくちゃん。私にもう一度、ピアノを弾けるようにさせてくれて」
ニコリと、侑先生は私に笑いかけた。
しずく「……そ、そんな……ッ」
私が一番、感謝をする立場なのに。
私が今こうして、『私』として話せているのは侑先生のおかげなのに。どうして私だけが感謝を述べられているんだ。
しずく「私が、私こそ!感謝、しています……。何も無かった私に、自分をくれたのは、間違いなく侑先生なんです……。こうしてこみ上げる侑先生への大きな想いも全て、侑先生がくれたものなんですよ……?」
侑「あはは……。そっか。そうなんだ……。じゃあおんなじだね、しずくちゃん」
そういって、笑いかける侑先生の表情は、私の胸をひどくざわつかせた。私の危機を何度も救ってくれた侑先生。
私はまだ、何もあなたにお返しできていない……。
侑「だからさ、私はしずくちゃんとここへ来たかったんだ。ここでなら、しずくちゃんと唯一無二の思い出を、ご褒美を、プレゼントできるって思ったからさ」
そういって侑先生は、夕日を眺め始める。そんな侑先生の表情は、時折見せる子供のような顔ではなく、ひどく遠くに感じる大人な顔をしていた。
しずく「……うぅ。ずるいです……ずるいですよ侑先生……」
侑「……かもね。ちょっとずるいかも」
目頭が今までにないくらい熱くなる。涙がこぼれるのを止められない。
侑「ありがとう、しずくちゃん」
私が目を手で覆っていると、優しい感触が体を包んだ。
温かく、安心する一肌の温度。
しずく「ゆ、う……せんせ……う、うぅうううう……っ」
嗚咽と涙が止まらない私を、侑先生はずっと優しく、撫でてくれていた。しかし、そうされればそうされるほど、私は何もあなたにお返しできないって、そう思ってしまって、涙はより止まらなかった。
悔しさと情けなさ、そして溢れんばかりの侑先生への想いが、涙を流させた。 ……
…………
しずく「その、侑先生。ありがとうございました」ズビッ
侑「うん。泣き止んだみたいだね」ナデナデ
しずく「あ、あんまり見ないでください……」
ひとしきり泣いた後、ようやく私は感謝を言えた。
そして泣いている最中、侑先生には、私のことを知って欲しいって思う気持ちが強くなった。
しずく「その、侑先生……」
侑「ん?なに?」
しずく「侑先生が自分の秘密を喋ってくれたので、私も、私の秘密を知ってもらいたくなったんです。聞いてくれますか……?」
侑「……うん。話してくれると嬉しいよ」
すっかり日が沈み切った今、私は口を開く。
しずく「実は私、二重人格なんです」
侑「なるほど……。って、え?」
神妙な顔つきから一変して、侑先生は素っ頓狂な声を出した。無理もない。
しずく「論より証拠です。スイ、出てきて」
侑「え、スイ?」
スイ「……出てきたけどさ、いいのかい?これは君の、最も触れられたくない場所なんじゃないのか?」
侑「……?」
しずく「いいの。侑先生は自分の秘密を喋った。私はそんな侑先生に、知られたくない自分の秘密を、知って欲しいって思った。だから、いいの」
スイ「そうしずくが思ったのなら、私からは何も言わないよ。初めまして、高咲先生。私は『桜坂しずく』のもう一つの人格、スイだよ」
侑「え、はい。虹ヶ咲学園二年四組の担任をしている高咲侑です。よろしく、でいいのかな?」
しずく「はい。いいと思いますよ」
侑「あぁ、こっちはしずくちゃんか。顔も声も一緒なのに、雰囲気が違うんだねぇ……。いやぁ、色々な人に会ってきたけど、二つの人格がある人に会ったのは初めてだなぁ」
スイ「まぁ、何人も会うことじゃあないよ」
侑「ちなみに、どうしてスイって名前なの?」
スイ「しずくに類似する言葉と言ったら『水滴』。その水滴から水の部分だけ抜き出して『スイ』なんだ」
侑「へぇ〜。しずくちゃんにスイちゃん。なんだか姉妹みたいだ」
スイ「姉妹、か。まぁ確かに、似たようなものかもね」
しずく「スイは、先生に会う前のしずくを作ってくれたんです」
侑「え……?」
しずく「私は物心が付いた頃から、何も感じない子だったんです。怪我をするような高所に行っても恐怖を感じず、遊戯をしても楽しさを感じない。そんな子だったんです。だから、私から離れていく子もたくさんいました。理解できない変な子、それは私を爪弾きにするのに十分な理由だったんです」 侑「……」
しずく「そんな私の中には、いつの間にかスイがいました。スイは私と違って普通の感受性を持っていました。何も感じず変な子と言われる私に対し、スイはたくさんのアドバイスをくれました」
しずく「その結果、どういう振る舞いをすれば普通なのか。どういう振る舞いをすれば異常なのか。そういう一般的な感性をスイから学んでいったのです」
しずく「それで分かったのは、『しずく』が周囲とはまるで別の人間であった、ということです。変な子でいたくない、スイのような普通の子になりたい、そういう感覚はあったので、それを補う為に私が学んだのが演技です」
しずく「それが私、『桜坂しずく』の原点です」
侑「……」
言い終えた。全て、全ていい終えた。今まで誰にも明かすことは無かった私の本当の秘密。言えば絶対、変な子と、奇異な目で見られることが間違いない私の秘密。
普通じゃないって、不完全だって、そうバレるのが今まで怖かった。だから隠してきた私の本性。秘密をバラしてしまえば、前のように人が離れていくって分かっていたから。
でも、侑先生は絶対に離れていかないって。そう思ったから。
侑先生のことを知りたい気持ち以上に、私のことを知ってもらいたいってそう思ったから──
侑「──ありがとう、しずくちゃん」
そんな侑先生の回答は、感謝だった。
侑「私に話してくれてありがとう」
しずく「……はい」
侑「しずくちゃんが今までどんな思いをしていたのか。その全てを知ることはできないけど、今まで誰にも言っていない秘密を私に話してくれた。これがどれだけの決心なのかは伝わってきたよ」
侑「私のことを、そこまで信頼してくれて、ありがとう」
侑「私は、しずくちゃんから離れることはないよ。それは、絶対に変わらない、不変のこと。これだけは、覚えていてね」
しずく「あ……」
侑先生、どうしてあなたは……私の欲しい言葉を全てくれるのだろう。そしてその言葉が、嘘偽りに満ちたものではなく、全て本心から来る言葉だって、分かる。
先ほど止めたはずの涙が、また流れ始めている。
スイ「──まぁ、そういう訳だよ、高咲先生」
だが、スイと人格が入れ替わったことで涙は止まった。
スイ「しずく以外とコミュニケーションがとれるなんて一生ないと思ってたからさ、正直嬉しいよ。これからよろしくね」
侑「あ、うん。よろしくねスイちゃん」グッ
スイは私の体を操って握手をしていた。
涙をこれ以上流しちゃまずいって、だめだって、そう思ったけど……。もうちょっと浸らせてくれてもさぁ……。
スイ「さぁ、それじゃあそろそろ帰ろうよ。もうとっくに夕日は沈み切ってるし。これ以上は帰り路が危険になりそうだ」
侑「あ、そうだね。じゃあ、帰ろうか。しずくちゃん。オフィーリア」
しずく「あ、はい……」
う〜ん。微妙に煮え切らない終わりになっちゃったなぁ……。
まぁ、スイが私以外とお話できるようになったのは嬉しいことだけど……。近いうちに、かすみさんとも喋れるようになるかもしれない。私の気持ちの整理が付けば、の話だけど。
しずく「じゃあ、行くよ?オフィーリア」
色々とモヤモヤする中、私はオフィーリアのリードを引っ張った。
しかし、リードから伝わってくるのは微動だにしない感覚。 しずく「あれ?オフィーリア?眠っちゃった……?」
ちょっと長く話し込んじゃったからかな……。と、上手く見えない視界の中、オフィーリアを見ると。
オフィーリア「ぜぇ……ぜぇ……」
しずく「……オフィーリア?オフィーリア!?」
オフィーリアの近くによって耳をすますと、ひどく辛そうな呼吸をしていた。
侑「どうしたの?しずくちゃん」
しずく「侑先生!オフィーリアが、荒い呼吸をしていて、全然動かないんです!!」
侑「えっ、オフィーリア、大丈夫!?」
と、侑先生がオフィーリアへと駆け寄った瞬間。
オフィーリア「ガファ……ッ」
オフィーリアが侑先生から貰ったばかりの赤いスカーフへ血を吐いた。元より赤いスカーフが、生々しく赤く染まっていく。
しずく「オフィーリア……?」
そして、それっきりオフィーリアは荒く呼吸をするでもなく、血を吐くでもなく、ぐったりと体を横たえた。
胸が、ひどくざわつく。
しずく「オフィーリアが、死んじゃう……?」
私の口からは、自然とそんな言葉が出た。
侑「まずい!早く動物病院へと連れていくよ!しずくちゃん!急いで戻るよ!」
侑先生はそう言って、オフィーリアを抱え、元来た道へと帰っていく。
しずく「私も、行かなきゃ……」
私は敷いていたシートを巻き取り、侑先生の後を追う。
足取りは酷く重い。脳内は色々な感情が渾然一体となって渦巻いていた。
しずく「……死ぬ。死ぬ。オフィーリアが、死ぬ……?」
あのオフィーリアが、死んじゃうの?
私がそう思う度に、オフィーリアが死んでしまう未来を想像してしまう。しかし、ここで一つの違和感が頭を過る。
しずく「あ、あれ……?おかしい、な……」
侑先生を追う中で、私はその違和感が大きくなっていくことを理解してしまう。
しずく「何も、何も……感じない……?」
オフィーリアが死んでしまう未来。
私はその想像をした瞬間、心の中が一切虚無で支配されてしまった。
オフィーリアが死んでしまうことに対して、悲しくもないし、嫌でもないし、もちろん嬉しくもない。ただそこに広がるのは、茫漠とした虚無の心象風景。
そして、何も感じないその理由が、私の頭の中には明確にあった。
しずく「『底が』『抜けた』……?」
『底知れない器』であった私が、『自分』を持ってしまったことで生じる変化。それが、オフィーリアの危篤によって現れてしまったのではないだろうか。
どんな役でも降ろすことができる無限大の器。しかし、その器の底が抜けてしまえば、役を降ろすこともできなくなってしまう。なぜなら、全てすり抜けていくから。
そしてそれは何も、役だけの話ではない。それは『自分自身』でさえも、すり抜けてしまうのではないだろうか。 しずく「……嘘」
呟いたその声は、どこへなりとも消えてしまう。
その代わり、うるさく耳朶を打つ潮騒の音だけが、やけに耳に残る。
寄せては返す波の音。いや、波の音ではない。
寄せては返す波の音で生じる水の音。人を孤独へと追いやる、全てを飲み込んでしまう水そのもの。
そんな水音が、いつまでも私の中に響いていた。
▲桜坂邸への帰り道▲
あの後、私としずくちゃんは急いで近くの動物病院へと向かった。ぐったりとしたオフィーリアも心配だったが、しずくちゃんも参っている様子だった。車内では声をかけても、返ってくるのは淡泊な返事だけで、まるで抜け殻のようだった。
診療時間は過ぎていたものの、病院の先生に頼み込み、なんとかオフィーリアの診察が行われた。
結果を言えば、オフィーリアに命の別状は無かった。しかし、体調が悪いのは確かな為、定期的な通院が必要だと通知された。病院ではその後、オフィーリアへ処置が行われ、現在はしずくちゃんの家へと帰宅していた。オフィーリアは薬を飲んだおかげか、ぐったりというより、ゆったりとした姿勢で寝ていた。
侑「いやぁ、一時はどうなるかと思ったけど、何とか峠は越してよかったね」
しずく「……はい。そうですね」
オフィーリアに命の別状は無い。動物病院の先生は確かにそう断言した。これから急変して頓死することも無い、と。
しかし、しずくちゃんの顔は晴れなかった。バックミラーで表情を見ると……あまりいい表現ではないが、まるで能面の様だった。
スイ「ごめん、高咲先生。しずくはどうやらかなり気持ち的に参っているらしい。今日はちょっと、体調が良くなりそうもない」
微妙な雰囲気を察してか、スイちゃんが出てきた。
侑「まぁ、そうだよね。いくら大丈夫って太鼓判を押されたとしても、かけがえのない大切な家族だもん。すぐに割り切れる話じゃないよね」
スイ「……あぁ。そういうことだよ。だから今は、ごめんね」
侑「うん──」
そのまま、車道を走るタイヤの音と、音量控えめに流れるラジオの音だけが、車内に響いていた。
その後は無事に、しずくちゃんの家に着いた。しずくちゃんのお母さんに色々と事情説明しようとしたが、今日は帰ってこないとスイちゃんから言われた。かなりのキャリアウーマンらしい。
スイ「大丈夫だよ、高咲先生。今は私にもしずくの体を十全に動かせる。しずくのことは任せてくれよ」
侑「……分かった。今日はお疲れ様。しずくちゃん。スイちゃん」
スイ「また、学校で会おう。高咲先生」
侑「うん。ばいばい」
そうして、ご褒美の休日は終わりを告げた。
終わりよければ総て良し、という言葉はあるが、これではあんまりじゃないだろうか。
侑「……けど。こればっかりは時間が解決してくれるしかない、か……」
私は一人、車に戻りながらそう呟いた。
願わくば休日明け、元気に登校するしずくちゃんになっていて欲しい。
そう願いつつ、私は自分のアパートへと車を走らせた。
▲二年四組▲
夏休み期間中だけど集中学習という期間があり、その期間中は登校しなければならない。少し面倒くさいけど、その分他の学校よりも休日は伸びる。
そうして休日の土日が明け、また新しい週が始まる。
月曜日は憂鬱な気分が多いけど、今日のしず子はなんだか月曜日だとしても様子がおかしかった。 かすみ「ねぇしず子?どうしたの?」
しずく「ふふっ。かすみさん、今日はそればっかり。私はいつも通りだよ?」ニコッ
昼休みになってすぐ、私はしず子に話しかけた。
朝挨拶する時、移動教室の際の休み時間等、今日はしず子によく話しかけている。それは偏に、様子が普段と違っていたから。その違和感を確かめる為に話しかけていた。
かすみ「うぅん……。なんだかいつものしず子っぽくないよ。上手く言えないけど……私と初めて会った時みたいな、そんな気がする……」
しずく「──」
しずく「そう、なんだ」
私の言葉に、しず子は肯定も否定もしなかった。依然として、しず子は柔らかな笑みを浮かべている。けれど、それが無性に不気味だった。
しずく「たとえそうだとして、何か問題でもあるのかな?」
かすみ「え……?」
しずく「例えば今の私が、四月の自分と入れ替わっていたとして、そこに何か問題ってあるのかな?」
かすみ「え、え……?しず子、何言ってんの……?そんなの、問題ありまくりじゃん!」
思わず声を荒げてしまった。教室の注目が集まっていることに気づき、すぐに口を噤んだ。
でも、四月のしず子に戻ったら……今までの私との記憶が無くなるってことだ。普段なら冗談に聞こえるそれが、今は変なリアリティを感じる。
しずく「……。この話を続けても、いいことは無さそうだね。やめよっか。かすみさん」
かすみ「しず子……」
しずく「じゃあ私、演劇部の子たちと一緒にお昼食べるから」ガタンッ
かすみ「あ……」
しず子が椅子から立ち上がって、出入口のドアへと歩く。なんだか、ここでしず子を見送ったらだめな気がした。
かすみ「だ、だめっ!」
しずく「……手を離して。これじゃあどこにも行けないよ」
かすみ「だめ……だめだよ……。よく分かんないけど、しず子が遠くに行っちゃう気がする……」
しずく「ごめんね、かすみさん。付いてこないで」
かすみ「……ッ!」
強い否定の言葉。思わず私はしず子の手を離してしまった。
そして最も驚いたのは、否定の言葉を言ったはずのしず子の顔が、未だに笑顔だったこと。
しずく「あ、いけない……」
しず子は能面を張り付けたような表情になり、そのまま教室を出ていった。
かすみ「一体、どうしちゃったの……?」
離してしまった手の平をギュッと握り込み、しず子のいなくなった出入口をしばらく眺めた。
▲学園内劇場ホール▲
しずくちゃんは休みが明けても、本調子では無いようだった。
挨拶をすれば笑顔で返してくれるし、オフィーリアの容体を聞くと、理路整然と答えてくれた。けれど、しずくちゃんへの印象は抜け殻のようなあの日のままだった。
未だに消化しきれない思いがあるのか、それとも全く別の理由が原因なのか。それが分からないまま、放課後の部活動の時間になってしまった。 侑「えぇと、今日やるしずくちゃんの稽古は……抜き稽古、か」
演劇部の掲示板には、各部員がやることが書かれている。しずくちゃんの欄には抜き稽古と記載されていた。
抜き稽古とは、台本を使わず、動きを入れた芝居をすることだ。その後に行う立ち稽古との違いは、通しで行うかどうかの違いだ。抜き稽古はあくまで、抜粋された一部分のシーンだけを行う。
前に見た目隠し稽古は例外として、伴奏を付けるイメージを掴むため、この稽古には私も参加させて貰っている。まぁ、口出しするのは全てミセスだけど。
ミセス「……?桜坂、お前、何かあったのか?」
しずくちゃんを一瞥したミセスは怪訝そうにそう言った。やっぱりすごいなこの人は。一目見ただけで違いが判るもんなんだ。
しずく「いえ、特に何もありませんよ」ニコッ
ミセス「……そうか。桜坂がそう言うなら、それを信じよう。今日は一先ず、ラストのアステーリとスターラの別離のシーンを見せてもらう。今の桜坂がどれほどの理解を持っているか見たいからね」
しずく「はい。分かりました」
ミセス「それじゃあ、自分のタイミングで始めてくれ」
『その雨垂れは、いずれ星を穿つ』の公演まで、残り二カ月を切った。ミセスも今のしずくちゃんの理解の深さを知りたいのだろう。
しずくちゃんは舞台の上で一度深呼吸をした後、演技に入った──
▲学園内劇場ホール舞台上▲
頭の中には、台本の台詞が全て叩き込まれている。
本読みの段階でもすべて記憶していた。シーンを指定されれば、全て数秒以内にそらんじられる自信がある。
……けれど。
台詞を丸暗記して暗唱するだけ。演劇はそういうものではない。そこに演技を加えることで、息を吹き込まなければならないのだ。
そしてそれが、休日中ずっと懸念していたこと。
ミセスや侑先生の二人がいる前で演技をすれば、全てが自明のこととなるだろう。
ミセス「それじゃあ自分のタイミングで始めてくれ」
しずく「──はい」
一度大きく呼吸をする。肺の中の空気を全て入れ替えるつもりで大きく、大きく呼吸をした。
しずく「──スターラ、あなたには私じゃない、本当の家族がいる」
しずく「だからあなたは、私と共に来てはだめ」
しずく「もう一度吠えられたこと。それは私とあなたを繋いだけれど、あなたと私の別れも意味したの」
しずく「大丈夫。私はもう怖い物なんていない」
しずく「だって、この体を打つ雨垂れが、勇気付けてくれるもの──」
アステーリの演技をする。
アステーリという役を降ろす。
これまでに何度、役を落ろすという作業をやってきただろうか。何千?何万?それくらいじゃ効かないほど、演技とは私と不可分な関係にあったはずだ。
けれど、これはなんだ。なんだこの醜態は。 すべてが空々しい。
感情も表現できていなければ、アステーリという役を降ろせてもいない。
出るはずの涙が、一切流れてこない……。
これではただの……。
ミセス「──なにうわごと言ってんだい桜坂」
ミセスが演技に割り込む。
ミセスの言う通りだった。これではただのうわごとだ。演技でも何でもない。ただ虚空に言葉を吐くだけの意味のない作業。
役を降ろそうにも、全てが私の中を通り抜けていく。
底が、抜けてしまっているからだ。
しずく「……申し訳ありません。今日はとても、演技ができる状態ではないようです。帰らせていただいてもよろしいでしょうか」
私は素直にそう告げた。無意識の内に悲哀の感情を込めようとしていたが、何も込められていない平坦な声音だけが出た。
ミセス「なに……?なに言ってんだい桜坂ッ!!生意気なこと言ってんじゃないよッ!!あんたが自らのエゴで立った舞台だろう!?それを途中で降りるだなんて、甘ったれんじゃないよ!!」
怒号が空気を切り裂く。しかし、まるで私には響かない。私自身、何も感情を込められないが、それは相手の感情をも受け止められない。まるで他人事のように聞こえてしまう。
けれど、『私は何か気に障るようなことをしてしまった』ことは、火を見るより明らかだ。ならば、謝罪の意思を見せる。これが道理だろう。
しずく「申し訳ありません」
両手を前に持っていき、腰を曲げた。今できる最大限の謝罪だ。
ミセス「……ッ。あんた、本当に何が、あったんだい……?」
そんな私の無感情な謝罪に面食らったのか、ミセスは逆に落ち着いていた。
何があったのか、という疑問。それを答えるのは実に容易だった。
しずく「『底が』『抜けてしまった』んですよ。ミセス」
ミセス「底が抜けた……?」
侑「……!!」
ミセスはまたしても怪訝な顔つきになる。その一方で侑先生は、驚愕の表情をしていた。
侑「し、しずくちゃん。底が抜けたってそれは……」
しずく「言葉の通りです。底が抜けちゃったんですよ。だから私は誰の役も降ろせないし、感情を表現することもできなくなっちゃいました。舞台に上がれば、何かが変わるかも、って思っていましたが、そんなことはありませんでした」
ミセス「……ッ!桜坂、あんた前に戻ったのかい!?いや、前に戻ったなんてそんな生易しいもんじゃない。これは……」
前に戻った。それはある意味正しい。
もっとも、ミセスの言う『前』と、私の思う『前』は、年月に十年以上の差があるが。
しずく「そうですね。その通りです。私はどうやら元の桜坂しずくに戻ってしまったらしいです」
ミセス「……」
侑「な、なんでさしずくちゃん……!!なんで、なんで……?あっ!オフィーリアのこと!?オフィーリアなら命に別状はないはずだよ!!だから安心していいんだよ!?」
しずく「……。オフィーリア、ですか」
オフィーリア。私の愛犬だった存在。
アステーリにとっての、スターラのような存在。 けれど、今の私はオフィーリアに対し何の感慨も抱いていない。命の危機に瀕していたという事実にあっても悲しくならず、命に別状は無かったという朗報に対しても安堵の息は吐かなかった。
無感。ただ、それだけだった。
けれど、今の私が何を言おうが、この状況を脱することはできない。それならば、利用させて貰おう。
前のしずくなら言っていたかもしれない台詞を。
しずく「はい。その通りです侑先生。今の私は何も感じられません。それは偏に、愛犬のオフィーリアが命の危機に瀕してしまったからです」
しずく「私が長年愛情を注いできたオフィーリア。その存在が消えようとした瞬間、私の中で色々な感情が錯綜し、未だに整理できていないのです。だから、こんな状況で演劇はできません。申し訳ありません」
感情を込めようとは思った。が、しかし、冷淡とも取れる無感情な声音しか、喉からは発せられなかった。とはいえ、これは全て一時期的なもの。私がオフィーリアへの気持ちの整理が付けば解決する。そういう説得をした。
侑「え……でもさっき底が抜けたって」
しずく「言葉の綾、ですよ。恐らく時間が解決してくれると思います」
侑「そ、そんな……。そんなわけ──」
ミセス「いい」
尚も食い下がる侑先生を、ミセスは制止した。ミセスの鋭い眼光は、正確に私の眼を貫いていた。
ミセス「これは、今すぐどうこうできる問題でも無さそうだ。おい、桜坂。その気持ちの整理とやらに時間はどれくらい必要なんだ?」
ミセスは合理的な判断へと移ったらしい。理性と本能を兼ね備えた演出家。流石の傑物だと感じた。
しずく「……数日時間を貰えれば」
私の口から出たのは、何の根拠もない出まかせだった。
実のところ、私も心のどこかでは思っていることがある。この一切の感情の揺らぎがない凪のような状態は、いずれ時間が解決してくれるんじゃないか、と。しかし同時に、それは間違いなく可能性はゼロ、ということも、私は実感していた。
だから、猶予として私は、数日の時間を要求した。今はとにかく、この場から離れたかった。何も感じないとはいえ、針の筵のような今の状態は、好ましいものではない。
ミセス「……。今週の金曜だ。金曜は絶対に演劇部に顔だしな。それであんたがだめなようだったら、主役の座は引きずり降ろさせて代役を据えるからね。覚悟しなよ」
しずく「はい。ご迷惑をおかけしてしまって申し訳ありません」
要求は通った。私は深々と頭を下げる。
ミセスはそう言ってから、どこかへと消えてしまった。他の稽古を見に行ったのだろう。
侑「しずくちゃん。本当なの?オフィーリアへの気持ちの整理が付いていないって。本当にそれだけが原因なの……?」
しずく「……」
侑先生の目には、疑惑の感情が一切詰まっていないことが分かった。そこにあるのは純度の高い心配な感情だけ。
……。侑先生の感情だけは、未だに汲めるらしい。どうやら『しずく』としての残滓がまだ、どこかに残っているらしい。
なら、この残滓を利用してしまおう。
しずく「ごめんなさい、侑先生。本当にだめな時は、必ず相談します」
侑先生への申し訳ない気持ち。必ず相談するという、私の中の弱い気持ち。
残滓を集められるだけ集めて、絞って絞って絞り切り、なけなしの感情表現をした。
侑「……本当だね?その言葉に嘘はないね?」 グサリと、切っ先の鋭い何かで胸を刺された気がした。しかしそれは、気のせいだったらしい。
心の中でかぶりを振って、私は口を開ける。
しずく「はい。その時はよろしくお願いします」ニコッ
そうして私は、途中で稽古を切り上げて自宅へと帰った。
劇場ホールを出るまで、侑先生の視線が向けられている気がしたが、私はそれを無視した。
もし、あのまま侑先生と喋っていたら、何か酷いことを言ってしまいそうだった。それは……だめだと思った。頭の片隅の方で「嫌だ!」と、誰かが叫んでいる気がした。
▲桜坂邸▲
ここ数日開けていないカーテンからは、鈍い太陽光が入ってくる。外はとうに昼間らしい。しかし、カーテンを開けるのも、体を起こすのも、全てが億劫だった。時間が経てば経つほど、自分の体から生気が失われるような気がした。
スイ「しずく、インターホンが鳴ってるよ?」
スイが話しかけてくる。確かにインターホンの鳴る音が聞こえる。
恐らく侑先生か、かすみさんか。もしくはそのどちらかだろう。私を心配してお見舞いに来てくれる優しい人たち。
けれど、私はそれさえも無視していた。
あれから……。
舞台の上で底が抜けたことを告白したあの日から、すでに三日経過していた。私はその三日間、学園を欠席していた。
お母さんには体調が悪いと伝えてある。ただの拗らせた風邪と言い張り、学園内には欠席の連絡をして貰っている。キャリアウーマンとして働くお母さんは、仕事に穴を開けるわけにはいかない。
だから、体調が悪いわけではない。ただ単純に億劫だった。ただそれだけだった。
手も足も動くし、呼吸も正常。けれど、体に活力を送る心の部分に欠陥を抱えていた。
スイ「君の予想通りだよ。高咲先生とかすみだ。声が聞こえる」
侑『しずくちゃ〜ん!いるんでしょ!体調が悪いところ悪いけどさ!ドアを開けてよ!』
かすみ『開けなさ〜い!!風紀委員に逆らっていいと思ってるの〜っ!?』
スイ「二人とも、しずくを心配して来てくれているんだよ?答えないと不義理ってものじゃないか?」
正論だ。けど、億劫で面倒だ。
今の私が何を言っても無駄なのだ。心は回復しないし、何も感じないしずくとして接しても、二人には悪影響しかない。
それならば、何もしない方がいい。
スイ「……。しずく、いつまでこうしているつもりだい?ミセスとの約束の期限は明日だろう?」
二人はやがて諦めたのか。声が聞こえなくなった。それでいい。それでいいんだ。
スイ「私の話を聞いてよしずく!!いつまでそうしてるつもりだよ!!」
しずく「うるさいなぁ……」
スイ「うるさいじゃないよ。いつまでそうやって不貞寝しているつもりさ。このままじゃあ、劇の主役降ろされちゃうよ?それでもいいの?」
しずく「それは……」
スイ「じゃあ何か対策を考えないと。前のしずくに逆戻りしたって、前とは状況が違うよ。今は私以外にも、高咲先生やかすみがいる」
スイ「きっと前のしずくに戻る方法はあるはずだよ。そのまま不貞寝をしていても、仕方がないよ……」
しずく「……無理だよ、絶対に、もう無理だよ」
スイ「無理なんかない!!絶対に無いよ!!今は……オフィーリアが病気で混乱しているだけで、絶対にもとに戻れるよ!!」 しずく「ふふっ……。スイ、前とは状況が違うって言ったけどさ。確かに違うよね」
しずく「だって、前の私にはまだ底があった。けど、今はもうないんだよ?そこに何を詰め込もうが、今さらだよ。何をしたって仕方がない。どうしようもないことだよ……」
スイ「そんなことない……!そもそもなんだよ、底知れない器って……。それは、部長の勝手な尺度で決めつけられたことだよ!しずくはそもそも、底知れない器なんかじゃない!!」
しずく「……うるさいなぁ、もう。私が一番分かってるんだよ?役を降ろしたくてもすり抜けていく。相手の感情を上手く受け取れない。底が抜けたんだよ、間違いなく」
スイ「私の言うことを信じてよ、しずく!!」
しずく「ああ、もう……うるさい!!うるさいんだよスイ!!そんなに言うなら、私の体を貸してあげる!!スイがどうにかしてよ!!スイならどうにかできるでしょ!?もうどうしようもないんだよ!!何をしたって無駄なんだよ!!元のしずくなんて、取り戻せるわけない!!」
しずく「私は……舞台に生かされていた……。舞台に生かされていた私が、舞台の上で何も感じない、何も表現できなくなったら、それはもう、おしまいなんだよ……。底が抜けたとか、抜けないとか、そんなのはもうどうでもいい」
しずく「舞台の上で何もできなくなった『しずく』に、意味はないんだよ……。演劇は、私の生きる意味だったんだから……」
スイ「……。しずく、君が諦めたって、私は諦めないよ。だから──」
しずく「もう、いいよ……。明日まで、黙ってて」
スイ(……!!出られない!!)
スイ(どうすればいいんだ……。しずくを演劇の舞台から降ろさせるなんて、そんなことは絶対にしちゃいけない……)
スイ(私が、私がするしかないの……?)
しずく「……あぁ、なんだか、遠くなっちゃったなぁ」
虚空に手を伸ばしてみる。
そこには、少し前まで充実していた生活があったような気がした。侑先生との胸躍るような日々。かすみさんとの楽しくも騒がしい日々。『その雨垂れは、いずれ星をも穿つ』で忙しいけれど、充実していた日々。
その全てが、遠くに行ってしまったような、そんな錯覚に陥る。
しずく「なんだろう。穴が、開いたみたい……」
胸に手を置くと、確かに鼓動は感じるし、穴が開いたわけではない。
きっとこの穴は、心の穴だ。
それまでの私には無かったモノ。侑先生、かすみさん、演劇の日々。
それらが一気に私の手から離れ、そこに穴を感じているんだ。
もう、そこには何もない、ただの虚無の空間。だから、虚空。
しずく「……」
虚空を掴んだとしても、その手には、何も握られていなかった。
▲二年四組▲
かすみ「んぁ〜〜……もうどうすればいいのぉ……」
ぐてーんと机の上に突っ伏した。
様子のおかしかったしず子は、体調不良を理由に三日も学園を休んでいた。絶対に何かあったんだ。そうじゃなきゃおかしい。
しず子の家に行ったり、しず子へLINEを何通も送ったけれど、全てなしのつぶてだった。
生徒A「どしたの中須さん。今日は元気ないね。夏休みだけど夏休みじゃないから?」
かすみ「……こっちの理由。もうどうしていいか分かんない……」
生徒A「悩み事?それならいつも通り侑ちゃん先生にするか、親友の桜坂さんにすればいいんじゃない?」 かすみ「それができれば、苦労しないよ……」
侑先生には相談した。
どうやら愛犬のオフィーリアが危篤ということも知った。でも、峠は越したという話も聞いた。それじゃあ何が原因でしず子は学園を休んでいるの。
……。それを聞くには、しず子本人に聞くしかない。それだけは事実だ──
生徒A「あ、桜坂さん」
かすみ「え……」
顔を上げて出入口のドアを見つめると、そこには確かにしず子がいた。見間違えようがない。大きなリボンに真面目な優等生のような整った顔立ち。
あそこにいるのは、確かに桜坂しずくだった。
かすみ「しず子っ!!」ガタン
生徒A「わわっ」
勢いよく立ち上がり、私はしず子の元へと向かう。
かすみ「しず子、もう大丈夫なの……?」
しずく「おはようかすみさん。ここ数日、迷惑をかけたね。でも、もう大丈夫だよ」ニコッ
かすみ「本当?本当に……?」
私へと笑いかけるしず子の表情は、実に柔和で自然なものだった。前に感じた無理やり口角を上げただけの笑みではなく、不気味にも感じなかった。
それは、侑先生が大好きで、演劇が大好きな桜坂しずくの笑みだった。
しずく「うん。もう平気。ごめんね、LINEとか色々してくれたのに」
かすみ「……うぅん。そんなのどうだっていいよ!しず子が元気になって戻ってきた!それだけで十分だよ!」
しずく「ふふっ。ありがとうかすみさん」
かすみ「でも、埋め合わせは必ずして貰うからね!!」
しずく「もちろんだよ。今度どこかに遊びに行こうね」
よかった。本当によかった。
学園を休む前のしず子は、血が通わない人形のようだった。でも今のしず子は、人形のような印象を一切感じさせない、血の通う元気ないつものしず子だった。
強いて言えば……。
不気味なくらい、前のしず子を感じさせないってこと、かな……?
▲学園内劇場ホール▲
ミセス「それで、今日は来たのかい?」
侑「はいっ!来ましたよ!」
とても心配だったけれど、しずくちゃんは今日無事に登校した。
朝礼の時に走り出して問い詰めたいところだったけれど、他の生徒の手前、さすがにできなかった。
休み時間を利用して聞き倒すと、すぐに分かった。冷たい氷のような印象を受けるしずくちゃんではなく、人間らしい喜怒哀楽のハッキリとしたしずくちゃんになっていた。
まぁ、ちょっと元気になり過ぎ?とは思ったけど。
ミセス「そうかい……。ったく、心配かけさせやがって」
ミセスはそう言ってため息を吐いた。ミセスなりに心配していたらしい。
侑「ミセスもちゃんと心配してくれていたんですね!」
ミセス「あぁん?高咲、あんた。私が血の通わない機械だとでも思ってんのかい……?」
侑「い、いえそんな。慈悲深い人だなぁ!って思ってますよ!?」
ミセス「心にもないことを……」
ガララッ
そんな寸劇をしていると、しずくちゃんが劇場ホールに入ってきた。
しずく「おはようございます」
ミセス「……あぁ。その分だと、霧は晴れたみたいだ……ん?」
しずく「はい。ご迷惑をおかけしました。それと、ミセスや侑先生には無礼な口をきいてしまいました。真に申し訳ありません」
侑「いいんだよしずくちゃん!こうして元気な姿がまた見れた!それだけで十分さ!ですよねミセス!」 ミセス「……?」
ミセスは何かおかしいのか。怪訝な顔つきを強くしていく。一体何がそんなに気になっているのだろう……?
こんなにしずくちゃんは元気になったのに。
しずく「それでは、準備してきますね」
侑「あ、うん……」
そういってしずくちゃんは舞台袖に行った。
どこからどう見ても、冷淡な印象など受けないしずくちゃんだ。特に何も違和感なんて……。
ミセス「……おい高咲。あんたは何も感じなかったのか?」
侑「え?何って……元気なしずくちゃんじゃないですか。復帰して喜ぶところじゃないんですか?」
ミセス「そこだよそこ。今の桜坂は、元気過ぎる。思い返してもみろ。月曜日時点の桜坂はどんな顔をしていた?」
侑「どんな顔って……。能面みたいな……」
能面みたいで、それでいて冷たい印象を与えるような、悪い意味で人間味を感じない顔をしていた。
ミセス「そうだ。能面のような顔だった。浮かべる顔つきもまるで、仮面を張り付けたみたいで人間味が一切無かった。無理やり顔を歪ませたような表情を作り、感情や演技で作ったような表情じゃあ無かった」
侑「それは……そうですけど。でもだからこそ、こうして元気になったのは……。いや、待てよ……」
先ほどミセスが言った『元気過ぎる』という一言。
理由はどうあれ、今まで見たこともない能面のような顔をしたしずくちゃん。そんなしずくちゃんが、たった数日であそこまで元気になれるものだろうか。むしろ、元気になっていたらおかしい……?
侑「もしかして今のしずくちゃんは空元気でここにいると……?いや、空元気にしては……」
ミセス「あぁ、私には分かる。あれは空元気じゃない。そんなことを一片も感じさせないくらい、不気味なくらい純粋な元気だ。だからおかしいんだ」
ミセス「何かがあって、彼女は感情が全て抜け落ちた。数日後再会した彼女は、空元気の笑みを見せていた。これなら分かる」
ミセス「けれど、感情が抜け落ちた彼女が数日後、空元気なんて一切感じない、太陽のように明るい笑みを見せていたら……?」
侑「おかしい……。なんで、そんな……」
ミセスから聞いてようやく気付いた。
普通、あそこまで元気になるわけがない。元気になってしまったら、逆に不思議なくらいだ。それならなぜ……?
しずく「──準備できました。それじゃあ、前にやったラストの別離のシーン。その抜き稽古を始めますね」
侑「……!!」
ミセス「……見ていれば分かる。あれが空元気か、そうでないかなんて。舞台の上で隠し事は、一切できやしない」
前に見たしずくちゃんと重なる。
しずくちゃんは一度大きく呼吸をし、演技に入る──
▽桜坂邸▽
小鳥の鳴き声で目が覚める。目覚ましが鳴るより先に起きてしまったらしい。
上体を起こし、まだ上手く働かない頭で思考する。
スイ「……しずく。本当に私に体を委ねるつもりかい?」
私の問いに、しずくは何も答えない。
私が主人格の時は、しずくの心の気持ちは聞こえなくなる。しずくが自分から語り掛けでもしない限り、聞こえない。
つまり、この沈黙こそ、しずくの肯定の気持ちそのもの、というわけだ。
スイ「私が……やるしかないのか……」
三日間あまり体を動かさなかったせいか、少し動きの鈍い体を動かし、私は朝食を摂りに向かった。
今日はミセスとの約束の期限。
これを破ってしまったら、しずくは『その雨垂れは、いずれ星をも穿つ』の主役を降ろされてしまう。それは同時に、しずくの役者人生そのものが終わることを意味している。
そうなれば、全ておしまいだ。
これはただの延命処置に過ぎないのかもしれない。ただ、それでも。 スイ「やるしかない……ッ」
拳を握りしめ、私は決意を新たにした。
▽二年四組前廊下▽
しずくを真似る。
もし、しずくのモノマネ選手権があったとすれば、私に敵う人はいないだろう。なぜなら、これまでのしずくの一生を共にし、もっとも近い距離でしずくを観察してきた私だ。
同じ声、同じ顔、同じ体。桜坂しずくを演じられる環境、経験。その全てが私には兼ね備わっている。
スイ「……ふぅ」
一度、教室に入る前に深呼吸を吐く。
前にやったような、みんなの前でダジャレを披露し、変な空気になった時とは状況がまるで違う。一から十まで全て、私がしずくを演じるしかないのだ。
間違ってはいけない。悟られてもいけない。
私は全身全霊で、桜坂しずくを実行するしかない。
私はできるだけ自然に見えるよう、教室へと入る。
かすみ「しず子っ!!」ガタン
入った瞬間、名を呼ばれる。呼んだのは中須かすみ。たった数か月でしずくの親友となった人物だ。
距離感が近く、友人想いの優しい人。
三日も休んでいたんだ。まず間違いなく、接触してくるのはかすみだと思っていた。
かすみ「しず子、もう大丈夫なの……?」
転びそうになりつつ、急いで私の元へとかすみは駆けつけた。
かすみの顔は、焦燥、心配、そうした感情が見て取れた。どれだけしずくを想っていたのか一瞬で分かった。
私はしずくを降ろす。大丈夫、私には完全再現できるだけの力がある。
スイ「おはようかすみさん。ここ数日、迷惑をかけたね。でも、もう大丈夫だよ」ニコッ
声音から仕草まで、しずくのしそうなこと全てを完全再現する。
かすみ「本当?本当に……?」
かすみの表情を見るに、私がしずくではなくスイだとは、微塵も感じていない様子だった。かすみを騙せなければ、高咲先生やミセスをも騙すことはできないだろう。
スイ「うん。もう平気。ごめんね、LINEとか色々してくれたのに」
かすみ「……うぅん。そんなのどうだっていいよ!しず子が元気になって戻ってきた!それだけで十分だよ!」
スイ「ふふっ。ありがとうかすみさん」
かすみ「でも、埋め合わせは必ずさせて貰うからね!!」
スイ「もちろんだよ。今度どこかに遊びに行こうね」
順調だった。万事つつがなく、私はしずくを遂行できている。
何も感じなくなったしずくなんて、微塵も感じさせない。元々の、高咲先生を慕い、かすみを親友だと感じているしずくが戻ってきた。それも、元気いっぱいで。
私はそうなるように、努めて冷静に振る舞った。
大丈夫。これならミセスも高咲先生も、しずくとして接することが可能だ。
▲学園内劇場ホール舞台上▲
一度大きく深呼吸をする。演技に入るため、役を降ろすために。しずくの行っていたルーティンをなぞることで、疑似的に演技力自体を私の身に降ろす。
ミセスは何か勘付いた様子だったが、その何か自体には気づいていないようだった。それならそれでいい。しずくがスイに成り代わっている、それに気が付かなければそれでいいのだ。いずれ違和感は払拭される。
……いずれ?
いや、今は余計なことに思考を割かれるな。今は私自身の価値を、しずくが演劇を続けられるように、アステーリを全身全霊で演じるのみだ。 スイ「──スターラ、あなたには私じゃない、本当の家族がいる」
アステーリの台詞。
アステーリだってスターラと別れたくはない。けれど、本当に血の繋がった家族とスターラが離れる。それをアステーリは望んでいない。
スイ「だからあなたは、私と共に来てはだめ」
苦渋の決断だ。アステーリは唇を噛みそうになる感情を必死で押さえつけながら、スターラの新たな旅立ちを言祝ぐのだ。
スイ「もう一度吠えられたこと。それは私とあなたを繋いだけれど、あなたと私の別れも意味したの」
全てアステーリは理解していた。
スターラに吠える訓練を施した最初から。最初から理解していたのだ。この訓練は、いずれ自分との別離を意味しているのだと。
全て分かっていて、それがスターラとの別れに繋がると分かっていながらも、スターラの幸福に繋がると考えて訓練をしていたのだ。
スイ「大丈夫。私はもう怖い物なんてない」
アステーリは本心からそう言っていた。
外が怖かった彼女だった。人間が怖かった彼女だった。
けれど……。
スイ「だって、この体を打つ雨垂れが、勇気づけてくれるもの」
一つ一つは小さくか弱い雨垂れかもしれない。けれど、いずれそれは星をも穿つほど強く頼もしくなるって。
アステーリは、雨垂れが体を打つ度に、スターラの頼もしい遠吠えを思い出すことができる。その度に勇気は貰える。
スイ「だから、私のことはもう心配いらない。あなたはあなたの家族のために、その勇気を振るってあげて、スターラ」
そして、ラストのワンシーンは言い終わる。
スイ「……え?」
意図しない感情の揺らぎがあった。
いつの間にか、私の頬には一筋のしずくが瞼を伝って流れていた。涙を流そうだなんて考えていなかった。けれど結果的に、このワンシーンに彩を加える演出になった。
この涙の意味は……アステーリがスターラへの想いが起因して流れたものではない。
これは、私の、スイの想い。
いや、正確に言うのならば、私がまだスイでは無かった頃の想い……。
あの日、別離した時の──
しずく(──スイ)
唐突に、心の中でしずくの声がした。
▽……▽
温度も空気も、なにもない場所。
私は桜坂しずくの深い場所へと潜っていた。
息もしなくていい、瞼を閉じる必要もない。ただ、存在しているだけ。
ふと意識を向ければ、外の世界の状況が目に映る。
『私』ではない、スイが動かす世界だ。
スイは私の一番近い場所にずっといた存在だ。私の猿真似をするならば、これほどの逸材はいないだろう。
きっと誰にも、しずくがスイであると気づかれない。それほどスイの私を演じる能力は高い。
けれど、今スイが完璧にしずくを演じられたとして、それが何に繋がるのだろうか。
どれほど上手く演じようと、それはスイでありしずくではない。
それは単なる延命措置に過ぎない。
根本的に、私というしずくをどうにかしなければ、意味のない行動なのだ。 ──
かすみ「しず子、もう大丈夫なの……?」
スイ「おはようかすみさん。ここ数日、迷惑をかけたね。でも、もう大丈夫だよ」ニコッ
──
かすみさんはスイの演技に一抹の疑惑も浮かべていない様子だった。
当然だ。
いくら前の私がかすみさんと親友という関係であったとしても、私とスイは十年以上の積み重ねがある。スイの私の猿真似を、すぐ見破られるわけがないのだ。
──
スイ「はい。ご迷惑をおかけしました。それと、ミセスや侑先生には無礼な口をきいてしまいました。真に申し訳ありません」
侑「いいんだよしずくちゃん!こうして元気な姿がまた見れた!それだけで十分だよ!ですよねミセス!」
ミセス「……?」
──
侑先生のことは上手く騙せている。私がスイになっていること等、微塵も思っていないらしい。
しかし、ミセスは別だった。明らかにスイに対して怪訝な目つきをしている。とはいえ、それはしずくがスイに変わったことへの違和感ではないだろう。
数日の間に性格が変わったような突然の変化。それに対する疑惑の目つきだ。そこから私がスイに成り代わっている、などという結論に至ることなど不可能だ。
不可能なのだ。
いずれ、このまま数日、数か月、数年の時が経過すれば、その違和感は払拭されるはずだろう。
……いずれ?
じゃあ私はいつ、外に出られるんだろう……。
──
スイ「──スターラ、あなたには私じゃない、本当の家族がいる」
スイ「だからあなたは、私と共に来てはだめ」
スイ「もう一度吠えられたこと。それは私とあなたを繋いだけれど、あなたと私の別れも意味したの」
スイ「大丈夫。私はもう怖い物なんていない」
スイ「だって、この体を打つ雨垂れが、勇気付けてくれるもの」
スイ「だから、私のことはもう心配いらない。あなたはあなたの家族のために、その勇気を振るってあげて、スターラ」
──
完璧だ。完璧にスイは、アステーリの役を演じきって見せた。
今の私にはできないことを、スイは完璧にこなして見せたのだ。
頬を伝う涙からも分かる。スイはしずくを演じるだけではない、普通の演劇もこなせる器の持ち主なのだ。
さすがだと思った。
やはり、スイは完全なのだと感じた。
スイは私が覚えている限り、最初から普通の人と同じ感性を持っていた。それに、私の体を借りて人と接する時も、自分の気持ちをストレートに伝えられていた。
考え方も、私とはまるで真逆だった。
ポジティブで好奇心旺盛な性格。それが、スイだった。
何も感じない存在として生まれ、ネガティブな思考展開をする不完全な私とは違う。完全な存在として生まれたスイ。
……嗚呼、そうか。
そもそも、前提条件が狂っていたんだ。
『不完全なしずくが主人格』ではなく『完全なスイが主人格』になるべきだったんだ。
こうして感情を奪われたのは、罰だったんだ。
『底知れない器』としての私が『自分』を求めてしまったから。分不相応な立場を求めてしまったから。
だから私は、折角獲得した『自分』を奪われてしまったのだ。
『底知れない器』として褒められるしずくだけで、満足するべきだったのだ。
手の届かない高みへと手を伸ばしてしまったから、蝋の翼で太陽を目指してしまったから、私の翼は捥がれてしまった。
こんな簡単なことに、なぜ今まで気が付かなかったのだろうか。
これは悲劇ではない。喜劇だ。
バカな私が、分不相応な立場を求めた喜劇。
しずくの立場をスイに明け渡すまでの喜劇。
しずくが死ぬことで、スイが桜坂しずくになる喜劇。 私はすぐに決心した。
スイへと語り掛ける。
しずく(スイ、私、ようやく分かったよ)
しずく(不完全なしずくが、今まで桜坂しずくの主人格だったことがおかしかったんだ)
しずく(完全な存在として生まれたスイこそ、桜坂しずくの主人格に相応しい)
しずく(だから、ね。スイ。今は眠っていて)
私は無理やりスイの人格を遥か奥底へと追いやる。今はただ、安らかに眠っていて。
しずく(次にあなたが目を覚ました時、それは──)
しずく(桜坂しずくが、本当の私になる時だから)
▲学園内劇場ホール▲
侑「すごい……」
私はしずくちゃんの演技に素直にそう感嘆の息を漏らした。
前のしずくちゃんとはあまりに違う、別離のシーンとしてあまりに相応しい演技だった。けれど、だからこそおかしいと感じた。
この数日で一体しずくちゃんの身に何が起きたんだ……?
こんな、まるで人が変わったような……。
侑「人が、変わった……?」
自分の中の考えに引っかかりを感じる。
侑「……そうだ。今のしずくちゃんがもし、スイちゃんなら」
辻褄が合う。
今私の目の前にいるしずくちゃんの人格がスイちゃんだとすれば、全ての謎が氷解する。
だって、人格が違うのだ。それならば人が変わったような変貌ぶりにも全て説明がつく。
そしてだからこそ、一つの結論が導き出される。
侑「まだ、しずくちゃんはあの日のままなんだ……!!」
そうだ。あの日と比べて元気過ぎるしずくちゃんの今の人格が、スイちゃんならば。
恐らく『しずく』ちゃんはあの日のまま、時が止まったままなんだ……!!
侑「スイ──」
しずく「どうでしたか?ミセス」
機先を制するように、言葉を遮られる。
ミセス「……あんたに何があったか、それは聞かん。役者が見せていいのは舞台の上での自分だけだからね」
ミセス「私から言えるのは、及第点をくれてやる。それだけさね」
しずく「……ふふっ。そうでしょう。そうでしょうとも……」
そういってしずくちゃんはクツクツと笑っていた。その様は、なんだか余裕たっぷりに人と接するスイちゃんのように見えなくて、でも、スイちゃんがしずくちゃんの演技をしているようにも見えなくて。
頭が、余計に混乱した。
しずく「すみません、ミセス。来てばかりで何ですが、少しお花を摘んできます」
ミセス「あぁ、そうかい。早く行ってきな」
しずく「はい。失礼します」
ミセス「──引き続き、アステーリは続投だよ。桜坂」
しずく「……はい。喜んで続けさせていただきます」
しずくちゃんなのか、スイちゃんなのか、私の頭はずっと混乱していた。
兎に角、しずくちゃんがトイレから戻ったら、問いただすしかない。演劇部の活動なんて関係ない。
今、『しずく』ちゃんは苦しんでいるんだ。
助けられずに何が教師だ……!! ……
…………
遅い。
しずくちゃんがトイレに行ってからすでに十分経過している。
私の中で不安がどんどん膨れ上がる。
侑「すみませんミセス。ちょっと舞台袖に行ってきます」
ミセス「……あぁ」
舞台袖には恐らく、しずくちゃんのバッグがあるだろう。ロッカールームに行く暇もなく、舞台に上がったからだ。
侑「……ないってことは」
舞台袖にしずくちゃんのバッグは無かった。もしかしたら別の場所に置いてある可能性もあるが……。
侑「すみませんミセス!今日は帰ります!!」
急いで舞台前の客席へと戻ってミセスへ告げ、私は劇場ホールを出ていった。
▲外廊下▲
もしかしたら腹痛でトイレに閉じこもっているだけかもしれない。私の不安はただの杞憂かもしれない。けれど、もし本当にしずくちゃんが嘘を吐いてここから出ていったのであれば……。
あまりいい予感はしない。
一先ず、近くにいる生徒に聞き込みを行う。
侑「ごめん、ちょっといい──」
……
…………
しずくちゃんは非常に目立つ容姿をしている。
大きなリボンをしている女子生徒を見かけなかったか、質問はそれだけで十分だった。そしてすぐに目撃証言は集まった。
侑「やっぱりもう学園にはいない……!!」
私は急いで学園内の駐車場へと向かう。
今のしずくちゃんを一人にしちゃいけない。私の本能の部分がそう叫んでいる。
でも、一体どこへ行けば……。
かすみ「──あれ、侑先生。どうしたんですか?」
侑「……かすみちゃん」
少し足を止める。
逸る気持ちを何とか抑え、かすみちゃんにも聞いてみる。
侑「かすみちゃん、しずくちゃんをどこかで見なかった?」
かすみ「しず子ですか……?はい。確かにさっきそこで会いましたよ」
侑「かすみちゃん……ッ!」
かすみ「ひゃっ」
侑「しずくちゃんとどんな話をしたの?どこへ行ったか分かる?」
かすみ「い、痛いです侑先生……」
侑「あ……」
いつのまにか掴んでいたかすみちゃんの両肩から手を離す。
焦燥感に駆られ、冷静さを欠いていたらしい。今はどんなに焦っていたとしても、冷静でいなきゃいけないのに……!!
侑「ごめん。でも、時は一刻を争うんだ。しずくちゃんとどんな会話をしたの?」
かすみ「は、はい……。えぇと、演劇部で稽古をしてるはずのしず子が何してるのかなって思って、なにしてるの?って聞いたんです」
かすみ「それで、やっぱり体調が優れないから帰るって言ってたんです」
侑「……そうなんだ。分かった。ありがとうかすみちゃん」
しずくちゃんは家に帰ったらしい……けど、これも本当かどうか分からない。ミセスと私に嘘を言った以上、かすみちゃんへも嘘を吐いた可能性が高い。
くっ……。
聞き込みを続けていても日が暮れてしまう。一体どこへ向かえばいいんだ……。
かすみ「あ、それと」
思い出したようにかすみちゃんは告げる。
かすみ「オフィーリアにも会いたいから、って言ってましたね」
侑「オフィーリアにも……?」
かすみちゃんを騙すなら、単なる体調不良だけで十分なはずだ。ミセスと私にトイレに行くという用事を告げたように。
オフィーリアにも会いたい、という理由は、わざわざ早退してまですることじゃない。演劇部の後にだって必ず会える。理由付けとして、あまりにも弱い。 だけどそれが逆説的に、しずくちゃんはオフィーリアに会いに帰ったんだと証明している。
私は確信した。
今しずくちゃんが向かっている先は──
侑「なら……しずくちゃんの家だ」
かすみ「え?」
侑「ありがとうかすみちゃん!風紀委員のお仕事頑張ってね!」
かすみ「あ、はい……」
私はそう言い残し、駐車場へと全力で走った。
▲桜坂邸玄関前▲
しずくちゃんの家に到着した。今日はたまたま車で通勤したから良かった。いつものように電車を使っていたら、先回りできなかったかもしれない。
ちなみに道中、矯めつ眇めつ目を皿にしていたが、しずくちゃんは見当たらなかった。
家の庭をサッと確認する。オフィーリアはいない。そもそも家の中で飼われているので当然と言えば当然だ。
侑「ご両親のどっちかがいてくれると助かるんだけど……」
家のインターホンを押した。流石にまだしずくちゃんは来ていないと思うが、もし先回りできていなかったら最悪だ。
しずくの母『はい。どちら様でしょうか?』
侑「あ、はい。しずくちゃんの担任の高咲です。しずくちゃんはもう帰っていますか?」
僥倖だ。キャリアウーマンとして忙しいしずくちゃんのお母さんだけど、今日は珍しく家にいるらしい。
しずくの母『あ、高咲先生。お世話になっています。しずくはまだ帰宅していませんよ?まだ演劇部の活動のはずじゃ……。あれ?高咲先生は演劇部の顧問の先生なんですよね?』
侑「あぁ〜。はい。そうです。ちょっとしずくちゃんに用事がありまして……」
どうしよう。しずくちゃんのお母さんになんて説明しよう。そもそもお母さんはしずくちゃんが二重人格だって知っているんだろうか。
しずくの母『なるほど……。外はお暑いでしょうし、とりあえず中に入ってください』
侑「あ、はい。ありがとうございます」
色々と聞きたいこともあるし、とりあえずお邪魔させて貰おう。
▲桜坂邸▲
しずくの母「粗茶ですがどうぞ」
侑「ありがとうございます……。おぉ、なんか上品なお味がする」
しずくの母「ふふっ。仕事が忙しいと、こういう嗜好品に凝るくらいしか趣味がないんですよ」
侑「なるほど……」ズズッ…
とりあえず、しずくちゃんが来るまで待機することにしよう。
まぁそもそも、しずくちゃんが自宅以外の全く別の場所を目指していれば、待機は愚策になるんだけど……。でも、私の勘が間違いないって言ってる。
三十分待っても来ない場合は、失礼することにしよう。
侑「そうそう。オフィーリアの容体はどうですか?」
しずくの母「あぁ、オフィーリアは元気ですよ?見ますか?」 侑「是非ともお願いします」
とりあえず、懸念の一つを潰そうと思う。
私はしずくちゃんからオフィーリアの容体は快復へ向かっており、どんどん元気になっていると聞かされている。しかし、そもそもそれが嘘で、容体が悪化する一方だった場合、しずくちゃんが情緒不安定な理由も納得できる。
しずくちゃんのお母さんに付いていくと、そこにはゆったりと眠るオフィーリアがいた。
侑「……よく寝ていますね」
しずくの母「はい。血を吐いたとは信じられないくらいです」
私はオフィーリアを起こさないよう抜き足差し足で近づき、呼吸音を確認する。オフィーリアからは安らかな寝息が聞こえた。
病状が悪化している、ということは無さそうだ。
侑「起こしちゃうのもあれですし、戻りましょうか」
しずくの母「はい」
懸念の一つは杞憂に終わった。杞憂でよかったのは確かだが、それではしずくちゃんがスイに代わった理由が分からない。どういうことなんだ……?
リビングに戻り、もう一度上品なお味のするお茶を飲む。う〜ん、落ち着く。
しずくの母「おかわりもどうぞ」
侑「あ、ありがとうございます」
さて、どうしようか。
地雷を踏みぬくことになるかもしれないが、二重人格の件についてカマをかけてみるか。
侑「しずくちゃんって、たまに人が変わったように見えるんですよね」
しずくの母「そうなんですか?私はあまりあの子と一緒の時間を過ごせていないので……」
……。別の地雷を踏みぬいたらしい。でも、追加で聞くしかない。
二重人格であることを知っていたのなら、それについて詳しく。いつ頃スイは現れたのか、いつ二重人格だと知ったのか、しずくちゃんが打ち明けた理由など。
侑「お仕事なら仕方がないですよ。まぁでも、たまに思うんですよね。二重人格なんじゃないかって」
カマどころではない。確信そのものだ。さて、どうなる……?
しずくの母「……それは高咲先生。少し言葉が過ぎるのではないですか?しずくはちょっと色々なことがありましたが、普通の子です」
侑「あ、すみません……。言葉が過ぎました」
怒気を孕んだ声で真っ直ぐ言われた。これが演技だとは到底思えない。忙しくてなかなか時間は作れないけれど、しずくちゃんはお母さんからしっかり愛されているらしい。
だが、しずくちゃんはお母さんにも二重人格であることを告げていない。
でも、私には告げてくれた。
……。私は想像以上に、しずくちゃんから信頼されていたらしい。
しずくの母「……高咲先生」
侑「あ、はいっ」
少々思索に励み過ぎていた。いかんいかん。
しずくの母「その……高咲先生がここへ来た理由に、二重人格だとか、人が変わったようなこととか、そういったことが関係しているんでしょうか」 侑「……」
肯定するべきか、否定するべきか。
……秘密主義でいる訳にもいかない、か。
侑「はい。その通りです。詳細はしずくちゃんを裏切りそうになるので言えないのですが、私はそのしずくちゃんが今抱える問題を解決したくてここに参上しました」
二重人格については触れなかった。しずくちゃんがあの砂浜で打ち明けてくれた覚悟を蔑ろにしないためだ。たとえそれが、血の繋がった両親であったとしても。
しずくの母「そう、ですか……」
しずくちゃんのお母さんはそう言って、どこか鎮痛な面持ちを見せる。何か思う所があるのだろう。
しばらく、重い空気がリビングに満ちる。私はその沈黙のせいで居心地が悪く、喉が渇いていないのにお茶を飲んでしまう。
しずくの母「どうぞ……」
侑「あ、ありがとうございます……」
そういってまたお茶に口を付ける。
く〜、どうしよう。何を聞くべきか、何を言うべきか。
しずくちゃんのお母さんが何か言いだすのを待つべきか。それとも私から何か言うべきか。
う〜ん。とはいえ、私が質問することって、かなり抽象的過ぎて言語化し辛いんだよなぁ。何かないだろうか。違和感が明確で、それも今のしずくちゃんに関係ありそうなこと。
しずくちゃん。二重人格。スイ。オフィーリア。演劇。底知れない器。自分。
侑「……あ」
しずくの母「……?どうかなさいましたか?」
そういえば、しずくちゃんの言っていたことと、食い違っていたことがあった。
侑「その、オフィーリアって泳ぐのが下手、なんですか?」
しずくの母「え……?」
しずくちゃんのお母さんはその質問が予想外だったらしい。
私が前、オフィーリアと一緒に散歩に行った時、お風呂を借りる時にしずくちゃんのお母さんが言った一言が、妙に印象に残っていた。
──
しずくの母「──オフィーリアに水泳を教えた甲斐があったわ」
──
水泳を教えていた。
それならばなぜしずくちゃんは、オフィーリアは泳ぎが下手、と私に言ったのだろうか。
侑「確か、オフィーリアには泳ぎを教えていたんですよね?それはなぜですか?」
特に収穫のある質問ではないかもしれない。しかし、違和感はできるだけ払拭されるべきだ。
しずくの母「それは……」
しずくちゃんのお母さんは実に言いにくそうにしていた。言い淀むということは、そこに何かがあるということだ。
侑「お願いします。私にどうか教えてください。そこにしずくちゃんを救う手がかりがあるかもしれないんです」
私は椅子から立ち上がり、できるだけ深く礼をした。 しずくの母「高咲先生……」
しずくの母「……分かりました。ですのでどうか、お顔を上げてください」
侑「……!はい、ありがとうございます!」
一度椅子に座り直す。
しずくの母「ではまず、お話をする前に、なぜそのような疑問を抱かれたのか、お聞きしてもいいですか?」
侑「はい。私は以前、オフィーリアと一緒に散歩に行ったのですが、その際しずくちゃんから『走るのは得意だけど泳ぐのは不得意』と釘を刺されたんです。ですが、溺れる小学生を救出した際、私が見たオフィーリアは、とても泳ぎが上手だったので違和感を覚えていたんです」
紛れもない事実だ。その時は単に、小さかった頃のオフィーリアは泳ぎが下手で、それ以来水の中にいれていないとか、そういうことだと思っていた。でも、この感じだと真実は別な気がする。
しずくの母「なるほど……。そうだったんですね。あの子の中では……オフィーリアは昔のまま変わっていなかったんですね……」
侑「え……?どういうことですか?」
しずくの母「はい。一言で言ってしまえば、泳ぎが不得意なオフィーリアは、前のオフィーリアなんです」
侑「……?前のオフィーリア、ですか?」
前のオフィーリア。そういう単語が出た。これはどういうことだ?
しずくの母「実は今、そこで眠っているオフィーリアは、二代目なんです。初代オフィーリアはしずくが小さい頃に亡くなっているんです」
侑「え……」
しずくの母「その……。初代オフィーリアの死因は溺死なんです。小さかった頃のしずくを助けるために、身を挺して犠牲となったんです」
侑「……」
しずくの母「その後、しずくは幼いながらもきちんと状況を理解していたんですね。しずくは激しく自分を責め立てていました。オフィーリアが亡くなったのは自分のせいだって、自分がオフィーリアを殺したんだって」
しずくの母「それから……。しずくは抜け殻のようになってしまって、私と夫はどうしていいか分からず、この傷を癒してあげられるのは同じペットだと思ったんです。そうして飼ったのが同じ犬種のオフィーリアだったんです」
しずくの母「それからでしょうか。抜け殻のようで無気力だったしずくが、少しずつ自分を取り戻していったのは……。恥ずかしい話ですが、私と夫ではしずくの心の傷を埋めてあげられなかったんです……」
侑「そんなことが……」
衝撃だった。
オフィーリアが実は二代目だったということ。
しずくちゃんは初代オフィーリアの挺身によって溺死を免れたこと。その犠牲となって初代オフィーリアは死んでしまったこと。
それに責任を感じてしずくちゃんは抜け殻のようになってしまったこと。
侑「では、しずくちゃんの中のオフィーリアは未だに初代だと……?」
しずくの母「そう、かもしれません……。もしかしたら、未だにしずくはオフィーリアの死を受け入れていないのかもしれません」
しずくの母「自分の心が壊れてしまうことを防ぐために、しずくは自分の中に固く大きな壁を作っているのかも……」
侑「……。だから教えたんですね。初代のオフィーリアは泳ぎが得意じゃ無かったから。もう二度と同じことを繰り返さないために」
しずくの母「その通りです。だから私は二代目のオフィーリアに、徹底的に泳ぎを教育したんです」 侑「なるほど……」
そうか。そうだったのか……。
オフィーリアは二代目だったんだ……。
……。
問題は、ここからだ。
初代オフィーリアは死んでおり、今いるオフィーリアは二代目ということも分かった。
けれど、じゃあなんでしずくちゃんは以前、底が抜けた、なんて言ったんだろうか。スイを主人格にして舞台上で演技をしたんだろうか。
ん?待てよ?
底が抜けた?もしかして、しずくちゃんの中にはまだ先が──
侑「うっ……」
唐突に腹痛が私を襲う。
そういえば、お茶を何杯もお代わりしていたんだった……。お茶に含まれるタンニンとかカフェインは、胃にあんまりよくないんだった……。
侑「す、すみません。ちょっとお手洗いをお借りしたいのですが……」
しずくの母「あ、はい。こちらです」
私はそう言って、リビングの机に車のキーを置いて、お手洗いへと向かった。キーがトイレに流れたら大変だからね。
……
…………
侑「あぁ、もう。これからはどんな状況でも、飲みすぎ食べすぎは絶対にしない……」
腹痛は辛いものだ。体の内側から針で刺されているような感覚がある。
侑「……?」
何やらリビングが騒がしかった。何かあったのか──
侑「……!!何かあったって、そんなの一つしかない!!」
しずくちゃんが帰ってきたんだ!!
私は急いでリビングへと向かう。しずくちゃんに会わなければならない。そして、伝えなければならないことがあった。
侑「しずくちゃん!!」
私が勢いよくリビングのドアを開けると、そこにはしずくちゃんのお母さんが床に倒れていた。
侑「だ、大丈夫ですか!?」
しずくの母「は、はい。ですが……オフィーリアを一目見たらしずくが走って出ていってしまって……。止めようとはしたんですが、強く押されてしまって……」
あぁもうっ。トイレしている間人の気配がすると思ったらしずくちゃんだったのか!!
オフィーリアを見に来るために自宅を訪れる。私の予感は的中していた。
侑「すみません。しずくちゃんを追います!!」
一目見た感じだと、しずくちゃんのお母さんはよろけて倒れただけだ。どこにも外傷はない。あったとしても、軽く痣ができる程度だろう。
私は急いで玄関へと向かう。玄関へと続く廊下を走ると、来た時には無かった血が廊下に付着していた。何があったかは分からない。今は、走り抜けるだけだ。
付着した血は気になるが、今は考えている場合じゃない。玄関のドアを思い切り開け放つ。
そして私が目にした光景は、路駐していた私の車が走り去っていく瞬間だった。
侑「え……!!なんで私の車が……」
一瞬呆気に取られるが、すぐに検討が付いた。
しずくちゃんだ……!
私がトイレに行く前、リビングに置いた車のキーを盗んで車を走らせたんだ。それで次の目的地へと向かおうとしている。
侑「う〜。無免許運転と窃盗は犯罪なんだぞ!!」
私は家の中へと戻り、自分のバッグの中からスマホを取り出す。
通話アプリを開いて目的の人物へと連絡をした。
侑「ランジュちゃん!今すぐ私の指定した場所に来て!!」
ランジュ『好啊。今すぐ向かうわ』 何も事情を聞かず、ランジュちゃんは同意してくれた。
ランジュちゃんのドライビングテクニックなら、なんとか追いつけるはず……。
……
…………
景色が高速で過ぎていく。
気分はまるで高速道路か、それとも新幹線の車窓か。
私は現在、ランジュちゃんの大型バイクの後ろに乗せて貰っている。
ランジュちゃんは自動車ではなく大型バイクを好む性格をしている。というのも、生き死にを近くで感じられるから、という何ともバイオレンスな理由だ。
とはいえ、急いでいる時はこれほどすり抜けに適した乗り物もないだろう。ゾンビ映画やパンデミック映画などでは重宝されているイメージがある。
ランジュ「次の道は!?」
侑「次を右!!その後はしばらく直進!!」
ランジュ「好啊!!」
ランジュちゃんの操縦する大型バイクはとうの昔に速度制限など超過している。改造に次ぐ改造を施し、軽く200キロ以上出る性能をしているらしい。
正直言うと滅茶苦茶怖いが、こうでもしないと先に出たしずくちゃんに追い付くこと等不可能だ。
ランジュ「私の忠告が!!役に立って良かったわね!!」
侑「そうだね!!ランジュちゃんに言われなきゃ!!GPSを自分の車になんて付けなかったよ!!」
出している速度が速度なので大声で叫ばなければ互いに聞こえない。声が嗄れるかもしれないが、そこは現役の高校教師の私だ。声を出し生徒を導く職業なのだ。すぐに嗄れるほどやわな喉をしていない。
ランジュ「あ!!そうだ!!ヘルメットの脇のボタンを押してみなさい!!」
侑「え!!これ!?」
言われた通りヘルメット横に付いているボタンを押してみた。すると、周囲の雑音が消え、代わりに誰かの息遣いが微かに聞こえた。
ランジュ「ふふん。ノイズキャンセリング機能と通信機能が付いたヘルメットよ!」
侑「わ〜お。便利だねこれ」
ランジュ「孤虎会特注の品よ!」
侑「孤虎会っていうか、ランジュちゃんの趣味の品じゃないの……?」
ランジュ「そうとも言うわね!」
ランジュちゃんの組織の私物化は今に始まったことじゃないけど、まぁ、だからこそ幹部にまで上り詰めているんだけど。やっていることは滅茶苦茶に見えて、その実理路整然とした計画があるらしい。まぁ普通に滅茶苦茶な時は幾つもあるんだけど。
ランジュ「それじゃあそろそろ事情を聞かせて貰えるかしら」
侑「あぁ、うん……。えぇと……何から話そうかな……。あ、次を左」
ランジュ「好啊。侑、長い説明は退屈なだけよ。一言で分かるように言ってちょうだい」
ランジュちゃんらしい返答だ。
今の状況を一言で説明、か……。
そうだな……。
今までの状況を総合して、私が導く出した推論は一つの可能性を暗示していた。
つまりそれは──
侑「しずくちゃんが、自分から死のうとしているんだ。だから、それを助けなきゃいけない。それだけだよ」
その推論とは、『しずくちゃんが自殺する』というものだった。
私の中に浮かんでいた幾つものしずくちゃんを形成するピース。その最後の一つのピースは、しずくちゃんがこれから向かう目的地だった。
私がスマホを確認して自動車の現在地を確認すると、益々その目的地は明確になっていく。
即ち、孤独になれる場所。即ち、誰にも邪魔されず静かに事に及べる場所。
私がしずくちゃんに案内した、海の見える砂浜。そこがしずくちゃんの赴いている目的地なのだ。
ランジュ「そう……。しずくが、ね」
ランジュちゃんは無感情に吐き捨てた。ランジュちゃんはその出生からか、弱者が弱者の手段を取ることに対し強く否定的だ。
侑「うん。私は、目の前で死のうとしている生徒を目の前にして、ジッとしていられる教師じゃないよ」
たった今私が吐いた言葉。
それはある意味その通りであったが、説明が不足している部分もあった。
ランジュ「教師として?いいえ、違うわ。あなたは高咲侑だからそうするんでしょ?」 そしてその説明不足は、ランジュちゃんによって容易に看破される。
当然だ。ランジュちゃんは私の過去の大体を知っている。
ランジュ「もう二度と、大切な人から手を離さない為、でしょう?だからあなたは教師を諦めなかったし、そこまでの武術を身に着けた。違う?」
侑「……うぅん。その通りだよ。私は、私だから。私は、高咲侑だから。二度とあんなことを繰り返さないように、私はいまここにいるんだ」
それはまるで、しずくちゃんのお母さんが二代目オフィーリアへ泳ぎの特訓を施したように。過去を悔やんだ結果からくるものだった。
侑「絶対に……手を離さない……。いや、掴んで見せる……!!」
ランジュ「ふふっ……。それでいいのよ。高咲侑」
侑「うん。ありがとう、ランジュちゃん」
そうだ。
私は何のためにこうして教師になったのか。過去を悔やんだ結果だ。
過去を悔やんで、その場で停滞することもできた。教師の道を諦めることもできた。
けれど、そうした弱者の道でいることを、ランジュちゃんは許さなかった。
だから私は今こうして、しずくちゃんの元へと駆けつけられる。
ランジュちゃんには、感謝しても感謝しても、足りないくらいの恩を貰い過ぎている。だからせめて。
侑「本当に、ありがとう」
もう一度、感謝の言葉を伝えた。
ランジュ「ランジュに任せなさい!!」
侑「うん!!頼んだよランジュちゃん!!そこを左だよ!!」
ランジュ「好啊!!」
私にはまだ、覚悟が不足していたらしい。だからこうしてランジュちゃんに叱咤されている。
覚悟をもう一度固めるために。しずくちゃんを救う意志を強固な物とするために。
『あの日』を思い出す。
──
『来ちゃったんだ……』
『でも、ごめんね。もう、止められない』
『これが、最後、かなぁ……』
『それじゃあ……ばいばい』
『──せつ菜ちゃん』
──
頭が沸騰するくらい熱くなる。
あの日の後悔は、未だにこうして総毛立つほど覚えている。
後悔を無かったことにしない為に。後悔そのものを無駄にしない為に。
私は今、ここにいる。
覚悟は、できた。
あとは、目的地に着くだけだ──
▲孤独の砂浜周辺▲
ランジュ「ここね?」
侑「うん……!私の車が乗り捨ててあるもん!間違いないよ!」
侑が指差した方向を見ると、そこには確かに侑の自動車が雑に駐車されていた。どこかに何度もぶつけたのか、凹んでいる箇所がいくつも見える。
侑「行ってくる!!」
ランジュ「えぇ」
目的地へと向かう侑を見送る。
侑「ランジュちゃんはこないの……?」
どうしようかしら。ここで変に固辞するのはおかしい。それらしい理由を並べなければならない。
ランジュ「周辺を確認してくるわ。もしかしたら、侑が来るって分かって、別の場所で事に及ぶ可能性があるもの」
侑「なるほど……。それじゃあ、後は任せたよ!!」
侑は目的地へと続く小道に向かって走り出す。
……いつものように「任せなさい!」と言えなかった。 ランジュ「しずくが待っているのは、あなただけよ、侑。私はお呼びじゃないわ」
侑にはもう聞こえていないだろうけど、そう呟く。
ランジュ「行かないで、なんて。言えるわけないじゃない……ッ」
そう言って、自らの肩を強く抱く。
矛盾した行動だった。
頭の中ではしずくの元へと向かって欲しくない。けれど、こうしてしずくの元へと行く手伝いをしてしまっている。
それはなぜか。
単純だ。
そうするのが高咲侑だから。
そうする高咲侑だから、ランジュが慕う高咲侑なのだ。
ランジュ「もう、ランジュの出る幕はないわね……。再見、侑」
そう呟き、元来た道へ戻るために、自分の居場所へと戻るために、バイクを走らせた。
一度だけ、侑が入っていった小道を一瞥し、それ以降は何も振り返らなかった。
ランジュ「未練がましいなんて、ランジュらしくないもの」
▽学園内外廊下▽
スイを私の心の奥底へと追いやった後、私はミセスと侑先生に嘘を吐いて外廊下へ出ていた。
ここからはスピード勝負だ。急いで私が死ぬことができる場所まで向かわないと。そうじゃなければ、確実に侑先生が邪魔をしてくる。
急ぎ足で学園から出る。
かすみ「──あれ、しず子じゃん。なにしてるの?演劇部って今日休みなの?」
最悪だ。よりにもよってかすみさんと会ってしまった。
今の私はスイじゃない。感情を乗せられないから上手く会話できる自信がない。
だからと言って無視するわけにもいかない……。ここは、迅速に乗り切るしか方法はない……!
しずく「こんにちは。かすみさん。やっぱり体調がもとに戻っていなくて……。今から帰るところなんだ」
かすみ「あ、そうなんだ。お大事にね」
よし、大丈夫だ。一瞬の邂逅だけなら怪しまれることはない。
勿論、自宅に帰るのは嘘だ。真っ直ぐ自殺できるポイントへ向かう。
が、しかし。
しずく「──それに、オフィーリアにも会いたいから。じゃあね、かすみさん」
かすみ「うん。ばいばいしず子」
口からは、予定外の言葉が出た。
オフィーリアに会いたいから……?
どうして?そんなことをする暇はあるんだろうか。いや、普通はない。
でも、なぜか……。今の私は、オフィーリアに会わなければならない。
強迫観念めいた思いが、心を席巻していた。
▽桜坂邸▽
私は……帰ってきてしまっていた。自宅へと。
奇妙な力に引き寄せられるように、オフィーリアに会わなければならないと、私の深い部分の声がここへと歩ませた。
そして、自宅に着く寸前で気づいた。侑先生の車があるって。
どうやって私がここに来ることを予測したのか分からないけれど、侑先生がいること、それだけは事実だ。
侑先生の勘は鋭い。会えば必ず、私の考えを看破されるだろう。そして自殺の説得をされるだろう。だから絶対に会ってはいけない。
なのに……。私は自宅へと入ってしまった。
オフィーリアへと会う為に……。
私は一直線にオフィーリアのいる部屋を目指す。気づかれないよう静かに玄関の扉を開錠し、抜き足差し足進んでいく。まずリビングを覗いたが、そこにいるのはお母さんだけだった。ではオフィーリアは……。
と、見当を付けて歩いていると、トイレの鍵が締まっていることに気づく。どうやら侑先生はお手洗い中らしい。これは好都合だ。
そして、奥の部屋にオフィーリアがいた。
オフィーリアは安らかな寝息を立てて、ゆったりとくつろいでいた。
しずく「オフィーリア……」
私はオフィーリアの名を呼びながら起こさないよう最大の注意を払って撫でた。撫でるつもりは無かった。けれど、無性に撫でたかった。
なぜ……?なぜ私はオフィーリアに会いに来たんだ……?
しずく「うぐ……ッ」 途端、酷い頭痛に襲われた。
まるで、閉じた脳みそを無理やり開かれているような、そんな感覚。何かが、何かが呼び起されようとしていた。
激しい頭痛の中で、とある光景が呼び起される。
水面から出たり、水中に潜ったり。何度も何度も同じことを繰り返す光景。これは……溺れている光景……?
そして次に水面から何とか顔を出した時、そこに現れたのは──
しずく「……ッ!!だめ、だめだめだめ……!!これは、思い出しちゃいけない記憶だ……。私は、私は死なないといけないんだ……」
呼び起されようとした記憶を、無理やり封じる。
どうしてかは分からない。けれど、オフィーリアとこれ以上触れ合ったら、私は自殺の決心が鈍ると、そう確信できた。この強迫観念めいた行動は……私の、『しずく』の意思ではない。それならこれは……『しずく』ではない意思……。
私はさらに奥へと、スイを追いやる。私の手の届かないところまで、必死で追いやった。けれど、不安は拭えない。
『しずく』でも『スイ』でもないのなら、一体……。
息が自然と荒くなる。依然と頭痛は続いていた。体調は……最悪だ。
私は近くに置いてあるペン立てにあったボールペンを手に取る。
しずく「……ぐッ」
手の甲に思い切りボールペンを突き立てる。思った以上に激しい痛みが脳みそを突き抜ける。けれど、おかげで痛覚が脳みそを支配していく。余計な思考が、痛みに塗り替えられていく。
しずく「私は……不完全だ……。完全なスイに……明け渡さないといけない……。スイが、私に、桜坂しずくになるべきなんだ……」
頭を手で押さえながら、私はできるだけ早く家から出ようと決断した。
しずくの母「しずく……?」
蹌踉とした足取りで歩く私の前に、リビングから顔をだしたお母さんが現れた。できるだけ抜き足差し足で家に入ったつもりだが、さすがに気付かれてしまったらしい。
しずくの母「しずく!高咲先生がね、今来ているのよ。だからあなたも──」
しずく「ごめん、お母さん。私は今から行かなきゃいけないところがあるの」
お母さんを押しのけ、私は必死でこの家から出ようとする。
しずくの母「だ、だめよしずく!高咲先生は、あなたを助けようと駆けつけてくださったのよ!だから、ここにいなさい!」
服の袖を掴まれた。お母さんの意思は固いらしく、軽く腕を振るうだけでは抜け出せなかった。
ああ、もう……。なんでみんな私の邪魔をするんだ……!!
しずく「離してよ!!」
しずくの母「きゃあっ」
しずく「あ……」
私は力の限りお母さんを突き飛ばした。お母さんは壁に体を思い切りぶつけ、その場に倒れてしまった。当たり所がやや悪かったらしい。
頭痛と混乱、そして実の母親への暴力と、最悪に最悪の気分が重なる。
無感であったはずの自分はどこへ行ったのか。頭がぐちゃぐちゃになってもう何も考えたくない。
でもだからこそ、この静止は振り切られなければならない。頭のぐちゃぐちゃをどうにかする為に、安らかになる為に。私は向かわなければならないのだ。
玄関へと戻ろうとした瞬間、リビングのテーブルの上に車のキーが見えた。
これは……侑先生の車のキーに違いない。
しずく「そうだ、あそこなら……」
侑先生。車のキー。それらで連想した私の場所は、ご褒美に一緒に行った海の見える静かな砂浜だった。
あそこは孤独になれる場所。誰にも邪魔されずに自殺が遂行できる場所。
孤独になれる、そんな場所なら……。私だけが死に、スイだけが助かることができる儀式の場として相応しい。
孤独は分かち合えるが、それは結局のところ一人と一人に過ぎない。
孤独は二人では味わえない。私とスイ二人では味わえない。
それならば、あそこは絶好の場所だ。
車のキーをひったくるようにして、私は自宅を出た。 ▲孤独の砂浜▲
しずく「ぐっ……、はぁ、はぁ……」
何とか。何とかここまで来れた。頭痛と混乱のせいで車を色々な場所にぶつけたが、幸い人の目に付かなくてよかった。
頭痛は酷くなる一方だ。波の音……というより、水の音を聞くとより酷くなっていく。
この感覚は……オフィーリアに会った時に似た感覚。脳みそを無理やり開かれるような、秘匿していた何かが無理やり暴かれるような、そんな感覚。
だが、もう終わりだ。
もうすぐ、全てが終わる……。
砂浜へと続く階段をゆっくりと降りる。一番下まで着くと、足が少し沈むような感触と、砂浜らしいサラサラとした感覚があった。
しずく「はぁ、はぁ……あと、少し……」
ここは孤独になれる場所。
私の足音と波の音、風がそよいで森の葉が揺れる音。そういう音しかしない。
放課後からここまでだいぶ時間が掛かってしまった。時刻はすでに夕方。大海原に沈もうとする夕日が見える。
しずく「あの時と……同じ……」
足取りは鉛のように重い。けれど、一歩一歩確かに進んでいく。
奇しくも、あのご褒美を貰った土曜日と同じだった。時刻、場所。
けれど、一つ違うことがあるとすれば……ここに侑先生が──
侑「──しずくちゃん!!」
しずく「──」
ゆっくりと、誰何の声に振り向くと、そこには侑先生がいた。
居場所など一切告げていないのに、どうしてここが分かったのだろうか……。もしかして、車に発信機が……?
侑「追いついた……今度は追い付いた……!!」
侑先生は迅速に砂浜へと続く階段を降りていく。
このままでは追い付かれてしまう……。
こんな体を満足に動かせない自分では、容易に取り押さえられてしまう。それが侑先生なら尚更だ。
……。
もう、こちらが説得するしかない。私が、しずくが死ななければならないことを。分かってもらうしかない。もう、これしか方法はない……!!
しずく「止まってください!!」
私は自宅で持ってきたままだったボールペンを首筋に当てる。思い切り突き立てれば薄い皮膚など容易に裂ける。頸動脈を突けば出血多量で死ぬだろう。
侑「しずくちゃん……ッ」
侑先生は、私と数メートルの距離で止まった。
元より本当に自殺するつもりなど毛頭ないが、ボールペンを持っていない方から流れる血を見れば、これが伊達や酔狂ではないと分かるだろう。
しずく「それ以上私に近づけば、このボールペンが私の首を貫きます。人を殺すのに大仰な武器はいらないんです」
侑「……分かったよ。私はここから動かない。でもお話をしよう。しずくちゃん」
私もそのつもりだ。
正直どうやってここまで来れたのか。なぜここだと当てられたのか。そこが気になる。
その後、侑先生を説得しよう。
しずく「私もそのつもりです。侑先生はなぜ、私がここにいると当てられたんですか?」
侑「単純だよ。私の車にはGPSが付いているんだ。盗難防止用にランジュちゃんにお勧めされてね。まぁ、実の生徒に盗まれるとは思わなかったけれど」
しずく「そうですか……」
やはりそうだった。迂闊だったけれど、あの時はあれしか選択肢が無かった。ここにたどり着けただけでも重畳だろう。
しずく「では、私がなぜここにいるのか。それは分かってるんですか?」
侑「うん。しずくちゃん、君は自ら死のうとしている。そうだね?」
しずく「……正解です。なぜその結論に至ったか、聞いてもいいですか?」
侑「うん。まぁ、これまでのことを継ぎ接ぎしていったら自然とね」
侑「あの日、かすみちゃんと一緒に目隠し稽古をした日。しずくちゃんは演劇を自分の生きる意味だと言っていたね。もしそんなしずくちゃんが、演劇ができない状態になるとすればどういう時だろう」 侑「月曜日に言った『底が抜けた』という言葉。しずくちゃんが演劇を続けられない時。それは、底が抜けて役を降ろせなくなった時だって気づいたんだ。そして、演劇を続けられないこと。それはしずくちゃんの生きる意味それ自体が消えることを意味する」
しずく「……まるで探偵ですね。それで私が自殺しようと思ったと?」
侑「私は、そう思ってるよ。でも、しずくちゃんの中ではちょっと違うらしいね」
……まだ、まだ足りない。
侑先生は私が自殺する理由を底が抜けたことだと考えているようだが、そうではない。まだパズルのピースは不足している。
侑「そして……。金曜日。ミセスとの約束の日になった。しずくちゃんは前の面影なんて一切感じさせないくらい元気になってた。不自然なくらいにね」
侑「そんなしずくちゃんの演技を客席から見たよ。圧巻だった。たった数分の演技だったけれど、あれが公演で発揮されれば怪演、とまで言われたんじゃないかな」
侑「だからこそ不自然だった。まるで人が代わったかのような演技。そう、しずくちゃんなら代わることが可能だったんだよ。しずくちゃんではなく、スイちゃんに」
しずく「……そこまで見抜かれていたとは」
侑「そんなスイちゃんの怪演に、しずくちゃんは自分自身の存在意義を見失ったんじゃないかな。しずくじゃなくていい、スイに任せればいいって。生きる意味の演劇を失ったしずくは、もう死ぬしかないって」
しずく「……正解です。大正解ですよ。侑先生」
私は心の底から拍手をした。
散りばめられた推理に必要なパーツ全て。それを見事に組み合わせて侑先生は見事正解へとたどり着いた。
しずく「ただ、一つ付け加えるならば、生きる意味の演劇を失ったから、というより、『不完全なしずく』がこれまで主人格だったことがおかしかったんです」
しずく「私の中にいつの間にかいた『完全なスイ』。人の気持ちが理解できて、性格も明るく好奇心旺盛。そんなスイが、私の主人格になるべきだったんです」
しずく「私が今から殺すのは『しずく』だけ。水底に沈んで溺れた後、助かった桜坂しずくに残る人格は『スイ』なんです。この場所なら、きっと、きっとできる……!!」
しずく「おかしいと思いますよね?しずくではなくスイが私となった方が!!その方が自然なんです!!二重人格なんてそもそもおかしかった……!!私はそもそも、生まれるべきじゃなかったんですよ!!」
いつの間にか、絶叫していた。
心の中に溜まっていた膿が言葉になって吐き出されていく。
そう、私は最初から生まれるべきではなかった。だから殺す。それの何がおかしいんだ。
侑「……確かに、二重人格っていうのは少しおかしいかもしれないね」
しずく「……!!」
まさか、侑先生が肯定してくれるだなんて……。もしかして、このまま説得は可能……?
侑「一人の人間の中に二つの魂。普通じゃない」
しずく「そ、そうです……!!二つの魂の内、一つが不完全なら捨て去ればいい!!殺せばいい!!」
侑「──でも、普通じゃなくて何が悪いの?」
しずく「……え」
侑「確かに二重人格の人なんて普通じゃないよ。でも、だから何が悪いの?私から見て、しずくちゃんとスイちゃんはとても上手く共存しているように見えた。支え合う姉妹にように私には見えたよ」
侑「一つの体に二つの魂。けれど、それで共存できてるなら、それでいいじゃん」
しずく「……」 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています