ベジ批判者 「植物だって生きてる」 ← [無断転載禁止]©2ch.net
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アスペなの?
動物と植物本当に同じだとおもってるんかいw >>69
>>58のリンク先に書いてるのは、寧ろ逆で「現代哲学の一部である動物倫理が科学を無視したオカルトになってる」というハナシだよ。
大きく勘違いしてる様だけど、私が言ってるのは「思想」ではなくて「種差別撤廃という倫理哲学の一角を占める分野が、真偽不明な論拠に基づいてるオカルトだ」という説明だよ。
ヒトに対する報復能力の有無で扱いを変えざるを得ない、というのも、それ以外に人権とそれをルールとして守らせる義務、それを裁く刑法、の源泉が有り得ない事を考えればすぐに判ることだよ。 >>68
>>65-66については>>20も読んでね
>なにが詭弁なんだ?人間を食べることを正当とする文化を持つ集団も存在したわけで
>「人間は食べちゃダメだけど動物は良い」というルールだって客観的・普遍的な正当性なんか存在しないだろ
そんなものが存在するという主張はしてないよ
主観的な線引きを容認するなら同様にベジの「動物は食べちゃダメだけど植物は良い」という線引きも容認されるべきだ、って主張だよ
主観的な線引きを容認しながらベジの「動物は食べちゃダメだけど植物は良い」という線引きを批判することは筋が通らない 私が言ってる事は唯「完全菜食不可能体質者実在」とヒトの権利と義務・刑法に関する事実関係の説明なんで、
それを理屈で覆せないまま受け入れたくない馬鹿が居ようが居まいが、そいつ等の信心が私の言う客観的な事実を覆せるわけではないので、どうでも良いことです。
多数が支持するか否かと、それが事実であるか否かは別の問題だと、先ずはそれを理解した上でないとモノを考える意味は無いです。 >>69
忘れてたが、此処↓は酷いな・・・
>あと食性が多様化することに生存戦略的メリットがあることについてまったく同意見だ
>だからこそなぜ君が自分の思想こそ正しいという態度になるのかが理解できない
読み難かろうがなんだろうが、連ツイを読むぐらいの手間を掛けられない事は無いし、読めばすぐに判るが
多様性確保にメリットが有るのを理解できるならば、veganと種差別撤廃主張者がその多様性確保を否定し、
vegan不可能体質者実在によって種差別撤廃が不可能である、と言ってる(この程度は単に事実の指摘なんで思想でもなんでもない)
私が正しいのは、アタリマエのハナシだよね。
いつまで経っても「ヒトだけは特別」の中身に関してハナシが出来ないのは、キミがいつまで経ってもリンク先を読まないからだよ。
ヒトへの報復能力の有無が「ヒトを(現状の)動物扱いしてはいけない理由」を決定付ける最大根拠なのは誰絵にも否定不可能なんで、
種差別撤廃可否を左右する条件として残るのは「動物を、普遍的にヒト扱い(選挙権等ではなく、ヒトに利用されない権利)出来るかどうか?」となる。
ここまでのハナシ程度が飲み込めないんだったら、種差別がどうの、なんて考ええるだけ時間の無駄だよ。 >>73
ニューオキアミ理論w
相変わらずグダグダと中身のない話w
オマエの根本は捕鯨を否定するベジタリアンに文句いいたいだけ >>71
>>65に書いたことの繰り返しで>>8にも明記されてるが
スレタイの「植物だって生きてる」という言葉はそれ以前に「植物でない者は生きてる」という文言が先にあってのものであることは言葉の意味から明白
スレの趣旨に鑑みればそれは「動物は生きてる(ゆえに食べてはならない)」という主張であったことも明らか
先に動物を「生きてる」ことで植物と線引きした発言があり、これに対して「その線引きは合理でない」と指摘してるに過ぎない
んで、どこが詭弁なのか欺瞞なのか説明してくれないか?
それと
> 主観的な線引きを容認するなら同様にベジの「動物は食べちゃダメだけど植物は良い」という線引きも容認されるべきだ、って主張だよ
> 主観的な線引きを容認しながらベジの「動物は食べちゃダメだけど植物は良い」という線引きを批判することは筋が通らない
主観的な線引きを許容しないと言ってない
まず前提にある「動物は生きてる(ゆえに食べてはならない)」が成り立つなら「植物だって生きてる(ゆえに食べてはならない)」も成り立たなければならない
でなければ「生きてる」ことを「動物を食べてはならない」ことの客観的に(論理的に)十分な成立因に還元できないと指摘してる
そして、「生きてる」ことが「食べてはならない」の客観的に十分な成立因とならないとき、それに代わる客観的に十分な成立因を示せないならば、
つまり食べていいかどうかを主観で線引きしてるだけなら「動物は食べてはならない」という大元の発言に客観的な正当性は無い、と言ってる
「動物は食べてはならない」に客観的な正当性が無いなら、君が言う
> 主観的な線引きを容認するなら同様にベジの「動物は食べちゃダメだけど植物は良い」という線引きも容認されるべきだ、って主張だよ
と同様の論理で
大元に遡及して「動物を食べてはならない」と主観的な根拠からいう者は、他者が主観的な根拠で「動物を食べる」ことを容認しなければならない、と言ってる
どこが詭弁で欺瞞なのか教えてくれ
蛇足だが法的にあるいは文化的にはある種の肉を食うことは広く正当性を認められてることは言うまでもないよな 「生きてる事」ではなく「苦痛を感じるかどうか?」で動植物の扱いを変えるべきだと言ってるのがveganなんだけど、
とりあえず動物の神経系が苦痛の存在を確実に保障してるから、植物の苦痛有無は一先ず置いて動物利用を止めよう、と。
どっちにせよ誰しもが最低限植物は食う以上、本題はその先にしか無いんだけど、此処じゃいつまで経っても種差別に関するハナシにならないねぇ・・・ おそらく>>1の生きているの解釈が「苦痛を感じるかどうか?」なんだろう
一般的な感覚とはズレすぎw >>71
既に>>75を読めば明らかだと思うが
>>10の
>その論理でいくと「人間は食べちゃダメだけど動物は良い」というルールだって客観的な正当性はないってことになる
>主観的な線引きはベジ批判者だってしてるのにあたかもベジだけが命を不平等に扱っていることにしているよ
についてもう一度いうと、
そもそもこちらは主観的な線引きを容認する立場だ
その立場から「動物は生きてる(ゆえに食べてはならない)」について検討してる
1・まず「生きてる」という条件を「食べてはならない」ことの理由とした場合、動物と植物を区別できないので、
これは「動物は食べてはならないが植物はよい」ことの客観的根拠とならない
2・そしてこれが客観的根拠とならず、かつ、他に客観的根拠が無いならば
雑食者の主観に草食者の主観が客観的に優越する理由がないのだから、そもそも「動物は食べてはならない」が客観的な規範として成立せず、主観的な線引きで動物を食うことは容認されるはずだろう、と言ってる
3・加えて、>>10で君が[「人間は食べちゃダメだけど動物は良い」というルール]を引き合いに出したことに対して
君がわざわざ「その論理でいくと」と断っているのは「その論理でいかない場合」を念頭に置いているからじゃないのか?
それはつまり[「人間は食べちゃダメだけど動物は良い」というルールが客観的(普遍的)である場合]のことじゃないのか?
だからこれについても普遍的なものではない、と>>66で指摘したんだが>>71で
>そんなものが存在するという主張はしてないよ
というならなぜ>>10にそのように書いたのか説明してくれないか? 伊勢田哲也もシンガーも、筋は通ってないと思うけど、veganやアニマルライツ、種差別議論の前提までは共有してないとハナシにならない。
https://ask.fm/tiseda/answers/109144016958?utm_source=dlvr.it&utm_medium=twitter 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:1777ba470a0705a8ff6b3177e04ccfb6) 誰がいつ動物は生きてるゆえに食べてはならないなんて言ったんだ?大爆笑
脳みそスパークし過ぎだな大爆笑 植物も食べられそうになると危険を察知するっていうけど
園芸で多肉植物とかみたいに、株分けのために切る時はどんな想いなんだろう?
本能的には出来るだけ自身を遠くに行かせたいと思ってるはずだろうし… >>82
「植物だって」という日本語の意味が分からないのかwww >>83
残念ながら国産の調査捕鯨ものの鯨肉はあまり質が良くないんだよなあ
どうしてかなあ >>86
南氷洋はクロミンク、イワシクジラ
北西太平洋でミンククジラ、イワシクジラ
国内は和田、太地でツチクジラやゴンドウクジラ
鮎川と網走でミンククジラ
輸入アイスランドでナガスクジラ、ミンククジラ
ツチやゴンドウはハクジラで不味い
国内のミンククジラは産地で販売、南氷洋、北西太平洋調査捕鯨は特定業者だけの入札だからな >>87
同じミンクでも近海で定置網に混入したとされる無冷凍ものはともかく
日本の調査捕鯨のミンクよりアイスランドの輸入ミンクの方が美味いんだよね
なぜかは知らんけど
部位としては鹿の子が一番好き >>85
だからお前が勝手に言ってんじゃないならいつ誰が「生物は食べてはいけません」て言ったか言えよ大爆笑
植物だって生きてる←当たり前ですけど?はあ?大爆笑
動物をえこひいきしてるだけの話だろがよ大爆笑
しかもえこひいきしてるのはベジタリアンに限ってない大爆笑 >>89
誰って?www
言葉の意味と板の性質から、スレタイの「植物だって」という以前に「動物は生きてる(ゆえに食べてはならない)」という趣旨の主張があったことは明らかだがwww >>87
たまに東北あたりで網にかかったミンクが冷凍されずに出荷されることがあるけどあれは美味い
調査捕鯨のは冷凍の仕方が悪いのかな?魚みたいに締め方が違ってアイスランドの方が美味いんだろうか >>91
冷凍の技術が進んでも、細胞内の水分が凍り膨張して細胞が壊れる原理は変わらないから
冷凍は解凍時に水分がでて水分の多い部位はスカスカになる
脂肪の多い部位はそれほど劣化はない >>90
だからいつ誰が動物を食べては「いけない」なんて言ったんだよ大爆笑
妄想スパークし過ぎてんだよ大爆笑 >>92
なるほど
鹿の子が美味い理由は劣化しにくいからか
でも例えばミンクの尾肉同士を比べても日本の調査捕鯨とアイスランドの輸入だと同じ部位なのに味(食感もふくめて)が違うんだよね
個体差というにはあまりに違うから不思議
もっとも鯨はでかいから何度も買って食ってるようで実はそれは日本なら日本のアイスランドならアイスランドの同じ一頭をそれぞれ分割したものかもしれないから一般化できないかもしれないけど >>93
誰って?そういう主張をした誰かだろwww
どうであれそういう主張が存在したことは日本語の意味から明らかで
それがわからないなら日本語を理解できないと言ってるのと同義 >>95
アスペには難しいのか、
動物は生きてるから「私は食べません」と好きに生きてるベジタリアンに対してのベジ批判がスレタイとも言えるんだけど?大爆笑
何勝手にベジタリアンが「いけない」と言ったみたいに話をすり替えてんだよ大爆笑 >>97
アスペはお前だwww
「生きてるから」という条件は動物と植物を区別する理由にならないと言ってる
「生きてるから、食べない」ならば「植物を食べていいのは生きていないからだ」となる
それに対して「植物だって生きてる」というのは十分に合理だろ
阿呆かな 「生きている」のが動物でも植物でも同じ、という揚げ足取りの余地を残したスレタイがアホ過ぎる、と。
それを理解したら、もうちょっと身の有る話に進まないもんかね? >>96
まず人間以外の生き物に「想い」というものがあるかどうか不明だし、その「想い」という語の意味も漠然としてる
例えば辞書によると
おもい【思い・念い・想い】オモヒ
[1]思う心の働き・内容・状態。
とあり、「心」とは
こころ【心】
([1]人間の精神作用のもとになるもの。また、その作用。
とあって「人間の」と限定されてるからこの意味では人間以外の生き物に「心」があるとは言えない
それと
>本能的には出来るだけ自身を遠くに行かせたいと思ってるはずだろうし…
についても「思ってるはず」の客観的な根拠が示されてないからな
単によく分からない語句の使い方をして、よく分からない根拠で何かを言ってるだけではまともにレスが付かなくても仕方ないだろう >>99
>>97のように
>動物は生きてるから「私は食べません」
と平気で言ってしまうような阿呆がいる以上は
「生きてる」というのが動物と植物を区別する条件にはならないという指摘は揚げ足とりでも何でもなく
正当な誤謬の指摘なわけだが >>76
これも既に他のスレでおなじ議論があるから敢えてスルーしたけど
動物に痛覚があるというのは単に動物の持つある種の刺激の感受・伝達についてそう名付けたという以上の意味はなく
そこに人間同様の苦痛という概念が生じているとする検証は無いはず
このことは(命名の問題を除けば)植物についてもある種の刺激の感受・伝達が存在することは検証されており、かつ人間同様の苦痛という概念が生じていないことと同じだ
無論、感受や伝達のメカニズムは両者ではことなるが、そのメカニズムの差違がメカニズムの差違である以上に、例えば人間同様の苦痛の発生の有無と因果関係があると検証されなければ、単にメカニズムの差違という以上の意味はないということになる >>101
確かにその指摘そのものは正当だけど、一度指摘すれば判る事を繰りかえしやると、いつまで経っても同じところを往復するだけだね >>102
それを言えば、他の人間に苦痛が有るのかどうかの確認も不可能(独我論)
線引きの場所を動物/植物に置くか、自己と他者の間に置くか、という違いでしかない
形而下でのハナシをしたいのならば、さしあたって「同じ動物である事」から同様の苦痛が有るという前提で
前者の線引き基準での配慮をすべきか否か?という論点でやるのが妥当だろうね >>103
だから俺としては>>8で終われば良かった話だが数レスかけて詭弁だ欺瞞だとゴネてるやつがいたからわざわざここまで解説せにゃならんかったのよ
ちなみに未だになにが詭弁で欺瞞なのか、それとも詭弁だ欺瞞だというのは誤りとして引っ込めるのか、回答が無いままだ
ということは、残念ながらこんな論理的に明白な議論の余地の無いはずの論点でまだ話が続く可能性があるってことだ >>104
それについても既に他のスレでおなじ議論が展開された
137 菜々しさん sage 2016/03/02(水) 08:45:27.35 ID:ElfWRxo/
>>135
>人間同士だって証明されていませんよ。
>個人差(個体差)があるのだから当たり前。
個人差の話などしていないよ。そんな論点は全く必要ない。
人間の場合は「苦痛」という記号を用いるというまさにその行為によって、各人がその能記に対する所記を有していることは明白で、
そして各人の所記が完全に一致しなくとも記号を用いてコミュニケーションが成立し得るということは各人の所記は能記において間-主観的に一定の誤差の範囲に収束しているということになるのだから。
ちなみに、このような記号によるコミュニケーションが動物と人間の間に再現性をもって確認されれば、そしてそこに人間でいうところの「苦痛」に相当する記号が存在することが確認されれば、
この方法論から動物に人間同様の「苦痛」という概念が存在すると言えるということになるが、そうでないならばそのようには言えない、ということになる。
「植物は苦痛を感じないから食べていい」←えっ?
http://karma.2ch.net/test/read.cgi/vegetarian/1453657796/ 独我論とは、個体差のハナシではないよ
キミが言ってるのは同様のクオリア領域が他者にも共有されてるかどうか?であって
「他者が存在してるかどうか?在る様に見える他者とは、苦痛を感じる主体かどうか?」
という点を疑ってるのが独我論だよ
この立脚点から観れば、動物同様に人間の他者にも苦痛が有るとは言い切れないし、それ故配慮の対象にしなければならないかどうかは判らない >>104
形而下でのハナシをするのはいいとして、
>「同じ動物である事」から同様の苦痛が有るという前提で
こう措定すべきことの妥当性が不明だし
>前者の線引き基準での配慮をすべきか否か?という論点でやるのが妥当だろうね
線引きが恣意的なものであるなら必ずしも動物と植物の間に線が引かれるのでなくてもいいはず
そしてどこで線引きするのが正当となるのかについては結局、個人的にしろ社会的にしろ個々の枠組みの文化=価値観に依存することになるという程度の話にしかならないのでは? >>75
主観的な線引きを許容するなら「動物は生きてるから食べない」って主張に対しては
「私は植物も生きていると捉えてますし、生きていることを食べないことの線引きにはしていない。」
と主張するだけでいいんじゃ
「その線引きは合理でない」と指摘する必要はないし、指摘するからお前だって合理でない線引きしてるだろって反論される カントの時代だったら、動物は機械で、ヒトはそうじゃない、で済んでたんだろうけど…
形而下のハナシに留めたいんだったら、ヒトが属する動物の苦痛と、植物が感じてるかも知れない苦痛は別けて扱わないと
形而上のハナシまでにもつれ込まされても文句は言えないからね >>84
植物は自分と違いすぎてまったく想像できないよ
想像しようとするとなんか不思議な気持ちになる
>>106www >>110
ヒトが属してるのが動物だから
その線引き場所が自己とヒトである(かの様に見えているだけ、かもしれない)他者の間であってはいけない理由は?
そこで線を引かない、というのも形而上では恣意として扱われるよ? >>99
これだよ
1の生きてるの定義が一般的な感覚とも生物学的な定義ともかけ離れてる >>100
そんな難しいことじゃなくて
肉食者が植物も危険を察知して仲間に知らせたり、捕食者の天敵を呼び寄せるとか言ってから
多肉植物とかの株分けで葉っぱをちぎるのは上記に当たるのか質問してみただけだよ
>>113
だよね〜(´・Д・)」
人間とは遠すぎるよね 苦痛云々よりも、天賦人権と呼ばれるモノが人間にだけ有って、同様のモノが動物には無い理由、を考えたほうが早いだろうねぇ…
「苦痛を感じてたら、それがなんだ?」と >>108
クオリアについても過去に議論されてたはず
ちょっと探したけど見付からなかったんだが要するに>>107に提示したレスに既に書かれてることなんだが
人間の場合は「苦痛」という記号を用いるというまさにその行為によって、各人がその能記に対する所記を有していることは明白で、
そして各人の所記が完全に一致しなくとも記号を用いてコミュニケーションが成立し得るということは各人の所記は能記において間-主観的に一定の誤差の範囲に収束しているということになる
とあるように「苦痛」のクオリアが同じだろうが違おうが、「苦痛」という語を使う人が何らかの「苦痛」という概念を持っていることは明らかで、この点で[何らかの「苦痛」の概念]を持っているかどうか不明な人間以外の生き物と区別できるってこと
そして「苦痛」という語がキャベツや冷蔵庫を指すのではないということは、それが一定の範囲の概念として共有されていると考えられるし、
このことは歴史的に膨大な量の言語コミュニケーションが成立してきという事実が検証している >>108
>それ故配慮の対象にしなければならないかどうかは判らない
いずれにせよ「○○すべし」という規範は事実に還元できないということは近代ではヒュームが指摘してるしそれ以前に釈迦の時代にも言われてたはず
結局のところ規範とは価値観に還元されるわけで、相対主義的立場を取るなら個々の枠組みの価値観(文化)によって正当かどうかが定まると考えるしかないんじゃないかね >>118
それを言えば、「痛がってる」動物と「痛がってる」重度の知的/身体障害者の記号は同じものとして扱えるよね
遺伝的に同種・同質であるから、そのクオリア領域が共有されてる、という結論は、種の連続性から簡単に覆される(近頃のドーキンス等)
ならば種としての連続性が有り得ない植物とは違い、動物とはクオリア領域を共有してる、という結論付けも可能。
ならば後は、そのどちらで線引きをしたいのか?という恣意の問題でしかなくなってしまうね >>119
自然主義的誤謬の指摘ならば、先ずキミの「ヒトであれば苦痛を感じるのは同じだろう」が否定されるよね
そしてキミが言ってるのは「配慮しなければならない」か否か?の前段階である「何処で線を引くか?」であって、
配慮「すべき」か否か?はその線引きが終わった後に決まる態度選択でしかない
倫理のハナシなんだから当然だよ >>98
アスペの自己紹介か?大爆笑
「生きてるから、食べない」
↑
これがどうなったら「食べてはいけない」にすり替わんだよ大爆笑
阿呆かな >>111
「生きてる」が「食べない」ことの条件であるという場合、
「動物は生きてるから食べない」が成り立つと同時に「植物だって生きてるから食べない」が成立しなければ論理的に不整合
これは言葉のうえで明らか
線引きの恣意性の話でなく、論理の上で因果関係が明白に誤っているという話 >>>97のように
>>動物は生きてるから「私は食べません」
>
>と平気で言ってしまうような阿呆がいる以上は
人の事がほっとけない阿呆かな大爆笑
>「生きてる」というのが動物と植物を区別する条件にはならないという指摘は揚げ足とりでも何でもなく
>正当な誤謬の指摘なわけだが
人の事がほっとけない阿呆かな大爆笑
まさに1が言ってるのはこういうことだな大爆笑
そして勝手に「いけない」と言われたと妄想スパークさせてる阿呆かな大爆笑 >>112
いや、ヒトが属する動物というカテゴリーに必ずヒトの性質を拡大できるといえないだろ
必ずしも拡大できないなら、何を動物全般に拡大できるのかは吟味しなければならない
苦痛という概念はその拡大できるかどうか不確かな方の話だろう アスペには難しいのか、
肉は不味いから食べないと言って好きに生きてる人間に対して「野菜だって不味い」と真っ赤っかになり、ご丁寧に「肉不味いから食べていけない」と言っている!と妄想スパークさせてる阿呆がいるな大爆笑 また長文で意味不明なこと言ってる人がいる
それを理解できてる人もいるってことは俺がバカなだけだったw >>125
「人が痛覚や(単純な)恐怖心の様に痛覚や本能で感じるレベルの苦痛の有無」を植物にまで拡大するよりも、
「人間同様痛覚や本能的な恐怖の反応を見せる動物」にも拡大する方が遥かに容易だよね
キミの言う「記号」・苦痛という概念、は重度の知的障害者や、意思疎通が難しいレベルの身体障害者や痴呆者とも、健常ヒトは共有できない
ならば、それらと動物を別けなければならない理由は?
・・・種差別しなければならない、という立場なのに、Pシンガーの云う事を援用しなければならない、というこの不条理よ・・・
w 閉じカッコの場所を間違えた
>>125
「人が痛覚や(単純な)恐怖心の様に痛覚や本能で感じるレベルの苦痛」と同様の苦痛の有無を植物にまで拡大するよりも、
「人間同様痛覚や本能的な恐怖の反応を見せる動物」にも拡大する方が遥かに容易だよね
キミの言う「記号」・苦痛という概念、は重度の知的障害者や、意思疎通が難しいレベルの身体障害者や痴呆者とも、健常ヒトは共有できない
ならば、それらと動物を別けなければならない理由は?
・・・種差別しなければならない、という立場なのに、Pシンガーの云う事を援用しなければならない、というこの不条理よ・・・w 「痛覚や」って一行中に二回書いちゃってるし・・・
>>129の一行目、二回目の「痛覚や」は無かった事にして読んでね だからね、苦痛の有無や「生きているから」なんて条件でveganや動物とヒトの扱いの差、ヒト以外の生物の線引きなんて、いつまでやってても意味が無いんだよ
もっと決定的な条件でヒトと他生物は線引きせざるを得ないんで、それが種差別撤廃主張を一発で粉砕する論拠なんだけど、
未だ「植物の苦痛」やんの? >>114
無論そこで線引きをしても構わないよ
ただ線引きの条件を「生きてるかどうか」にするなら植物と動物は線の同じ側に来るはずだし、
「苦痛という概念の有無」にするとしても科学的には植物と動物ともに人間とは逆の側に来ることになるでしょ、ということを言ってる
どんな条件で線引きをするのも勝手で「自分が食べたいものと食べたくないもの」というのでも別に構わないと俺は思うが
線引きの条件について虚偽が提示されていると指摘してるだけ >>116
ああ、単に外的刺激によって多肉植物が防衛的な反応を示すかどうかの研究データがあるかを知りたかったってこと?
それは俺は調べてないから知らない >>132
ならば何処まで言っても恣意のぶつけ合い、であって「植物の苦痛」や「動物の苦痛が人間同様であるか否か」は不毛なハナシにしかならないね
互いの選好によって結果が分かれてしまうようなハナシは、する意味が無い
>「苦痛という概念の有無」にするとしても科学的には植物と動物ともに人間とは逆の側に来ることになるでしょ、ということを言ってる
>>129で書いたが、それだと重度の知的障害者等は動物扱いされる側になっちゃうよね >>120
> それを言えば、「痛がってる」動物と「痛がってる」重度の知的/身体障害者の記号は同じものとして扱えるよね
無論そうなるね
完全な植物状態の人間が苦痛を感じているかどうか判断できない
「感じるであろうと前提して扱う」のは科学的な理由によるのでなく社会的な理由によるものだろう
逆に、例えば頷くとか首を振るとか所謂身体言語を記号に含めても構わないとして、
再現性のある形で抽象表現として記号が用いられているとする検証があれば動物もその記号に託される概念を有していると考えられる
しかし今のところそういった学術的な研究は無いようだ >>120
あと一つ気になったのは連続性ということ
生物は分岐を重ねてきたわけで、その分岐のどこで今問題にしてる「苦痛という概念」が生じたかが確認できない以上、
[「苦痛という概念」の保有]という性質が人間と動物とで連続していると考えるべき理由はないのでは? >>121
>そしてキミが言ってるのは「配慮しなければならない」か否か?の前段階である「何処で線を引くか?」であって、
そうだね
これについて虚偽が述べられていると指摘してる
>配慮「すべき」か否か?はその線引きが終わった後に決まる態度選択でしかない
で、これについては結局のところ個々の枠組み(文化)によって恣意的に決まるという話にしかならないのでは? >>135
それで、動物を食用に殺して良いなら、重度障害者をそうしても、悪いという事にはならないよね?
重度障害者の肉を食いたい人がいれば、食って良いかな?
>>136
連続していない、という証明もまた出来ないって事だよね
近年ドーキンス等は大型類人猿とヒトの混血可能性や、混血種が過去にいた事を理由に連続性を言ってるが、種差別撤廃主張者含めて大勢が賛同してるよw
そして当然、同じ人間の中でも重度知的障害者等に健常者と同じそれがあるとは誰にも証明出来ない 今、命について主観的でない線引きはあるか?
あるならどこで引けるか?って大事な話してるとこだよね?
どっちもわかりにくいからちょっとまとめてよ >>122
倫理についての無知を晒したいのか?
情動主義や表現主義の立場をとるとしても規範文は「○○すべし」「○○せざるべし」の形で表される >>137
虚偽ではなくて、キミとは違う選好基準を以ってそう言ってる者が居るだけ、だね
>>配慮「すべき」か否か?はその線引きが終わった後に決まる態度選択でしかない
>で、これについては結局のところ個々の枠組み(文化)によって恣意的に決まるという話にしかならないのでは?
倫理とは「普遍的な正邪判断」の基準を指すので、仮に「苦痛」を根拠と出来る、と決められるならば、その選択をするかどうかは別として
それが「すべき善」=「普遍的な善行」と決められてしまうのは同じだよ
だからこそ、「ヒトも属する枠組みである動物」の苦痛が有るのかどうか?をキミも話してるのでは?
それがヒトも含む動物を大勝としてるからこそ、種差別撤廃を主張する者が居るんだが、私はその基準が別の所に有るので苦痛云々は不毛だ、と言ってる あぁ、>>141の一行目は「生きている」に関しての虚偽が有る、というハナシか
もうそれ、よくね?w >>124
肉を食わないのは勝手だが
論理的に間違った気持ち悪い主張について誤りを指摘するのもこっちの勝手だろうwww >>126
動物や植物が生きてるかどうかは客観的な話だが
不味いかどうかという主観の話をしてたんだっけ? >>128
>>135でいいかな?
重度の障害が原因で記号を用いていない人について、その人が記号に託される概念を有しているかどうかは不明
そういった人と動物を区別するのは科学的な理由によるのではなく社会的な理由による >>128
種差別しなければならない、というか種差別は個人にしろ社会にしろ個々の枠組みの価値観で恣意的に定まる、と言ってる
無論、分析すれば個々の枠組みの価値観は無数の色々な要因に条件付けられているゆえに恣意的でなく必然的だと言うこともできるが、
全体論的にいえばそれは結局個々の枠組みの個別性を際立たせることになるのだから恣意的と表現して構わないだろう
で、俺は基本的にその恣意性の上で動物を食おうが食うまいが好きにしたらいいという考え方だよ
ただし、食うか食わないかの線引きに虚偽が用いられている場合について、その虚偽を指摘している、というただそれだけのこと >>128-130
シンガーについてだがウィキにちょうど良い解説があったのでこれを使う
脊椎動物はその振る舞い、人間との解剖学的な類似、進化上の共有から、苦しみを感じることができると考えられる
これについて俺は「必ずしもそうはいえない」という立場
振る舞いについてだが、抽象概念の表現として再現性のある形で「苦痛という概念」の記号的表現がなされているという研究結果を俺は知らない
解剖学的類似が「苦痛という概念」の存在を担保しないし、
進化上の共有については先に述べたように分岐のどこで「苦痛という概念」が生じたかは不明だし、ヒトとヒト以前の分岐点の以前にそれが連続していたとする根拠も俺は知らない
もしこれらについて知ってるなら教えてほしい >145
「社会的な理由」だと、その社会によってなんぼでも伸び縮みするよね
同じ人間であっても、それが知的障害者だったりすると「苦痛という概念」ではなく「社会的理由」を適用しなければならない、というのは
単に議論の放棄であって、キミは自身の恣意的な選好でヒトと動物の間で線引きをしてるだけ、という事にしかならない
>>146
端的に言って、キミは種差別撤廃主張がどういうモノかを理解してないだけだよ
種差別撤廃主張とは、キミがどう思おうが「そうしなければならない」という絶対善の基準を決めてる者が居る、という事だよ?
先にも書いたが、倫理とは普遍的な正邪の基準なので、その基準を「苦痛を感じる事」と言われ否定できなければ、キミが否定しようが「すべき善」として決定されてしまう
それがキミにとってどうでもいい事ならば、こんなに長々此処で頑張る意味必要性は無い
個々の枠組みだとか社会によって恣意的に決まる、で済むなら、誰もこんなハナシに興味持つ理由が無いね >>131
「生きてるから」にしろ「苦痛を感じるから」にしろ、>>132に書いたように動物と植物の間に線を引く理由としては不合理だということ
不合理だというのは論理的に整合が得られないという意味ね
ヒトとそれ以外に線引きする理由は俺は価値観の枠組みごとの恣意性でしかないと思うが
>>134
>互いの選好によって結果が分かれてしまうようなハナシは、する意味が無い
「食うか食わないか」あるいは「どんな条件で線引きをするか」は互いの選好によって結果が分かれる話だが、
提示された条件が線引きする理由として合理か不合理かは客観的に一つの結果に定まるだろ >>148
キミは「倫理として」種差別撤廃を主張する者が現に居る意味を分ってないので、そんな細かいハナシをしても無駄だし、
私はそもそも苦痛だのキミが拘ってる記号だのといった基準には興味が無いし、意味も無い
>>149にも書いたが、条件によって一部のヒトには別の基準を用いなければならない様なガバガバのハナシは意味が無い
それより簡単に種差別撤廃不可能な根拠を持ってるからだよ >>150
前半、恣意以外の徹底的な物が有るよ
キミの>>132には一貫性が無いと>>134>>138に書いてる
後半、意味が不明な文章だな
自分でもわからないで書いてるだろ?
>>134の何処に食うか食わないかのハナシをしてる?
キミが客観的な基準を示していない、というハナシをしてるんだよ?
合理か不合理か?そこに重度障害者も纏めて線引きできる客観的な基準は何処に有る?
キチンと根拠を説明できないまま食い下がるなら、キミの相手はやめるよ >>138
> それで、動物を食用に殺して良いなら、重度障害者をそうしても、悪いという事にはならないよね?
先に書いたが規範は事実に還元できない
[「である」から「すべし」は導出できない]というヒュームのアレね
重度障害者を食べていけないとしたらその理由は個々の価値観の枠組みの持つ恣意的な基準によると考えられる
> 連続していない、という証明もまた出来ないって事だよね
そうだね
だから「連続してそうだから、食べない」というなら勝手にしたらいいが「連続しているから、」と言ってしまっては虚偽になるだろう
> 近年ドーキンス等は大型類人猿とヒトの混血可能性や、混血種が過去にいた事を理由に連続性を言ってるが、種差別撤廃主張者含めて大勢が賛同してるよw
その子孫を作ることができるかどうかという連続性に伴って「苦痛という概念」の連続があったかどうかは不明では?
> そして当然、同じ人間の中でも重度知的障害者等に健常者と同じそれがあるとは誰にも証明出来ない
もちろん
だから非健常者を食べない理由は「苦痛という概念」の存在に還元できない
誤解があるかもしれないから言っておくが、俺は[「苦痛という概念」の有無]で食べていいか否かを線引きしろと言ってるのではないよ
[「苦痛という概念」の有無]で線引きするならば、人間に対して植物と動物は同じ側に来る(し、ある種の非健常者もそっち側に行くだろう)と指摘してる
この指摘に対して整合するような説明が出来ないなら[「苦痛という概念」の有無]で動物と植物の線引きをしてるというのは実際には虚偽ということになるだろ >>149
> 同じ人間であっても、それが知的障害者だったりすると「苦痛という概念」ではなく「社会的理由」を適用しなければならない、というのは
さっき書いたけど、それは[「苦痛という概念」の有無を線引きの条件とする人]に言う筋の話だね
> 単に議論の放棄であって、キミは自身の恣意的な選好でヒトと動物の間で線引きをしてるだけ、という事にしかならない
俺が食うか食わないかの線引きをする条件は極めて恣意的だよ
同時にこれは俺に限ったことではないと思うけどね
> 種差別撤廃主張とは、キミがどう思おうが「そうしなければならない」という絶対善の基準を決めてる者が居る、という事だよ?
そういう人たちが存在することは分かってるよ
彼らの主張は科学的事実に還元できるものでないという倫理観については当たり前のヒュームのアレを持ち出すまでもなく、
「それ以前の問題として」科学的に誤った主張が前提されていると言ってるだけ
> 先にも書いたが、倫理とは普遍的な正邪の基準なので、その基準を「苦痛を感じる事」と言われ否定できなければ、キミが否定しようが「すべき善」として決定されてしまう
「苦痛を感じるならば、食べてはならない」という倫理規範は相対的なものだから他者が否定することはできない
なぜならこれは個々の枠組みの恣意性の違いでしかないからね
俺はそんな否定をしようとしてるんじゃなくて、前件「苦痛を感じるならば」が後件「食べてはならない」を導出する条件として虚偽であろう、と指摘してる
> それがキミにとってどうでもいい事ならば、こんなに長々此処で頑張る意味必要性は無い
俺は俺以外の枠組みの倫理規範を否定するつもりはないが、虚偽が織り込まれていることについて指摘してる
それは単純にそのような虚偽が尤もらしく広まることが不愉快だし、場合によってそういった虚偽がプロパガンダ的に用いられるケースがあれば実害が及ばないとも限らないということを動機としてる
> 個々の枠組みだとか社会によって恣意的に決まる、で済むなら、誰もこんなハナシに興味持つ理由が無いね
どんな規範を採用するのは枠組みの恣意性による、ということと
掲示された規範が真であるか偽であるかは別の話だろう >>151
> キミは「倫理として」種差別撤廃を主張する者が現に居る意味を分ってないので、そんな細かいハナシをしても無駄だし、
どんな倫理規範を採用するかは恣意性の問題だから否定しないが
提示された規範の真偽について述べることはそれと別の話な
> 私はそもそも苦痛だのキミが拘ってる記号だのといった基準には興味が無いし、意味も無い
拘ってるというか[「苦痛という概念」の有無]を線引きの条件とするとどうなるかって話をしただけだな
> >>149にも書いたが、条件によって一部のヒトには別の基準を用いなければならない様なガバガバのハナシは意味が無い
>>153-154に書いたように
[「苦痛という概念」の有無]を線引きの条件とするとどうなるかって話をしただけで、俺がそれを線引きの条件としてるという話ではないが、やはり誤解があったみたいだね >>152
> 後半、意味が不明な文章だな
意味不明なのは俺が[「苦痛という概念」の有無を線引きの条件とする人]であると誤解してるからじゃないか?
> キミが客観的な基準を示していない、というハナシをしてるんだよ?
倫理規範は枠組みの恣意性で決まるといってるように客観的な基準で決まらないと考えてるからな
俺は倫理について実在論者じゃないといえばいいか?
> 合理か不合理か?そこに重度障害者も纏めて線引きできる客観的な基準は何処に有る?
> キチンと根拠を説明できないまま食い下がるなら、キミの相手はやめるよ
説明せよという根拠って何の根拠のこと?
倫理規範は客観的な(枠組みを超えた)基準で定まるものでなく、個々の枠組みの恣意性で線引きされてるといってる
その恣意性は、個々の枠組みに作用する無数の要因で決定されてると考えることはできるが、全体論的にいえば分析的に因果関係を決定できないから恣意性という語を使ってることは既に>>146で説明した
君のいう(ヒトとそれ以外を線引きする条件についての)「徹底的なもの」を聞いてみてもいいがそれが恣意的でない、つまり枠組みを超えて普遍的であると言えることには期待はしてない
無論、その線引きの条件に「生きてる」とか「苦痛を感じる」とかいった例に見られるような虚偽が含まれてない可能性を否定はしてるわけではないが
ある特定の枠組みの線引き条件について十分な説明ができる可能性を否定してないという意味で「生きてる」とか「苦痛を感じる」というものと同列に見てるわけではないが
いずれにせよ枠組みの恣意性を超えた普遍的な線引きの基準になるかどうかについてはあまり期待してない >>153
ヒュームの規範論理は関係無い、と説明したはずだね
価値観によっては重度障害者を食ってもよい、とするならば、当然それは「普遍的な正邪判断」の基準たる倫理ではないので尚更ヒュームは援用できない
「倫理」の意味を理解しないままのキミがこのハナシをする意味が無い
> 近年ドーキンス等は大型類人猿とヒトの混血可能性や、混血種が過去にいた事を理由に連続性を言ってるが、種差別撤廃主張者含めて大勢が賛同してるよw
>その子孫を作ることができるかどうかという連続性に伴って「苦痛という概念」の連続があったかどうかは不明では?
そうではない、という証明もまた不可能なので、キミはそれを否定する事も出来ない
血縁となれるのに何故、苦痛の概念だけが連続しないのか?説明できるか?
そして「植物の苦痛」を否定出来ないならば、尚更自動的に動物の苦痛を根拠に同じ動物という枠組みに入るヒトとの連続性を否定できない、という事になる
ガバガバ過ぎてそこらのひよっこveganにも言い負かされて終わりだね
>>154
> 同じ人間であっても、それが知的障害者だったりすると「苦痛という概念」ではなく「社会的理由」を適用しなければならない、というのは
>さっき書いたけど、それは[「苦痛という概念」の有無を線引きの条件とする人]に言う筋の話だね
キミは「苦痛という概念はヒトにだけ有り、動物には無い」と言ってる
今更それは時分の線引きでは無い、と言ってもハナシにならないね
>俺が食うか食わないかの線引きをする条件は極めて恣意的だよ
「倫理」のハナシなので、キミ自身が食うかどうかの基準に関しては一切関係が無い >>154
> 種差別撤廃主張とは、キミがどう思おうが「そうしなければならない」という絶対善の基準を決めてる者が居る、という事だよ?
>「それ以前の問題として」科学的に誤った主張が前提されていると言ってるだけ
>俺はそんな否定をしようとしてるんじゃなくて、前件「苦痛を感じるならば」が後件「食べてはならない」を導出する条件として虚偽であろう、と指摘してる
誤ってると言ってるのはキミ一人だよ
少なくとも形而下では、動物にはヒトと同様の苦痛が有る事は事実であって、それを植物のそれと線引きできないと云うのならば、キミ以外の人間の苦痛も事実有るとは云い得ない
形而上のハナシは勿論する意味が無いし、それについて来る事も出来ないだろう
>俺は俺以外の枠組みの倫理規範を否定するつもりはないが、虚偽が織り込まれていることについて指摘してる
「植物も生きている」以外の事ならば、キミが虚偽だと信じ込んでるだけだね
最後の段落はキミ自身何を書いてるか意味が分ってないよね
規範、というのは「倫理」の別名であって、何度も言うけど「普遍的正邪の判断基準」なので、恣意の入り込む余地は無い
苦痛を基準とするのに反対ならば、社会による選好選択などという誤魔化しでなく、重度障害者も含めて一括で説明できる基準を示さなければ無意味
キミの話は何処まで言っても否定の為の否定、食い下がりの為の言い訳だけだな >>156
>どんな倫理規範を採用するかは恣意性の問題だから否定しないが
>提示された規範の真偽について述べることはそれと別の話な
これも同じ
「規範」「倫理」を辞書で調べて御覧?
キミが規範の真偽を問いたいならば、苦痛という基準を否定出来なければならないが、或る時は「ヒトの苦痛の枠組みと動物のそれは違う」と云い、
別の時には「苦痛は基準としない」と云い、重度障害者の食用には「社会によって変わる」と云う・・・一貫性がなさ過ぎて話す意味が無い
>拘ってるというか[「苦痛という概念」の有無]を線引きの条件とするとどうなるかって話をしただけだな
>>>153-154に書いたように
>[「苦痛という概念」の有無]を線引きの条件とするとどうなるかって話をしただけで、俺がそれを線引きの条件としてるという話ではないが、やはり誤解があったみたいだね
嘘を吐くな
ならば何故「ヒトにだけ有る、苦痛の概念」を延々もち出すのか?その説明は?
拘ってないのならば、何故動物にはそれが無い、連続性が無い か も し れ な い と食い下がったのか?説明して御覧な? >>157
風呂に入るが、その間↓に答えてもらいたい
> 後半、意味が不明な文章だな
>意味不明なのは俺が[「苦痛という概念」の有無を線引きの条件とする人]であると誤解してるからじゃないか?
それが私の勘違いならば、そう云ってる別の人のIDとレス番を示せるかな?
今日はキミ一人を相手に話してる積りなんだけど・・・? >>158
> ヒュームの規範論理は関係無い、と説明したはずだね
自然主義的誤謬の話ではないが
> 価値観によっては重度障害者を食ってもよい、とするならば、当然それは「普遍的な正邪判断」の基準たる倫理ではないので尚更ヒュームは援用できない
つまり倫理について非認知主義の立場を認めないという意味でいい?
> 「倫理」の意味を理解しないままのキミがこのハナシをする意味が無い
誤謬の指摘をしないままレッテルを貼るのも勝手だし対話をやめたければ勝手にしたらいいが
それではそっちが着いてこられないだけにしか見えないな
> そうではない、という証明もまた不可能なので、キミはそれを否定する事も出来ない
だから俺は「連続してない、不連続である」と主張してないよ
「連続であるといえない、連続であるとするのは科学的に真でない」と言ってる
> キミは「苦痛という概念はヒトにだけ有り、動物には無い」と言ってる
そもそもこれを俺が持ち出したのは「苦痛という概念」の有無で動物と植物を分けることができるという>>76からの文脈であり、
「苦痛という概念」の有無で線引きするなら科学的には動物と植物は同じ側に来るという指摘に過ぎないことは説明済み
これに対して人にもそれが有ると言えないという反論があり、俺は(クオリアにかかわらず)「苦痛」という記号に対応する抽象概念が存在することは明らかだ、といったわけだ
これは全て「苦痛という概念」の有無で動物と植物を線引きできないことの説明のために用いられているのは明白だろ?
で、その説明に対して「人について再現性のある形で抽象概念を記号表現することは歴史的に膨大な検証があるが、動物については植物同様そうでない」と一般論を提示したのについて、
「人についても一部には例外がある」という稀有な反例の提示は無意味だろう
> 今更それは時分の線引きでは無い、と言ってもハナシにならないね
認めたくなかろうが文脈を追えば「苦痛という概念」の有無で動物と植物を線引きできないということの説明としての、[一般論として人間に「苦痛という概念」があるとして、動物にそれがあることは確認されてない]という提示であることは明らかだろ
> 「倫理」のハナシなので、キミ自身が食うかどうかの基準に関しては一切関係が無い
「 同時にこれは俺に限ったことではないと思うけどね 」と書いてるように、倫理というのはそういうものだ、と言ってる >>159
> 少なくとも形而下では、動物にはヒトと同様の苦痛が有る事は事実であって、それを植物のそれと線引きできないと云うのならば、キミ以外の人間の苦痛も事実有るとは云い得ない
> 形而上のハナシは勿論する意味が無いし、それについて来る事も出来ないだろう
形而上の話をしてもいいが、したくないならしなくてもいい
形而下では動物にヒトと同様の苦痛が有る事は想像の範囲でしかなく、他方で人間の苦痛も同じだが
決定的に違うのは
・「苦痛という記号を用いる人間は苦痛という記号に対応する概念を持っている」
かつ
・「その概念がある程度の差違の範囲に収まる程度には収斂していることが言語コミュニケーションの成立という歴史的に膨大な再現性のある検証から明らか」
という2点
この差違があるので、人間が苦痛という概念を持っているからといって動物が同様のものを有しているとはいえない
なぜなら、人間が苦痛という概念(苦痛という記号に対応する概念)を持っていることは、その抽象概念を対応させる記号表現をする再現性のある検証から確認しているが、
動物に同様の検証がされているという研究成果が無いからだ
動物が抽象概念としての苦痛を記号化して表現していることについて再現性のある検証がされた研究成果があるというならそれを教えてくれ
それがあればこの件については俺の主張を潔く引っ込めるよ
> 「植物も生きている」以外の事ならば、キミが虚偽だと信じ込んでるだけだね
「動物に人間同様に苦痛という概念が存在する」というのは科学的には未検証なんだから(上記の研究成果があるならその限りではないけど)、未検証なものを「ある」と主張するのは疑似科学、信仰の類いであって、科学的には虚偽だね
> 規範、というのは「倫理」の別名であって、何度も言うけど「普遍的正邪の判断基準」なので、恣意の入り込む余地は無い
メタ倫理学について勉強した方がいい
倫理について述べる立場は実在論者のものだけではない
> 苦痛を基準とするのに反対ならば、社会による選好選択などという誤魔化しでなく、重度障害者も含めて一括で説明できる基準を示さなければ無意味
これを誤魔化しというのは実在論者としてはそういうことになるのかもしれんが、倫理について議論するなら実在論だけが倫理について述べる立場ではないことは知っておいた方がいいと思うよ
> キミの話は何処まで言っても否定の為の否定、食い下がりの為の言い訳だけだな
これについても同じ >>162
春日部幸一、通名トリパンはレッテル貼りしてきたら終わりの合図だよ
あとはコピペ貼るだけで逃げるだけだから
駅弁大出身だから屁理屈は渡辺雅より上だが中身は渡辺雅と一緒
自己主張自慰行為 トリパン氏とは功利的な理由で人間とその他を区別するのが客観的な根拠になりうるか?
という点で意見が異なるってことが理解できるので主張としての筋は通ってると思う
もう一人の人は言ってる意味がわからない
> キミの話は何処まで言っても否定の為の否定、食い下がりの為の言い訳だけだな
俺もこんな感想 >>161への返答が無い以上、私は話し相手をカンチガイしてない、という前提でハナシを続けるよ
>>157
> キミが客観的な基準を示していない、というハナシをしてるんだよ?
>倫理規範は枠組みの恣意性で決まるといってるように客観的な基準で決まらないと考えてるからな 俺は倫理について実在論者じゃないといえばいいか?
>倫理規範は客観的な(枠組みを超えた)基準で定まるものでなく、個々の枠組みの恣意性で線引きされてるといってる
単にキミが「倫理」の意味を間違えてるだけ、だね。客観基準が無いなら、それ等は全て「独善」と呼ぶんだよ
恣意で倫理基準を決めて良いならば、それを守らないのも恣意で決めて良い事になる。ならばそれを規範としてハナシをする意味が無い。
>説明せよという根拠って何の根拠のこと?
>>152に書いてある「合理か不合理か?そこに重度障害者も纏めて線引きできる客観的な基準は何処に有る?」だよ。時間稼ぎに付き合せるな。
そしてキミの>>146は>>149で否定済み。枠組みがどうの、というのはキミ自身が意味を分らないまま使ってるので、私が納得するはずが無いよね。
そしてキミ自身が「苦痛の概念」を基準としてる以上、ヒトとの血縁が可能な動物存在によって、その概念共有連続性も否定不可能。
つまり自身が設定した線引き基準が動物を含めてしまうのを知って、慌てて枠組みなどと言い出したワケだね。ガバガバすぎる。
>君のいう(ヒトとそれ以外を線引きする条件についての)「徹底的なもの」を聞いてみてもいいがそれが恣意的でない、つまり枠組みを超えて普遍的であると言えることには期待はしてない
約束できるが、恣意まみれのキミとは違って一切の恣意性は無いよ?そこには「苦痛」も「生きてる」も無関係。
別スレに貼ってるから、読んで反論出来るなら試して御覧?キミには無理だけど。
今日云ったとおり、形而下のハナシならば、キミが言うキミ自身が理解してない枠組みには「神経等ヒトと共通システムを持った苦痛」を基準に動物/植物とするか、
「苦痛の概念」を基準として健常ヒト/重度障害者と動植物全て、という別け方しか出来ない。
キミがその有り様で言い逃れが出来てると本気で考えてはないだろうけど、単に自己都合に悪くなった主張をとり下げて誤魔化してるだけなのは知ってるよ。 >>162
> ヒュームの規範論理は関係無い、と説明したはずだね
>自然主義的誤謬の話ではないが
それをヒュームの法則、というんだよ?キミが言ってるのはムーア。
> 価値観によっては重度障害者を食ってもよい、とするならば、当然それは「普遍的な正邪判断」の基準たる倫理ではないので尚更ヒュームは援用できない
>つまり倫理について非認知主義の立場を認めないという意味でいい?
「価値観によって変わるガバガバな基準」は非認知主義とは云いません。
キミが理解してないのは「倫理の意味」から、だけど、形而下での線引き基準を伸び縮みさせていい、とするのは倫理に限らずどんな話でも同じだよ。
> 「倫理」の意味を理解しないままのキミがこのハナシをする意味が無い
>誤謬の指摘をしないままレッテルを貼るのも勝手だし対話をやめたければ勝手にしたらいいが それではそっちが着いてこられないだけにしか見えないな
散々指摘してるけど、キミがそれを認識できないだけ、だね。
「普遍的な正邪判断基準」が、重度障害者の場合は社会的理由で適用されなかったり、都合によってヒトとの血縁によって苦痛概念共通 し て な い 理由を説明できないまま、
「ヒト以外は苦痛の概念が無い」と決め付ける、というのは誤謬が有るというレベルじゃなくって、単に破綻した論拠を提示して、その帳尻を合わせる能力も無い、という事だけどね。
> そうではない、という証明もまた不可能なので、キミはそれを否定する事も出来ない
>だから俺は「連続してない、不連続である」と主張してないよ 「連続であるといえない、連続であるとするのは科学的に真でない」と言ってる
ならば、「苦痛の概念」がキミの親に有って、キミには有る、という保証も無いワケです。親子でも「連続であるといえない、連続であるとするのは科学的に真でない」んだからねw
私が何故「血縁」と言ってるのか、その意味すら考えられないならば、中学生の愛護にバカにされ続けても、その理由すら分らないままだろうね。
> キミは「苦痛という概念はヒトにだけ有り、動物には無い」と言ってる
>そもそもこれを俺が持ち出したのは「苦痛という概念」の有無で動物と植物を分けることができるという>>76からの文脈であり、
>「苦痛という概念」の有無で線引きするなら科学的には動物と植物は同じ側に来るという指摘に過ぎないことは説明済み
「苦痛という概念」の連続性が「ヒトと動物の混血」によって証明されてしまってるから、動物がヒトと同じ側に来て、その生体システムが違う植物は線の向こうになる、という説明は済んでるよね?
キミがいつまで経ってもそれを理解できないのは私の責任ではないよ?
「動物には苦痛の概念が無い」という 科 学 的 な 証 明 、キミが示せたと言うのならば、そのレス番を示して御覧?単にキミがそう思い込んでるだけ、だからねw
> 今更それは時分の線引きでは無い、と言ってもハナシにならないね
>認めたくなかろうが文脈を追えば「苦痛という概念」の有無で動物と植物を線引きできないということの説明としての、[一般論として人間に「苦痛という概念」があるとして、動物にそれがあることは確認されてない]という提示であることは明らかだろ
動物にそれが無い、とキミが確認してないだけで、あとは「ヒトとの血縁」によってその連続性が担保されてる以上、ヒトと動物が苦痛概念を共有し、生体システムが違う植物とは共有していない、という事が明らかだね。
キミの文脈、というのは最初から破綻してる上に、線引き基準がコロコロ変わってガバガバなので、それが一般論となる事は有り得ないよ? >>162
> 「倫理」のハナシなので、キミ自身が食うかどうかの基準に関しては一切関係が無い
>「 同時にこれは俺に限ったことではないと思うけどね 」と書いてるように、倫理というのはそういうものだ、と言ってる
誰に 「 限 っ て も 」 私が言ってる通り、だよ?その者が食うかどうか?の基準は「倫理」とは云わない。
それは単に「キミの選好基準」でしかない。いつになったら辞書を引いて「倫理」の意味を調べるんだね?
>形而上の話をしてもいいが、したくないならしなくてもいい 形而下では動物にヒトと同様の苦痛が有る事は想像の範囲でしかなく、他方で人間の苦痛も同じだが
昼間も言ったが、形而上のハナシになれば、自分以外のヒトにすら苦痛が有るかどうかは確認出来ない。
そしてキミはその事すら理解してないので、形而上学的なハナシに着いて来れないのも判ってる。
そして「形而下」の意味が判ってれば、ヒト同様の生体システムを持つ動物に苦痛が有る事は想像ではなく 「 事 実 」 として扱わざるを得ず、
更に、そこに「他方で、人間の苦痛も同じだが」と繋いでるって事は、キミは形而下と形而上の違いと意味すら理解してない、という事まで明らかになったワケですw
>決定的に違うのは・「苦痛という記号を用いる人間は苦痛という記号に対応する概念を持っている」
違わない、と説明済み(形而下では、ねw)
>・「その概念がある程度の差違の範囲に収まる程度には収斂していることが言語コミュニケーションの成立という歴史的に膨大な再現性のある検証から明らか」という2点
ある程度、範囲、程度、膨大な…すべてキミの匙加減一つで伸び縮みする条件設定だよね。
「言語コミュニケーション」の段階で重度知的障害者や痴呆者・植物状態ヒトを切り捨ててるので、ド派手に一貫性が破綻してるよねw
動物が痛がってる様に見えるのを苦痛ではないとすれば、痛がるそぶりすら不明な上記一部ヒトは食用に殺して構わない筈だが、キミはその矛盾を「社会的な理由」でアジャストしようとするからガバガバでハナシにならない、と言ってます。
>この差違があるので、人間が苦痛という概念を持っているからといって動物が同様のものを有しているとはいえない
説明したとおり、それは差異ではない。単にキミの自己都合に合わせた言い訳です。
>動物が抽象概念としての苦痛を記号化して表現していることについて再現性のある検証がされた研究成果があるというならそれを教えてくれ それがあればこの件については俺の主張を潔く引っ込めるよ
それが線引き基準となる、という説明が全く為されていないので、その必要が無いね。
苦痛の有無は、形而下では神経等の生体システムの有無で判断されるだけ、だよ。記号化して表現しなければそれが存在しない、というのはキミの願望であって
「そこで線引きされなければならない客観的な根拠」が存在しない。記号化・表現、が必須である理由、キミには説明できないでしょ?
>「動物に人間同様に苦痛という概念が存在する」というのは科学的には未検証なんだから(上記の研究成果があるならその限りではないけど)、未検証なものを「ある」と主張するのは疑似科学、信仰の類いであって、科学的には虚偽だね
「苦痛」ならば、形而下では、人間同様に有る、というのが科学的事実だよ。それは生体システムの共通性・同一性で判ってる。キミが認めたくないだけだよw
「苦痛の 概 念 」でなければならない、というのもそれが必須である根拠は一切示せてないよね。そしてそれは一部ヒトでは確認されようが無い。だから「社会的な理由」で救済する必要が有るんだよね?w
> 規範、というのは「倫理」の別名であって、何度も言うけど「普遍的正邪の判断基準」なので、恣意の入り込む余地は無い
>メタ倫理学について勉強した方がいい 倫理について述べる立場は実在論者のものだけではない
メタ倫理・非実在論が共に 形 而 上 の議題だと、キミが勉強してくれたら、考えてもいいけど?w
倫理が伸び縮みする、というのはキミの都合でしかないし、キミが規範に関して何も知らないのを私は知ってるよ。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています