>>269
> ・・・それとも、彼は「物証が在る事」の意味が分ってないのかな?
> 「そう見えてるだけ」かもしれない「苦痛概念の記号表現」=状況証拠とは違う、生体システムとストレスホルモン放出という物理現象を伴う同一性

記号コミュニケーションが成立し、記号が記号として存在することを形而下事実と認めるならば、記号というものの性質からそこに所記が存在することは自明だが?
そして記号の存在についての物証は、ある音や形が記号として用いられている無数の記述や音源がそれにあたるわけだが?
それとも記号というものは存在せず、単に「無意味な音や形が記号に見えてるだけ」なのかな?
だとすると記号コミュニケーションもまた無意味な音や形の無意味な連続に過ぎず「成立してるように見えてるだけ」なのかな?
膨大な物証や検証があり再現的に実験がリアルタイムで進行してるのに?
単に「帰納推論は恒に普遍的な真理を表現できない」と言ってるだけなら、それは確かに帰納推論の性質ではあるが、
そのことから帰納推論を否定するならそもそも自然科学は成立しないし、それゆえに反証主義が採用されるのが科学なわけだが、
これを「そう見えてるだけかもしれない、認めない」というなら「生体システムの同一性についての物的証拠」すら「そう見えてるだけかもしれない」と言うことができるはずだが?

> = 「 物 的 証 拠 」 が 在 る 事 、を「ヒトと動物を別けられない根拠」として扱えないのならば、彼の縋る「状況証拠」は尚の事根拠と出来ないし、

個々の枠組みの恣意性により、枠組みによっては「生体システム」を線引き条件に採用し、「ヒトと動物を別けられない」ような線の引きかたをすることができることを否定していないよ
ただしその線引き条件は枠組みを超えた普遍性でもってあらゆる枠組みで採用されるべきとする理由がない、と言ってる
その意味で「抽象概念の記号化表現の有無」と同じく、それを線引き条件として採用するというのは一つのローカルルールに過ぎない、と言ってる

> その物的証拠を以ってしても「ヒトと同様の苦痛が動物にも在る事」の証明と出来ないとすれば、同じ生体システム等を共に持つ「自己以外の他者ヒト」にも、
> その者に「自己と同様の苦痛が他者ヒトにも在る事」の証明としては使えない事となる。アタリマエですねw

いや、「生体システム」によって動物と植物の間に線を引くこともできるが、
「抽象概念の記号化表現の有無」で動物と植物を同じ側に置くような線の引きかたもできる、といってる
どちらか(あるいは他の無数の線引き条件を含めたうちのどれか)が普遍的で他の線引き条件の成立を妨げるのではなく、
単に枠組みの恣意性でどちらが(どの線引き条件が)採用されるかの問題に過ぎない、と言ってる
そして言い換えれば、「生体システム」にしろ「抽象概念の記号化表現の有無」にしろ、あるいは他の線引き条件にしろ、
たまたまある条件を線引き条件に採用した枠組みにおいては、それを採用したがゆえにそのような線の引きかたがなされるというだけであり、
その条件が当該の枠組みを超えて普遍的に採用されるべき理由はない、と言ってる

> 「動物にも苦痛概念が有り、それは『過去加害ヒトへの威嚇や恐怖・逃避行動』によって記号として再現される事実」として、ヒトだけを特別扱いすべき根拠が消え失せてしまいます。

それが「抽象概念の記号化表現」であるという学術的な検証がないというのが現在の事実では?
学術的な検証があるというなら提示してくれと再三要求しているが、どうなの?
で、そういった検証が存在しないならば、今のところその線引き条件を採用する場合には動物は植物と同じ側に置かれるよね

> 唯一残るは「言語を介してそれを行う事」のみですが、それが言語によって為されるのでなければ、「それのみ」でなければならない理由、というモノが存在せず、

別に俺は「抽象概念の記号化表現」だったり「言語」だったり、あるいは「生体システム」だったりというのは個々の枠組みで恣意的に決まる線引き条件の一つでしかないと言ってるだけで
「枠組みにかかわらず記号化表現あるいは言語が線引き条件として普遍的に採用さればならない」と言ってないけど?

> それは即ち「動物はヒトの言葉を喋れないんだから、苦痛を感じようが感じまいが、ヒトと同様には苦痛を感じない」と省略可能な

過失か故意かは知らないが、ちょっと違うな
「動物はヒトの言葉を喋れないんだから、ヒトの言葉を喋るかどうかを線引き条件とするなら、動物は植物と同じ側に置かれる」だな