>>94
> この「明瞭な前提」とは何か?ということは関係ない
> それが「ある」か「ない」かが問題に関わるということだ

「ある」ことが自明でなければ「ある」というためにはそのことを論証しなければならない。
そして、私はそれが「ない」と言っているのではなく、今その前提が確かに存在しているのか、そしてそれよりも「存在しているとすれば『それが何なのか』」吟味してみよう、と言っている。このことは既に>>70で以下のように述べている。
>スレタイの言説は「そういう文化」を前提していない、あくまで無前提の言説だ。
>原則Aよりスレタイの言説に「そうとはいえない」ということができる。そしてBでは無意味なので、スレタイには何らかの前提があると推測する。
>しかしその前提が不明瞭なので、それが問われることとなる。そのときに、前提(根拠)としてしばしば挙げられるのが>>1の【】内だ。
>しかし>>1に提示したように、これらは十分な根拠とはいえない。従って、依然としてBの可能性がある。
>ではスレタイの言説はどのような前提、どのような価値体系において述べられているのだろうか、そういう話だ。

「何らかの前提があると推測する」と明示しているだろうが。なぜきちんと読まない?
その上で、その前提が確かに存在しているのか、そしてそれよりも「存在しているとすれば『それが何なのか』」、そういう話だ。

そして「それが何なのか」が明瞭になったとき、その言説が「誰にとって、どのような意味を持ち得るか、誰にとってはそうでないのか」が明確になり、
それと同時にその言説が社会的にどう位置付けられるのが妥当かという判断に材料が与えられる、というのは>>92で説明済みだ。

> この「明瞭な前提」とは何か?ということは関係ない

あなたがこの「明瞭な前提」とは何か?ということと何との関係を言っているのか知らないが、
この「明瞭な前提」とは何か?ということは、スレタイのような言説が「誰にとって正当性を持ちうるもので、誰にとってそうでないか、また社会的にはどうか」という考察には大いに関係するわけだが。