>>67
> 人間に都合のいいだけの思想の一つでしかない
> つまりお前が「そうとはいえない」と言えば相手も「そうとはいえない」と言えばいい

スレタイのような「『無前提に物事の真偽を述べる言説』に私が『そうとはいえない』と述べること」は原則Aに整合する。
私が「(例えば)科学を前提にした命題の真偽を述べることができること」も原則@に整合する。

しかし、あなたも言っているように、「私が『ある前提での命題の真偽』を述べたとき、これを『他の前提から否定すること』には意味がない」。なぜなら、普遍的真理が不明である以上、価値観同士に正否・優劣を付けることはできないからだ。
であるならば、このとき「私が「そうとはいえない」と言えば相手も「そうとはいえない」と言えばいい」は成立しない。
つまり「無前提の言説に、『そうとはいえない』と述べること」は「ある前提で述べられた命題に、他の前提から『そうとはいえない』と述べること」とは区別されるべき理由がある、ということだ。
このことは、さらに突き詰めて言えばB「無前提の言説で物事の真偽を述べることは(普遍的真理が不明であるため真偽を帰属させられないので)無意味だ」、
C「前提のある命題の前提を無視して真偽を論じることは(真偽を帰属させるための条件を反故にして、真偽を帰属させられないので)無意味だ」ということになる。

例えば
「無前提に『植物は苦痛を感じないから食べていい』と述べること」はBの意味において無意味であり、
「科学を前提にして『植物は苦痛を感じないから食べていい、とはいえない』と述べることを、別の価値体系から『そうとはいえない』ということ」はCの意味において無意味だ。

> これではその言葉自体に意味がないということだ
> そして議論にも意味がなくなる

あなたの「お前が『そうとはいえない』と言えば相手も『そうとはいえない』と言えばいい」についていうと、
Cから「私が例えば科学を前提して、『そうとはいえない』と言えば相手が科学以外の前提から『そうとはいえない』と言えばいい、とはいえない」となる。

> それと「不明瞭」とは「科学的に不明瞭」ということだけだ
> 「植物は苦痛を感じないから食べてもいい」という考え方はそういう文化的には明瞭な答えだ

無論そのことは否定しない。しかしスレタイの言説は「そういう文化」を前提していない、あくまで無前提の言説だ。
原則Aよりスレタイの言説に「そうとはいえない」ということができる。そしてBでは無意味なので、スレタイには何らかの前提があると推測する。
しかしその前提が不明瞭なので、それが問われることとなる。そのときに、前提(根拠)としてしばしば挙げられるのが>>1の【】内だ。
しかし>>1に提示したように、これらは十分な根拠とはいえない。従って、依然としてBの可能性がある。
ではスレタイの言説はどのような前提、どのような価値体系において述べられているのだろうか、そういう話だ。

> 価値観に対し価値観で不明瞭だと決めつけることも余りにも都合いい考え方の一つでしかない

>>1は、ある価値体系に対して別の価値体系から「そうではない」と言う(C)のではない。
「述べられた言説の前提(前提たる価値体系)が不明瞭だから、AをもってBか否かを問うている」というだけのことだ。
BとCは明確に区別されているので、これを混同するのは故意ならば詭弁であり、過失ならば誤謬だ。