>>52についてもう少し簡潔に書いてみる。
スレタイ「植物は苦痛を感じないから食べていい」という言説について、特に>>1では
「『植物は苦痛を感じない』という前提について、これが不成立ならば後件『食べていい』の真偽をそこに還元することはできない、ゆえに『植物は苦痛を感じないから食べていい』とは言えない」という点に着目しているわけだ。

「植物は苦痛を感じない」という前提については、>>1に【】を用いて提示したようなことがしばしば根拠として挙げられるが、>>1に反論・指摘したように、【】内に述べられていることには疑義が生じる。
その場合、ただちに「植物は苦痛を感じない」と言えないのだから、何らかの補足的な説明があって初めて「植物は苦痛を感じない」といえることになる。
その補足的な説明無しには「食べていいかどうか」をはかるのに「植物における苦痛の有無」に還元しても判断することはできない。つまり「食べていいかどうかの判断を、植物の苦痛の有無に還元できない」となる。
従ってスレタイの言説は成立できない。こういうことだ。

であるなら、何がスレタイの言説を成立させる補足的な説明となるのだろうか。
この「補足的な説明」が社会において共有されるものであればスレタイの主張は例え非科学的・非論理的なものだったとしても、社会に許容される。
ところがそれが例えばカルト信仰のようなものや個人の恣意的な感覚といった、社会的に極めて偏った価値観によるものだったとしたら、それが社会に許容されるという保証は無い。
むしろ、そうであるならば反社会的・害悪的に認識されたとしても無理はない。
(ただし>>1はこのような反社会的カルトのような価値観を否定していない。あくまで【】内に疑義が生じるため、ただちに「植物は苦痛を感じない」といえない、という指摘に留まる。)

従って、社会性という観点から見るならば、「植物は苦痛を感じないから食べていい」という不確かな言説が何によって補足され主張されているのかを考察することには意義がある、ということ。