>>51
> 1は「〜ではない」というそれを否定したものになっている

>>1はスレタイ「植物は苦痛を感じないから食べていい」という主張の根拠として時々あげられるものを【】で示し、それが真に根拠として不足なく成立しているかどうかを考察したものだ。
【】が疑義の余地なく成立しているのであれば「植物は苦痛を感じないから食べていい」について「植物は苦痛を感じない」が真であるから、あとは「苦痛を感じないならばたべていい」が真であることを導けば全体が真に定まる。
もしも【】が明確に成立するのでなければその時点で「植物は苦痛を感じないから食べていい」は真とはいえない。
で、>>1は【】の根拠が不明瞭だから、「植物は苦痛を感じないから食べていい」も不確かな言説だ、と言っている。
「ある事柄が不確かならば、『それが真である』は、偽である」。この意味では「植物は苦痛を感じないから食べていい(は真である)」に対する否定だ。
しかし、「不確かな言説を信じてはならない」という意味での否定はしていないということだ。
「非科学的なものを信じる」とか「非論理的な主張を信じる」のは当人の勝手で是非も無い。この意味では少なくとも>>1では否定をしていない。

> 「〜そうとはいえない」というものだとしてもそれは「〜そうではないとはいえない」を同時に提示するものでありなんの意味ももたない

そんなことはない。
どのような観点からは「そうといえない」が、どのような観点からであれば「そうではないとはいえない」のかを明確にすることにはそれなりに意味がある。
例えば「科学的あるいは論理的には、そうとはいえない」しかし「非科学的あるいは非論理的には、(例えば何らかの信仰や恣意性などにおいては、)そうではないとはいえない」という場合、
これは当該の言説についてのある性質を明確に表している。
そして例えば「科学という観点からは考慮に値しないが、特定の宗教上ではこの言説には意味がある」という場合、その言説そのものが属する社会でどのように扱われる類いのものであるかを考察する役に立つ。

> そんなものは思想と思想を並べているだかけの人間の暇潰しのようなものだ

物事の観点(価値観といってもいい)というのは様々に並立し得るが、それが暇潰し以上の意味はないということには飛躍がある。
物事のある観点からの解釈が属する社会でどのように位置付けられるかを考察することは、人が社会で生きる上では重要な意味を持つ。
これが適切に考察されなければ、例えば>>31の例のように社会と軋轢を生じ、社会に対する害悪となる場合がある。
従って、これを避けることが有意義であるなら、価値観が並立するとき、その価値観同士の比較や相関や社会的位置付けの考察には十分な意味がある。

> 否定できないのであれば「植物は苦痛を感じないから食べていい」も認めることにしかならい

>>1では
少なくとも「植物は苦痛を感じない」の部分が不明瞭なので、この主張の真偽は不明だ。「ある事柄が不確かならば、『それが真である』は、偽である」。この意味では否定になる。
だが、不明なことを信じるのは勝手にしたらいい。この意味では否定していない。

しかし>>31や上記で述べたように、
この真偽不明の主張に十分な考察が為されないまま不用意にそれを他者に押し付けるなら、社会に軋轢を生じその社会から害悪とされても仕方がなく、
従って、この主張そのものが立脚する価値観とその他の様々な価値観や社会一般の価値観との比較や相関や位置付けを考察することには社会的な意義がある、と言っている。

余談だが、
こういった社会的意義を「暇潰し以上の意味がない」と切り捨てて、独善を押し付けようとするベジタリアンがあまりに多勢であれば、
ベジタリアンと呼ばれる人が一般論・傾向論としてそのような性質を持つものと認識されたとしても無理はなかろう、とも思う。