彼方「Diary of Karin」
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Day1
彼方「朝香さん、ここ座ってもいい?」
果林「……あら、珍しいこともあるのね。もちろんよ」
学内のカフェでひとり物思いに耽っている同級生。机に置かれた肘の前にはブラックコーヒーが湯気を立てて主人に存在をアピールしている。
それを敢えて無視するように、まるで相手を焦らしているように、私が知る限りずっと、彼女は窓の外を眺めていた。
彼方「何してたの?」
果林「見て分からないかしら」
彼方「うーん……私が来るのを待っていた、とか」
果林「私を名字で呼ぶような人を?」
彼方「やっぱり違う?」
果林「違うわね」
彼方「ちぇ……」 果林「あなたこそ、何をしているの?」
彼方「見て分からない?」
果林「フレンチトーストを食べているわね」
鏡になった窓越しの視線を手元に感じる。ぼんやりとしか見えなかったであろう彼女の出した解答を、私は添削する。
彼方「それと心温まるカフェオレもだよ?」
果林「私が言っているのはそういうことじゃないわ。……あなたは放課後にカフェに来るような人間じゃないでしょう?」
彼方「なんてこと言うんだい朝香さん、私だってカフェに来ることもあるよ?」
果林「…………信じられないわね」
そう言うと、彼女はやっと私の方に向き直って、品定めするかのような視線を絶賛憤慨中の私の全身に注いだ。
果林「……あなた、本当に近江彼方さん?」
彼方「そうだけど……」
品定めというよりも、むしろ真偽の鑑定と言った方が正確だったらしい。当たらずとも遠からずだろうか。 果林「双子の妹とかではないのかしら」
彼方「双子なんていないよー。ふたつ下の妹はいるけど〜」
果林「そう」
彼方「あー!興味ないって顔だなー?遥ちゃんはめっちゃくちゃかわいいんだぞー!」
果林「……そうなのね。ごめんなさい」
驚きで持ち上がった目尻と、呆気に取られたような彼女の表情を私は初めて見た。付言すれば、ある程度の感情を表に見せた場面自体、初めて出くわした。
その興奮に反比例して、私は落ち着きを取り戻す。
彼方「ううん、私こそ大声出してごめんね」
頬を撫でる白い蒸気の感触に目を落とすと、色も香りも、味も優しいカフェオレ。一口飲んで気を取り直す。
カップを置いて目線を戻すと、こちらを向いていた視線もまた横を向いてしまう。 果林「あなた、今日は昼寝しないの?」
彼方「どこで?」
果林「知らないけれど……。いつもはそうしているじゃない」
彼方「そうだねえ……でも今日は……」
そこで初めて目の前の同級生と同じ方向を向く。透明な窓には、無彩色の水玉模様が描かれている。街がカラフルな傘で彩られる季節だ。外の池は雨粒と手を取って瞬く間のダンスを繰り返している。彼女がずっと眺めていたものだけど、このように表現してしまうといささか滑稽だ。
果林「ああ、なるほどね。そういえば屋内で昼寝しているところはあまり見ないわね」
彼方「イヤになっちゃうよー……早く明けてほしいなあー……」
果林「それは同感ね。夏は夏で暑いけれど……」
彼方「そうだねえ……」
すると、朝香さんは若干いぶかしげな様子を見せて応じた。
果林「……あなた、まさか真夏になっても外で昼寝するつもりなの?」
彼方「そうだよ?」 果林「日焼けするわよ」
彼方「うーん……モデル直伝の日焼け防止法とかないの?」
果林「そんな都合のいい物があれば、私が知りたいわね」
近年の異常気象とかを考えれば、いや、そうでなくても大多数の人間はまず熱中症の心配をすると思うのだけれど、真っ先に日焼けの心配をするというのはいかにもモデルらしい。
その手の雑誌には明るくないけど、読者モデルだと聞いたことがある。いや、まだ目指しているだけだっただろうか。
彼方「ねえ、コーヒー冷めちゃうよ?」
夏の暑さの心配よりも、まずは身近なホットコーヒーの熱さの心配が先だと思う。彼女の眉がぴくと跳ねた。
果林「…………そうね」
また正面を向いてカップを手に取る。持ち手に這わせる指はさすがにモデルだと嘆息する優美さだ。
その重力を振り切って、私は視線をカップの目的地に先回りさせる。中学を卒業してそう間もない人間のものとは思えない程につややかな唇は、蠱惑的ですらあった。 果林「……どうしたの?落ち着かないのだけれど……」
彼方「ああ、ごめんねー。朝香さんが綺麗だったからつい……」
さすがに気まずくなって目を逸らす。一歩間違えれば毒になりそうな美しさ。慣れるまでは鏡越しに見つめるくらいがちょうどいい。
果林「そういうこと。だったらもっと眺めていてもいいけど……」
カップを置いた手は私の方へ向かってくる。相手はただの同級生なのに、思わず息をのむことしか出来ない。吐き出すことを、許してはくれない。
果林「そっぽ向いたのは、私に魅了されちゃったのかしら?」
顎にかけられた2、3本の指がいとも簡単に私を彼女の方へ向かせる。いつの間にか顔ごと迫ってきていた彼女は、高校一年生であるはずなのに、「魅了」なんて年に合わない言葉と溶け合って、一心同体になっていた。
その間にも私の息は詰まり、心臓の鼓動は、早鐘に変わる。
彼方「っ……」 果林「……うふふっ。ごめんなさいね」
彼女の身体が座席に再び収まったのを見て、解放された、という表現がふさわしいほど私は安堵する。それでもまだ目を直視することは出来なくて、手元のフレンチトーストを取り込むことに専念する。
果林「あら、拗ねちゃったの?子どもっぽいのね」
彼方「拗ねてない。私あなたと同級生だもん」
果林「そう?いつもと口調が全然違うわよ?」
その通りだ。ついでに言えば声も恐ろしく低い。この声を聞いても私を私と認識してくれるのは、おそらく家族だけだ。
彼方「そんなことない。私のこと知らないだけでしょ」
果林「……そうね。じゃあ、教えてくれるかしら?」
彼方「……いいけど」
思わずそう言ってしまったけれど、このままでは丸裸にされそうだ。それを許させる魔力とでもいうべき何かを、彼女は振りまいている。 果林「あなた、普段は『私』なんて使ってないじゃない。今日はどうしたの?」
彼方「今日はちょっとよそ行きなの。朝香さんとは親しくないから」
敢えて「親しく」のところにアクセントを置いて言い放つ。相手はそれを気にも留めずに続けてくる。
果林「朝香さん、なんて他人行儀な呼び方も、されると思っていなかったわ」
彼方「初めて話すんだから、別におかしくないでしょ?」
フレンチトーストをかきこみながら答える。それを聞いた彼女は、にっこりと微笑む。妹が見せてくれる純真なそれとは違って、本当に微笑んでいるのは仮面だ。それは、奥に透けて見える本人の嗜虐的な表情と相まって、朝香果林という人間を構成する骨子の一部を垣間見せる。
しかし、それすらもむしろ上品で端麗で、しかも全く自然だ。このことこそが、朝香果林がデビューもしていないただの学生なのに、まるでプロのモデルのようである所以に思える。
果林「ところで、どうして親しくもない私に話しかけてきたのかしら。急ぎの用がある風では……ないわよね?」
彼方「……うっ……」
飄々としながらも同じ単語に力を込めて言い返される。相手は私の弱点を分かっていてそこを的確に突いている。確かにこれと言った用事があるわけではない。 果林「そうねえ……私のファン、っていうわけはないわよね。握手やサインを求める風でも無いし……」
彼方「いつもそんなこと言われてるの?」
果林「ええ、まだモデルとしてデビューしたわけではないけれど、私のファンの子たちは何人もいてくれるのよ」
やはりまだモデルではなかったらしい。もっとも、この学園の中に限って言えば彼女は既にプロのモデルと言っても過言ではないと思う。ファン同士でなければしないような会話が、朝香果林の名と共に漏れ聞こえてきたことは一度や二度ではない。
「ファンの子たち」といっても、相手は同級生か年上かのはず。あるいは中等部にまで噂は届いているのか。
果林「…………」
早々に黙り込んでしまう朝香果林。どうやら彼女は周りの人間をファンかそれ以外かとしか認識していないらしい。
果林「あら、何か失礼なこと考えてる様子ね」
彼方「そんなことないよ」
果林「…………」
果林「やっぱり、あなたの方から白状して貰いましょうか……」
そう言うと、彼女はまたもや私の方に身を乗り出してくる。今度は両手を従えて、さっきみたいに生ぬるいやり方はしないという様子で。 サスペンスで、壁際に追い詰められた被害者が手近な鈍器を探すように、彼女に言い返せる武器を求めて、机の上を目まぐるしく見回す。その間も無言の圧力は続いている。
私の側には柔和なブラウンのカフェオレ、彼女の側には他の何者にも染まらぬ漆黒のコーヒー。格の違いは歴然だった。
彼方「…………うう……」
残った分量の差までもが、私たちの力の差を表しているようだった。残量の少ない死にかけのカフェオレと、全く痛手を負っていないコーヒー。倒れていった私の兵たちは、せめてもの生きた証をカップの白い壁に残している。
彼方「……ん?」
よく見ると、彼女のコーヒーカップには、減った跡がない。コーヒーを飲むと必ず気になる、水平に伸びるかつての残量の印。
しかしおかしい、彼女は確かにさきほどカップに口を付けたはずだ。もしかして、飲む振りをしただけで、実際には飲まなかったのだろうか。
彼方「もしかして……」 果林「どうかした?」
私の想像が事実であれば、それを突きつけるのは残酷だろうか。
いや、先刻までに私が受けた攻撃を考えれば、その程度なんということはないはず。
彼方「朝香さんって、猫舌?」
果林「……っ!」
途端に口を噤む朝香さん。どうやら正解らしい。ここぞとばかりに追撃をかける。
彼方「そっかー……、だからずっと放置してたんだねー」
果林「そっ、そんなことないわよっ」
彼方「でもコーヒー、減ってないよ?」
果林「ちょっと飲むのを忘れてただけよっ」
驚いた。あの朝香果林が猫舌でコーヒーが冷めるまで待っていたなんて。年相応にかわいい一面もあるものだ。 フレンチトーストの最後の一切れを飲み込んだ私は、カフェオレの甘さでフレンチトーストの甘さを上書きしながら、いとまを告げる。
彼方「それじゃあ、また明日ね。朝香さん」
果林「ちょっ……あなたねえっ」
彼方「あ、そうそう。猫舌って、飲み方の問題なんだよ?熱くても飲める方法、また教えてあげるね」
そう言い置いてカフェを去る。フードコート方式で先払いだから、そのまま走って出ていっても問題はない。食器は彼女に片付けて貰おう。
果林「結局何しに来たのよっ!」
あまり大声を出して目立ちたくないらしい朝香果林は、それ以上追いかけてこなかった。
彼方「……引き分けってところかなあ……」
Day1 End Day2 Morning
朝香果林は、いつもの様に授業開始の5分程前に教室に入ってきた。周りの数名が一斉に同じ方を向くので、ドアの方を見なくてもそうなのだと分かる。
昨日の今日で気まずい思いが、少なくともこちらにはあるけれど、頭を机に預けて真横の世界を眺めている私は、目を閉じれば不自然に思われることなく全てを遮断できる。
果林「おはよう」
誰にともなく朝香さんが挨拶する声と、それに対する若干黄色みがかった応答たち。教室の前方から椅子を引く音が聞こえたところで、頬を浮かせて代わりに顎を机に付ける。これでいくらでも彼女を観察出来る。
私の席は窓から2列目の最後尾。視界の左側には昨日のカフェのそれよりずっと小さく、ありふれた窓を通って梅雨時に似合わない陽射しが降り注いでいる。窓のすぐ隣が昼寝には最適なので、左隣の生徒を羨ましく思うのはいつものことだ。まだ席替えは行われていない。
彼方「……うーむ……」
目下の問題は、いかに朝香さんのペースに飲まれずに彼女と言葉を交わすか。頭に紙袋でも被っていくか、むしろ彼女のペースの方を乱してしまうか……。
朝香さんは見た目に似合わず猫舌だった。ああいうかわいい一面が他にも見つかって全面になるのも楽しそうだ。
私だけが知っている弱点を増やしていけば、案外こちらが優位に立つのは容易いのかもしれない。別に服従させたいわけではないのだけれど。 そういえば朝香さんはいつも授業が始まるギリギリにやってくる。遅刻は今のところ見たことがないけれど、額にうっすら汗が浮かんでいたこともあったような気がする。
彼女の家は遠いのだろうか。……いや、確か寮暮らしだと誰かが話していた。家と反対方向なこともあって私は行ったことがないけれど、30分もあれば登校できる距離のはずだ。
「はーい、席についてくださーい」
いつの間にか教卓に立っていた英語教師が軽く声を張る。気づけばチャイムも既に鳴り終わるところだった。
仮にも特待生なので普段の勉強は真面目にしなければいけない。けど、その分しっかりと予習しているのでむしろ授業中はあまり気を張らなくても大丈夫だと最近分かってきた。入学して2ヶ月も経てばおおよそペースはつかめる。
特に今日の予習はいつにもましてみっちりやってきた。どの問題で当てられても全て答えられる自信がある。だから授業中に朝香さんを観察していても何も問題ないはず。
懸念事項があるとすれば、当たる順番が完全にランダムなのでいつ当たるか予測出来ないこと。どの問題が当たっても大丈夫だけど、どの問題なのか分からなければ答えようがない。
「今日終わったところまでをテスト範囲にするので、ちゃんと聞いておいてねー」
来週はテストだ。高校のテストはまだ受けたことがないので不安ではあるけど、むしろ一週間ずっとテストに使うという驚きの方が大きかった。早く帰れる分昼寝できるのも楽しみ。
好き勝手に会話する訳でもない授業中に見つかることは限られているだろうけど、あの美貌に目を慣らしておかなければ作戦を練っても簡単にねじ伏せられてしまうので、早速彼女の観察に入る。 やはりギリギリにやって来たからだろうか、朝香さんは少し慌てた雰囲気で折りたたみの化粧鏡を取り出して机に置いた。頭に隠れて何を持っているのかは見えなくても、化粧を直しているのは分かる。
無粋なピーピングトムから全てを覆い隠す藍色の髪はたまの晴れ間に差し込む光に照らされて、その色の深さにもかかわらず、輝きとも言えるほどの艶を放っている。
「せんせー!テストってどういう問題が出るんですかー?」
授業に入るかと思ったらクラスメイトから質問が飛ぶ。割と器用そうで、それなりにそつなく問題に答える生徒だ。彼女は恐らくテスト勉強よりもテスト「対策」に心血を注ぐタイプだろう。
「テストは過去問配るのでタブレット見てくださーい」
「はーい」
過去問。受験ならともかく、ただの定期テストでは聞き慣れない言葉だ。大学なら卒業のための生命線だとか聞くけれど。
私が教師の言葉を受けてちらっとタブレットに移した視線を元に戻すと、さすがの手際というべきか、朝香さんはもう化粧直しを終えていた。直さなくても十分きれいだと思うのは私だけだろうか。
果林「…………」
彼方「……!?」
気づくと鏡越しに朝香さんが私の方を見ている。スタンド付きの鏡はいつの間にかその手に持たれていた。最後に右目でウィンクひとつ。 果林「♪」
目から音符が飛び出すのが見えるほど軽快な、カメラのシャッターが切られるかのような見事なウィンク。やられた。
彼方「……むむ……」
後ろからこっそり観察していたことすら見抜かれているとは……やはり侮れない。ドラマや小説に出てくる完全無欠の人物のようなことをされるなんて。猫舌だけど。
「じゃあ始めます。予習ページ開いてくださーい」
今度こそ本当に授業が始まる。最初の1人が当てられて、問題番号を確認したところで観察に戻る。実際に授業が始まっていれば流石にそうそうこちらの様子は窺えないだろう。
朝香さんと実際に話したのは昨日が初めてだけど、これまでの2ヶ月間同じクラスで過ごしていて分かったのは、どうにも勉強が苦手らしいこと。たぶんクラスの全員がそう認識している。特に文系科目が苦手らしい。 「じゃあこれを朝香さん」
果林「……は、はいっ……」
20分くらいしたところで、私よりも先に朝香さんが当てられた。案の定、今どの問題をやっているか把握していなかったので私もドキリとする。けれど、今の返事から垣間見えた彼女の焦りはそんなレベルではなかったらしい。
果林「In the morning……」
と、やはり言葉に詰まる朝香果林。極々簡単な部分しか答えられていないけれど、それでもなぜか発音だけは完璧なので妙に決まっている。まるで朗読劇でこの先の部分を読まずに溜めているのだとでもいうかのよう。発音の良さも英語歌詞の曲を歌わせたくなるくらいだ。
「難しい?」
果林「はい、すみません……」
しかし教師は非情だった。彼女の心からの演技はあえなく打ち切られてしまった。
「しっかり復習しといてねー。分からなかったら質問に来るように…………じゃあ近江さん」 妙なタイミングで当たってしまった。けど問題番号が分かったのは好都合だ。
彼方「はい。……In the morning, to avoid seeing the friend I really do not want to see, I pretended to have a cramp in my leg.……です。」
「はい。do notを敢えて短縮しないことで本当に会いたくないのだと強調するところがポイントですね。文句なしの模範解答です」
彼方「ありがとうございます」
一文としては長いものの、実際にはほぼ中学校レベルの文法で解答できる問いである。……つまり朝香さんは、やはりそれなりに英語が苦手のようだ。
件の彼女は私の方を見ている。その表情は驚きの中に若干の悔しさが混じった様子。昨日から今までの様々な感情を込めて、私も彼女にウィンクを返す。口元も目元も、少し意地悪く緩んでいたのではないだろうか。
彼方「♪」
果林「…………っ……」
結構長くこちらを見つめたまま、悔しさが驚きを塗りつぶしたあたりで朝香さんは私を振り切るように前を向き直った。口は乱雑に引き結ばれていたし、目も揺れ動いていたし、思ったよりも効いたらしい。
……これは使えそうだ。
Day2 Morning End Day2 Noon
昼休みになったところで、アップロードされていた英語のテストの過去問に軽く目を通した。さすがに全く勉強しないわけにはいかないけど、ちゃんと準備すれば9割以上取れそうで安心する。
ちなみに件の器用な生徒は午前中の全ての科目で過去問を勝ち取っていた。言わなくてもくれたのではないだろうか。
他の科目は後で確認することにして、タブレットの画面を切る。書き込みやすいように寝かせていた画面が真っ暗になって映したのは、天井ではなく人の目だった。
彼方「わっ!」
果林「なによいきなり。失礼ね」
彼方「いきなりはこっちのセリフだよ!脅かさないでよ!」
果林「……ごめんなさい」
初めて見たしおらしい表情。これまで自信が服を着て歩いているようなところしか見たことがなかったけれど、今日は随分弱気な印象だ。
果林「……その……」
彼方「?……どうしたの?」
果林「お願いが……あるんだけど」
彼方「…………おやおや」 彼方「なんだい?朝香さんが私にお願いなんて」
果林「…………その……」
あまりにも言いづらそうにする朝香さん。まあ大体想像は付くけど。
果林「……ちょっとここじゃ話しづらいわ。人の少ないところでお昼食べない?」
彼方「えー……私、お昼休みはお弁当食べたらすやぴしたいんだけど……」
果林「すやぴ?」
彼方「おねんねすることだよ?」
私と遥ちゃんしか使っていない言葉だからさすがに通じる訳がない。遥ちゃん曰く寝言でそう言っているらしい。
果林「ああ、いつものあれね。……でもそれなら外の方がいいんじゃない?せっかく今日は晴れているんだし……」
彼方「なに言ってるの朝香さん。お昼休みにそんなことしたら授業すっぽかしちゃうでしょ?」
果林「それは自分で起きられるように努力しなさいよ」
少し拗ね気味に言ってみても、甘い答えは得られなかった。 彼方「そういうわけだからだーめ。教室で食べるの」
果林「……なら、私が起こしてあげるわ。それなら外の方がいいでしょう?」
彼方「うーん……朝香さんに私が起こせるかなあ……」
普段の遥ちゃんの苦労話を聞くに、私はそう簡単に起こせる人間ではないらしい。13年間共に生きている遥ちゃんが言うのだから間違いはない。
果林「…………それは私を馬鹿にしてるのかしら」
私の返答を聞いた朝香さんは怒り気味にそう言った。何やら誤解されている。
彼方「違う違う。私はなかなか起きないよってことだよ。よく午後の授業の先生に起こされてるでしょ?」
果林「あれくらいで起きるじゃないの」
彼方「教室は騒がしいからねー……静かなお外で、お日さまのお布団もついてたらそうはいかないよー…………」
冬ならいざしらず、春ごろのお日さまは最高の布団だ。この上なく軽くて、暖かくて、決して剥がされない天然の寝具。春は終わりかけているけれど。 果林「…………いわ」
彼方「ん?」
果林「いいわ。私があなたを絶対に起こしてあげる。それでいいでしょう?」
闘争心むき出しの表情でそう告げる朝香果林。彼女が本当に戦うべき相手は他にいると思うけど、そこまで言われたら仕方ない。
彼方「……じゃあ、お願いするよー……朝香さんはお弁当?」
果林「自炊してるわけじゃないけど、お昼は持ってきてるわ」
彼方「じゃあ彼方ちゃんおすすめのお昼寝スポットへ行こうか〜」
朝香さんが本当に私を起こせるか一抹の不安を感じつつも、連れ立って教室を出る。万が一にも授業に遅刻する訳にはいかないので、釘を刺しておく。
彼方「もし私が起きなかったら朝香さんが教室まで私をおんぶしてってね?」
果林「はあ!?」
彼方「絶対に私を起こしてくれるんでしょ?起こせなかったらそれくらいして欲しいな」
果林「あなたねえ…………」
呆れたような表情を無視して、最高のお昼寝スポットへ向かう歩を進める。自然と早足になった私を朝香さんが追いかけてくる。 果林「……ねえ、こっちで合ってるの?この先って学食でしょう?さすがにふたりとも持ち込みで、なんて出来ないわよ?」
さすがに何も頼まずにカフェで昼寝するほど非常識じゃない。それにカフェで出て来るのはお日さまのお布団ではなくエアコンの風だ。それはそれで気持ちいいけど、やるのは夏や冬でいい。
彼方「お昼寝スポット、って言ったでしょ?学食じゃないよ」
果林「そうは言っても……」
彼方「朝香さん、学食の隣に草むらがあるの知らない?」
果林「え?そんなのあったかしら……」
彼方「あるよ。そこが最高のお昼寝スポットなんだ。……ほら、あそこだよ」
そうして指差した方には青々とした草が広がる地面と、カフェテラスの大きな窓ガラス、そして何より重要な、私たちを優しく照らす日の光。食事してよし、お昼寝してよしの、この学園で一番お気に入りのスポットだ。
でも、放課後のお昼寝はともかく、ここで食事をするのは今日が初めてだ。そこは朝香さんに感謝しよう。
彼方「ありがとうね、朝香さん」
果林「どうしたの?いきなり」
彼方「私、ここでお昼食べるの初めてなんだ。起こしてくれるって約束してくれた朝香さんのおかげだよ」
横に立つ朝香さんは、不安なような呆れたような、どっちつかずの様子で私を見下ろしていた。まさか見下されてはいないと思う。 昼休みもそんなに長くはない。すやぴの時間を確保するため、お弁当を取り出して早速本題に入る。
彼方「それで、朝香さんは私に何のお願いをしたいのかな?」
果林「それは……ええと……」
彼方「もー、言わないなら聞かずにすやぴするぞ?」
朝香果林らしくもなく、歯切れ悪い言葉しか出てこない。ファンの子たちに見せてあげたら新たな人気が出ると思う。
果林「その…………スト……」
彼方「ストライキしたいの?」
果林「ちがっ……テストよ!」
少しからかってみたら、勢いに乗せられて大声で叫んだ。予想通りの回答をありがとう。その言葉を私は待っていたよ。
彼方「テスト?テストがどうしたの?」
などととぼけてのたまってみる。彼女は赤くなっていた顔をさらに染めて答える。
果林「……もうっ!テスト勉強に付き合って欲しいのよ!」 彼方「うん、いいよ」
果林「えっ!?」
あまりにもあっさりした返事に戸惑う様子の朝香さん。
果林「いいの?ほんとうに?」
彼方「だからそう言ってるでしょ?」
果林「そう……ありがとう」
彼方「うーん…………」
内心ではこの展開は予期していたので驚きは無いけど、感慨はある。視線に乗せて送りつけると微妙な反応が返ってきた。
果林「なによ」
彼方「昨日は、『私に魅了されちゃった?』とか言ってた朝香さんが、こうなるとはねえ……」
果林「うるさいわよっ」 そこからは普通に食事を取り始めた。会話しながらも2割程減っている私のお弁当を見て、朝香さんが嘆息を漏らす。弁当を見た反応としてふさわしいのだろうか、それは。
彼方「なに?」
果林「いえ、さすがね。あなた調理専攻志望なんでしょう?」
彼方「そうだけど、知ってたの?」
果林「ええ。でも、知らなかったとしてもそのお弁当を見れば一目で分かるわよ」
…………そんなによいものだろうか。もちろん美味しいとは思っているけど、私の口にするものはほとんど私が作っているので、自分で食べている分には相対的な良さは分からない。
遥ちゃんは私の料理を世界一美味しいと言ってくれるけど、それはもちろん家族の作ったものだからという前提付きだ。
彼方「そこまで褒められるものかな……?」
果林「あら、自信が無いの?」
このセリフは朝香果林にとてもよく似合う。ところが、それとセットで思い出される魅惑的で挑発的な色彩は今、朝香さんの表面のどこにも無かった。私が言葉に詰まっていると、彼女はすらすらと次の言葉を出してきた。
果林「……ねえ、そのおかず、どれか一品いただける?」
彼方「え?いいけど……」 見下ろした手元で目線が彷徨う。モデル志望でストイックに食事を管理している朝香さんにあげるのに適したもの……。
果林「どれでもいいわよ。本当に」
彼方「本当?……じゃあ、この出汁巻き卵を……」
お弁当箱を彼女の方に差し出す。しかし手は伸びてこなかった。
果林「……ああ、ごめんなさい。私、お昼は手で食べられる物しか食べないから箸もフォークも無いの」
彼方「そうなんだ……じゃあ……」
この場に箸はひとつしかない。私がどうしようか迷っているところに朝香さんは追い打ちをかけてくる。
果林「あなたが、食べさせてくれないかしら?」
彼方「…………ぅえっ!?」
果林「どうしたの?」
彼方「いやっ、でもそれはっ」
果林「ほら、早くしないとお昼休みが終わっちゃうわよ?」
それは物を要求する側の言葉ではないと思う。今か今かと圧をかける朝香さんの身体が、昨日のように迫ってくる。でも今日は間に机なんてものはなくて、彼女は私のすぐ右側に座っている。 彼方「あ、あげないっ!」
果林「あら、自信が無いの?」
先刻と一言一句違わないそのセリフは、今度こそいわゆる朝香果林の風格そのものといった様相をもって私の前に立ちはだかる。
果林「それはあなたの料理に?それとも…………あなたの理性に?」
彼方「…………ううっ……」
果林「ほら、どうしたのかしら」
彼方「どっちでもないっ!」
果林「それなら、食べさせてくれるわよね?」
もはや退路が見つからない。いや、もしかすると初めから無かったのだろうか。さっき教室で、朝香果林の誘いに応じた瞬間から。
朝香果林、急に緊張を解いて、普段のイメージからは考えられないような、お茶目にかわいくねだるような顔を作る。最後にまたもやウィンクなんかして。
果林「……ねっ?」 彼方「……はあ、分かったよ」
果林「それじゃあ、食べさせてちょうだいっ」
昨日はとても見せなかった年相応の、いや、若干幼いほどの笑顔で言う朝香さん。少し甘く見すぎていたようだ。
彼方「はい」
お弁当箱の中の出汁巻き卵を一切れつまんで、持ち上げる。朝香さんの口元を見るとまたペースを崩されそうだったので、敢えて朝香さんを視界の端の方において、かつ細目気味に、食べさせるのに最低限必要な程度しか見ないことにした。
横からは若干不満そうな空気が伝わって来たけど、それはすぐに霧散した。
果林「…………おいしいっ!」
彼方「ほんと?」
その言葉に、思わず朝香さんを真正面からじっと見る。普段の憧れの対象としての輝きとは全く別の、ただ嬉しいといった輝きを湛えていた。
果林「ええ!これ本当に美味しいわ!……ねえ、他のものももらっていいかしらっ?」
彼方「ええ!?い、いいけど……」
結局、私のお弁当のおかずを全種類試すまでその言葉は続いた。私のお弁当なのにね。 果林「……こんなに美味しいお料理、久しぶりに食べたわ。ありがとう、近江さん」
彼方「どういたしまして。……でもよかったの?食事制限してるんだよね?」
果林「食事制限っていうよりも、管理ね。普段なら絶対こんな風に衝動的に食べることはないんだけど……」
それはつまり。私の料理がそこまで美味しかった、と言いたいのだろうか。
朝香さんは、ゆっくりと私に語りかけてくる。
果林「美味しいものを見て、食べたいと思うことはもちろんあるわ。でも、本当に食べることは全然無いの」
果林「この私が一目見て食べたいと思って、本当に食べたのよ?自信持っていいわ。……見た目も味も、一級品よ」
彼方「……ありがとう」
果林「……膝枕してあげるわ。このまま横になったら?」
彼方「……じゃあ、お願い」 支えを失って、不安定で不安な頭を、朝香さんの身体が受け止めてくれて緊張が解ける。
丁度今の彼女と同じように、嘘偽り無く、優しくて柔らかい感触だった。
果林「ねえ、昨日はどうして声をかけてきたの?」
彼方「んー……ひみつ」
本当は秘密にする程のことでもない。これはただの照れ隠しだ。
果林「そう。…………私は、あなたと仲良くなりたかったわ」
いきなり予想外の言葉が降ってくる。朝香さんが、どうして私と。
彼方「……ええ?それは嘘でしょ?」
果林「本当よ?」
彼方「…………どうして?」
その答えを聞きたいけれど、この膝の上で一秒でも長く眠りたい気持ちには抗えそうにない。 果林「さあ、どうしてかしらね?」
彼方「……ずるい」
果林「ふふっ……10分前には起こすわね?」
彼方「……うん……ありがとう……」
果林「……………………」
果林「おやすみ……なんて、30分もないのにおかしいかしらね」
Day2 Noon End ライブ帰りで昂ぶって眠れない身体にかなかりは効きますねぇ…
かなかり1年編は尊いし久々に長編の予感がするから応援したい
過去作は一番上のを見かけた程度だから読んでみるわ 終わるな!終わらないでくれ...!
まだ2日しか経ってないんだぞ!? かなかり独特の雰囲気がイイ!
お互い第一印象はそんな良くなさそうで好き 関係性が少しずつ深まっていく感じがいいね
ゆっくりでいいから続けてほしい みなさんありがとうございます。>>1は遅筆ですが、しばらく終わらせるつもりは無いです。
個人的にはあかりんのFollow me!がイメージソングです(歌詞除く)。 Day2 Afternoon
放課後の朝香果林は、正午頃と同じように、私の机の前に立っている。ひとつ違うのは、あの珍しく弱腰な印象の表情は失せ、ニコニコと笑っていること。
もっとも、その笑っているはずの表情は鬼の形相にしか見えない。
果林「……それじゃあ、行きましょうか?」
彼方「ど、どこに…………?」
果林「勉強できる場所……よっ!」
腕を引っぱって無理矢理椅子から立たされる。相当ご立腹の様子だ。
彼方「あの……私何かしたかな…………?」
果林「何もしなかったのよ!お昼に寝てから教室に戻ってくるまでの間!」
と、よく分からないことを言う朝香さん。私には何も心当たりがない。というか、その間の記憶が無い。
彼方「んん……?」
果林「起きなかったじゃないの!昼休み!」 彼方「ああー……」
確かに、目の前の彼女の膝枕の感触はしっかりと記憶しているのだけれど、そこから教室に戻ってきた記憶が無い。目を開けたら午後の授業が始まっていた。
それで納得する。朝香さんが寝ている私を教室まで運んできてくれたらしい。
彼方「じゃあ、本当におんぶしてきてくれたんだね〜……」
果林「…………」
彼方「ん?」
そこで唐突に黙り込む朝香果林。合わせづらかった目線を合わせようとすると、今度は彼女の方が泳いでいる。
果林「…………お姫様抱っこよ」
彼方「…………んん?」
果林「お姫様抱っこよ!」
彼方「おおう…………」
予想の遥か彼方から飛んできた概念にくらっとする。いや、そこで意識を手放したらまたお姫様抱っこコースかもしれない。 果林様にお姫様抱っこで運ばれてたとかファンに刺されてもおかしくない 果林「おおう…………じゃないわよ!おんぶだと落ちそうだったのよ!」
相当数の生徒から羨望の眼差しを向けられるあの朝香果林にお姫様抱っこしてもらって教室まで戻ってきた眠り姫。……うん、いいと思う。
彼方「うーん……もったいないことしたなあ……」
膝枕と違って記憶が無いのが悔やまれる。しばらくは背後に気をつけた方がいいかもしれないけれど。誰か写真を撮っていないだろうか。
果林「もったいないじゃないわよ!遅刻するかと思ったのよ!?」
彼方「まあまあ。ちゃんと勉強は教えるから納めてくれたまえよ」
そう言って顔色を窺う。ともすれば挑発になりかねない博打だったけど、幸いにも彼女の緊張は緩んだようだった。
果林「……ちゃんと分かりやすく教えてくれるかしら?」
彼方「…………」
少し緩みすぎたのかもしれない。勉強を教えてもらう生徒が教える先生にかける言葉としてはなんら不自然ではないけれど、そこに朝香果林という要素を一滴垂らすと全てが不自然に見えてしまう。 果林「どうしたの?」
彼方「ううん!なんでもないよ!行こう!」
あまり黙りこくっているとまた怒りを呼び起こすかもしれないので、さっさと移動したほうがよさそうだ。
彼方「図書館にする?」
果林「ダメよ!」
彼方「んん?」
私の無難な提案は即答で却下されてしまった。朝香さんは恐怖に震えたような様子で言う。
果林「図書館はダメ!」
彼方「ええ?どうして?」
果林「…………ひ、人に見られるじゃない…………」
そんな条件を付けてしまったら校内で使える場所はほとんど無いのではないか。 彼方「そんな場所ある?」
果林「…………ぶ、部室とか」
彼方「所属してないでしょ?」
私も入っていないし、それは朝香さんも同じはず。特に彼女の場合はモデル業の準備で部活どころではないだろう。まだデビューしていないけど。
果林「空き教室とか!」
彼方「不審者になっちゃうよ?」
空き教室は苦手だ。昔放課後に自分の教室ですやぴしていたら文化部の部員が練習に来ていて、くすくすと笑われた記憶がある。
果林「ああもうっ!」
しばし顔を見合わせる。施設は充実していても、生徒数も膨大な虹ヶ咲に、人に見られずに落ち着いて勉強できる場所なんてそうそうない。
彼方「わがままだなあ……」
果林「あなたに言われたくないわ!」 彼方「じゃあ……」
いくら虹ヶ咲が贅沢な学校といえども、虹ヶ咲の中に朝香さんの希望を叶えられる場所はないと思う。なら外には……。
彼方「あ、朝香さんちでいいんじゃない?」
果林「え?……いや、うちはダメよ!絶対にダメ!」
彼方「えー?なんで?」
彼女は寮暮らしのはずだから遠くもないし、家族に気を遣う必要も無いはず。これ以上の適地があるだろうか。
果林「…………ほ、ほら、寮だから狭いし……」
彼方「勉強するのにそんなにスペース必要?」
果林「ひとり用だからふたりは入れないわ!」
彼方「床でも抜けるの?」
急に子どもみたいな、あるいはそれ未満の言い訳を始める朝香さん。一体なんなんだ。 果林「ぬ、抜けないわ……」
彼方「もー!寮なら絶対に他の人に見られないよ!?」
果林「それはそうだけれど…………」
彼方「それに、自分の慣れた環境で勉強できるよ?私も自分の部屋が一番落ち着くし」
私の部屋はすなわち遥ちゃんの部屋でもあるので、世界最高の場所だ。そんな場所を好きに使える私は世界一幸福な人間だと言っていい。
果林「…………」
彼方「いい加減決めないと勉強する時間なくなっちゃうぞ〜?」
果林「…………その」
彼方「ん?」
果林「……引かないでね?」
なんて、覇気を失った面持ちで言う。 件の言葉を胸にやってきた朝香さんの部屋。それを見た私は絶句した。
果林「……ちょっと、なんとか言いなさいよ」
彼方「うーん。酷いね」
果林「もうちょっと言い方あるんじゃないの?」
彼方「無いね。これは酷いよ、朝香さん」
先ほどの朝香さんよりも即答で返した私に、視界の外から不満そうな視線が注がれるのが分かる。わざとらしく私の一歩前に出て、左手で部屋を示す朝香さん。
果林「そうかしら?普通の部屋だと思うけれど?」
などと朝香果林は抜かしているが、私の目は既にこの部屋の全体像を捉えてしまっている。全てが手遅れだ。
彼方「朝香さん、現実を見よう?」
果林「なによ…………」 彼女が今隠したつもりのベッドの足元のスペースには、衣類やバッグ、アクセサリーのものと思われる箱や紙袋が、販売店の在庫であるかのように大量に積み上げられている。
彼方「……ささやかな抵抗は無駄だよ?」
部屋の反対側にはテレビが置かれているけど、その前には山積みの雑誌。床にそのまま置かれているあたり片付けが苦手なのがありありと分かる。
果林「なんのことかしら」
私は、眉をひそめてやはり不服そうな彼女に、自分でも気づいているはずの不都合な真実を突きつけることにした。
彼方「朝香さん…………」
果林「…………」
彼方「この部屋は、汚部屋だよ」
果林「おっ…………」
彼方「ねえ、この部屋写真撮ってもいい?」
果林「ダメに決まっているでしょう」
彼方「ちぇ…………」 ここまでの説明ならただの汚部屋だけれど、出窓には一般的な朝香さんのイメージとはどうにも似つかない子たちが鎮座している。
バラの花束を持ったグレージュのくまさん、大きなハートマークを持ったブラウンのくまさん、そのふたりに挟まれてツインテールのピンク…………。
彼方「?」
果林「どうしたの?」
彼方「朝香さん、あのピンクのぬいぐるみって何の動物?」
果林「え?…………いえ、分からないわ。でもかわいいわよね」
彼方「うんうん。かわいいよね。朝香さんってかわいいもの好きなんだね」
果林「……そっ、そんなことないわよっ」
この期に及んで往生際が悪い。分が悪いと判断したのか朝香さんは話を逸らす。
果林「ほら、早く勉強教えて頂戴」
彼方「えー……こんなに散らかった部屋でするのー?」
果林「うるさいわよっ!」
彼方「仕方ないなあ……」 彼方「で?どの教科が分からないの?」
果林「……ぜ、ぜんぶ」
漢字ではなく、ひらがなでそう記述するのがふさわしいと直感できるほどに子どもっぽく、気まずそうに告白する朝香さん。その内容を咀嚼して、その上であきれ果てた私は、放たれた言葉をそのまま返す。
彼方「ぜんぶ」
果林「そうよ、悪い?」
良いか悪いかで言えば、悪いだろう。言わないけれど。
彼方「さすがに全部対策する時間は……」
果林「じゃあ英語!英語をなんとかして!」
彼方「文系が苦手なんだよね?」
果林「そうだけど……なんで知ってるの?」
彼方「見てれば分かるよ」
同じクラスの人間なら多分全員が知っている。それほどまでに彼女の学力は絶望的だった。
果林「そんなぁ……」 彼方「あははっ……なんだか今日の朝香さんは面白いねっ」
思わず腹を抱えて笑う私。また怒られるかと思ったけれど、やはり控えめな今日の朝香さん。
果林「……クラスのみんなには、言わないでね……?」
彼方「はうっ……!」
控えめなんて誰が言ったのか、爆弾じゃないか。思考がくらくらして仕方なくなった私は、よろつきながら二脚ある椅子の片方に滑り込む。
果林「……どうしたの?」
彼方「どうしたのって……いや、うん。…………勉強、しようか」
果林「ええ…………?」
彼方「ちゃんと教えられるかな……」
揺らぎが収まらない心を学問の方へ向けて落ち着かせられるか不安に思いながら呟く。
果林「いつも難なく質問に答えてるじゃない」
彼方「…………鈍感」
果林「え?なんて?」
彼方「知らないっ」 彼方「ほら、どこがわからないのっ?」
果林「ぜ、ぜんぶ」
先ほども聞いたはずのその言葉に、天、もとい天井を軽く仰ぐ。ついさっきの心の乱れは消え去っていて、代わりに別のなにかが暴れている。
果林「なによっ」
彼方「別に……」
果林「…………ど、どうしたの急に」
彼方「……ちょっと途方に暮れてただけだよ…………はぁー……」
あんな爆弾を食らわされたのだから、それなりにやり返してやろう。
果林「あんまりよっ」
いや、自信を持って言える。妥当だ。
彼方「……じゃあ、朝香さんが今日答えられなかったやつから行こうか」 果林「え、ええ?もっと初めの方から教えて欲しいんだけど……」
彼方「初めの方……ねえ」
それどころか、本当に初めからやらなければならないのだよ、朝香さん。
彼方「だってあれ、中学校レベルだよ?」
果林「えっ」
ぽかんとしている朝香さんをよそ目に鞄からノートを取り出す。その顔を撮影できるように準備をしておけばよかった。
彼方「ほら、これ見て」
果林「……何が何だかさっぱりだわ」
思わずまたため息が出そうになる。補習をしている教師の気持ちはこんなものなのだろうか。
彼方「to avoidは不定詞、seeingは動名詞、the friend以下は関係詞。全部中学で聞いたことあるよね?」
果林「……え、ええ」 彼方「なのに答えられなかったよね?……朝香さんは中学校レベルの英語が分かってないんだよ?」
果林「うっ……」
彼方「途方に暮れるのも妥当でしょ?」
果林「はい……」
実際には単語のレベルが中学校よりも若干高いけれど、それは黙っておこう。辞書で調べればすぐに分かる程度だし。
彼方「というわけで、まず中学校の総復習をしようか」
果林「……終わるのかしら」
この期に及んでまだそんなことを言っている朝香果林。流石と言うべきか、妙に絵になる様子で吐かれた言葉に若干イラッとする。やはり写真を撮れないのが悔しい。
彼方「…………死ぬ気で一通り終わらせるか、朝香さんのテストの点数が終わるかの二択だよ」
果林「ひっ……」 私の言葉に火がついたのか、あるいは私に脅されるよりマシだと思ったのか、朝香さんは真面目に勉強を始めた。
果林「……ねえ、これどういうこと?どうしてLet's cheer!が命令文になるの?」
やはり発音だけは完璧に決まっている朝香果林。もう1ヶ月くらい外国で暮らせば英語ペラペラになるんじゃないかな。
彼方「ん?…………ああ、let'sっていうのが……」
その発音の良さに今朝の授業を思い出す。そういえば遅刻ギリギリにやって来て、化粧直しをしていた。
彼方「ねえ朝香さん、なんでいつも遅刻ギリギリに教室に来るの?」
果林「え?……秘密よ」
イタズラっぽく笑ってかわす朝香果林は、いかにも何かを隠しているという様子。
彼方「えー?教えてくれてもいいんじゃない?」
果林「あなただって、隠し事があるでしょう?」
彼方「なんのことかな」
果林「とぼけてもダメよ?昨日どうして私に話しかけてきたのか、まだ聞かせてもらってないわ」
彼方「それは……秘密」
果林「じゃあ、私も秘密でおあいこね」 微笑ましいだけじゃないのが生っぽくていい質感
支援 彼方「むう……」
果林「どうしたの?」
彼方「なんでもない。……ほら、続き続き」
果林「あなたが雑談始めたんじゃないの……」
と、偽物の不満を描く朝香さん。改めて彼女のノートを見ると、数年前の範囲の復習とはいえそれなりに正解できている。むしろ、そこまで難しくもない漢字がところどころひらがなで書かれているところが目に付く。
彼方「朝香さん、漢字の練習もしようか……」
果林「なっ……伝わるんだからひらがなでもいいじゃない!」
少し想像してみる。そのうちにデビューして、完璧にクールなモデルとして活躍する朝香さんが、ひらがな混じりの文章で手紙や書類を書いている場面。
彼方「ダメだよ朝香さん。そんなところでクールを壊していいの?一流のモデルになるんでしょ?」
果林「それは……ええと……」
彼方「分かったら漢字も勉強しようね?」
果林「はい……」
彼方「とりあえず、応援くらいは漢字で書けるようになろうね?」
果林「わかったわよっ!」 その後も朝香さんはときどき質問を差し挟んでくる。
果林「ねえ、ドルミトリーってなに?」
彼方「んん?……ああ、dormitoryね。寮だよ、ここみたいな」
果林「そうなのね……」
そんなやりとりに疑問が浮かぶ。そういえばこの部屋には辞書が見当たらない。
彼方「ねえ、朝香さんって辞書持ってないの?」
果林「……持ってないわ」
彼方「ええっ……」
果林「あんな字ばかりのもの、見てるだけで吐きそうよ」
もはや駄々だ。それでも毎回私に聞くわけにはいかない。
彼方「はあ……朝香さん、スマホ出して」
果林「?」 私も自分のスマホを取り出して朝香さんに見せる。
彼方「ほら、こうやって検索欄に単語入れてみて?辞書が出て来るでしょ?」
果林「本当ね……」
彼方「これくらいならまだ吐かなくて済むでしょ?」
果林「ええ、ありがとう……」
単にありがたいと思っているらしい朝香さん。私は釘を刺しておく。
彼方「これなら私がいなくても勉強できるよね?」
果林「うっ……」
彼方「出来るよね?」
果林「はい……」
また煮え切らない表情を見せる朝香果林から目を逸らして、時刻を確認する。
朝香さんも何とか中1の範囲を軽く一通りさらえたところだし、そろそろ帰らないと遥ちゃんに美味しいご飯を用意出来なくなってしまう。 彼方「今日はこの辺にしようか。そろそろ帰らないといけないし」
果林「………………つかれたわ……」
脱力して言葉を絞り出す姿に、私も嘘偽りのない感想を返す。画面を消えないようにしてスマホを机に置いた。
彼方「そうだね。私も疲れたよ」
果林「今日はありがとう」
彼方「どういたしまして」
言いながら荷物をまとめる。朝香さんに自習の指示を出して変える準備を整えていると、家庭教師そのものだと思えて笑いがこみあげる。
果林「急になに?」
彼方「なんでもないよっ」
鞄を肩にかけ、最後に携帯を手に取って出入口の方へ。揃えておいた靴に足を滑り込ませて、部屋の中の方を振り向いた。朝香さんが見送りをしてくれる。
果林「じゃあ、また明日学校で」
彼方「明日も頑張ろうね」
敢えて明日も勉強をすることを確認すると、明らかに朝香さんの顔が歪む。 >>75訂正
彼方「今日はこの辺にしようか。そろそろ帰らないといけないし」
果林「………………つかれたわ……」
脱力して言葉を絞り出す姿に、私も嘘偽りのない感想を返す。画面を消えないようにしてスマホを机に置いた。
彼方「そうだね。私も疲れたよ」
果林「今日はありがとう」
彼方「どういたしまして」
言いながら荷物をまとめる。朝香さんに自習の指示を出して帰る準備を整えていると、家庭教師そのものだと思えて笑いがこみあげる。
果林「急になに?」
彼方「なんでもないよっ」
鞄を肩にかけ、最後に携帯を手に取って出入口の方へ。揃えておいた靴に足を滑り込ませて、部屋の中の方を振り向いた。朝香さんが見送りをしてくれる。
果林「じゃあ、また明日学校で」
彼方「明日も頑張ろうね」
敢えて明日も勉強をすることを確認すると、明らかに朝香さんの顔が歪む。 果林「……明日も……するのね……」
彼方「当たり前だよ。中2や中3は今日よりも時間かかるよ?」
果林「わかったわ……」
と、今日何度目かの弱気な顔を見せる朝香さん。
その瞬間を逃すまいと、私は手に持っていたスマホをすかさず頭の上辺りにかかげて、シャッターを切る。軽快な音が鳴り響いた。
果林「!?」
彼方「もーらいっ。それじゃあまた明日ねっ!」
果林「ちょっとっ!消しなさいっ!」
彼方「大丈夫だよ!みんなにバラしたりしないから!」
そんなセリフを置いて、部屋の外に出る。背後から朝香さんの叫びが浴びせられる。
果林「待ちなさいっ!」
待てと言われて待つものかと思いながら走る。寮を出て何回か曲がったところで、朝香さんの姿は見当たらなくなった。なんとか撒けたらしい。 帰りの電車に乗り込んで、先ほどの写真を確認する。
彼方「うんうん……」
物憂げでなよなよした朝香さん。その右側の奥の方には出窓に置かれたかわいいぬいぐるみたち。反対側には乱雑に散らかされたベッドとその周辺。見事に3分割で撮影されている。
映るもの全てがアンバランスで、唯一それらに共通しているのは、一般的な朝香果林のイメージとかけ離れていることぐらいだろうか。
彼方「これを見せびらかすなんて、もったいないよねー」
Day2 Afterschool End ありがとうございました。朝になったら番外編を落とします。
ただし>>1は果林ちゃん以上に朝に弱く、果林ちゃん以上に汚部屋です。 勉強嫌いとかできない人って基礎のところで理解しないまま放置した物が有るからわからないの連鎖になってる事多いからねえ DayX-1
果林「あれは……図書館なのかしら。大きいわね……」
外から見えるその建物は私が図書館として思い浮かべるものとは全く違う何かだった。さすがはあの虹ヶ咲の図書館だと嘆息する。
果林「せっかくここの生徒なんだから……使わないと損よね」
島にいた頃の小中学校とはまるで違う現代美術のような空間に進入する。そこは物静かでしっとりとした雰囲気で、私のためにあるような空間だった。
果林「入口は……あっちね」
もうひとつ自動ドアをくぐると、駅の自動改札のようなゲートが鎮座していた。
果林「…………?」
これはなんのためにあるのだろうか。どうしたら通れるのか。 「あの…………」
果林「えっ!?」
気づくと後ろに知らない生徒がいた。邪魔をしてしまったらしい。
果林「ああ……ごめんなさいね」
道を譲ると、その人は学生証をかざしてゲートを通っていった。なるほど、学生証で入れるのか。
果林「学生証……どこだったかしら……」
鞄を漁ると底の方からパスケースが見つかる。Suicaも入っているけれど、普段の通学では徒歩なので、どうしても他のものに埋もれてしまう。
果林「これをかざせばいいのね……」
さっきの彼女と同じようにパスケースをかざして優雅にゲートをくぐ……れなかった。ガコッという音を伴って私の身体は弾かれる。 果林「どういうこと?」
「あのー……」
果林「はい?」
横から話しかけてきた人は私服姿で名札を首から下げている。職員だろうか。
「Suicaとかと一緒に入れてませんか?学生証だけ取り出してかざしてみてください」
果林「えっ……そうですね。入ってます……」
言われたとおりにすると、すんなりゲートは開いた。もやっとした頭を抱えて本当に図書館の中へ入る。
果林「ありがとうございます……」
「いえいえ、通れてよかったです」 果林「本当に広いわね……」
外から見た大きさに違わず冗談みたいに広い図書館。本が集まる場所のはずなのに、なぜか目に入るのは机と椅子が多い。
果林「勉強用のスペースかしら……」
歩いていると案内書きが目に入る。この階では会話をしてもいいらしい。そういえば図書館という割に妙に賑やかだ。
果林「図書館ってふつうは私語厳禁よね」
やはり、これまでの自分の常識は何一つ通じないのだろう。物珍しいという視線を辺りに振りまきながら歩いて行くと、階段を見つける。
果林「登ってみましょうか……」 2階に上がると一気に静寂が訪れる。書棚と書棚の間にも、辺りに置かれた閲覧用の机にも、1階と同じように人がいるのに、ただ会話というものだけが抜き去られていた。
聞こえるのはページをめくる音……なんてよく言うけれど、実際には鞄を漁る音とかペンが走る音とか、ずっと人間らしくて夢のないものだ。
果林(……ここは会話が出来ないのね……)
会話をする相手がいないので私の行動は何ら変わらないけれど、緊張感は持たされる。
いくつ越えても景色がなかなか変わらない本棚の森の中に、突如階段が現れた。さっき私が上がってきたものとは別のものだった。まだ上の階があるらしい。
果林(上には何があるのかしら)
無機質な階段を1段上るごとに、2階の生活音がだんだんと遠くへ消えていった。 2階までの近未来的な雰囲気とは打って変わって、3階は海外の古くからある図書館のような風景が広がっていた。
本棚は重厚な木製のもので、中に詰まっている本に日本語の文字は見当たらない。
果林(……ここは洋書のフロアなのね)
歩いて行くと少し開けた場所に出る。大きな閲覧席の中央にはヨーロッパのお屋敷にでも置いてありそうなスタンドライト。窓際からは暖かな陽の光が射し込んでいる。
果林(英語なんてみんな読めないものね、このフロアに人がいないのも納得だわ)
果林(こんなところで撮影できたら、良い写真が撮れそうね)
なんて思いながら、椅子に座ってみる。自分だけがこの世界に取り残されているかのような気分になって、全能感すら感じられる。 果林(……さて、そろそろ帰りましょうか)
鞄を持って席を立ち上がる。顔を上げると右を見ても左を見ても同じような本棚が並んでいる。その中に見知った文字はない。
果林(…………え?)
私は、どこから来たのだっただろうか。そのことが思い出せないでいると、本当にこの場所には自分しかいないのだという実感が蘇ってきて、酷く恐ろしい気分になる。
果林(……………………)
出口を求めて歩いても、ひたすら同じような景色が続く。だんだんと早くなる鼓動に比例して、私の足も速くなる。
果林「…………はっ…………はっ…………」
果林「うそ……でしょう…………?」
どこまで行っても出口は見つからない。助けを求められる人の気配もしない。その事実を認識して、私は平静でいられなくなった。
果林「ああっ…………!」
その場にうずくまってひたすら叫ぶ。いつの間にか陽が落ちて真っ暗になっていた世界。床が消え去って、奈落へ落ちていく恐怖に思考が支配された。 果林「…………はっ!」
目を上げると、陽の光は変わらず射し込んでいる。スタンドライトの影が少しだけ伸びているように見えた。
果林「…………ゆめ……だったのね」
悪夢から覚めたときにだけ感じる、夢と現実の境界が溶けて曖昧になる感覚。どこまでが夢で、どこからが現実なのか分からなくなる。
果林「…………帰りましょう」
先ほど来た方へ歩き出す。しばらく本棚の行列を通り抜けて、それでも変わらない景色に疑念が浮かぶ。
果林「……こっちで合ってるのかしら」
悪夢の記憶は、時になかなか消え去ってくれない。現実に侵食してくるような感覚を覚える。
果林「……いやっ!」 果林「…………あっ!階段!」
やっと見つかった階段を駆け降りると、2階の生活音が急速に戻ってきた。確かに感じられる人の息吹に安堵する。
果林「…………ふぅ…………」
同じ階段で1階へ降りると、私が入って来たときと何も変わらない賑やかな集まりが視界に飛び込んでくる。人の消えた世界で味わえる全能感は、もうこりごりだ。
果林「帰りましょ……」
出口へ向かって歩き出す。が、出口が見つからない。2階や3階とちがって本棚ばかりの景色は広がっていないのに、それでもどちらへ行けばいいのか見当が付かない。
果林「本当に広い図書館ね…………」 「あのー…………」
果林「っはいっ……!」
「何かお困りでしょうか?」
ずっとうろうろしていると、声をかけてきたのはまたもや図書館の職員。恐らくさっきと同じ人だ。
果林「えっと……その……出口を……」
「ああー……」
その言葉で全てを察したらしい職員。そのにこやかな表情に私の顔は熱くなる。
「ご案内しますね」
果林「はい……ありがとうございます……」 職員に連れられて無事出口のゲートまでやってこられた。
果林「ありがとうございました……」
「いえいえ、お気になさらず〜」
ゲートを通るのには学生証が必要なことを思い出した私は、鞄を漁ってパスケースを取り出す。干渉しないように学生証を取り出すことも忘れていない。
果林「……やっと外に出られるわ……」
「あのー…………」
果林「え?」
「出口のゲートは通るだけで開きますよ?」
果林「っ……!」
上気した勢いで、開いたゲートを駆け抜けて建物の外へ出る。 果林「図書館なんてもう二度とこないわよっ!!!」
DayX-1 End 果林ちゃんに悪夢を見させたせいか、>>1も今日悪夢を見て目が覚めました。ありがとうございました。 Day3 Morning
テスト開始のチャイムが鳴る。記念すべき最後の教科は英語。朝香さんに数日間の補習をした、あの英語だ。
用紙をめくって、名前を書いて、軽く問題を見渡す。
彼方(…………うんうん、大丈夫だね)
先日見た過去問と同様の難易度だと思う。これなら半分くらい時間を残して終われそうだ。
彼方(……お、これは……)
初めて見る問題の中に紛れていたのは、先日朝香さんが答えられなかったあの問題。
彼方(もしこの問題を間違えてたらお説教だねー……)
なんて、まだ出来てもいない朝香さんの答案を勝手に添削しながら問題を解き進める。
『Keeping a diary, you'll enjoy your life much better.』
彼方(……『日記を付けることでより人生を楽しめるでしょう』。分詞構文だね〜)
朝香さんの解答どころか、半ば問題そのものを添削しながら解き進めていく。テストはきちんと解ければ楽しい時間だ。 そんな調子で進めていくと、あっという間に最後の問題を終えてしまった。ホワイトボードの上の時計を見ると、本当にまだ半分近く時間が余っている。
彼方(見直しするにも……長いよねえ……)
解いたばかりの問題を見直すのはすぐに終わってしまった。本当に見直しとして意味があるのかと言われると微妙だけれど、テスト時間中にクールダウンタイムなど大して置けないのだから仕方ない。
彼方(……うん。あとは朝香さんでも眺めよう)
と、最前の席に座る朝香さんの方を向く。席替えがあってもテストの時はこの順で座ることになるから、テスト時間中はこれからも暇つぶしに困らなさそうだ。
その朝香さんは、少なくとも手が全く止まってはいないようだった。
彼方(朝香さんに教えてただけあって、英語は本当に早く終わったなあ……)
彼方(ある意味朝香さんに感謝かも)
輝くような深い藍色の髪が今日もただ美しい。照りつける陽射しの下であの髪がふわっと踊るようなことがあれば、本当に綺麗だろうな。
彼方(今年、空梅雨なのかな?)
梅雨時だというのに、今日も普通に陽が照っている。単に晴れているというよりは快晴で、もはや梅雨が明けたのかのよう。 教室内に目を戻すと、当たり前だけどそれぞれがそれぞれの様相を呈している。カンニングの疑いを受けることなく教室内の雰囲気をつかめるのは最後列の特権だ。
頭を抱える者、ペンが止まっている者、軽快な音を鳴らして回答している者、何度も紙をめくる者。
それぞれの動作が、テストの終了が近づくに連れてどんどん速くなるのを感じる。秒針の音はずっと一定のペースなのに、それすらも速まって聞こえる。
朝香さんに視線を戻すと既にペンを置いていた。時間は残り少ないのでこれがどういう意味なのかは聞いてみないと何とも言えない。
彼方(……せっかく彼方ちゃんが教えたんだから英語はちゃんと点数取ってよね〜……)
見直しをしているならそれでもいい。さすがに朝香さんが既に全問正解しているというのも考えにくいので、見直しで何かしら間違いを見つけて欲しい。
彼方(…………がんばれ……)
念を送っているうちに何かに気づいたらしい朝香さんが消しゴムとペンを再び手に取った。
彼方(おお?何か直したのかな?)
朝香さんは相当に焦っている様子で書いた文字を消している。それはそうだ。もう秒針が一周する余裕は残っていない。
彼方(途中回答で残さないようにね〜……) 観察しているうちに終わりを告げるチャイムが鳴る。さあ、朝香さんの点数は終わらずに済んだのかな。
「はーい。筆記用具置いてー!名前確認して後ろから回答用紙を回してくださーい」
試験監督の言葉で用紙を前の生徒に渡す。一週間のテストはさすがに長かったけど、それだけに終わったときの開放感はひとしおだ。
彼方「ふわぁーーー…………つかれたあ……」
「テストお疲れ様でしたー。じゃあ、ここで初めての席替えをしたいと思いまーす!」
その言葉に急にどよめくクラスメイトたち。一方の私は不安になる。
彼方「席替え……やだなあ……」
今の席より良い席なんて、ここから更に窓側の1列しかない。窓際の最後列こそ至極の場所だ。今の私の席は窓際から2列目、窓からは離れる確率が圧倒的に高い。
それでも私の感情とは裏腹に、朝香さんから新たな席を決める紙のくじを引き始める。
決まった席は教師が入力すると全員のタブレットにすぐ表示されるシステムがあるらしいのに、それほどペーパーレス化の進んだ虹ヶ咲でも、くじそのものの電子化は不評だったらしい。 くじを引き終えて教壇から戻ってきた朝香さん。教師が入力して私のタブレットに表示された朝香さんの席は私の理想の席の一つ前。
果林「♪」
なんて、いつかの授業みたいに私にウィンクひとつよこす朝香果林。キミはずっと最前列にいる方が勉強に集中できていいんじゃないかな。
彼方「……」
そんな意思をこめて無言の視線を送りつけても、既に席に着いて私に背を向けてしまった朝香さんに受け取ってはもらえなかった。
その後もくじを引いていく生徒の狂喜だったり叫喚だったりが順番に続く。
彼方「……きたか」
ついに私の番になってしまった。重い足取りで教卓へ向かう。教師が期待と不安の入り交じる表情をしていた。
「近江さん、お願いだから中央の最前列を引いてね?」
彼方「え、どうしてですか?」
「最後列まで起こしに行くのが大変なのよ」
その言葉に教室がどっと賑やかになる。 彼方「いえいえ〜……彼方ちゃんよりもその席にふさわしい人がいたんですけど……」
と、後ろをちらと見る私。その視線が向けられていることに気づいた朝香さんが不満を漏らす。
果林「ちょっ……私だっていうの!?」
またもや喚き立つクラス。教師も私に同意してくれる。
「確かに朝香さんもだよねー」
果林「先生までっ……ほらっ、早く引きなさいよっ」
自分の劣勢を悟ったのか話を逸らす朝香さん。でも正論なのでくじを引く。
彼方「…………どれどれ〜」
「…………」
正面の教師が祈るような面持ちで見つめる中、くじを開く。 彼方「……やった〜!」
「えっ……」
なんて、私の歓声に言葉を失う教師。私は勝ち誇った笑みを背景に、くじをその顔の前に掲げる。
「うわ〜……よりによって……」
あまりにも悔しそうに私の名前を入力したのを見て、後ろを振り向く。その先には私の名前の位置を見たらしい、唖然とした顔の朝香果林。
果林「うそ……」
彼方「ふふんっ」
今日も、貰ったウィンクを朝香さんに返して席に戻った。 全員の席が確定したところで移動する。私はすぐ左隣に移動するだけなので楽ちんだ。
既に新たな席に着いていた私の前に、決まり悪そうな表情でやって来る朝香さん。
彼方「これからよろしくね〜」
果林「……ええ、よろしく」
彼方「テスト、どうだった?」
果林「まあまあかしら」
特に不審な様子もなく告げられる。朝香さんが隠し事に向いていないのはこの数日でよく分かっているから、恐らく嘘はついていないのだろう。
彼方「最後急いで直してたみたいだけど」
果林「見てたの?大丈夫よ。ちゃんと最後まで書けたわ」 彼方「あの問題、答えられた?」
果林「In the morning, to avoid seeing the friend I really do not want to see, I pretended to have a cramp in my leg.」
完璧な発音で、今度こそキメにキメて回答する朝香果林。称賛の口笛を返した。
彼方「それは良かった。……じゃあ、この後遊びに行かない?」
虹ヶ咲は二学期制で、前期の中間試験が終わると夏休みまでに定期試験はない。つまり、多少はっちゃけても問題ないのだ。
果林「突然ね……」
彼方「行かない?」
果林「……ええ、いいわよ」
満面の笑みで返してくれる朝香さんに、私の顔も思わず綻んだ。 荷物をまとめて外に出ると、茹だるような熱気、とニュースでリポーターが形容しそうな暑さが制服の上から纏わりついてきた。
彼方「うわっ……暑いねー……」
果林「そうねえ……」
暑いということに同意しておきながら割と飄々とした様子で彼女は答える。本心がどうか知らないけど、私は早く涼しいところへ行きたい。
彼方「どこに行く?私、雑貨屋に行きたいな」
朝香さんの意見を求めるのと同時にスマホを取り出して良さそうなスポットを調べる。
果林「雑貨屋?楽しそうでいいわね」
彼方「でしょ?……ん?」
飛び込んできたのはお天気アプリの通知。雨雲レーダーの見やすさと予報精度が売りらしいそれが教えてくれたのは、関東地方の梅雨明けだった。 果林「どうしたの?」
彼方「……朝香さんっ!夏が来たよっ!」
高校生としての初めての夏に、胸が弾んで、思わず飛び跳ねた。
Day3 Morning End ありがとうございました。他のシリーズもやりたいので次のDay3 Afterschoolでこのスレでの投稿は終わりにすると思います。Day4以降はまた立てます。 いいかなかりをありがとう
渋に上がってた過去シリーズも読んでみたから続き楽しみです いいかなかりが読めたので今日もよく眠れそうです。ありがとう 短期集中連載のシリーズものはテンション上がる
続きも楽しみにしてます Day2 Afternoon EndがAfterschoolになってますね。Day2はAfternoonが、Day3はAfterschoolが正しいです。
というわけで、Day3 Afterschool、スタートです。 Day3 Afterschool
朝香さんと一緒にショッピングモールにやって来た私は、外界との気温の違いに歓喜した。
彼方「すーずしーい!」
果林「はしゃぎすぎよ」
彼方「この涼しさは天国だよ?朝香さんは暑くないの?」
学校を出たときも涼しい顔をしていた朝香さん。でも、その額には自慢の髪がじっとり張りついている。水も滴る良い朝香さんを見る前に梅雨が明けてしまったのは残念だ。
果林「平気よ」
彼方「髪、ぺったりしてるよ?」
果林「…………」
下手な嘘をついて、バレると黙り込む朝香さん。季節が変わっても変わらないものはある。
彼方「涼しいでしょ?」
果林「……ええ」 彼方「まずはお昼にする?」
果林「そうね。どんなものがあるのかしら」
彼方「うーん……朝香さんでも大丈夫なもの……」
ショッピングモールは飲食店も充実しているけれど、食事を管理している朝香さんでも問題なく食べられるものというとほぼ壊滅のイメージだ。どうしたものか。
果林「私のことは気にしなくていいわよ」
彼方「え?いいの?」
果林「なにも、口にしたら死ぬわけじゃないもの。たまに友達と遊びに行くときくらい食べたい物を食べるわ」
彼方「ありがとう。…………あ……」
朝香さんの言葉に思わず声が漏れる。朝香さんはこういうときも、聞き漏らさず反応してくれる。
果林「どうしたの?」
彼方「……ううん!なんでもないよっ!」
すぐに朝香さんから顔を背けて、案内マップを探した。 食事を手に入れてテーブルに向かい合って座る。手元にあるのは、世界一有名なチェーンのハンバーガー。いつぞやのかわいいぬいぐるみと同じく、あの朝香さんと同じ画角に入るとあまりにもミスマッチな代物だ。
彼方「ねえ、写真撮っていい?」
果林「ええ、いいわよ」
あの時と違って撮影も快諾された。どうせなら一口かじりついたところを、と思って機会を窺う。
果林「……食べないの?」
彼方「朝香さんが食べたら食べるよ」
果林「そう……」
包み紙を広げて食べ始めようとする朝香さん。ソースが髪に付かないようにするために紙の位置を随分と念入りに調整している。その調節が終わったところで、手元のハンバーガーに視線を落としながら、朝香さんの目がこちらを捉え続けていたのに私は気づく。
その視線を不審に思いながらシャッターチャンスを待っていると、ついに朝香さんがハンバーガーにかじりついた。
彼方「いまっ……!」 問題の一口を飲み込んだところで朝香果林が声をかけてくる。
果林「…………ねえ、今の写真、見せてもらえる?」
彼方「見せる必要ある?」
果林「どんな風に写ったか気になるじゃない」
どんな風に写ったかは、恐らく自分自身が一番よく知っているはずだ。ムスッとした顔でスマホを差し出す。
彼方「……ほら、こんなだよ」
そこに写っているのは、朝香果林というよりも、ハンバーガーの包み紙で顔を作った朝香果林のマネキンだった。目も口も鼻も、全てがただの包装紙に覆い隠されてしまっている。
彼方「わざとやったでしょ」
果林「さあ、なんのことかしら」
彼方「次は外さないからね……」 果林「初めて食べたけど、美味しいわね……」
彼方「そうだねー……ん?」
さらっと流しそうになったその言葉は、よくよく考えれば異様なものだった。
彼方「朝香さん、食べたこと無いの?」
果林「…………ええ、ないわ」
彼方「そんな人いるの!?」
果林「まあ、ここにいるわね」
そうは言っても、幼い頃からずっとモデルを目指して食事を管理していた訳でもないはずなのに、どうして。
果林「地元になかったのよ」
彼方「どこに行ってもあるのがこのチェーンのいいところだよ?」
そんな場所があるのだろうか。一体どこに。 果林「じゃあ当ててもらいましょうか」
彼方「うーん…………ヒントもらえる?」
果林「そうねえ……」
そこで長考する朝香果林。その顔色を見るに、あまり優しいヒントは出してくれなさそうだ。
果林「私、寮住まいじゃない?」
彼方「そうだね。知ってるよ?」
果林「虹ヶ咲って海外からの留学生も多いし、うちの寮って国内からの生徒にはなかなか狭き門なのよ」
果林「だから……私は、それなりに遠いところから来た、ということよ」
それはそうだろう。東京都内で近くにこのチェーンがないところがある、なんて考えられない。
彼方「それだけじゃ……難しいなー……北海道か、九州か……」 果林「……ふふっ……そうねえ……」
しばし悩んだ朝香さんは、人差し指を頬に当てて、いかにも楽しそうに第二のヒントを告げる。
果林「車のナンバーは品川だったわ」
彼方「…………は?」
思わず硬直する。彼女は今なんと言ったのだろうか。
品川ナンバー。……私の認識が間違っていなければ、ここからひとつ隣に行けばもう品川ナンバーの地域のはずだ。
彼方「………………?」
第一、品川は東京の地名だ。北海道や九州に品川ナンバーの地域があるわけがない。
彼方「東京にそんな場所あるわけ無いじゃん!」
果林「いいえ?あるのよ、それが」
……残念な事に、朝香さんは嘘が下手だ。
どうにも本当にあるらしい。そんな場所が、都内に。
彼方「……………………こうさーん…………」 果林「ふふっ…………答えはね、離島よ」
彼方「離島……?」
言われてはっとする。たしかに離島ならばおかしくはない。
果林「私、八丈島出身なの」
彼方「はちじょう……じま……」
もちろん名前は聞いたことがあるけれど、実際にそこ出身です、なんて言われると相当な衝撃がある。
彼方「そっかー…………ひとり暮らし、大変じゃない?」
果林「…………そ、そうね」
彼方「?」
またもや何かを誤魔化したらしい朝香さん。何を隠したいのか分からないけど、本当にどこまでも飽きない人物だと嘆息する。
果林「ほらっ、早く食べましょ!」 テストが終わった解放感を噛み締めると、ファストフードを食べただけでは満たされきっていないと感じる。
いくら楽しい時間といえど緊張はするのだ。それだけに欲も大きい。
彼方「朝香さん、アイス食べない?」
果林「……遠慮するわ。あなたひとりで食べたら?」
彼方「そう……?」
やはり厳しかったようで、私の提案は退けられた。私の表情を見た朝香さんが、慌てて言葉を付け加える。
果林「私のことは本当に気にしなくていいのよ?行きましょう?」
彼方「……うん」
果林「ほら、行きましょう?」
朝香さんへの罪悪感と、何に対してか照れくさい気持ちで、少し俯いて朝香さんについて行った。
彼方「…………ありがと」 彼方「…………」
彼方「……………………」
彼方「……………………あれ?」
何かおかしな雰囲気を感じて目線を上げると、朝香さんがいなかった。
彼方「どこに行ったんだろ……」
朝香さんが何も告げずにどこかへ行く類の人だとは思えないけれど、とりあえず壁際で朝香さんを待つ。
彼方「…………こないな……」
さすがにおかしいと思ったのでスマホを取り出す。朝香さんとのチャット画面を開こうとして固まった。
彼方「…………あ、連絡先、交換してない…………」
学校と寮を移動するだけだった私たちには、これまでその必要性がなかったから、すっぽり抜け落ちていた。
彼方「うーん……探すしかないか……」 どこから手を付けたものかと悩んでいたとき、館内放送の軽やかなチャイムが響く。
『お客様のお呼び出しを申し上げます。八丈島からお越しの、近江彼方さま、近江彼方さま。お伝えしたいことがございます。至急、3階、総合案内所まで、お越し下さいませ』
彼方「……………………」
その放送を聞いて唖然とする。私は近江彼方だけれど、八丈島から来てはいない。
でも、八丈島から来ている人間が朝香さん以外にいるとは到底思えない。八丈島から来た近江彼方なんてもってのほかだ。
彼方「……行くしかないかー……」
彼方「まったく……雰囲気ぶち壊しだよ……」
放送にあった3階へ向かう。ハンバーガーチェーンの目の前にある吹き抜けになったエスカレーターを降りて、マップを探すよりも前に総合案内所とやらが目に入った。
ああ、あのどこにいても輝く藍色の髪、全身から放たれる自信のオーラ。背を向けていても分かる。間違いなく朝香さんだ。
彼方「…………朝香さん…………」
色々と台無しだと呆れながら歩みを進めた。
彼方「お待たせ、果林ちゃん」 果林「…………うっ…………」
こちらを渋々といった様子で振り向いた朝香さんは、一面真っ赤な顔を私に見せる。
彼方「果林ちゃん、迷子?」
果林「うるさいわよっ!」
彼方「うちの果林ちゃんがご迷惑をおかけしました…………」
『……い、いえ、合流できたようで何よりです……』
彼方「ほら行くよ、果林ちゃん」
果林「……ええ……」
来た道……と言う程のものでもない一直線のルートをエスカレーターへ向かって戻る。朝香さんからは声をかけてこなかった。
彼方「ねえ朝香さん、アイス食べに行こうとしてたんだよね?」
果林「え?ええ、そうよ?」 彼方「一体どこの店に行こうとしてたの?」
果林「どこって…………」
返答に困る朝香さんをよそに上りのエスカレーターに乗る。先刻までいた6階に戻って、件のハンバーガーチェーンを指さした。
彼方「あそこでハンバーガー食べたよね?」
果林「ええ、食べたわね」
若干ながら調子が戻ってきた朝香さん。その口、もう一度閉じさせてあげよう。私は掲げた指をそのまま横に滑らせる。
彼方「反対向いて?…………あれ、何かわかる?」
果林「……なにかしら」
彼方「あれはたぶん日本一有名なアイスクリームのチェーンだねー……」
果林「……………………」 さっきは返答をもらえなかった質問をもう一度投げかける。
彼方「一体どこの店に行こうとしてたの?」
果林「分かってたなら先に言いなさいよっ!」
彼方「いやー……まさか朝香さんがここまでの方向音痴だとは…………」
果林「うるさいわよっ!」
そろそろ聞き慣れたセリフを心地よく受け流しながら店に入る。朝香さんもちゃんと迷わずついてきた。
彼方「本当にいいの?」
果林「ええ、私はいいわ」
彼方「そう……」
後ろ髪を引かれながら一人分のアイスをオーダーする。試験終了のご褒美としていつもより多めに頼んだ。 席に座って、口の中で一口目を溶かしたところで、先ほどからの疑問を朝香さんにぶつけてみる。
彼方「ねえ朝香さん、いっつも遅刻ギリギリに来るのって、もしかして方向音痴だから迷ってるの?」
私の失礼な質問に対して、朝香さんも呆れた様子で返してくる。いや、呆れたのは私の方なんだけど。
果林「そんなわけないでしょう?いくら私でも、毎日通る通学路で迷子になんてならないわよ」
彼方「説得力ないよ?」
が、そこはやはり嘘が苦手な朝香果林、これも嘘ではなさそうだ。
果林「さあ、どうでしょうね」
彼方「むー……」
飲み込めなくて苦々しい疑問を、甘いアイスで流し込んだ。 果林「私からも聞きたいのだけど……」
なんて、もったいぶって大仰に尋ねる朝香さん。口が塞がっている私は代わりにスプーンを振って返答する。
果林「雑貨屋には、何を買いに行くのかしら」
彼方「んー…………」
今度は咀嚼した質問と共にアイスを飲み込む。答えは簡単だ。
彼方「日記帳だよ」
果林「あら、あなた日記付けてるの?」
彼方「ううん。今日から付けようと思って」
果林「へえ……」
僅かにいぶかしんでいる様子の朝香さん。あるいは感心でもしているのだろうか。
彼方「朝香さんも付けてみたら?」
果林「いえ、私はいいわ」
彼方「漢字の練習になるかもよ?」
果林「…………」
黙り込む朝香果林。若干ジト目でこちらを見つめている。 彼方「いいと思うけどな〜。クールモデルが日記付けてる姿って」
果林「…………分かったわ。私も買うわね」
言ってみるものだ。正直、朝香さんは絶対に乗らないと思っていた。
彼方「ひらがなで誤魔化しちゃダメだよ?」
果林「分かってるわよ!」
本当に分かっているだろうか。私も読ませてもらわないと実効性がないかもしれない。逆に私のは見せないけど。
彼方「…………あ、そうだ」
果林「どうしたの?」
彼方「朝香さん、結局、いつデビューするの?」
果林「ああ…………」 果林「もうすぐよ」
彼方「え?そうなの?」
てっきりもっとずっと先のことなのかと思っていた。
果林「まだ高校に入ったばかりでしょう?せめて最初のテストが終わるくらいまでは学校に慣れた方がいいんじゃないか、ってことでね」
彼方「そっかー……。じゃあ、もうすぐ雑誌に載った朝香さんが見られるってことだね」
果林「ええ、そうよ」
彼方「そっかそっかー。出る雑誌の情報とか教えてね?」
果林「もちろんよ」
にっこり笑う朝香さん。クールを売りにしているらしいけど、こういう優しい笑顔もいいものだと思う。
彼方「撮影中の自撮りとかも送ってね?」
手に取ったスマホを軽く振ってアピールする。
果林「それは……まあ、撮ったらね」 玉虫色の返事をくれる朝香さん。目線を手元に戻すと、手に持ったスマホに思い出すものがあった。
彼方「……あ!」
果林「なに?どうしたの?」
彼方「連絡先!交換しないと……」
果林「…………ああ、確かにしてなかったわね」
なんて涼しい顔をする朝香果林。私は涼しくなかったというのに。
彼方「交換しないとまた迷子呼び出しになっちゃう……」
果林「迷子呼び出しじゃないわ。お伝えしたいことがあっただけよ」
彼方「係員の人、困惑してたよ〜?」
困惑と言うより、むしろ引いていた。
彼方「それに八丈島から来てないしー」
果林「どこに住んでいるのか分からなかったし、学校名を出すわけにもいかなかったんだもの。仕方ないでしょう?」
彼方「仕方ないのは朝香さんの迷子の方だけどね?」 彼方「朝香さん、一口食べる?」
果林「……それじゃあ、いただくわ」
ダメ元で勧めてみたけれど、今度は首を上下に振ってくれた。
彼方「うんうん。これはデビューの前祝いだよ?」
私がスプーンを突き出すと、呼応して朝香さんも顔を近づけてくる。
彼方「はい、あ〜ん」
果林「……あーん……」
外を歩いてきたときとも、迷子になったさっきとも別の理由で顔を熱くする朝香さん。向こうを照れさせると私は案外照れずに済んだ。
彼方「美味しい?」
果林「……え、ええ、美味しいわ」
しばらく熱が冷めなかったその顔は、ばっちり写真に残しておいた。
Day3 Afterschool End 鳥羽にこんな逸材がいたとは…隣県から応援しとるで
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思ったより早く八丈島出身って教えてもらいましたね
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