【桜坂しずく】
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そういう事件が起きるという話は、ニュースで聞いたことがあった。
だから、自分は大丈夫だろうなんて思っていたわけではなかったし、
友人や両親からも気を付けるようにと何度も言われていたから、特に、夜道では気を付けているはずだった。
後から聞こえてくる足音。
近付いてきたと感じれば振り返って、警戒を示して、それで……。
いつもそうしてきたし、今回だってそうして、通り過ぎて、いつも通り、それで終わりのはずだった。
なのに……。
突き飛ばされて、車に連れ込まれて、
必死に抵抗してもどうにもならなくて――。
気付いた時にはもう、どこかも分からない部屋の中で、寝かされていた。 車に揺られているとき、
故意かは分からないけれど、不意のブレーキで跳ねた身体
どうにもできなかった私はどこかに頭を打って、落ちて、
緊張と恐怖と暑さと痛みとで、たぶん、失神してしまったんだと思う。
途中から何がどうなったのか分からない。
でも、自分がニュースに取り上げられるような危ういことに巻き込まれたことだけは分かっていて、
目も口も自由だけれど、手足だけは縛られたままだということも、分かった。
「……っ」
ほんのりと痛みの残る頭を働かせながら、どうにかこうにか、跳ねるように体を起こす。
今日か、昨日か……きっと、一昨日ではないだろうけど、
自分の記憶の最後と同じく、虹ヶ咲学園の制服を着たままだった。 連れ込まれた場所は、
ありふれた……と言えるほど多くの部屋を見たことはないけれど、
ごく普通の部屋と思えるくらいに普通の部屋に見える。
窓があるのか、カーテンがかかっていて、天井には蛍光灯の光があって、
エアコンがあって、ドアがあって……。
私は床に直接敷かれた薄めのマットレスと布団の上に寝かされていたようだった。
「……」
窓があるなら叫んでみるべきか。
それとも、犯人を刺激しないように大人しくしているべきか。
頭の痛みのおかげか、幸いにも少し落ち着けていて……考える余裕がある。
「……どうして、こんなことに……」
少なくとも、叫ぶことだけはしない方が良いと思って、首を振る。
誰かが襲われることがある。
その誰かが、今回は不幸にも自分になってしまっただけ。
そうやって、冷静になって考えようとしてみたけれど――
大事にしなくちゃいけない水分が、目から零れ落ちていくのを止められなかった。 誰かが助けに来てくれるのかな……。
そもそも、誰か、誘拐されたことに気づいてくれるのかな。
それは、どれくらいの時間がかかって、どれくらい……耐えた後に訪れるのだろう。
「うっ……うぅ……っ……」
考えるだけで、怖かった。
ニュースで聞きかじっただけの乏しい知識でも、何をされるのかというある程度の推測は出来てしまうし、
それに対して、自分の心を保っていられるという自信がまるでなかった。
これは演劇、これは空想、これはただの物語――。
そう思うことが出来たらどれだけ救われるのだろう。
そういったものの撮影だと……そう考えて、いっそ、没入してしまえば、心だけは……。
「助けて……うぅ……ぐすっ……」
あまりにも暴力的で、容赦のなかった誘拐の仕方が――それだけでは済まないと思わせてきて、
私はただ、泣くことしかできなかった。 誘拐犯は私のことを見てるのか、見ていないのか、
起きてからも、泣いてからも、泣き止んでからも、一向に姿を見せない。
もしかして、
想像しているようなことは一切されることなく、
このまま放置されて、飢え死にしたりしていく姿を観察されるだけになるのかな。
女の子が、苦しんで、悶えて、
腐り果てた肉の塊になるのを見たい――そんな、猟奇的な犯人なのかな。
「……あの……っ」
それは、ただ殺されるよりも
ただ、性的な行為に扱われるよりも……ずっと。
ずっと、苦しくて、辛くて、壊れてしまいそうな気がして――。
「誰か……っ……」
呼ばずには、いられなかった。 手も足も縛られていて、満足に動くことが出来ないけれど、
でも、そのままじっとしているなんて、出来なかった。
何かしなくちゃ、何か……と、
出来ることなんて何にもないのに、ただその気持ちだけで、一生懸命にドアの方に向かう。
ずりずりと制服を擦りながら、肌を擦りながら
床を這って扉に近づいて、肩で、ドアを叩いてみる。
普通の木製の扉は、肩をぶつけただけでガタガタと音を立てたけど、
脆いわけではなくて、体当たりした程度じゃ壊れたりはしてくれなさそうで。
後ろ手に縛られているから、
背中合わせになって、よじ登るように立ち上がる。
取っ手の位置を確認して、開けようとしてみたけれど――ガチッって、阻まれる。
「……当たり前、だよね……」
施錠されていて、自分では開けることもままならない。 「……お願い……」
扉を、叩く。
このまま放置されてしまうことだけは、嫌だった。
飢えるのは苦しいことで、辛いことで、
普通に息を引き取るよりもずっと痛みの伴うことだと聞いたことがあったから。
誘拐されるのも、性的な暴力を受けるのも、
それだって嫌なことではあるけれど、
このまま放置されて、飢え死にさせられることはもっと嫌で、そんな姿を面白おかしく観察されると思うと、
気が狂いそうにもなる。
いつか、誰かが誘拐犯を捕まえたとき、惨たらしく死んでいく私の姿が警察関係者に見られるかもしれない。
あるいは、悪いサイトに載せられてしまって
そう言う嗜好を持っている人達に、楽しまれるようになるかもしれない。
本物ではなく、創作として。
私の人生の終わりが、ただの映像作品として、消耗される――。
そんなの――
「やだ……」 いつか、女優として舞台に立ちたいと思っていた。
それは舞台に限ることなく、
ドラマや映画と言った、もっと広い世界に出て行くことだって、夢見ていた。
けれど、それは……。
それは、輝かしい物であって――迎えたくない人生の終わりに向かっていく惨めな姿じゃない。
「どうして……どうして、誘拐なんて……っ」
何かしたいことがあったのではないか。
目的があったのではないか。
私じゃないといけない――。
そんな、目的があったのではないか。
「桜坂しずくが死ぬ姿を見たい……そういうこと……?」 誰でもよかったけれど、たまたま私がいたから。
だから、誘拐して、そういう恐怖と、苦しみと、絶望とに、壊れていく役目を与えたのかな。
それとも、桜坂しずくが演じるその姿を見たくて、誘拐したのかな。
ニュースで取り上げられるような性的な行為なんて眼中にはなくて、
それ以上にもっと猟奇的な思想があって、適任だと――私のことを……。
「それだけは……」
それだけは、嫌だ。
私の夢が利用されるようで、私の人生が無駄に消費されてしまうようで、
耐え忍んで助けを待ち、救われた後に残るだろう心の傷なんかよりもずっと、酷い後悔をしながら死んでいくなんて。
「死にたくない……死にたくない……っ……」
また明日。
そう言って別れたスクールアイドル同好会の友人。
行ってらっしゃい。
そう、笑顔で見送ってくれた母と、帰りを待ってくれているゴールデンレトリバーのオフィーリア
走馬灯のように、思い出されていく記憶に押し退けられて、涙があふれていく。 「うぅっ……うぁ……あぁっ……っ……」
このまま、惨たらしく死んでいくことになる――。
それ以外にはないなんて決めつけてしまったせいか、
泣くというよりも泣き叫びそうになっていた私の耳に、がちゃりと音が響いた。
「!」
背中を支えてくれていたドアが内側に開いて、押されて前のめりに倒れていく
床に打ち付けられる痛みを覚悟して目を瞑ったけれど、
交差させて縛られていた両手首の辺りが掴まれ、顔ではなく肩に痛みが走った。
「っ……」
そのまま、引き上げられて、抱きしめられたかと思えば、
危なかった。と、耳元で声が聞こえる。
それは、スマホを落として、悪態をついていた人に似ている声だった。 私が床に叩き付けられることがないようにって助けてくれた……わけじゃないはず。
だって、それならあんなにも暴力的に誘拐なんてするはずない。
ブロック塀に叩き付けられて、車に放り込まれて……痛かった。
そんなことをしてきたのに、床に倒れるのを庇うなんて、あり得るはずがない。
誘拐犯は「死なせたいわけじゃない」なんて、見ていたみたいに言う。
ううん、きっと見ていたんだと思う。
見ていて、それで……私がこんなに不安になるまで放っておいたんだと、思う。
「……見ていたなら、すぐに来てくれてもよかったのに……」
もしも初めからそうだったなら、
私はきっと、もっと怖がって、怯えて、話にもならなかっただろうけれど、
でも、
こんなにも怖い思いをさせられるくらいなら、
不安にさせられるくらいなら、
誘拐犯らしく、目的を告げに来てくれていた方が良かった。
そう――思ってしまう。 支えられるようにして、布団に戻される。
顔を隠すつもりなんて全くないようで、顔がはっきりと見えた。
「やっぱり……あの人だったんですね……」
通り過ぎて、スマホを落とし、悪態をついていた人。
顔を見れば……あの時の人だって確信を持ててしまって、呟く。
もっとも、あの瞬間、あの場所にいたのはこの人だけだったはずだから、
顔を見るまでもなかったけれど。
「……死なせるつもりがないなら……やっぱり……」
時折耳にするよう事件のように、
そういった行為をするために誘拐したのだろうか……と、思って。
でも、身体を庇う気にはなれなかった。
死なせるつもりがないのは今だけで、
嫌がるなら、拒むなら――他の人にしたらいいのだと、殺されてしまう可能性があったから。
嫌でも、辛くても、泣きそうでも。
我慢しないといけない。
そう思っていたのに、誘拐するときにあんなにも暴力的だったこの人は、ただ優しく――頬に触れてきた。
まるで、そんなつもりはないって言うみたいに。
私が、オフィーリアに対してするように。
愛玩動物とでも――思っているかのように。 起こしてしまうことの程度に差はあるものの、
カッとなって。とか、思わず――勢いで。
そういった感覚で何かをやってしまうこともあると思ってる。
だから、もしかしたらこの人もそんな勢いで誘拐をしてしまって、
その有り余った勢いがあの暴力的な誘拐方法として現れてしまっただけで、実際には、よくいる穏やかな人なんじゃないか。
少しだけ――そんなことを考えた。
「……私だから、こんなことをしたんですか?」
話が通じそうな雰囲気とはいえ、言葉を選ぶ必要はあるけれど、
女の子ならだれでもよかったのか
それとも、桜坂しずくでなければならなかったのか。
それを聞くくらいは許して貰えそうな空気を感じて聞いてみると、
誘拐犯の男の人は、驚いた様子も迷う様子もなく、頷いた。
「……そうですか……」
誰でもよかったのではなく " 私だから " それは不幸中の幸いだと思う。
だって、それは替えが利かないということだから。
それはつまり、" 死なせたいわけじゃない " という言葉と相極まって、
少なくとも命の保証だけはして貰えたようなものだったから。 「もしかして、スクールアイドルのことも知っているんですか?」
もう少し話をしてみようと、声をかける。
何が相手にとって、踏み込まれたくないものなのかを私は知らない。
だから、公にしている自分の情報を、相手は持っているのか……なんて事の確認をしてみる。
知ってるなら知ってるし、知らないなら知らない。
でも、知らないなら、そこに続く話をすることが出来るし、
そうでなかったとしても何かと話題を絞り出して、
勢いで誘拐をしてしまったこの人の心を穏やかにさせて、説得することが出来るかもしれない。
男の人は「知ってるよ」と答える。
私のことは相変わらず、愛おしそうに見つめて、優しく触れてくる。
性的な触れ方ではなく、本当に、愛してやまない気持ちでもあるかのような触れ方。
「そうなんですね……じゃぁ、どんな曲を歌ってるとかも知ってますか?」
少しずつ、少しずつ。
高まった熱を冷ましていくように、会話を続けようと試みる。
優しさがあるからか、そこまで強い恐怖を感じないこともあって、状況に目を詰めれば冷静でいられるのがありがたかった。
けれど――
おもむろに、男の人は私のスカートを捲りあげて来て、言葉を失ってしまった。 部活をやっている私は、その部員と一緒に更衣室で着替えをする。
皆が皆というわけではないけれど、おしゃれな下着を身に付けている先輩もいて、
だから、自分も少しは見せてもいいようなものを――なんて、意識をするようになった。
「えっ……あ、あの……っ……」
だとしても――それは、部活の仲間。
あるいは、クラスの友人であって、男の人にではなかったからか、かぁっと顔が一気に熱くなっていくのを感じる。
「み、みなっ……見ないでください……っ!」
捲られたスカートで自分には見えないけれど、男の人の目には、私の下着がこれでもかと、はっきり見えているに違いなかった。
淡い水色で、花を模しているようなレースがアクセントになっている下着。
「見ないで……っ……」
見栄えが悪いものではないはずだけれど、でも、こんな風にみられるのが嫌だった。
それだけでなく、こんな形で見られているという状況が――
やっぱり、性的なことからは逃れられないんだって知らしめてくるようで怖くなってくる。
「……っ」
羞恥心と、ふつふつと沸きあがる熱とで頭がくらくらとして、涙が零れ落ちていく。
それに気づいた男の人は、抓んでいたスカートの裾を手放して、涙の流れていた頬に手を触れさせてきた。 触れ方は優しくても、
涙を拭おうとする指の力は少し力強くて、
微かに荒れているざらざらとした感触が、ちょっぴり痛くて、顔を顰めてしまう。
私が痛がったとすぐに察して、男の人は頬から手を離した。
他人に対してどれだけの力が必要なのか分かっていないのかもしれない。
だからあんなにも、荒々しくて、強引な誘拐だったのかもしれない。
なんて……心なしか、思考を歩み寄ろうとしてしまうのを振り払うように首を振る。
「何が、目的なんですか……?」
死に絶える姿を見たいなんて猟奇的な目的ではなくて、
時折ニュースで聞こえてくる性暴力が目的なのか
それとも、もっと別の……例えば……私達がオフィーリアを家族として迎え入れたように、
私のことをそういう風に……。
――ペットとして。
「っ……」
そう言われたわけではないけれど、
考えてしまって、ゾワゾワと総毛だって体が震えてしまった。 恐怖と緊張と、羞恥心と……色々なものが重なって高まった体温
元から、汗っかきだったこともあり、
じっとりと肌着が張り付くのを感じる中、男の人の手が、汗の浮かぶ首筋に伸びてくる。
「ひぅ……っ……」
首を絞められる。
そう思って体が強張り、思わずぎゅっと目を瞑って悲鳴を漏らしてしまった私の首には、
それを締め上げるような悪意に満ちた力は伝わってくることはなくて、
ただそうっと、汗だけを拭う感触が走っていく。
「っ……は……はっ……」
緊張と恐怖に、ランニング後のような激しい動悸がして、
拭われても拭われても、汗が浮かび、涙がこぼれてしまう。
額に張り付いた前髪を、男の人は優しく横に払って……こっちをじっと見つめてくる。
「っ……」
それがだんだんと近づいてきているように見えて……きゅっと唇を固くする。
まだちゃんと、そう言う意思を持って重ねたことのない唇を、奪われてしまうような気がしたから。 でも――唇が奪われたりすることはなかった。
けれど、首元で結ばれているリボンが引っ張られて解けて……シャツの第一ボタンが外されて。
ブレザーのボタンも一つ、また一つと外されて行って、中のシャツが露出していく。
「っ……う……」
やっぱり、いやらしいことをされるんだ……。
この人が満足するまで、したいように、好きなように……扱われて――。
服が脱がされていくから、それ以外には考えられなかった。
大人しくしていれば、強制の暴力が行われることはなく、
反抗すれば強制するための暴力が加わって。
どちらにしても、嫌がろうが何だろうが、好き勝手に性的なことをされることに変わりは……。
「……」
両手両足は縛られているし、出来る抵抗は限られているし、
抵抗したって痛い思いをするだけだから……だから、我慢できない涙だけはそのままに、耐えようと思った。
なのに――男の人はブレザーのボタンを一通り外し終えると、
それ以上は脱がそうとする素振りもなくて、
私の額に手を当てて「少しは涼しくなった?」なんて、聞いてくる。 「え……あ……えっと……」
えっちなことを考えていたのは私だけで、
この人はただ、熱を出したみたいに汗をかいていた私のことを気遣ってくれていただけなのかもしれない。
そう思うと、申し訳なさと羞恥心と、自分のいやらしい頭に言葉が出なくなる。
そういう事件があると耳にしたことがあったし、
この状況から見て、そうなるはず。なんて、偏見がなかったと言えば嘘になる。
だけど、だからって……。
だからって――。
「うっ……ぁ……ぅう……っ……」
どうしようもなくなって顔を背けながら、精一杯に頷く。
私の顔はきっと、それが嘘だってわかるくらいに真っ赤だと思う。
それに、身体は凄く熱くて……汗が止まらない。
そんな私を見かねてか、男の人は大丈夫かどうか、
何か欲しいことしたいことはあるかなんて、心配そうに聞いてきた。 あんな怪我をしかねない強引な誘拐をしたのに、
手足を縛って、こんな部屋に監禁してきているのに。
なのに、なぜだか、凄く優しくて――。
「家に帰して欲しいって言ったら、帰してくれるんですか……?」
どうせ無理だろうと思いながら、
こういう時の常套句みたいな質問をしてみると、
それは駄目だって、やっぱり、首を横に振られてしまう。
「そう、ですよね……」
このことは誰にも言わないから。
忘れるから。
そんなことを言ったところで無駄だし、
もしかしたら、そう言うなら今の話はなかったことにする。なんて、機嫌を損ねてしまうことも考慮して。
「それなら……お風呂に入るのは……良いですか? もしあれなら、シャワーだけでも……」
一旦、今の身体をリセットしたくて、そんな風に申し出てみた。 私のことを大事にしてくれるつもりなら、
身体を綺麗にすることを許してくれるはず……と、思っていたけれど、
男の人は、少し考える時間を作って、私をまた、不安にさせてくる。
駄目って言うべきか、
それとも、良いよって言うべきか迷っているのでは……と。
駄目って言われたらどうしよう……汗をかいた、この身体のままでいないといけないのかな。
もし、本当に、えっちな事をされるってなったときに、汗臭いまま……。
「っ……」
また、されるかもわからないことを考える頭を切り替えようと首を振る。
そう言う事件があるからって、この人がそれを目的としているとは限らない。
でも、本当に、そう言う目的が一切ないのだとしたら……
私は、どうなっていくんだろう――と、考えている頭に承諾の声が聞こえた。 両手はともかく、足を縛られている状態では動けないだろうって、足の拘束に触れてくる。
もしかしたらスカートを捲られるのではないかって、
ドキリとしてしまったのは……知られてないと良いけど、なんて、ちらりと目を向けると、目が合う。
だけど、男の人は私の足の拘束を解くことはせず、
目が合ったのをちょうどいいとみてか、布を見せてくる。
手ぬぐいのような布。
それの使い道は目隠しか、猿轡か……と、考えて。
状況的には、きっと目隠しなんだろうって、察せてしまう。
お風呂場までどんな風になっているかを、知られないようにしたいんだと思う。
部屋の外がどうなっているか分からなければ、逃げ出す勇気を出せないって――思っているのかもしれない。
そもそも、部屋には鍵がかかっているのに。
「……ん」
私は大人しく、目を瞑る。
目隠しを受け入れるという肯定と同じような意味合いを持たせて。
男の人が動く音がした。
近付いてきてるって分かって、どきどきとして……でも、
えっちなことはされないはず……って、今度こそは考えないようにして。
目が少しだけ圧迫されるような感覚を覚えて、頭の後ろに引っ張られるような感じがして、
そうして――きゅっと、絞められる。
あんまりきつくなくて、でも、緩くもない、そんな締め付けを感じながら薄く目を開いてみると、
手ぬぐいの暗闇に包まれて、何にも見えなくなっていた。 視界を奪われていても、
男の人が優しく扱ってくれるって不思議な安心を覚えているからか……怖くなかった。
さっきしていたように、足を縛っている紐に手が触れたような感じがする。
少しだけ引っ張られる感覚を覚えて、すぐに、足を開けなくしていた拘束感が薄れて、消えていく。
紐の感触はまだ残っているけれど、数時間……くらいかな。
それだけの時間を経て自由になった足の感覚は、ちょっぴり心地よかった。
「――ひぅっ」
ふと……男の人は、私の頬に触れてくる。
思わず小さく悲鳴を上げちゃったけれど、でも、その手は優しく撫でる程度で、
首まで下り、肩を掴んで立てるかどうか、訊ねられる。
「……は、はい……」
目が見えなくて、バランスを崩してしまいそうな不安がないわけではないけれど、
きっと、支えてくれる……なんて思いながら、答える。
ゆっくりと足に力を入れて、横座りのような姿勢に持って行こうとしたところで、
やっぱりバランスを崩して前のめりになってしまったけれど、
男の人の、固い感触に抱き止められて……そのまま、引き上げられていく。
「あ、あり……がとう……ございます……」
元はと言えばこの人のせいでこんなことになってる。けど、助けて貰ったことは事実だからと、感謝をすると、
身体を抱くようにしていた力強さが離れていき、残っていた大きな手の感触が、私の腕を掴む。
それはただ、導いてくれるものだと……私は信じた。 目が見えない分、足取りは重くて、
出入り口の扉はそこまで遠くなかったはずなのに、その何倍もの距離があったかのように感じる。
数分か十数分かかけて歩くと、鍵が開けられる音に続いて、ドアが開く音がした。
「……み、右ですか……左ですか……?」
恐る恐ると訊ねると、
左だって答えと共に、腕が少しだけ引っ張られる。
足の重い私が躓かないようにって、気遣ってくれている優しい力。
誘拐したのに……監禁したのに、とても優しく導いてくれるからか、変な感じがする。
「……」
私が大人しく従ってるから……かもしれない。
ううん。かもしれないんじゃなくて、きっと、そう。
だって相手を困らせなければ、余計な手間をかけさせなければ……機嫌を損ねない。
オフィーリアだって、小さい頃は悪戯をすることがあった。
悪戯をしたら、叱られて、それが悪いことだと教わって、
お手やお座りとか……そういった、
こっちにとって嬉しいことを応えてくれたら、褒められたし、ご褒美だってあった。
「……っ」
従順なら優しくされ、褒められ、ご褒美がある。
でも、そうではないなら厳しくされて、躾のような何かがあって、罰がある。
私達にとってのオフィーリア
それが、この人にとっての私の立ち位置――。
この場所で飼われるために連れて来られたと思えば、
えっちなことを目的としているようでしていない、そんな態度もなんとなく納得がいく。
つまり、私は……やっぱり、愛玩動物なのかもしれない。 「ありがとうございます」
2つか、3つの扉を通り、数十分くらいにも感じる時間がかかったけれど、
ようやく、脱衣所に着いたって声がかけられて、私はすぐにお礼を言った。
監禁された場合にどんな目に合うのかなんて分からないから、
お風呂に入る許可がもらえて当然なのかどうかなんてわからないけれど……でも、
分からないからこそ、これは私に与えられたご褒美なんだって思うべきだと思ったから。
普通はして貰えないことで、ご褒美で、
私はそれを喜んでいるんだって、男の人に思って貰わないといけない。
オフィーリアに何かをしてあげた時、
喜ぶこともあれば、あんまり嬉しくなさそうな時がある。
喜ぶことは何度もしてあげたいと思う一方で、喜んでくれなかったことは控えようって思う。
だから、私がこの人にとっての……ペットなら……必要なことだった。
目隠しが外されてから、目を開ける。
意外と整理整頓されている脱衣所らしい脱衣所で、私は男の人に目を向けた。
「……自分で、するんですか?」
裸を見られるとかどうとか、そんなことは全部丸投げにして、
自分で体を洗いたいとか、そういう……人としての尊厳を振り払って、私は訊ねた。
自分で体を洗いたい。
だからこの手の拘束も解いて、脱衣所から出て貰えませんか? なんて言うのは、あまりにも我儘だと思ったから。 そんな私の考えを、たぶん、知らないだろうけれど、
男の人は少し考えてから、手首を縛っている紐も緩めて外してくれた。
「……良いんですか?」
手も足も自由にして。
反抗されるとは考えないんですか? なんて、思ってしまうけれど、口にはしなかった。
そもそも、私は逃げ出す気はなかった。
目隠しでここまで来たし、途中途中の扉では、律儀にも鍵を開け締めするような音が聞こえていたから、
運良く、ここで男の人を怯ませてここから出られても、外にまで出られるとは到底思えない。
「……お風呂を出る時は、声をかければいいですか? それとも……その、どこかにカメラがあるんですか?」
カメラがあるなら、私が上がったことも当然わかるだろうし、
着替えが終わって、迎えが必要なタイミングだって、この人には全部分かるはず。
私はこの人に監禁されている立場だから……監視カメラで撮影されていることを咎める気はないけれど、
でも、撮られていると、見られていると思うと、落ち着かない。
男の人はそれに答えずに浴室の扉を開けて、何かがあった際に使う呼び出しボタンを指さした。
なんだ、それなら、と思って小さく笑う。
「そしたら、終わったら呼――……」
部活帰りの誘拐、それから数時間
そんな目に遭った私の身体は、度重なる緊張から解放されつつあったこともあって、
ちょっぴりはしたなく、空腹を訴えだした。 「あっ……違っ……っ……あぅぅぅっ……」
ぎゅうっっとお腹を押さえてその場に座り込む。
胃を抑えて小さくすれば、ほんの少しだけ空腹を誤魔化せるからだったけれど……
でも、それはあまりにも露骨で。
「ごめんなさい……っ……」
ご飯が欲しい……何か食べたい、何か飲みたい……。
緊張と恐怖、不安で一時的に忘れてしまっていたそれらが一気に押し寄せてきて、
私はただ、とっさに謝った。
ご飯が欲しいと、くうくう鳴くオフィーリアのように。
私も、ご飯をくださいって訴えた方が良いのかもしれないと思う反面、
そこまでの要求は失礼に思われるんじゃないかって……。
今、与えられている優しさを失うのが怖くて……私はそんなことを言えなかった。
男の人はそんな私の頭をポンポンっと撫でるように叩くと、
そのまま脱衣所を出て、鍵を閉めた。
「……っ」
空腹を訴えるお腹はちょっぴり痛くて。
でも、今は許して貰えたお風呂が先だと思って……ブレザーを脱いで、シャツのボタンを1つ1つ外していく。 汗っかきなせいで、ブラジャーも肌着も突き抜けて汗染みの出来てしまっているシャツを脱いで、
スカートのホックを外し、ファスナーを降ろす。
そうして露わになった下着にも……汗が染みて色合いがほんの少し濃くなって見える。
汗びっしょりの肌着を脱いで、ブラジャーを外し、下着も脱いで、
もしかしたら、もう一度着ることになるかもしれないと考えて……端に避けておく。
……カメラ、ない、よね?
と、する意味のない確認をするように辺りを見てから、浴室へ移る。
浴槽には一応、温かいお湯が溜まっていて、少しだけ心が安らぐのを感じて、でも、すぐに現実に引き戻された。
「……やっぱり、私の家じゃない……」
当たり前のことではあるけれど、
用意されているシャンプーもボディソープも、トリートメントも。
何もかもが、見慣れない、使ったこともない物だった。
だからと言って、使わないわけにもいかない。
そう思いながら、シャワーの温度を限りなく低くして、水を出した。
「……こんなこと、することになるなんて思わなかった」
もしかしたら、食事と水、どちらかしか与えて貰えない可能性もある。
だから……なんて、シャワーから流れてくる水を手皿で受け止めて、口に含む。
冷たいけれど、そこまででもないような水で口をゆすいで、吐き出して、もう一度口に含んでから……ごくっと、飲み下す。
「っ……んっ……ゴクッ……ん……っ……グスッ……」
ひと口、ふた口。
飲んでいいとも限らない水を飲む。
だって、そうでもしていかないと……どうなっていくか分からないから。
だから――惨めだとか、どうとか……そんなことは二の次だった。 シャワーの水を飲んで喉を潤して、温度を上げてお湯に変えて、
水からお湯になったことを手で確認してから、頭から温かいシャワーを浴びる。
髪を濡らし、左右の肩からシャワーをかけて……もう一度、頭から。
そうして、使ったことのないシャンプーを適量手のひらに出して、髪を洗う。
わしゃわしゃと……少しだけ力を入れながら。
頭からすっと伸びた長い髪は、両手で包むようにして、梳くような手つきで。
いつもとは違う場所、いつもとは違うシャンプー……けれど、いつものように洗って、シャワーで流す。
使い慣れないトリートメントも併用して……少しだけ匂いを嗅ぐ。
いつもと全然違う匂い。
たぶん、あの男の人の匂い。
そんなことを考えて……首を振る。
「……私……」
似たような事件による被害の内容を知っているからって、そのことばかり考えすぎているような気がする。
されるかもしれないし、されないかもしれない。
今のところ、されない可能性の方が高い……とは思ってるけど、でも、
万が一されることになったときに、その覚悟を出来ているのかどうかで……凄く変わってくる。
出来るなら、したくない覚悟だけど……でも、
大切にしてきた身体は男の人に抱かれるって諦めるしかない状況だった。 無理矢理押さえつけられて、苦しくて、辛くて、痛い思いをするか、
優しく抱かれながら、痛みはあるかもしれないけれど……ちゃんと、愛されるか。
そのどっちかしかないのなら……だとしたら、私には選択肢なんて――。
「……」
シャワーを頭から浴びながら、ぐっと下唇を噛む。
しなくていいなら、しなくて済む方が良いと思う……それは、当たり前のことだった。
だけど、しないと言う選択肢はなくて、絶対にする以外に道がないのだとしたら……。
私は……。
「……愛されたい」
今そうして貰えているように、優しく、丁重に扱われたい。
助かったあとも……ずっと、深く残り続けるようなトラウマになる体験はしたくない。
だけど、でも、それは……と、悩んで、悩んで、身体を抱きしめる。
「……っ」
覚悟を決めなきゃ……じゃなきゃ、辛い思いをすることになっちゃう。
大丈夫、演じられる……それが平気な女の子だって、きっと……演じられる……。
――演じられなくちゃ、駄目なんだから。 そう意を決したところで、すぐに実行できるわけもなく、
ひとまずは身体を洗おうかとしたところで……身震いする。
シャワーの温もりに包まれているのもそうだし、新しく水を飲むことが出来たのもそうだし、
そもそも、最後に行ってからだいぶ時間が経っていることもあって……そろそろだった。
「……っ」
浴室用の椅子に座って、息を吐く。
お風呂場でなんて、したことは一度もなかったけれど、
今はもう、それが出来なくちゃいけないくらいにまで……なっているんだって、目を瞑る。
――本当に、しちゃうの?
羞恥心と、自尊心と、理性と。
欲求以外の全てがするべきじゃないと言うけれど、でも、考えてみれば、避けられないことなのは明らかだった。
後からまた限界が来たら?
その時に男の人がいたら訴えられる……訴えられたとして、その結果、許される方法は?
オフィーリアのような方法か、それとも、もっと酷い方法か。
どうなるか分かったものじゃないのに……ここで無理に我慢して、それで、どうなるんだろう。
それに、もしも男の人がいなかったら……その場で――。
「……んっ」
椅子から少しだけ突き出すような姿勢を取って、シャワーを持っていない方の手で、少しだけ開く。
嫌だ……嫌だ……こんなの……嫌だ……っ。
こんなはしたないこと……みっともないこと、惨めなこと。
でも――でも……っ。
覚悟を決めてもその気持ちはすぐに変わらなくて、
下腹部から押し出され、放物線を描くそれから目を背けると……一緒に涙がこぼれていく。
出て行く傍からシャワーでかき消そうと試みても、ほんのりと鼻を突く臭いが、私の心を蝕む。
「うっ……うぅ……グスッ……グスッ……ひっ……」
こんな恥ずかしいことを、しなくちゃいけないなんて……辛い。
でも、要求ばかりしていたら、お仕置きされるかもしれない、愛して貰えなくなるかもしれない。
だから……我慢するしかなかった。 お風呂で小は出来ても大はどうするんでしょうかねえ… 身体も洗い終えて、温かい湯船に浸かりながら……ぼうっとする。
考えれば考えるほど、酷いことになってしまいそうだったから、少しは、そんな時間も必要だと思って。
でも、何も考えないなんて無理だった。
水の滴る音が、ついさっきの痴態を想起させて、
そのせいで、鼻に残る刺激臭が、まだ、流れ切っていないかのように感じられて、泣きそうになる。
「……っ」
これから、どうなっていくんだろう。
明日のは助けが来る? 明後日には助けが来る?
それとも、三日後? 四日後?
それとも――……ずっと、このまま――。
誘拐が発覚して、犯人が分かって、救出される。
そんな奇跡的なことはそこまで高い確率じゃないって、聞いたことがある。
だからこそ、お母さん達も、気を付けてって、あんなにも……。
「……」
気を付けてた。
ちゃんと警戒して、被害に遭わないようにって……でも、無駄で。
それでもこうなってしまったからには……やっぱり、覚悟を決めるしかない。
「……頑張れ……頑張れ……頑張れ……桜坂しずく……っ……」
他に誰もいてくれない。自分しかいない。
でも自分では背中を押し切ることは出来ないだろうからと、第三者にそうして貰えたかのように、フルネームを呟く。
――頑張って、桜坂しずく。
湯船に浸していた手で器を作り、勢いよく顔に叩き付けて、気を引き締める。
それから……呼び出しボタンを押した。 少ししてから、脱衣所の方の鍵が開いて、男の人が入ってきた音が聞こえる。
浴室の扉が開けられることがないようにと押さえながら、ぐっと息を飲んで、用意していた台本を頭の中で広げた。
「まだ出ていなくて、ごめんなさい」
本来は出ているはずだったのに、出てきていない。
そのことを追及される前に、謝罪を述べてから、一息入れて。
「……そう言えば、バスタオルの場所などを聞いていなかったって、思って……」
床がびしょ濡れになってしまったりするし、
好き勝手に棚をいじるわけにもいかないと思った。と、付け加える。
「それに……その……着替えもどうするか聞いておくのを忘れてしまって」
聞いておかなかった私が全面的に悪いって主張をしつつ、どうしたらいいのかを、確認する。
曇りガラス……というか、曇り窓? の向こう側で、男の人が動くのが見えて、
それは確かに。なんて、呟きが聞こえる。
「……」
たとえ、どんな答えが返ってくるとしても、
ああしたい、こうしたい……あれがいい、これがいい。
そんな我儘は、絶対に言うわけにはいかないって、息を飲む。 向こう側が少しだけ慌ただしくなったと思えば、用意しておいたから出てきて良いよ。と声がかかる。
ついに、裸を見られることになっちゃうんだって思う反面、
それを拒むわけにもいかないって、思って……どきどきとして、身体が熱を帯びる。
激しくなる動悸と、異性に裸を見られるということに躊躇いながらも、浴室を出るために取っ手を掴むと、
開けるのと同時に、向こう側でも扉が開いて……男の人がいなくなる。
「え……?」
脱衣所から出る方の扉から施錠される音が聞こえて……思わず声が漏れる。
裸を見ようとしていたんじゃ……。
だから、出て行くからなんて言わずに、出てきて良いよって――。
また、私……。
――また、早とちり……?
「っっ!」
かぁっと顔が熱くなって、慌ててバスタオルを手に取って顔を埋める。
そうすることになるかもしれないって、ずっと、
覚悟をするべきだなんて思っているからとはいえ……早とちり、し過ぎてる。
ううん、違う……。
男の人が……まるでそういうことに興味を示していないだけ――って、考えを変える。
誘拐したのに、監禁したのに、
なのに、そういうことをするような素振りがまるでないなんて、それの方がおかしい。
だって、こんな……ニュースで聞いているような事件とは……まるで違う。 私の勘違いがあんまりにもあんまりなのかな……。
それとも、男の人が特殊なのかな……。
「……」
その答えがどっちなのかはひとまず置いておいて、身体を拭く。
ドライヤーも置かれていて……使うか少し迷ったけれど、
出しておいてくれたから……って、思って、使うことにした。
身体を拭き終えて、バスタオルを巻く。
それから髪を乾かして……着替えはどこにって……あたりを見て、さっきはなかったワイシャツに目が留まる。
替えの下着はなく、ワイシャツ一枚。
端に置いておいた制服と下着を一目見て……もう一度ワイシャツを見て、手に取る。
「……下着……」
ワイシャツの下に、下着が隠されているなんてことはなくて、迷う。
汗が染みている下着を履くのは気持ちが悪いし、不快感がある。
だけど、何もつけないでワイシャツ一枚はどうなんだろうとも……思う。
下着を見て、ワイシャツを見て……浴室の扉を開け、
そこにある比較的多きめな鏡に映る自分の裸に、ワイシャツを合わせる。
「……」
普段着ている制服のシャツよりもずっと大きなそれは明らかに男の人のもので、股下まで普通に届くだけの大きさだった。 着替え終わったって、男の人を呼ぶ。
数歩下がって、中心の辺りで待っていると、男の人は少しだけ警戒している様子で中に入ってきた。
「……抵抗なんて、出来ません……」
きっと、何か反撃されるとか、抵抗されるとか思っていたんだろうと、私はそう言った。
ここにきて、手を自由にして貰った時だってそう。
ここで打ちのめすことが出来たって、逃げられる保証がない。
もしそんなことをして、逃げ切れなかったら……私に待っているのはたぶん、地獄のような苦痛だけ。
そんな無謀なことをするよりも、
大人しく、素直に従っている方がずっといいはずだから……私は抵抗なんて、考えない。
身を翻し、両手を後ろで交差して、最初と同じように縛られるのを待って、
同時にぎゅっと目を瞑って、目隠しされるのを待つ。
「……どうぞ」
そう言うと、後ろで男の人が動く音がして……手が掴まれる。
手首の辺りに紐が通って、また両手がぎゅっとした拘束感に包まれていく。
そうして、今度は目の辺りに布の感触と、圧迫感が来て……後頭部できゅっと締められる。
「……抵抗したって、悪化するだけ……ですよね……?」
私は正直に気持ちを曝け出す。
「私……優しく……されたいです……」
だから抵抗しない、反抗しない、素直に従って、受け入れる。
痛いのは嫌だ、辛いのは嫌だ、苦しいのは嫌だ、怖いのも嫌だ。
だから……優しくしてください。
と、心の中で懇願し、私は笑う。
お風呂場の中で泣きつくしたつもりだったのに、目頭が熱くなる。
目隠しをして貰えてよかった――と、心から思った。 「……ん」
最初と逆の道順で歩いて……戻された部屋の中。
目隠しが外されると、最初の部屋だとすぐに分かって……安心する。
外に出られるわけがないし、家に帰して貰えるわけもない。
だから、見覚えのない場所に連れ込まれるより、
見覚えのある部屋に戻された方が……安心できてしまう。
「……あっ」
でも、その安心感が引き金になって、また……お腹が鳴ってしまう。
水を結構飲んだけれど、それで誤魔化せる空腹なんてほんの少しの間だけ。
やっぱり、ちゃんと、ご飯が食べたい。
そう思って、恥ずかしさに赤くなりながら、男の人に目を向ける。
「……っ」
ぐっと抑えても、
限界をとうに超えているお腹は、鳴りやんでくれない。
お願いしたら……機嫌を悪くしちゃうかもしれない。
でも……お腹が空いた……ご飯が食べたい……何か……少しだけでも……。
「ご……ご飯を……ください……っ……」
これ以上は耐えられないと思って……そう、お願いしてしまった。 それは私からしたらお願いで、懇願だけれど、
男の人からしてみれば、要求や催促のようなもののようにも見えることだって……思う。
だって、オフィーリアのお散歩に行きたいって意思表示や、
ご飯が欲しいって意思表示は……とても可愛らしかったりするけれど、
そういうペットの行動は飼い主からしてみれば、" 可愛らしい要求 " あるいは、 " 可愛らしい催促 " に他ならないから。
だからこそ、その " わがまま " が、
男の人の機嫌を損ねてしまったのではないかって、不安になる。
ただお腹を鳴らすのは生理現象だから許して貰える。
でも、吠えてしまったら……それはもう、ただの生理現象とは話が違ってきてしまう。 「ぁ……その……ごめんなさ……っ……」
男の人が一向に答えてくれないものだから
やっぱり、機嫌を損ねてしまったのかもしれない。と、
謝ろうとしたところで、床に伸びている男の人の影が動く。
顔を上げると……右腕が上がっていて。
「っ……」
――叩かれる!
躾けとして、頬を叩かれるか頭を叩かれるか。
それ以外には考えられる状況じゃなかったこともあって、
身体が強張り、目と口を閉じて痛みに耐えようとした私の身体には……痛みではなく、撫でられる感覚だけが流れた。
「ぇ……あ……」
頭が撫でられたことに戸惑いながらも顔を上げると、今度は頬が撫でられる。
さっきと違って、痛くないようにって気遣ってくれている触り方は、たぶん、私がオフィーリアにしているのと同じようなもので。
男の人は、そういう風にちゃんと言ってくれると助かる。というようなことを言いながら、私のことを撫でる。
「ん……」
私のお願いを、男の人は催促ではなく、お願いだって受け取ってくれて、
だから、躾けじゃなくて、褒めてくれているんだろうと、察する。 お風呂もそうだし、バスタオルや着替えのこともそう。
男の人は、言えばそれに対して答えてくれる。
少し考えることもあって、その沈黙が私にはちょっとだけ怖いけれど……。
でも、当然ながら帰して欲しいってお願いは断られちゃったけど、それ以外は許してくれてるし、
お願いをして、怒られることは今のところなかった。
そうして、今、お願いをしてくれると分かりやすいって……褒められてる。
お水も、トイレも、
ちゃんとお願いしていたらお風呂場であんなふうに無理をする必要がないんだって思うと、
安心から来る胸の温かさに、涙ぐんでしまう。
「あり、がとうございます……っ」
男の人はそんな私の頭を撫でて、頬を摩って、目元に浮かぶ涙を指先で掠め取っていく。
この人が誘拐しなければ、監禁しなければ。
そもそも、こんな思いをする必要はなかったって、憎しみはある。
だけど、それを表に出して、反抗的な態度をとっても、状況が悪くなるしかないから……丸め込んで押し隠す。
私に出来るのは、与えてくれる優しさと自由の一つ一つを喜んで受け入れて、
それに対しての感謝をしっかりとすることだけ。
そうしていれば、少なくとも……優しく丁寧に扱って貰えるから。
だから、そうすることに抵抗はなかった。 男の人は、用意してくるからと私を部屋に残し、
当然のことではあるけれど、鍵を閉めて部屋を出て行った。
「……足」
手の拘束はそのままだけれど、最初と違って足の拘束はされていない。
私があんまりにもな空腹感でお願いをしてきたものだから、
もしかしたら、足を縛るよりも先にご飯の用意をしてあげるべきだって考えてくれたのかもしれないし、
運よく、忘れてくれている可能性もある。
だけど、だからどうってこともない。
手が自由、足が自由……それだけではここから逃げられない。
それに今は優しくされているし丁寧に扱って貰えているから、
その最悪の中の最善の状況を捨ててまで挑戦したいとは……とてもじゃないけれど、思えなかった。
「……そう言っても、信じて貰えないんだろうけど……」 床に敷かれているマットレスと、布団の上に座りながら……呟く。
信じて貰えたらもっと状況が良くなると思う一方で、
もし仮に自分がこんなことをした側だったらという風に考えて……信じられないのも当然だって、思う。
誘拐されて、監禁されて。
そんな被害に遭った子が、抵抗しないので自由にしてください。なんて言って鵜呑みにする犯人だったら、
すぐにでも警察が駆けつけて救助されるに違いない。
普通は嘘をつくなと怒るし、大人しくしていろって……。
「……あの人は、怒らないかもしれないけど」
それは出来ないよ。と、優しく諭すように言うだけで、怒ったり叩いたりはしないでくれそうな気がする――
「っ」
無意識に頬が緩んでいると感じて、はっとし……首を振る。
それは、信頼というものだから。
褒められたりするために、仕方がなく受け入れて喜びと笑みを向けるのとは違う。
誘拐犯のことを信頼してしまうなんて……それだけは、絶対、駄目。
喜びの表現も、笑顔も、従順さも、安全に生き延びるためには必要不可欠だから避けられないけれど、
男の人を信頼する必要はない。
――ちゃんと線引きしないと。
それを曖昧にしてしまっていたら、しなくていいはずのところまで許してしまいかねない。 男の人は、しばらくしてから戻ってきた。
折り畳みができそうなミニテーブルを持ち、
その上に器を乗せて。
熱を感じさせる湯気が立っているのが見えるのと同時に、
食欲を刺激する匂いを感じて、またお腹が鳴ってしまう。
「ゴクッ……」
はしたないとは思っていても、
過度な空腹に抗えるはずもなくて……
目の前に置かれたお雑炊を一目見て、飲み込む。 ミニテーブルを挟んで向かいに座る男の人に目を向ける。
食べたい……早く食べたい……。
でも、両手は後ろ手に縛られていて……スプーンを持つことが難しいし
持つことが出来たって、口にまで持っていくことが出来ない。
……かといって。
私の手を自由にして、武器になりかねないスプーンを持たせてくれるとは思えない。
ううん、この人ならもしかすると……なんて可能性がないわけではないけれど。
でも――
そんなことを考えたくない。
そんな期待を持ちたくない。
その期待に……応えられたくない。
「あの……スプーンを……」
だから、ひとまずは口にする。
私はどうしたら良いのか、男の人はどうしてくれるのか。
その確認をするために。 男の人は私の手を自由に……はしてくれなかった。
その代わりに、男の人がスプーンを手にとって一口分を掬い上げて向けてくる。
「……ん」
目の前にあるだけでも辛いのに、
それが食べて良いよと言わんばかりに向けられると……もう我慢が出来るわけがなかった。
オフィーリアのように、
顔をつけて食べさせられるわけじゃないことに感謝するべきだとしか、思わなくて。
まるで、餌付けみたい。
そんな考えなんて、後回しになる。
「ありがとうございます……いただきます……」
感謝をして、向けられたスプーンを咥えようと近付いた時だった。
――待て!
と、オフィーリアに向けることの多い言葉が向けられて、
反射的に動きが止まった。 「ぁ……っ……」
ただでさえ早く食べたいという欲求がより一層膨れ上がっていく中、
もう目の前にまで来ているスプーンからは、
早く食べてほしいとばかりに匂いが漂って来て……泣きそうになる。
男の人に目を向けると……待て。ともう一度言われて、動かないようにと、ストップ。と、手のひらを向けられる。
「……っ」
私がオフィーリアなら。
同じように愛玩動物と思われているなら……それは、仕方がないことだって思う反面、
オフィーリアはいつもこんなに辛かったんだって……思わされる。
「……」
男の人を見ながら、大人しく待てをする。
出来なかったらお仕置きされるから。
だから……私はオフィーリアのように、耐えるしかなかった。 「うぅ……」
お腹がくうくうと煩く鳴り続ける。
飲み込んでも飲み込んでも、涌き出てくる涎が口の端しから垂れていく。
手が使えたら拭うのに、それが出来ないから……垂れるままで。
オフィーリアもそうだった。
待てって言われると、
ちゃんと待ってくれるけれど……こっちをじっと見つめて。
ぽたぽたと……涎を垂らしてた。
――今は私が、オフィーリアなんだ。
人間だけど、そんなことは関係がなくて
賢いオフィーリアのように、犬のように……私はちゃんと出来なくちゃいけない。
たとえ、それで人としての尊厳が壊されていくのだとしても。
よし。と、声がかけられ……頭が撫でられる。
オフィーリアと同じように、食べても良いって許可が貰えたんだと思って、スプーンを咥える。
元からそこまで熱くなかったのか、
それとも、待て。で冷めたのかは分からないけれど……丁度良い温かさで、美味しかった。
だから……だからこそ……
涙が溢れてるんだって、精一杯の笑顔で。
「……美味しいです……」
そう言った。 男の人がスプーンを向けてくるたび、私は自分から率先して、待て。をする。
普通の犬だったら、何度も躾られないといけないことがほとんどだけど、
私は人間だから。
人間だからこそ……
もうちゃんと、待て。ができるんだって男の人に知って欲しくて。
犬のように躾られるとしても、
私のことは人間だって思っていて欲しいから。
言葉が通じ、意志疎通の可能な人間同士だと……思って欲しくて。
「……ん……」
男の人は、私が待つたびに、頭を撫でて許可をくれる。
叱ったりせずに、良くできましたって言うみたいに褒める。
それは、最後の一口まで……続いた。 自分で口元を拭けなくて、どうしようかと思っていると、
男の人は私が何も言わなくても布巾で口を拭って汚れを落としてくれた。
「……ありがとう、ございます」
お礼をすると、男の人は私の頭を撫でる。
大人しく、素直で、従順。
そうして、ちゃんとお礼が出来る礼儀正しい愛玩動物。
人間であることなんて忘れて、それを全面的に受け入れてしまえば――。
今ある胸の痛みも、溢れ落ちそうな涙も……きっと、なくなるに違いない。 「……あの……飲み物は、どうしたら……」
そんな考えはひとまず取り除いて、訊ねる。
オフィーリアも食事は与えられるのを待つしかなかったけれど、
水を飲むための場所はちゃんとあって、自由だった。
だからというわけではないけれど、
私もいつでも飲めるようにして貰える……と思っていると、
男の人は倒れないようにとペットボトルを台座に設置し、ストローを差す。
「……ありがとうございます」
犬のように……というほどではないけど、
人としてはあるまじき飲み方になるけれど……人として。なんて、
そんな贅沢なことは言うべきじゃないと考えて、受け入れる。
特別、美味しくも不味くもない普通のお水。
それでも喉は潤うし、満たされる。
それで……満足しないといけない。 もしかしたら、男の人は私がどこまで受け入れるかを試しているのかもしれない。
人として扱わずに、ペットとして扱って、そのどこまでを耐えられるのか……って。
もう無理ですって言ったら、止めてくれるのかな。
人間のままでいたいって言ったら、許してくれるのかな。
それとも……お仕置きされるのかな。
――そんな怖いこと、言えないよ。
今はまだ、ある程度許してくれているし、
優しさも、丁寧さもある。
だけどそれさえもなくなって……ペットとしての教育を受けるようになったら。
そうなったら……身も心も壊れてしまう気がして。
「……っ」
泣かないで。泣かないで……って、必死に思い続けた。 しずくちゃんストーカーの人かな
毎日の楽しみをありがとう 男の人は飲み物だけでなく、
ミニテーブルも一緒に残しておいてくれるようだった。
男の人とはいっても、毎回ミニテーブルを持ち運びするのは手間だっていうのもあるだろうし、
ミニテーブルがあっても手が使えないなら大したことは出来ないって思われていることもあるだろうし……。
でも……それはつまり、
私に手の自由が戻って来ることはあり得ないってことで――。
そう考えて、首をふる。
まだ分からない……だって、大人しければご褒美が貰える。
従順なら優しくして貰える。
だから、
この部屋限定で手足を自由にしてくれるかもしれないし、
後ろから前に変えてくれるかもしれない。
それに、助けが来てくれる可能性がある。
荷物は見当たらないから、処分されちゃったかもしれない。
でも連絡がつかないだけで誘拐が発覚するには充分だし、
そもそも、連絡なしに私が家に帰らなかった時点で捜索願が出されると思う。
そうなれば、この人はすぐにでも見つかって……。
見つかって……。
……。
見つけて……貰えるのかな……? ちょうど通勤時間と退勤時間に書いてるからマジで生きがいになる 正直にいえば、私は期待をしたくなかった。
元から、こういう被害に遭った場合に救出される可能性の低さを知ってる。
正確ではないとしても、ある程度は。
だから、それに期待をして……支えにして。
その結果、救われなかった場合に、
自分がどうなってしまうのかを考えることさえ、怖かったから。
だからこそ私は、この人に従順でいようって……。
「……っ」
不意に、男の人の大きな手が頭を撫でる。
私の頭なんて鷲掴みに出来るんじゃないかって思うようなその手は、
けれど、優しく、褒めるように撫でてくれる。
私が困り果てているって察しているかのような表情に、
思わず睨み返してしまいそうになって、目を背ける。
すると、男の人は、トイレは大丈夫? なんて、聞いてきた。 「え……と……」
浴室でしちゃったから、
今行きたいかどうかって話になると、まだ大丈夫って答えになる。
けれど、今は大丈夫だから後で行かせて下さい。なんて、
そんなわがままが許されるか分からない。
それに……あまり、機嫌を損ねかねないわがままは言いたくない。
「行きたい……です……」
機嫌を損ねたくないのもあるし、
あとになって、限界だってタイミングになるのも……と、頷く。
男の人はすぐにはどうもこうも言ってきたりせずに、
私の頭を撫でて、頬を擦る。
本当に……オフィーリアみたいな扱いをされてるんだって思って、ハッとする。
「あ、あのっ……でも、私……っ……」
犬じゃなくて、人。
貴方と同じ人間だから……と、言いかけて、ぎゅっと唇を噛む。
それを言ったとたん、それなら犬のようにしよう。なんて……言われそうで。
でも、男の人はそんな私のことを撫でるだけだった。 男の人はひとしきり私の頭を撫でると、
おもむろに、しずくちゃんはいい子だから。って、笑みを浮かべる。
いい子だから……。
いい子だから――○○が出来るよね?
普段は、オフィーリアに言っていること。
でも今は、それが自分に返ってきていて……だから、何かさせられるんじゃないかって、
話を聞いてもいないのに不安になっていく私のことを、男の人は安心させるようにもう一度撫でた。
そうして、いい子だから、普通に連れて行ってあげるよ。と、言う。
「……普通、に……?」
普通に、犬のように……なんて、少しだけ思ってしまったけれど、
ちゃんとしたお手洗いに連れて行ってくれると言われて、ホッとした息が漏れる。
私が安心したのが分かっても、男の人は私のことを撫で続ける。
そんなに、撫でるのが好きなのかなって思いつつも、
オフィーリアに対してそうだった……と、思い直して受け入れていると、
突然、手が止まって。
そして、男の人はあくまでいい子だからだよ。と、付け加えるように言った。 大人しくしていて、言うことを聞いていて、
そうして、ちゃんと待て。をすることもできていたから。
だから、そのご褒美に……と、男の人は言う。
「ありがとう……ございます……」
本当なら、オフィーリアみたいにしなくちゃいけなかったって思うと、
大人しく、従順で居ようとしていた判断は間違いじゃなかったんだって、涙がこぼれる。
オフィーリアは室内で飼っているものの、おトイレは基本的に外でする。
流石に、誘拐されている私が同じように外でさせられるってことはなかったと思うけれど、
でも、小型犬のように、シートの上なりなんなりに、させられていたに違いない。
そんな人としての尊厳を打ち砕かれるようなこと……耐えられるはずがなかった。
だからきっと、後先考えず歯向かっていただろうし、
その結果、もっとひどいことになっていたかもしれない。
――ちゃんと、従順でいなきゃ
改めてそう思って、私はもう一度、ありがとうございます。と、言う。
男の人が頭を撫でてくれる。
褒めてくれている。
そうして貰えている間は、私のことをちゃんと扱ってくれる。
そんな風に考えてしまったからか、
もっと撫でて欲しい、もっと褒めて欲しいって……少しだけ、思わされてしまう。 当たり前のように目隠しをされて……何回か扉を開けては締めて、また別の部屋の中に移される。
目隠しを外して貰うと、2人入っていても十分な広さのスペースの中に、
洋式の、それなりにしっかりとした便座が設置されていた。
壁紙はやや薄い桃色の穏やかな色合いで、
何か、匂いボトルのようなフローラルな臭いを感じる。
便座に近づくと、センサーが反応して蓋が開く
中を覗いてみると、
まるで……これが初めて使われるかのように、真っ白な陶器が光を反射していた。
「ほんとうに……使って良いんですか……?」
あまりにも綺麗でついそう聞いてしまう。
男の人はもちろんと頷いて、私の頭を撫でる。
確認の必要はなかったとしても、一応は許可を取ろうとする姿勢を褒められたのかもしれない。
怒られるよりは……と、温もりを感じながら、男の人を見上げる。
「あの……手は……」
少し辛い姿勢でなら、後ろ手に縛られたままでもできなくはないけれど、
そうすると、後々が面倒なことになってしまうから……確認する。 男の人は少しだけ考える時間を置くと、首を振る。
手を自由にして貰うことは出来ないんだって……言われる前に察してしまう。
だけど、落胆はしなかった。
わがままを言ってごめんなさいと、謝る。
「……そうですよね……」
奴隷のように、とか、犬のように。とか。
そういった扱いをされることなく、こうして、普通のお手洗いに連れてきて貰えること。
立場を考えれば、それだけでも十分に恵まれてると思う。
ここで後処理を男の人にされるなんて嫌だ……なんてわがままを言ったって、
ならもうさせてあげないと言われたり、犬のようにさせられたり……あるいは、おむつを履かされたりするといった、
悪いことしか起こらないのは明らかだったから。
だから……仕方がない。
このくらいなら……全然……だって、介護される必要があると思えば、普通の……
そう、普通の医療行為みたいなものだから。なんて、必死に考える。
それでも、羞恥心が膨れ上がっていく。
下着も肌着も何もなく、ただワイシャツ一枚で覆っている身体は、
便座に腰掛けると、もうそれだけでしても問題ない状態で。
「……っ」
下着を用意されなかったのは、こういうことだったのかもしれない。なんて、今更思う。
男の人は、私が座ったのを見届けると……声をかけてくれれば。と、言い残して、そのまま個室を出て行く。 両手を縛られていることや、見慣れない場所であること、
緊張と恥ずかしさも相まって……出そうで出ない状態が続いて、汗が滴る。
「ん……」
ここで出なければ、男の人は何もせずにいてくれるかもしれないけれど、
でも、結局、したくなった時に……されることになるし、その時に、またここを使わせてくれる保証もない。
ううん、私が従順でいる限りは、たぶん、使わせてくれるとは思う……けど。
だけど、最悪なのは……させて貰えることもなく、我慢できなくなっちゃうこと。
急にお腹が痛くなったりして、傍にいてくれなくて、それで……なんて。
そんなことになったら、お仕置きどころじゃすまないだろうし……。
「……なんて、言い訳ばっかり……」
思わず本音が零れて、失笑してしまう。
本音を言えば、したくない。
だって……男の人に見られるし、拭かれるし、流して貰うことになる。
そんなの……恋人だったとしても無理だよ……。 でも、連れてきて貰った意味がなかったら、無駄なことをさせたって怒られちゃうかもしれない。
あの人が私の……その、後処理をしたがっていたとしたら、それを裏切ることになって……機嫌を損ねちゃうかもしれない。
そう思って、また、力を入れる。
「っ……んっ……」
ぷすり、ぷすりと空気が抜けていき、
少しずつ……確かに下ってきているものを感じて、一度、大きく息を吐く。
もう少し頑張れば、出そうな気がする。
頑張らなくてもいいのに……と、少しだけ思いながらも、でも、そうする他には無いんだから。って、首を振る。
あとからしたくなったら大変だから。
便秘を疑われて……そういうのを解消する何かをされたりしても、嫌だから。
だから……と、踏ん張って。
「はぁ……っ……ん……っ……んっ……ぅ……」
ゆっくりと、出口が捲れるように広がっていく感覚。
狭い場所から無理矢理押し出されようとしている微かな音。
お風呂場での、鼻を突く刺激臭とはまた違った、羞恥心を強く刺激する臭いが辺りに漏れ出して。
――ぼちゃんっ
と、便器に溜まっていた水の中に、一つの塊が沈んでいった。 「っ……はぁ……っ……」
出せるだけ出してしまった方が良いと思って頑張って、
もう出そうにないなってなった頃にぐっと身体を起こし、息を吐く。
換気扇が回っているような音も微かに聞こえるけれど、
窓が開いている部屋とかと比べて、空気の循環はそこまで良くはないし、
絞り出す頑張りもあって……せっかくお風呂に入ったのに、身体には汗が浮かんでしまっていた。
ワイシャツがぺったりとして、胸の形が余計に浮き彫りになる。
軽めのおしゃれとして青色の線が入っているとはいえ、白色を基調としているワイシャツは、
張り付くほどになると、肌の色が透けて見えてしまうし、胸のところの……一際鮮やかな色のある部分は、少しだけ、主張が強い。
「……っ」
新しい着替えが欲しい。
でも、そんな我儘を言うなんて……出来ない。
それに、これは自分から行きたいと言って来たトイレでのことだから……我儘に我儘を重ねるようなもので。
――でも、胸が透けて……。
そう思って、けれど。
「……あっ……あぁっ、ご、ごめんなさいっ……!」
今からもっと恥ずかしい思いをするのが確定している現実を思い出し、
そこでようやく、時間を気にするべきだったと、声を上げた。 慌てて男の人に終わったことを叫ぶ。
すぐそこにいるのか、少し離れたところにいるのかわからないけれど、
声を挙げれば聞こえてくれると思って。
第一声には謝罪をし、そうして、終わりました。と。
「……臭いとか……」
他人に排泄の後の臭いとか、汚れとかを嗅がれ、触られ、見られる。
それも、恋人でも医療関係者でもなく、ましてや、知人ですらない人に。
女の子として、正直、男の人にデリケートなところを触られるとか、
排泄の後処理をされるとか……そういうのは、精神的に苦痛ではあるけれど……今は、そんなことを言えない。
だって、相手に拭かれるか、放置されるか。
ワイシャツや布団にその汚れを移し、叱られ、躾けられるか……そんなありもしない選択肢しかない。
私に出来るのはただ、お尻を向けて、足を広げて、
そうして、男の人に綺麗にして貰うのを受け入れることだけ。
「……っ」
扉の鍵が開く音がして……男の人が入ってくる。
臭いって言われないかな……汚いって言われないかな……
幻滅されて……嫌われて、優しくされなくなっちゃったり……しないかな……。
やっぱり、自分で――。
段々と怖くなって、不安になって、つい、泣きそうになる。
だけど、一度は駄目と言われたようなことを、もう一度要求するような勇気はなかった。 男の人は、私の葛藤なんて全く気にも止めずに平然とした様子で近付いてくると、
便器の横にある操作パネルに触れる。
その瞬間、便器の中から機械的な音が聞こえてきた。
「へっ……ぇっ……あっ――!」
家でも、学校でも、そうじゃなくても。
運悪くそれが使えない場合を除いて、使うようにしているもの――
「ひゃぁっ!」
ちょろちょろと前準備のように水が流れたあとに、
今度は勢い良く吹き出てきて、汚れていた部分に叩きつけられる。
意識的にやってもちょっとだけびっくりしてしまうそれは、
他人のタイミングでやられると、余計に驚いて悲鳴を上げてしまう。
「ぁっ……ん……っ……」
けれど、それもほんの一瞬。
最初以外は慣れたもので、あとは普通に感じ、暫くそのまま洗い流されるのを待つ。
「ん……っ……」
そうして、男の人はおしり用のを止めると、
今度はビデの方に切り替えた。
「あ、それは違っ……ん……!」 おしり用よりは弱くても、
加減の分かっていない勢いが前の方に吹き付けられて思わず身体が跳ねる。
後ろ手に縛られていた私の身体は、
そこでバランスを取るなんてことが出来ずに……男の人に飛び込んでしまう。
「ご……ごめんなさい……っ……」
驚いた様子で、ただ受け止めるだけで止まってしまっていた男の人の身体に身を委ねながら、
まずはと、謝罪を口にする。
私が男の人の反応を待つと、
後ろから、向き先を失った水が上に吹き出しているだけの音が聞こえてくる。
それくらいに静まっているからか、
私か、男の人か……どきどきと、心臓の音が聞こえて。
男の人は答える前にビデを止めて、
的が消えて吹き出すだけだったビデのせいで濡れた便座を一瞥する。
「ごめんなさい……っ……私……」
びっくりしたとはいえ、耐えるべきだった。
勢いが強くて、ちょっとだけ痛くて……でも、我慢しなくちゃいけなかった。
怒られる……お仕置きされる……っ
――躾をされるっ
そう、強張ってしまう私の頭を男の人は撫でる。
褒めているわけではなくて、ただ、安心させようとしているみたいに。 そうして、男の人は「大丈夫?」 と一言聞いてから、
急に操作してしまったからだろうと、私の失態を責めたりはしなかった。
むしろ、太股の辺りまで濡れちゃっていることを気にして……ちゃんと拭かないと。と、トイレットペーパーを手に取る。
「っ……はい……」
便座に座れないし、壁に手をつくことも出来ない私は、
その場で足を開いておしりをつき出すような姿勢を取るしかなかった。
男の人はそんな私の身体を隠してくれていたワイシャツを容赦なく捲って……おしりを触る。
「ん……っ……ぁっ……」
トイレットペーパー越しとはいえ、
水の跳ねたお肉のところを撫でるように、揉むようにされ、
それだけでなく、おしりの穴のところをぐりぐりと弄られて、つい、声が漏れる。 「っ……あっ…ぃ…っ……」
ぐりぐりとされて、ぐにゅって……押し広げられて、
ほんの少しだけ指先が中に入ってきているかのようにさえ、感じる。
声を我慢したいのに、身体が揺らされて口が開いちゃうし、押さえるための手は後ろ手に縛られていて。
顔から火が出そうなくらいに恥ずかしくなりながら、
男の人におしりを弄られて……声を出させられて。
「ぁ……っ……」
そうして……今度はその手が前に伸びる。 ワイシャツの裾を捲られて……大事なところが男の人に見られる。
足を閉じても見えてしまう状況で、
でも、私は……足を開いて、腰をつき出すようにして綺麗にしやすくしなくちゃいけなくて。
「っ……うぅ……」
下着を見られるだけでも恥ずかしかったのに、ほんの数時間も経たないうちに、
今度はそれが覆っていた大事なところを自分から見せている状況に……涙が溢れる。
「ん……」
男の人の手が、私の……お母さんくらいにしか触らせたことのない場所に触れる。
ぴったりと閉じていた割れ目を男の人の指がぐっと……押し広げていく。
普段は隠れているところが晒され、空気に触れ、
擽ったさと同時にちょっとした心地よさを感じてしまうのもつかの間、
さわさわと……私の意思にはどうにも出来ない男の人の指が、トイレットペーパーを触れさせてくる。 「っ……ん……」
押し付けるほど強くない、触れさせるという程度の力加減
そんな風にトイレットペーパーが繰り返し触れて、
表の水分を取っていく。
おしっこが出ていくところだけでなく、全体的にそうして触れられていく中、
ちょっぴり敏感なところを叩かれて身体がびくんっと弾む。
「ぁっ……っ……ごめん、なさ……っ……」
大事なところを見られるだけじゃなく、触られてる。
それも……男の人に……。
そうするしかないとはいえ、自分から……。
その状況に心臓は凄く煩くなってしまっていて、
そのせいか、身体はさっきまでよりも熱を帯びて……。
「ぁっ……んっ……!」
優しく叩くような拭き方から、
少しだけ擦るような拭きかたに変わって……声が出ちゃう。
割れ目を広げられながら、内側に隠れているようなところまで男の人に見られて、触られていく。
「っ……んっ……っ……」
恥ずかしくて堪らない。
でも、なのに……身体が弾んでしまう。
そういう邪な考えがあるのかないのか分からない男の人の指が、
トイレットペーパー越しに大事なところ……敏感なところを掠めていくたびに、声が漏れる。 「んっ……っ……ぁっ……っ……」
男の人は私の敏感なところを容赦なくトイレットペーパーで刺激してきて、
自分ではなく他人にされる制御の利かない感覚に熱が溜まっていく。
「はぅ……ぅ……んっ……ぃっ……」
自分でするときよりもずっと激しい波があって、
我慢できなくなりそうになって足が震える。
だめ
だめ……
だめ……っ
――出ちゃっ
そうして、ふっと、刺激が消える。
「……っ……」
もう一度触られたら……と、
限界にまで来そうだった私の身体から、男の人の手が離れていく。
足が震えて、立てなくなって
その場に座り込んでしまった私を、男の人の心配そうな目が見つめる。
「あ……っ……んっ……」
男の人の介護行為で、イヤらしい気分を揺さぶられていたんだと、
物凄いとさえいえないほどの恥ずかしさに、身震いして、唖然としてしまう。
――私……私……っ
ずっとえっちなことをされると思っていたし、その覚悟もしていた。
それに加えて……男の人に、見られて、触られて、刺激されているって状況だった。
でもだからって……。
身体に残る熱が燻っている感覚が、私の心と身体を酷く揺さぶった。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています