チンポ
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エズラ・パウンド??
イタリアのグイードとダンテ、フランスのヴィヨン、イギリスのチョーサーは、その芸術、その技巧、そのものの考え方の多くにわたって、すべてプロヴァンスにその根をもっていた。 シェイクスピア『ソネット詩集』??
実は黒さとは君の言動の黒さのことで
思うにあの中傷もそこに由来するのだ。 古代ギリシア五詩人??
口に出すのも恐ろしい禍事にしても、苦しみや、神様がよこされる災いにしても、人と生まれて、その重みを背負わずに済むものはひとつもない。
(E『オレステース』) エズラ・パウンド??
1050年から1250年そして1300年にいたるその時代の文化全体、すくなくともその時代の高度な文学文化の総体は、ある一つの美学の問題に没頭していた。
そしてそれは、ダンテに言わせれば、「すべての技法を巻き込む」ものだった。 ステファヌ・マラルメ? ??
書物の製造は,ふくらんで行くであろう全体の中で,一つの文から始まる.
遠い昔に遡って,詩人は,精神のために又は純粋な空間の上にしるされているソネの中でその一行が占めている位置を知っているものなのだ. 古代ギリシア五詩人??
おうおうという仲間の嘆声は波に混じって海の藻を覆い、暗闇が眼を閉ざすまで続いていた。
この悲惨の全ては、例え十日費やそうとも、話す事ができません。
一日にしてこれ程の人数が死に絶えた例は、決して他にありません。
(Ac『ペルサイ』) 古代ギリシア五詩人??
今俺は思い知ったからだ。
敵は憎むべきもの、しかしその敵がいつか友となる日があることを忘れてはならぬと。
また、友に尽して助けとなる時も、それが永遠の友ではないことを心得たいと思う。
多くの人間にとって友情とは、身を寄せるべき港ではないのだ。
(S, 『アイアース』) シェイクスピア『ソネット詩集』??
ウィルが君の愛の宝石箱を満たすのだ
望みのつまった箱に僕の望みをつめて。
豊富な経験があれば簡単に証明できる
多数の中なら一も無いに等しいことを。 吉田健一??
まり子は葡萄酒を飲んでゐるうちにどこかから音楽が聞えて来るやうな感じにもなり、さうでなくてどうかして話が途切れた時の静寂が耳鳴りに変るのに似た気持ちもした。
例へば舞踏会で音楽が止めばさういふ沈黙が来るのだらうか。(瓦礫の中) エズラ・パウンド??
この作品(ブラウニング『ソルデロ』)には音の響きにある種の輝きがある。
英語の他の作品でこのようなものを見つけようとしてもちょっとむずかしいだろうと思う。 古代ギリシア五詩人??
大海原の浪も砕けて散っては叫び、深い海の底は呻き、地の底、暗黒の冥界も地鳴りを轟かせ、清らかな流れの河の泉も、いたましいあなたの苦しみを悲しんでいるのです。
(Ac『縛られたプロメーテウス』) 古代ギリシア五詩人??
エリニュスはいかなることも見落とさず、人間をはっきりと見分け、ある者には喜びの歌に満ちた人生を、ある者には涙に濡れた闇の人生を紡がせる。
(AC『エウメニデス』) 古代ギリシア五詩人??
市民の悟るべき道とは、政治というものを育み敬い、それが一人の王に任されぬように、しかし無視されぬようにすること。そして、尊くも恐ろしいものを自分たちの外へと追い払ってしまわぬことである。(AC『エウメニデス』) シェイクスピア『ソネット詩集』??
色目を使われ過ぎたために瞳が堕落し
誰もが停泊する港に錨を下ろすときに
なぜ恋は瞳の虚偽という鈎を鋳造して
心の判断力まで絡め取ろうとするのか? カフカについて書かれてきたもので、物の数に入るものはほとんどない。
それはたいてい実存主義によるものだ。
整理されることが困難で、解釈を要求するようなものごとの前にとどまるかわりに、すでに確立された思考方向のなかへ、カフカは組み入れられてしまう。
(アドルノ『カフカおぼえ書き』) 古代ギリシア五詩人??
ぶなにとねりこ、また滑らかな樹皮のみずきの木々がその長い枝を、凄まじい響きを立てて撃ち合うと、枝の折れる音が鳴り渡る
――そのようにトロイア、アカイアの両軍は、互いに躍りかかって殺し合い、どちらの側も破滅をもたらす退却などはその念頭にない。
(H『イリアス』) 古代ギリシア五詩人??
黄金のアプロディテの下されためでたい賜物については、とやかくいってくれるな。
神々の下される見事な賜物は、拒むわけにゆかぬ。
神々が自ら進んで賜るものは、なんぴとといえども、己の意志でどうこうできるものではないのだ。
(H『イリアス』) エズラ・パウンド??
五〇〇人のトゥルバドゥール詩人が、気を逸らす映画も小説もラジオもなく、一〇五〇年から一三〇〇年にかけて生み出したのと同じくらいの数の詩の業績を、
わずかひとりの人間、あるいは六人の人間が、五年、あるいは二十年のあいだに生み出すことができないのは、当然の話だ。 古代ギリシア五詩人??
人の血を、乳母の大地が呑み干した時、血は、報復を求める血糊に固まり、洗っても消えぬ。
破滅は、その責めを負う者を、その体が病魔の巣になるまで、追い詰める
(Ac『コエーポロイ』) ステファヌ・マラルメ? ??
沈黙とは,脚韻のあとに残された唯一の豪華であり,オーケストラも,己が黄金の音,思考と夕べとのあえかな触れ合いによって,
声なき頌歌にも等しく,その意味作用をひたすら詳細にするにすぎず,
詩人こそが一つの挑戦にうながされて,それを翻訳する役割を担う.音楽の午後における沈黙である. 古代ギリシア五詩人??
お后の衣からそれを留めていた黄金の留め金を抜き取り、
それを振り上げてご自分の両目を突き刺されました、――両目がご自分の被った災難を、ご自分が犯した悪行を見ることのないように、
(S『オイディプース王』) 古井由吉の文章?
鴎外が短篇を書きだしたのはずいぶん歳が行ってからですね。いろいろな試みの末、書き出す。そして、はじめから完成されたような短篇を書くんです。
ひょっとして日本の近代の短篇は、完成された形から始まって、さまざまな崩れを見ながら展開したんじゃないか。
(『文学の淵を渡る』大江健三郎対談) 古代ギリシア五詩人??
条理は、乱れた心の医師だという。
(Ac『縛られたプロメーテウス』) ボブ・ディラン??
高校を出るまでは詩なんか書いたこともなかった。
ギンズバーグなんかを知ったのは18歳くらいの時だ。
そこから時代をさかのぼって、ランボーなんかのフランスの詩も読むようになったんだ。 いいかえれば、神は探求の喜びと幸とを無尽蔵にしておいたのであり、
そのためにわれわれはわれわれの仕事場において、いつもただ個々のものを描き出すことしかできず、
普遍的なものをあらわすことはできないのである
(もしそれができれば天地創造とおなじことになろう)。
(『石さまざま』の序) パウル・ツェラン??
こうも書いてあった、……と。/どこに? 僕らは/それについては沈黙を守った。
/毒に鎮められて、大きな、/一つの/緑色の/沈黙。一ひらの夢、それには/何か植物のようなものへの思いがまつわっていた――
/緑色の、そう、/まつわっていた、そう、/邪悪な/空の下で。
(『迫奏』) 吉田健一??
それで川西は古刹といふものの多くが如何にも周囲の自然に馴染んで落ち着いた感じがするのが茅葺きの百姓家がその周囲の木立ちから切り離せなくなつてゐるのと少しも変ることはないことに思ひ当つた。
ただそこにゐればいいのだと日本では凡てのものが言つてゐるやうだつた。
(旅の時間 京都) 古代ギリシア五詩人??
自由とは、あの時の言葉につきる。
すなわち「国のためになる考えを発表したいと思う者は誰かいるであろうか。」しかも、話したい者がおれば、その者は注目を浴びるし、話したくなければ、黙ったままでよい。
(E『ヒケティデス』) シェイクスピア『ソネット詩集』??
僕の恋心を治す医者である僕の理性が
僕が指示通りのことをしないのに怒り
僕を見捨てると、今度は絶望した僕が
医者の禁止した欲望で死のうと試みる。 吉田健一??
つまり、英国の冬のひどさやクリスマスの楽しさはエヴェレストの征服やスコットの南極探検と無関係ではないのである。
もちろん、だからどうということはない。
全くそれだけの話であり、ただそれは、掛け値なしの事実なのであることを言っておきたい。
(英国に就て 英国の四季) エズラ・パウンド??
1050年から1250年そして1300年にいたるその時代の文化全体、すくなくともその時代の高度な文学文化の総体は、ある一つの美学の問題に没頭していた。
そしてそれは、ダンテに言わせれば、「すべての技法を巻き込む」ものだった。 古代ギリシア五詩人??
神はアカイア勢の防壁をいとも容易に崩したが、その様は海辺で戯れる幼子が砂山を崩すよう、幼い智慧で何か形を作ってみては、戯れるうちにまた足と手で崩してしまうように、
エイオス・ポイボスよ、あなたはアルゴス勢の永の労苦の結晶を崩し、彼らを敗走に陥れてしまわれましたな。
(H『イリアス』) 吉田健一??
我々が考へる時は言葉を用ゐて絵は視覚を通して精神に働き掛けるものでなければならない。
その上で精神が働き掛けられた結果に就て言葉を見出すといふことはある。
(思ひ出すままに III) 吉田健一??
併しそのどれ位あるか解らない壜に入つた洋酒の色はどうしてそのやうに曲がないものなのか。
それはグラスに注いだ葡萄酒を明りに翳して見るのとも違ひ、その赤や青や多くは茶色をしたものは薬品と考へても差し支へなくて内山はもつと潤ひがある色を見て来たばかりだといふ気がした。
(金沢) エズラ・パウンド??
今日、他人の内容や筋書を採用すると剽窃と考えられるように、プロヴァンスでは、他人の詩形式を採用すると剽窃と考える慣習があった。
/あからさまに他人の節分けあるいは旋律に従って書かれた詩は、「シルヴァント」と呼ばれ、通常は風刺的なものだった。 エズラ・パウンド??
ソネットも当初は「小さな曲」ということだった。歌章の最初の一節であって、だれかがそこまで書いてその先を続けることができなくなって見つけ出した詩形だった。
ソネット詩人のあとを追って陸続と退屈な詩人たちが続いた。 エズラ・パウンド??
最高教育を受けたどの作家も人よりラテン語をよく知っているところを見せたがった。
かれらが書いたラテン語の詩は腐るほどある。
イタリア人はラテン詩のスタイルを譲り受け、語彙を増やした。
スペイン人とイギリス人はイタリア人のまねをした。
カモンイスはポルトガルでそれをやった。 吉田健一??
この東京の夏を支配する沈黙とも音とも取れるものがあつて金魚売りの呼び声もその夏の響を発したので夏だと思へばそこに自然に夏の生活があつた。
又それがあつて通行人が着てゐる浴衣が夜目に白く見えて下駄の音が冬とは違つた一種の騒々しさで聞えて来た。
(東京の昔) エズラ・パウンド??
ギョーム・ド・ポアチエ、ベルトラン・ド・ボルシ、そしてソルデロから(そのほんの少し、たとえば三十篇とか五十篇とかで)プロヴァンス詩を研究しようとするほうが、わたしにはずっとよく分る。 古代ギリシア五詩人??
ありとある惨劇がそこではいちどきに起こりました。
死んでゆく者、戦車の手すりの外へ投げ出される者、車輪は外れて飛んで行き、車輪と車軸はぶつかり合い、死体の上には死体が重なっているというありさまです。
(E『ポイニッサイ』 吉田健一??
まり子は葡萄酒を飲んでゐるうちにどこかから音楽が聞えて来るやうな感じにもなり、さうでなくてどうかして話が途切れた時の静寂が耳鳴りに変るのに似た気持ちもした。
例へば舞踏会で音楽が止めばさういふ沈黙が来るのだらうか。(瓦礫の中) エズラ・パウンド??
ゲーテにせよ、シュテファン・ゲオルゲにせよ、最高の抒情詩を書いたときでさえ、していることといえば、すでにそれ以上に巧みに、あるいはそれと同じくらい巧みに、おこなわれてきたものばかりなのである。
ブルクハルトの今日の最上の詩篇は、『新生』の翻訳の中にある。 エズラ・パウンド??
イタリアのグイードとダンテ、フランスのヴィヨン、イギリスのチョーサーは、その芸術、その技巧、そのものの考え方の多くにわたって、すべてプロヴァンスにその根をもっていた。 古井由吉??
私が興味を持つのは、葛西善蔵、嘉村礒多、牧野信一なんですが、この人たちには私小説というものの矛盾が露呈している。
その矛盾が力になってる。ところがある時期からそれに整理がついて、「他生の縁」のように見事な私小説ができてしまう。
(『文学の淵を渡る』大江健三郎対談) 古井由吉??
嘉村礒多とか牧野信一は小説、特に私小説そのものの矛盾域の中で書いてる。百閧ヘそれを脱けましたね。
(『文学の淵を渡る』大江健三郎対談) エズラ・パウンド??
チョーサーが活躍したのは、イギリスがまだヨーロッパの一部であった時代だった。
フェラーラからパリまでひとつながりの文化があり、それがイギリスにまで拡がっていた。
チョーサーはその時代の最大の詩人だった。
ダンテよりもはるかに簡潔だった。 シェイクスピア『ソネット詩集』??
決して休まない時に連れ去られた夏は
忌まわしい冬と出会い敗北してしまう。
樹液は霜に固まり、茂る葉は全て散り、
美は雪に覆われ、わびしさだけがある。 吉田健一??
酒を飲んでいてそれが所謂いい酒ならば酔いが一定の所に留っていてそれ以上にも以下にもならない。
それは酔っているのに違いなくても意識が普通よりも多少は鮮明になっている程度のことでその状態が続けたいから飲むのを止めずにいることにもなる。
(埋れ木) エズラ・パウンド??
ダンは、カヴァルカンティのDonna mi priegha(ある婦人がわたしに尋ね)で始まるカンツォーネと拮抗しうる唯一のイギリスの詩(「エクスタシー」)を書いた。 エズラ・パウンド??
ワーズワスとシェリーはともにイタリアのカンツォーネの詩形を採り入れることに意識的だった。 吉田健一??
我々が作者の言葉に従ふのはそれが語るものが人間である我々にとつて真実であることだからでそれならば神経を擽るだけのことを便宜的に真実と取り違へる俗習に基いて驚くべきことになつてゐることは全くその俗習に基いてのことに過ぎない。
(書架記「エリオツト・ポオルの探偵小説」) エズラ・パウンド??
バースの女房の神学は単なる悪口ばかりではない。
用語の意味に対する彼女の関心は、プラトニズムに関するロレンツォ・デ・メディチとフィチーノの『架空対談』に見られるものに勝っている。
これは、チョーサーの場合、人びとが自分たちの用語によく配慮していた中世の時代の名残である。 エズラ・パウンド??
もし生徒が、ダンテと比較して、シェイクスピアを評価することができないというのならば、
次に採るべき方法は、たぶん、ヴォルテール、スタンダール、フロベール、フランス語がだめならばフィールディングの散文の見本と比較して、シェイクスピアの言語を評価することである。 エズラ・パウンド??
ラブレー、ピエール・ベイル、ヴォルテール、ディドロ、オルバック、あるいは遡ってビュデ、ロレンツォ・ヴァラのあとで、ランドーは仕事をまとめあげる。 エズラ・パウンド??
この作品(ブラウニング『ソルデロ』)には音の響きにある種の輝きがある。
英語の他の作品でこのようなものを見つけようとしてもちょっとむずかしいだろうと思う。 吉田健一??
後に確か木立ちがあってそれが緑だったから、とにかく、冬ではなかった。
汽車の車輪を金槌で叩けばその音が響き渡るような冴えた眺めで、それをその時聞いた気がするのはこれはプルウストの小説の終わりと記憶がごっちゃになっているのかも知れない。
(英国に就て 日光浴) パウル・ツェラン??
もはや踏まれることなく、迂回される/立麝香草の絨毯。/エリカの原をよぎる/一本の空白の行。/風害に遭ったものは何もない。
//ばらばらになった言葉――/墓石、硬い草の葉、時/というような言葉との再開。
(『夏の報告』) エズラ・パウンド??
チョーサーはLe Grand Translateur(偉大な翻訳者)だった。かれは新しい言語を発見しており、そのすばらしい機会を得て、ほとんど独占的に使用した。
なに一つ損わず、なに一つ磨り減らさなかった。/ダンテも同じような機会に恵まれて、その機会を捉えた。 エズラ・パウンド??
バースの女房の神学は単なる悪口ばかりではない。
用語の意味に対する彼女の関心は、プラトニズムに関するロレンツォ・デ・メディチとフィチーノの『架空対談』に見られるものに勝っている。
これは、チョーサーの場合、人びとが自分たちの用語によく配慮していた中世の時代の名残である。 エズラ・パウンド??
ロドルフォ・アグリコラが千五百なん年かの本のなかで、人がものを書くのは、ut doceat, ut moveat, ut delectetすなわち教えるため、感動させるため、あるいは楽しませるため、と言っている。 吉田健一??
寧ろ旅をなすものは夜通り掛つた横丁の石畳が放つ鈍い光とかホテルの窓から観た向う側の建物の屋根とかいふ自分が住み馴れた場所でも珍しいとは限らないものでただそれが旅で正確な働きを取り戻した眼に映って我々の記憶に残ることになる。
(思ひ出すままに) エズラ・パウンド??
ランドーによるチョーサー、ペトラルカ、ボッカチオに関する『架空対談』は、われわれがもっている最上の本格的チョーサー論である。 古代ギリシア五詩人??
おお、アレース、大いなる災いの神よ。なぜにあなたはブロミオスの君を崇めるこの祭りの街に、血潮と死に満ちた調子はずれの音を響かせようとなさるのか。
(E『ポイニッサイ』) エズラ・パウンド??
しかしダンの最上の詩は、カヴァルカンティと関連させずに評価することができるだろうか。できるとは思えない。
イギリスの抒情詩の失、音声と旋律の結びつき、のきわめて高かった時期があるにはあった。
しかしその高さを測るには、プロヴァンスについての知識がなにより助けになる。 ステファヌ・マラルメ??
たまに開かれるあの火曜会の一夜,私の家で,あなたがわが友人たちの語らいに耳を傾けて下すった折に,ふとアルチュール・ランボーの名前が,何本かの煙草の煙につれてゆらめき出でたことでもあったのかと想像します.
あなたの好奇心を惹く,何か漠たるものを留めながら. エズラ・パウンド??
ソネット?とんでもない。イタリア語は/脚韻で溢れているんだ、散文がほとんどない。/ぼくだって六〇篇ばかり塗ったくったものさ、/ソルテ、モルテ、クオール、アモールとね。
(ランドー『小詩と警句集』) ステファヌ・マラルメ??
永遠なるもの,そう見えたものは,再び若がえることはなく,洞窟の底に沈み,そこに堆積する.以降は如何なるものも,新しいものとしては,源泉以外のところからは生まれないだろう. 古代ギリシア五詩人??
この地の王であるエテオクレース様のほうは、胸から既に最後の苦しい息を吐き終えて後、母親の声を聞いたのです。
力ない腕で母親の体に触れると、声を発する力はもう残されていませんでしたが、涙の力を借りて、母子の愛を表現する言葉を両の目から発したのでした。
(E『ポイニッサイ』) エズラ・パウンド??
北欧伝説にはチョーサーに匹敵する人物描写がいくらかはあるが、ボッカチオでは少く、ペトロニウスでは多様性が足りない。
多少とも「それに似た」ものを考えようとするならば、プラトンのユーモアを思い起こすことになるかもしれない。 シェイクスピア『ソネット詩集』??
僕は泣き慣れていない眼を涙に沈める
日付の無い死の夜に隠れた友のために。
そして昔の失恋の傷に新たな涙を流し
失ってしまった多くの情景を再び嘆く。 ステファヌ・マラルメ???
ユイスマンスは好んで,たとえ異例のものであれ資料の数々(十五世紀における,
魂の,悪における耀きと,われわれとのあいだの比較)を提供するというのとは限りなく並外れた射程を持つ一作品によって,
現下のパリにおける,悪魔性の奇妙な延滞を暴き出した. スタロバンスキーは次のように言う。
「奇怪な病に襲われた人物。フランツ・カフカは、われわれにはそのような人物に見える。......ここでは、ひとりの人間が、自分が責めさいなまれるのを眺めているのだ」。
(ブランショ『カフカを読む』) エズラ・パウンド??
ゲーテにせよ、シュテファン・ゲオルゲにせよ、最高の抒情詩を書いたときでさえ、していることといえば、すでにそれ以上に巧みに、あるいはそれと同じくらい巧みに、おこなわれてきたものばかりなのである。
ブルクハルトの今日の最上の詩篇は、『新生』の翻訳の中にある。 古代ギリシア五詩人??
人の世の移り変りは、木の葉のそれと変りがない。
風が木の葉を地上に散らすかと思えば、春が来て、蘇った森に新しい葉が芽生えてくる。
そのように人間の世代も、あるものは生じ、あるものは移ろうてゆく。
(H『イリアス』) エズラ・パウンド??
あるイタリアの政府調査官が、わたしのグイード・カヴァルカンティ訳を見て、グイードのことばがほとんど超現代的であることに感嘆していた。
ダンテは言っている。
「カンツォーネは、音楽に合わせてことばを組み合わせたものである」。
出発するのにこれほどいい地点を他に知らない。 古代ギリシア五詩人??
我らの生は所詮は夢幻。虚しい影に過ぎないのだ。
(S, 『アイアース』) ステファヌ・マラルメ??
詩人とは,書物の偉大な開かれたページを盗み去る人物であり,書物はそののち実体を失って空白となる. エズラ・パウンド??
愉快な人物、ばかげたところがあり、ゴルドーニ1707-1793が舞台に創りだす典型的イギリス人、世におもねろうとしないところはまことにみごとだが、
知的にはfuori del mondo(世間知らず)、ヨーロッパ大陸に関するかぎり、かれ(サミュエル・ジョンソン)は十七世紀に生きていた。 所謂頭のいい人は、云わば脚の早い旅人のようなものである。
人より先に人の未だ行かない処に行き着くことも出来る代りに、途中の道傍或いは一寸した脇道にある肝心なものを見落とす恐れがある。
頭の悪い人脚ののろい人がずっとおくれて来て訳もなく其の大事な宝物を拾って行く場合がある。
(寺田寅彦) J.L.ボルヘス??
キャップリングの後期の短編には、カフカの短編やジェイムズのそれに劣らぬ謎と苦悩にみち、おそらくできばえは優っている。 パウル・ツェラン??
夜な夜なが、分離された。緑色や青の/円形たち、赤の/正方形たち――世界は/新たな/刻との賭のために/その内奥までをさらけ出した。
――赤や黒の/円形たち、一つの/飛影、/一台の/測量台、一筋の/魂の煙も昇り立たない、賭に加わらない。//昇り立たない/賭に加わらない――
(『迫奏』) エズラ・パウンド??
ギョーム・ド・ポアチエ、ベルトラン・ド・ボルシ、そしてソルデロから(そのほんの少し、たとえば三十篇とか五十篇とかで)プロヴァンス詩を研究しようとするほうが、わたしにはずっとよく分る。 ステファヌ・マラルメ??
常に演劇は,それが取り込む諸芸術を,特別なというか文学的な観点から,変質させる.
音楽は演劇に力を貸して深みと影を失わないことはないし,歌も同様に,孤独な雷という趣きを失う,
そして,本来的に言えば,〈バレエ〉に対しては〈舞踏〉の名を認めないことも可能だ, エズラ・パウンド??
プロヴァンスとイタリアとの特殊な相違について、またアルノー・ダニエルからソルデロ、そしてカヴァルカンティやダンテにいたる「進歩」について、
イタリア語が読めず、また読む気もない読者は、もしその気があれば、わたしの書いた解説的な批評を参照のこと。 葛原妙子??
黒死病の死屍をのせゆく喪の舟としてゴンドラは黒く塗られき 『朱霊』 エズラ・パウンド??
ギョーム・ド・ポアチエ、ベルトラン・ド・ボルシ、そしてソルデロから(そのほんの少し、たとえば三十篇とか五十篇とかで)プロヴァンス詩を研究しようとするほうが、わたしにはずっとよく分る。 エズラ・パウンド??
プロヴァンスとイタリアとの特殊な相違について、またアルノー・ダニエルからソルデロ、そしてカヴァルカンティやダンテにいたる「進歩」について、
イタリア語が読めず、また読む気もない読者は、もしその気があれば、わたしの書いた解説的な批評を参照のこと。 パウル・ツェラン??
僕らは/かこみを弛めなかった、ただなかに/いた、一つの/気孔組織、そして/言葉が来た、
/僕らをめざして来た、夜の間を/縫って来た、見えないままに/繕った、最後の薄膜を/繕った、/すると、/世界が、千の結晶体が、/析出した、析出した。//析出した、析出した。/そして――
(『迫奏』) ステファヌ・マラルメ?・??
海,それについては,括弧に書き込むよりは黙っていた方がよいであろう,
そこに蒼穹がいっしょに入ってくるのでなければ,海は――同様にして本来的には,自然から分離される.
なんらかの異例の劇が,海と自然とのあいだで猛威をふるい,そこには人っ子ひとりいないままそれなりの理がある. 白魚の小さな顔をもてりけり
春の水岸へ岸へと夕かな
青天や白き五弁の梨の花
高々と蝶こゆる谷の深さかな
磐石をぬく燈台や夏近し
花影婆娑と踏むべくありぬ岨の月
鮎の背に一抹の朱のありしごとし
蜘蛛消えて只大空の相模灘 エズラ・パウンド??
かれ(チョーサー)にはまた「アストロラーベ論」がある。ダンテには、言語と作詩法に関する論文『俗語論』がある。 エズラ・パウンド??
プロヴァンスとイタリアとの特殊な相違について、またアルノー・ダニエルからソルデロ、そしてカヴァルカンティやダンテにいたる「進歩」について、イタリア語が読めず、また読む気もない読者は、もしその気があれば、わたしの書いた解説的な批評を参照のこと。
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