チンポ
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我らの生は所詮は夢幻。虚しい影に過ぎないのだ。
(S, 『アイアース』) くれぐれも思いあがってはならない。他に優れて力を持ち、あふれる富を得ようとも。人の身の浮き沈みは一日にして覆るのが世の慣い。
弁えあるものは神を愛でたまい、不逞の輩を疎まれるのだ。
(S, 『アイアース』) いいかえれば、神は探求の喜びと幸とを無尽蔵にしておいたのであり、
そのためにわれわれはわれわれの仕事場において、いつもただ個々のものを描き出すことしかできず、
普遍的なものをあらわすことはできないのである(もしそれができれば天地創造とおなじことになろう)。
(『石さまざま』の序) エズラ・パウンド?
最高教育を受けたどの作家も人よりラテン語をよく知っているところを見せたがった。
かれらが書いたラテン語の詩は腐るほどある。
イタリア人はラテン詩のスタイルを譲り受け、語彙を増やした。
スペイン人とイギリス人はイタリア人のまねをした。
カモンイスはポルトガルでそれをやった。 ステファヌ・マラルメ??
奇妙な挑戦だ,リヒャルト・ワーグナーが,世にも無邪気かつ輝かしい大胆さで詩人達の義務を簒奪しておきながら,詩人達に対して投げつけたものは! 吉田健一?
或る晩のこと、母が夜会の服装をしてどこかに出掛けることになつて、その真紅の天鵞絨の服に眼を奪はれた。
女といふのが美しいものであることをその時始めて知った。
(三文紳士 母に就て) いいかえれば、神は探求の喜びと幸とを無尽蔵にしておいたのであり、そのためにわれわれはわれわれの仕事場において、いつもただ個々のものを描き出すことしかできず、
普遍的なものをあらわすことはできないのである(もしそれができれば天地創造とおなじことになろう)。
(『石さまざま』の序) ステファヌ・マラルメ??
詩人とは,書物の偉大な開かれたページを盗み去る人物であり,書物はそののち実体を失って空白となる. 『みみずく偏書記』を読んだ時、由良君美って吉田健一をどう評価してるんだろって思ったんだけど、
続けて読んでいる『みみずく古本市』に吉田健一についての一文があって、それもあの無二の文体にはうっとりよろめくしかない、みたいな内容でふふふってなった。 シェイクスピア『ソネット詩集』
僕はしばしば知らない人と心を通わせ
あなたの購った尊い権利を見過ごした。
僕は何か風が吹くたびに船の帆を広げ
あなたの視界の果てへ流されていった。 いいかえれば、神は探求の喜びと幸とを無尽蔵にしておいたのであり、そのためにわれわれはわれわれの仕事場において、いつもただ個々のものを描き出すことしかできず、普遍的なものをあらわすことはできないのである
(もしそれができれば天地創造とおなじことになろう)。
(『石さまざま』の序) Franz Kafka
道ははてしなく長い。すこしばかり引いても足しても変わらない。それなのに、だれもが自分のちっぽけな物差しをあてて量ってみようとする。
『罪、苦悩、希望、真実の道についての考察』 シェイクスピア『ソネット詩集』
愛は唇と頬が薔薇色でも道化ではない
そこに時の曲がった鎌が届くとしても。
愛は僅かな月日で変わるものでもなく
審判の日まで時を耐え抜くものなのだ。 私たちの教会には、心にしみるようなさまざまな祝祭の行事がある。
(『水晶』) 古代ギリシア五詩人?
人の世の移り変りは、木の葉のそれと変りがない。
風が木の葉を地上に散らすかと思えば、春が来て、蘇った森に新しい葉が芽生えてくる。
そのように人間の世代も、あるものは生じ、あるものは移ろうてゆく。
(H『イリアス』) 古代ギリシア五詩人??
今俺は思い知ったからだ。
敵は憎むべきもの、しかしその敵がいつか友となる日があることを忘れてはならぬと。
また、友に尽して助けとなる時も、それが永遠の友ではないことを心得たいと思う。
多くの人間にとって友情とは、身を寄せるべき港ではないのだ。
(S, 『アイアース』) 吉田健一?
併し家も人がそこに住むに連れて家らしくなつて来るので、普請が終ると同時に家になるのではない。
家が集つて出来た場所も同じであつて、そこを故郷と思ふものがあるやうになるまでには何十年か掛る。
そのことを考へて、我々はただ待つ他ないのである。
(甘酸つぱい味「都市」) 私たちの教会には、心にしみるようなさまざまな祝祭の行事がある。
(『水晶』) もしわたしのなかに何らかの高貴で善良な要素があるならば、それはおのずからわたしの書くものの中に含まれるであろう。
しかし、もしそういう要素がわたしの心のなかにないならば、けだかい美しいものを描き出そうとしてわたしがどんなに骨をおっても、それは無駄になるであろう。
(『石さまざま』の序)) エズラ・パウンド??
ダンテ、グイード・カヴァルカンティ、そしてヴィヨンを知らなければ、ある種の文学が到達した最大限を判断することはできない。 古代ギリシア五詩人??
戦いの決着は腕の力でつく、言葉は協議の場の極め手に過ぎぬのだ。
されば今は多言を弄する時ではない、戦わねばならぬのだ。
(H『イリアス』) シェイクスピア『ソネット詩集』
僕はしばしば知らない人と心を通わせ
あなたの購った尊い権利を見過ごした。
僕は何か風が吹くたびに船の帆を広げ
あなたの視界の果てへ流されていった。 ステファヌ・マラルメ?
常に演劇は,それが取り込む諸芸術を,特別なというか文学的な観点から,変質させる.
音楽は演劇に力を貸して深みと影を失わないことはないし,歌も同様に,孤独な雷という趣きを失う,
そして,本来的に言えば,〈バレエ〉に対しては〈舞踏〉の名を認めないことも可能だ, エズラ・パウンド?
個人であれ、国家であれ、その精神が衰退し、不愉快な腐敗の臭気を発散させることがありうるという認識は、今日不幸にして廃れてしまった。
ダンテの地獄は、理性という利潤を資本ともども失ってしまった人たちの地獄だった。 吉田健一??
確かに若いうちといふのは陸でもないことばかりであつても体力と体力から来る気力があることは認めなければならなくて青年が真剣になつた顔付きといふのは清新なものがある。
(東京の昔) J.L.ボルヘス???
私はブエノスアイレス大学で哲文学部で英文学の教師として勤めてきましたが、そこで心掛けてきたのが文学史の可能性を無視するということです。 パウル・ツェラン??
ぼくの血の中の森に 霧が立ち込める――/ひとりの青い王が 馬を駆り そして叫ぶ――/赤い野呂鹿たちが 驚く…
/その星が もっと遠く 満ち潮のなかへもぐる、/蕾たちが 涙の香気を/夢の隠れ家にいる動物たちのうえに注ぐ。
(『バラード』) デリダ??
民族学は、脱中心化現象の行われたときにはじめて、というのはヨーロッパ文化?したがって形而上学とその諸概念の歴史?が解体され、その場から追放されてしまい、
参照の文化と目されるのを止めねばならなくなったときにはじめて、科学として誕生しえた
(『エクリチュールと差異』) 古代ギリシア五詩人??
大海原の浪も砕けて散っては叫び、深い海の底は呻き、地の底、暗黒の冥界も地鳴りを轟かせ、清らかな流れの河の泉も、いたましいあなたの苦しみを悲しんでいるのです。
(Ac『縛られたプロメーテウス』) グレン・グールド??
私がモーツァルトを好きでないという言い方は間違いです。
モーツァルトには非常に惹かれる面がいくつかあります。
彼の音楽には大きな柱を中心に据えた引き締まった構造があり、私はそれに感服しているのです。
それから、曲の終結部の構造には類い稀なるものがあります。 古代ギリシア五詩人??
見てくれ、私を、縛められたこの悲運の神を。ゼウスの敵として、ゼウスの宮居に伺うほどの、あらゆる神々からも忌み疎んじられている者だ、あまりにも人間どもを愛し過ぎたと言うので。
(Ac『縛られたプロメーテウス』) グレン・グールド??
私の音楽の趣味は、新ヴィーン学派に到り、かつそれを含むようです。
シェーンベルクの作品で、私が評価を留保するものも多いですが、それでもかれは巨匠だと思います。
(『グレン・グールドは語る』 ) いいかえれば、神は探求の喜びと幸とを無尽蔵にしておいたのであり、そのためにわれわれはわれわれの仕事場において、いつもただ個々のものを描き出すことしかできず、普遍的なものをあらわすことはできないのである
(もしそれができれば天地創造とおなじことになろう)。
(『石さまざま』の序) ステファヌ・マラルメ?
群集という,まだ手つかずの要素として我々をかくも驚かし始めているもの,あるいは我々自身だと言ってよいが,それが,音響に対して,神秘の守護者の役割を果しているとは!
群集自身の神秘である. 古代ギリシア五詩人??
神を笑い正義に背く者は、いつか栄華の一切を正義の岩棚に打ちつけて、悼まれもせず、人知れず、永遠の闇に消えてゆく。
(AC『エウメニデス』) グレン・グールド? ?
作品が特別に、絶対的にペダルの使用を求めていることがない限り、私はペダルをまったく踏みません。
骨抜きにされたハープシコードを少々思わせるような響きになったときがいちばん幸せです。
(『グレン・グールドは語る』 ) 吉田健一??
寧ろ旅をなすものは夜通り掛つた横丁の石畳が放つ鈍い光とかホテルの窓から観た向う側の建物の屋根とかいふ自分が住み馴れた場所でも珍しいとは限らないものでただそれが旅で正確な働きを取り戻した眼に映って我々の記憶に残ることになる。
(思ひ出すままに) エズラ・パウンド??
ウェルギリウスの新しい素材、ギリシアでなく、はっきりとイタリアのものである民間伝承と、『アイネイス』のなかの文学的伝統に従った部分とを、区別せよ。
(範例:ギャヴィン・ダグラス(1474-1522)”Behaldand the large wod on athir syde:~”) シェイクスピア『ソネット詩集』??
僕の冷たさのために心震えたあなたも
僕のように地獄の時間を味わったのだ。
暴君だった僕には考える暇もなかった
自分ならあなたの罪にどう苦しむかを。 いいかえれば、神は探求の喜びと幸とを無尽蔵にしておいたのであり、そのためにわれわれはわれわれの仕事場において、いつもただ個々のものを描き出すことしかできず、
普遍的なものをあらわすことはできないのである(もしそれができれば天地創造とおなじことになろう)。
(『石さまざま』の序) 吉田健一??
シェイクスピアに対して関心はなくてもシェイクスピアに就て書き、何かと問題を持ち出すのは今日までに集積したシェイクスピア文献に頼れば大して難しいことではなくて、ただそこにシェイクスピアはいない。
(福原さんとシェイクスピア) 古代ギリシア五詩人??
お前たちに与える別れの言葉、この先は死の国で、俺は死者を相手に語らうであろう。
(S, 『アイアース』) 所謂頭のいい人は、云わば脚の早い旅人のようなものである。
人より先に人の未だ行かない処に行き着くことも出来る代りに、途中の道傍或いは一寸した脇道にある肝心なものを見落とす恐れがある。
頭の悪い人脚ののろい人がずっとおくれて来て訳もなく其の大事な宝物を拾って行く場合がある。
(寺田寅彦) シェイクスピア『ソネット詩集』??
ああ、悪の利よ!今なら真実がわかる
善いものは悪を経てもさらに良くなる。
崩れた愛も新たに立て直されるならば
初めよりも麗しく強く大きくなるのだ。 吉田健一??
寧ろ旅をなすものは夜通り掛つた横丁の石畳が放つ鈍い光とかホテルの窓から観た向う側の建物の屋根とかいふ自分が住み馴れた場所でも珍しいとは限らないものでただそれが旅で正確な働きを取り戻した眼に映って我々の記憶に残ることになる。
(思ひ出すままに) エズラ・パウンド??
III イギリスがもはや最上の作家を容れる余地をなくし、あるいは歓迎しなくなった時期。/イタリアに去ったランド―。/ドイツに去ったベドウズ。/イタリアに去ったバイロン、キーツ、シェリー。/テニソンがイギリスのお墨付き文学となってイタリアに去ったブラウニング。
(「四つの時期」) グレン・グールド?
分析する気はないけれど、他人は僕とは違って、ニューヨークで暮らすことにストレスを感じないらしい。
よく思うんだけど、音楽家にとっていちばん厄介なのは、ニューヨークがある意味でデヴュー・タウンになっているということ。これがいちばん危険です。
栄光を求めて凌ぎを削る。 古代ギリシア五詩人??
「それから母上。このまぶたはあなたの手で閉じてください。」こう言って母親の手を自分で取ると、眼の上まで持って来ました。
「さようなら。もう闇が私を被い始めました。」これが最後の言葉でした。
(E『ポイニッサイ』) 古代ギリシア五詩人??
正しい男をあらわすのは時しかないが、悪人はたった一日のうちにでもその正体を見抜ける
(S『オイディプース王』) J.L.ボルヘス??
ヘンリー・ジェイムズは一八四三年に生まれ、一九一六年に死んだという事実にもかかわらず、われわれの時代の最高級の作家の一人である。
キプリングかトルストイの同時代人というよりむしろカフカと同時代人なのだ。 Franz Kafka
たった今、フローベールの手紙のなかに次のような文句を読んだ
「私の小説は、私がぶらさがっている岩のようなものだ。そして私は、世の中で起こっていることについては何も知らない」
ーこれはぼくが五月九日に自分のために書きこんでおいたことと似ている。
『日記』 シェイクスピア『ソネット詩集』??
違う、僕は僕であり、野次馬の非難を
被るのも僕ではなく奴ら自身の悪事だ。
奴らが歪んでも僕は真っ直ぐでいよう。
低劣な考えの人に僕の行いは語れない。 吉田健一??
君を夏の一日に喩へようか。 君は更に美しくて、更に優しい。 心ない風は五月の蕾を散らし、 又、夏の期限が余りにも短いのを何とすればいいのか。
(シェイクスピア/十四行詩 第十八番より) 古代ギリシア五詩人??
おのずと事はあらわれよう、たとえわたしが黙って隠していても。
(S『オイディプース王』) シェイクスピア『ソネット詩集』??
いっそ低俗になってしまった方が良い
低俗でなくともそう非難されるのなら。
正当な喜びを低俗とみなして奪うのは
僕らの実感ではなく他人の視線なのだ。 吉田健一??
ここでは、人間の死骸は曾ては生きていた人間の死骸であって人間の死に対して人間が、或は少くとも我々読者が無感覚にされるということはない。
涙があり、温い感傷があるというのではなくて、人間の死を人間の死と認める健康なリアリズムがこの作品にはある。
(「怒りの海」解説) シェイクスピア『ソネット詩集』??
ああ!悲痛の夜が思い出させるものは
本物の悲しみが心の奥底を突く感覚と
あなたと僕が互いに早く渡し合うべき
胸の傷に効く慎ましさという軟膏薬だ! 吉田健一??
酒を飲んでいてそれが所謂いい酒ならば酔いが一定の所に留っていてそれ以上にも以下にもならない。
それは酔っているのに違いなくても意識が普通よりも多少は鮮明になっている程度のことでその状態が続けたいから飲むのを止めずにいることにもなる。
(埋れ木) 古代ギリシア五詩人??
人間は、傲慢な思いを抱いてはならぬ。
傲慢は花をつけ、破滅の穂を実らせる。
実りの秋は止めどない涙を刈り取るのだ。
(Ac『ペルサイ』) 吉田健一??
曾ては近代といふ言葉を普通に使つたのに対してこの頃は現代と言ふ方が多くなつてゐるにも拘らず、
その近代と現代の違ひ、
或は寧ろ近代といふこと自体の意味が殊に日本では余りはつきりしてゐない。
(近代と頽廃) 科学というものはただ一粒々々を根気よくあつめるものであり、観察をつみかさね、個々のものから普遍を構成するのである。
つまり現象の総量と事実の原野は無限に大きい。
(『石さまざま』の序) 古代ギリシア五詩人??
このような嘆きにどんな意味がある。悲しみの声も虚しいだけではないか。
死すべき者は、神々の定めた必然の重荷には、耐えるほかないのだから。
(E『ポイニッサイ』) エズラ・パウンド??
チョーサーは、ダンテよりも教養が広かった。
ペトラルカは、その両者よりもはるかに劣る。
チョーサーをヨーロッパの「人文学」の父と考えたとしてもさして誤りではなかろう。 吉田健一??
同じであることを変化がないことと見て疑はないのは変化があつたことに自分が気が付くまではそれがなかつたと考へるのと自分の不注意を棚に上げてゐる点で選ぶ所はない。
(変化) パウル・ツェラン??
薊のようなものからの、/測定可能な、光の獲得――/少しばかりの/黄色と、少しばかりの/赤との対話。お前の絶望しきった目の前の/大気のヴェール。/騎行する/最後の砂粒。
(『線路の土手、路傍、荒れ果てた広場、瓦礫』) 古代ギリシア五詩人
神々にこそ、生贄をささげて善きことを願うべきで、預言の術など捨てておけばよいのです。
これは人生におけるまやかしの釣餌、働かずして予言の焔で富者になる者など、だれもいはしない。
思慮とよき判断、これこそ最上の預言者というもの。
(E『ヘレネー』) 彼(カフカ)のことを初めのうちは、不死鳥のような独自の存在だとおもっていたが、
すこしばかりつきあっているうちに、
さまざまな文学、さまざまな時代のテクストのなかに、彼の声、彼の癖をみとめるような気がした
(ボルヘス『カフカとその先駆者たち』) シェイクスピア『ソネット詩集』??
粗末な備忘録に残るものは多くないし
君の尊い愛を勘定する必要もないのだ。
それなら思い切って備忘録を手放して
君の優れた記録帳として心を信じよう。 古代ギリシア五詩人??
こういって先の評定に与らなかった大衆の心を揺すぶると、集会の場はわたつみに立つ大波のごとく
――東の風と南風が父神ゼウスの集めた雲の間を破って吹きつけ、イカロスの海を湧き立たすその大波にも似て激しく揺れ動く。
(H『イリアス』) エズラ・パウンド??
もし生徒が、ダンテと比較して、シェイクスピアを評価することができないというのならば、
次に採るべき方法は、たぶん、ヴォルテール、スタンダール、フロベール、フランス語がだめならばフィールディングの散文の見本と比較して、
シェイクスピアの言語を評価することである。 吉田健一??
彼の母親が清教徒はだしの禁欲主義を説けば説くほど、彼の父親はますます極端に異教徒的な快楽主義をかかげて、
母親が菜食主義を採用するにいたったころは、父親はほとんど食人主義まで容認する点に達していた。
(G・K・チェスタトン/木曜の男) 吉田健一??
趣向を凝らすのでなくてただ一軒の店をやつてゐることを考へ續けるだけでそれが凝った趣向にもなり、
見方によつては華麗でも地味でもあるのでそこに安心して行けるから客の方でもそこに行くのを續ける。
(ロンドンの飮み屋) エズラ・パウンド??
ギョーム・ド・ポアチエ、ベルトラン・ド・ボルシ、そしてソルデロから(そのほんの少し、たとえば三十篇とか五十篇とかで)プロヴァンス詩を研究しようとするほうが、わたしにはずっとよく分る。 シェイクスピア『ソネット詩集』??
破滅を支配している自然という女王は
先に進む君を以前の姿に戻しているが
自然が君を引き止めるのは、その技で
時を侮辱し、卑劣な分秒を殺すためだ。 ステファヌ・マラルメ???
どんな関係が存在するのか,控えめで沈着な聴衆の集団と,やがて迸り出る,記憶を絶した過去と,夕辺の闇と,栄光の,蕩尽の限りを尽した昂揚との間に.
あるいはまた,別の形で,無限に繰り返し吐き出される息との間に. 古代ギリシア五詩人??
木々を痛めつける災いの風が吹き荒れ、国境を越えて草木の芽を摘み取るような焦熱を呼ぶことのないように。痛ましい病が忍び寄り、実りを奪い取ることのないように。
パーンに守られた家畜も豊かに養われ、時節に適った子らに恵まれるように。
(AC『エウメニデス』) エズラ・パウンド??
いくつかの分野でシェイクスピアが登場する。ソネットでは、思うに、かれは技法の訓練をしている。
抒情詩では、わたしの信ずるところでは、ことばに曲を付して印刷していたイタリアの歌謡集から、大いに学んでいた。 吉田健一??
それで今更ながら気が付くことに型に嵌つた人間はつまらないといふことがある。
これは一つでなくても幾つかの型で言ひ表せる人間といふことであり、又これは型といふものが大体何の意味もないものであることを示す。
(交遊録「石川淳」) シェイクスピア『ソネット詩集』??
儀礼と寵愛に頼る人間を知らないのか
高すぎる代償を支払って何もかも失い
複雑な甘味のために素朴な風味を捨て
他人を気にして生きる哀れな成功者を? 気の合った友人たちに楽しいひとときを提供し、
知ると知らぬとにかかわりなく友とよぶべき人のすべてに挨拶を送り、
永遠者の耕作に一粒の善き種を寄与するということ、
これがわたしの著作における意図であったし、
これからも意図でありつづけるだろう。
(『石さまざま』の序) 古代ギリシア五詩人??
あなたは目が見えながらな何も観てはいない、どんな禍いの中に自分がいるか、どこに住んでいるか、誰と一緒に暮らしているかを。
(S『オイディプース王』) シェイクスピア『ソネット詩集』??
天蓋を背負うことが僕の何になるのか、
それが僕に名誉ある外見をもたらして
永遠を目指すための基礎を築こうとも
荒廃や破滅に至ることは明らかなのに? 私たちの教会には、心にしみるようなさまざまな祝祭の行事がある。
(『水晶』) 古代ギリシア五詩人??
一番残酷なのは死ぬことそのものではなくて、死にたいと願っているのに、思い通りに死ねないという場合なのです
(S『エーレクトラー』) シェイクスピア『ソネット詩集』??
その証人に時の道化たちを召喚しよう
罪に生きて死に際に善を求めた人々を。 古代ギリシア五詩人??
アポローンだ、友よ、アポローンだ、わたしのこの禍々しい苦難を成就したのは。
だが誰でもない、わたしが哀れにもこの手で目を突いたのだ。
(S『オイディプース王』) ステファヌ・マラルメ? ??
純粋著作は,詩人の語り手としての消滅を必然の結果として齎らす.詩人は主導権を語群に,相互の不等性の衝突によって動員される語群というものに譲るのである.
そして語群は,あたかも宝石を連ねたあの玉飾りの上における灯影の虚像の一条の連鎖のように,相互間の反射反映によって点火される. シェイクスピア『ソネット詩集』??
僕の愛は異端者たちの術策を恐れない。
借用期間の短い恋愛にしか通用しない
あの術策よりも遥かに優れた術策とは
熱にも膨れず雨にも濡れないこの愛だ。 時空のなかにおける測りがたい偉大な諸力が、しっかりした形姿をもった、理性にかなった全一体の成就をめざして、うちつれて活動するとき、
かならず魂をひたすあの崇高なものを感ずるのである。
(『石さまざま』の序) 古代ギリシア五詩人??
大海原の浪も砕けて散っては叫び、深い海の底は呻き、地の底、暗黒の冥界も地鳴りを轟かせ、清らかな流れの河の泉も、いたましいあなたの苦しみを悲しんでいるのです。
(Ac『縛られたプロメーテウス』) エズラ・パウンド??
もし生徒が、ダンテと比較して、シェイクスピアを評価することができないというのならば、次に採るべき方法は、たぶん、ヴォルテール、スタンダール、フロベール、
フランス語がだめならばフィールディングの散文の見本と比較して、シェイクスピアの言語を評価することである。 吉田健一??
併し何れにしても、文藝評論は藝術作品を解明し、それを作る基準を示すものなので、藝術作品そのものではないのである。
(詩と近代「エリオツト」) 古代ギリシア五詩人??
実際には、同一のもの、等価のものが死すべき者どもに与えられているのは、名だけの世界の内のこと。
現実の世界にそんなものはない。
(E『ポイニッサイ』) シェイクスピア『ソネット詩集』??
彼女の話に耳を傾けるのは大好きだが
それよりも響きの心地よい音楽もある。
女神の到来を見たことは確かにないが
地面を踏み鳴らして歩く恋人は見えた。 古代ギリシア五詩人??
おお、可愛らしい手だこと。そしてこの可愛らしい口、品のよい姿形、この顔……幸せになるんだよ、でもあちらへ行ってからね。
(E『メーデイア』) エズラ・パウンド??
ダンテの『俗語論』を別にして、わたしも、たとえわずかでも価値のある韻律論は、これまでに一冊しかみたことがない。
それはイタリアの本で、すでに絶版になっており、一般にはまったく知られていない。 ステファヌ・マラルメ? ??
一時半にでも,出かけさえすればよいのだし,ただ,列車の喧騒によって続く妄念がほぼやんでくれるように.そして,駆け寄ってくる,密生して,あるいは先で見る対をなした植物の繁茂と共に,どこかの森が. シェイクスピア『ソネット詩集』??
追求する間も所持する間も狂っている。
再現なく手を出し、手に入れ、手放す。
至福を証明するはずが悲痛を証明する。
目指した喜びも、過ぎ去れば夢となる。 吉田健一??
併し何れにしても、文藝評論は藝術作品を解明し、それを作る基準を示すものなので、藝術作品そのものではないのである。
(詩と近代「エリオツト」) 吉田健一??
葡萄酒もいいのに当ると、飲むだけではなくて風呂桶をこれで波々と満して頭から浴びたくなる。
(定本 落日抄「酒談義 4」) 吉田健一??
後に確か木立ちがあってそれが緑だったから、とにかく、冬ではなかった。
汽車の車輪を金槌で叩けばその音が響き渡るような冴えた眺めで、それをその時聞いた気がするのはこれはプルウストの小説の終わりと記憶がごっちゃになっているのかも知れない。
(英国に就て 日光浴) ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています