【TOYOTA】トヨタ 五代目RAV4 Part21
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公式サイト
https://toyota.jp/rav4/new-rav4/
前スレ
【TOYOTA】トヨタ 五代目RAV4 Part20
https://fate.5ch.net/test/read.cgi/auto/1554903537/
VIPQ2_EXTDAT: checked:vvvvv:1000:512:----: EXT was configured >>318
トヨタ純正のナビはかなり使いやすいと思うし、ディーラーで修理対応あるから純正9インチのせちゃってるぜ
純正は故障や不具合あったときにすぐ対応してもらえるからな 純正ナビなんか初めから壊れてるような使えないシロモノ 純正ナビも新車から2、3年くらいまでだよ。それより古くなってきたらスペックアップしようがない
なんとか地図のデータだけは更新できてもオーディオやナビの機能面で見劣りする
3年で次々乗り換えるにしても中古車需要だってあるし。
ナビは20年間でCDナビ DVDナビ HDDナビ、SSDナビって進化してきたんだよね
もちろんストレージだけじゃなくて演算速度や各種付随機能、システムも進化する
今の主流はクラウドナビだ。社外品なら実売10万円で最先端のが手に入る
で、そんな取り外し不可能なゴミ付の中古なんか誰も欲しがらないから下取りは二束三文
買い替え資金が捻出できずにPNDやスマホナビを後付けしたりして廃車までしぶしぶ乗りつづけることになる
エアコンなどと一体になってると壊れたらアッセン交換で50万円コース
しかもそんなに金かけてもスペックは10年前のままで、3万円で買えるスマホナビよりも劣る始末
新型コネクテッドカーのナビでもこの程度のていたらく
https://youtu.be/pWpkBvP6ync
一方無料のナビがこれ
https://youtu.be/efLXTbY4Msc
3年落ちどころか新車時でもスマホに完敗だろ?そんなの10年も使えるかってんの
技術は進化する。この事実は裏を返せば技術は陳腐化するということだ。
自動車技術の主流がメカからエレクトロニクスに、さらにソフトウェアへと変わったことで技術が陳腐化するスピードは加速したとも言える。
それを象徴し、しかもトヨタの中で数少ない高収益の源泉である売れ筋SUVの分野でこうした視点が欠けていたというのは製品プロジェクトとしては致命的なミスと言える。 >>318
8〜10インチタブとか見た目そこそこでつくんじゃないかと勝手に思ってる
そこまで一体感目指す車でもないと思ってるし
アウトドア色強いADVなら尚更ね
HVの高グレードやハリアー、レクサスだとそういうの気にするかもだけど >>283
初採用したUXが不発に終わったから同じもの付けて少しでも開発費回収したいんじゃないの?
エンジンもその不採算CVTに合わせて2.0にしたんだろ。
何がもっといい車作ろうよだよ!
完全に国内ユーザー舐めてる。
結局、利益のことしか考えてねーじゃねーか。
https://youtu.be/9cHOEVU5o88
ほんと知れば知るほど嫌気さすわ。 カーナビなしって信じられない。乗る度にスマホを付け外しするの?面倒過ぎる
スマホは車速連動しないから、トンネルを通ると位置がズレて分岐でミスり易いし。
只でさえ、全周カメラが搭載不可で不便なのに、バックカメラすら無しで駐車するんかい?
こんなデカイ車幅なのに、動線予測無しで、ど真ん中に一発で入れにくいぞ。
そもそも、カーナビ外して下取りとか面倒過ぎて、考えたこともないって。 だからあの場所にCarPlay表示できる液晶画面だけあればいいのにって話。
もちろん、バックカメラや俯瞰カメラなんかは表示できる奴でカーナビ機能や音楽プレイヤー機能はCarPlayで代用でいいし、テレビは要らんし、コネクトも要らんというオレみたいな購入検討者もいるわけだ。 今回もCarPlay未対応なんか。
なんかここ数年色々外車から後手後手にまわってるような気がする。 >>326
ナビのかわりにディスプレイオーディオを付けるんだよ。
CarPlayやAndroid Auto対応のやつなら車側のセンサー情報も使えるし、
バックカメラ等の表示にも対応している。
スマホをつなげば動画や音楽の配信等も聞けるし、ナビも常に最新の地図だぞ。
渋滞情報もオンラインで全国の最新情報&アプリユーザーの情報も共有されるから強力だよ。 そうなんだよね。
CarPlay対応液晶あればそれでいいやって奴結構居ると思うけどね。
結局ナビのサプライヤーと結託して利益率の高いオプション残したいだけなんだろうなと思うわ。 >>318
米国仕様羨ましいよね
アップルウォッチでリモートスタートとかもできるし >>326
タブだから基本付けっぱなし
夏場はヤバイかもわからんけどね位置的に
バックカメラはドラレコにつける
まあつけなくてもそんなのない20代にプラド乗ってたわ
>>327
それだと最高よね
俺はandroidで'taskerで連動させる方を今使ってる
エンジンonでスマホ電源on、ナビタイム起動、エンジンoffで逆の動作
アマプラで音楽映像、AbemaTVもようつべもいけるからフルセグ地上波とかどうでもよくなった >>329
ディスプレイオーディオいいね
そういうの調べるのもまた楽しいよな >>331
やっぱ米国仕様は対応してたか
>>332
だよね。今どきキャリアの50ギガレベル通信料も安くなったしねー >>326
カーナビまだ半年落ちだし凄く勿体ないから
ravに移植したいんだが無理かな?
勿体ないより自分が気に入ってるんだよね。
https://store.shopping.yahoo.co.jp/maybachmarket/4912500371244.html?sc_i=shp_sp_search_itemlist_shsrg_title
プレミアムサウンドと唯一無二のBlu-ray再生
100時間も使ってないから尚のこと…
ディーラーで取り外し取り付けで3万円台なら
ナビ台浮くから嬉しいんだけどなぁ…
やってくれっかな? >>336
そういうのはいつもサービスでやってもらえるように交渉でしょ なんだ、
米国仕様のadventureは8インチのタッチスクリーン標準か。
しかもCarPlay対応で。
パワートレーンも203馬力の2.5NAに8AT。 ダイナミックトルクベクタリングは、瞬時に4wdに出来るらしいが、ホンダはそれで失敗している
FFから4wdになった時の車の挙動が良くなかった
そのため各社は、予め20パーセント位のトルクを後輪にかけて、引きずり抵抗より、安全を重視ししている
トンネルを抜けると突然雪道なーーーんて、川端康成の世界だよね >>339
日本では高くて売れないから出さないんじゃないの。 >>337 >>338 有難うございます!担当マンに
伺ってみます! >>341
HVG買ったけど、高いて言ってもHVGと同程度でしょ?
その仕様が有るならHVGじゃなくそっち選んでた。 価格.comにレッドマイカJAOSの画像あっぷされたけどクソかっこ良いなこれ 欲しい >>88
オルガン式ペダルはエセ車通発見機として優秀 >>343
ハイブリッドが売れないとメーカー燃費平均が下がってCO2排出量目標を達成できなくなって国交省からお叱りを受けるんだよ 数が売れないように高値でラインナップしようとしたら今度はアメリカからダンピングだとクレームがくる 素人試乗(持ち上げない)感想だと2.0やっぱり非力で回転数上がり気味で五月蝿いって評価だな >>342
担当マンってw面白い言い方だな
みう契約してたらサービスにするのはちょっと難しいかもよ
取り付け取り外しサービスしてくれるなら契約しますっていうのがいいかもよ CMのアーバンカーキ、最初の方緑色強すぎて実車とイメージ違いすぎる >>349
試乗って基本的にコールドスタートの短距離のみだからねぇ
エンジン温まったあとはどうなのかな 試乗順番待ちが発生すれば、帰ってきたばかりで良い感じに暖まったのに乗れるかも ここのスレの人はRAV4過大評価し過ぎなw
意味でも悪い意味でもトヨタだった。
質感がどーのとか言う奴はこの車でいいと思う。
と言うよりも質感とるなら次出るハリアー行っとけ。
相変わらずのトヨタ特有のダイレクト感無いし、シートヒーター等の設備もないし見通し悪いしで快適とはとても言えなかった。
こうなるとマイチェンの問題じゃなくて次のフルモデルチェンジに期待してしまう。 >>357
俺は別にトヨタが好きって理由はないな
RAV4が他のメーカーから出ていたとしても買うよ
まあリセールの良さ、見た目で現れない質感の良さ、とかはちょっとあるが 車幅でけーアメリカナイズな車のくせして
エンジンは露骨にスケールダウンする
内装、ライトなどグレードによって明確に差別化
且つ金を出しても大満足とまではいかないような質感
客同士はグレードでマウンティングしあい
買えないやつは貧乏人と煽る
毎度ありがとうございますトヨタ自動車です あ〜どないしょC-HR売っぱらってこっちにするかな。ディーラー行ったら契約しちゃいそう。 >>205
ど田舎住だが、周りの中小零細の経営者オヤジさんらはほとんどレクサスで、流行ってるらしくレクサスマウンティングだな
クラウンは課長クラスおっさんとか公務員だな >>361
年収は750万しかありませんから支払額400万を超えるRAV4には手が出せません
貯金も年齢の2乗万円に200万ほど届いてない状態ですからそこから取り崩して足すわけにもいきませんし
とてもじゃないけど買えませんね
ええ貧乏人ですよ >>367
必要と思うのなら買って後悔ないと思うのだが 「老後破産」200万人の衝撃 「破産する人」「しない人」ここが分かれ目だった(週刊現代) | 現代ビジネス | 講談社(2/4)
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/40605?page=2 >>369
満足した豚であるより、不満足な人間であるほうがよい。
満足した馬鹿であるより、不満足なソクラテスであるほうがよい
RAV4を買って満足する豚より、買えずに不満足なソクラテスであるほうがよい。 「満足な豚より不満足なソクラテス」の由来と真意とは?@ミルとベンサムの功利主義の違い | TANTANの雑学と哲学の小部屋
https://information-station.xyz/5322.html 「満足な豚より不満足なソクラテス」または「太った豚よりも痩せたソクラテス」といった形で語られることが多いこの格言は、
正確には、
19世紀のイギリスの経済学者および社会思想家であるジョン・スチュアート・ミル(John Stuart Mill)が功利主義に質的な視点を導入するに当たって例として挙げた
「満足な豚であるより、不満足な人間である方が良い。それと同じように、
満足な愚者であるより、不満足なソクラテスである方が良い。」
という言葉に由来すると考えられることになります。 功利主義(utilitarianism、ユーティリタリアニズム)とは、
ミルと同じイギリスの経済学者であり法学者でもあったベンサムによって提起された倫理学および政治学上の学説であり、
それは、人間の行為の善悪は、その行為の結果としてもたらされる功利(utility、効用、有用性)によって決定されると考える倫理思想ということになります。
この場合の「功利」とは、すなわち、その行為がもたらす結果が行為者自身やその周りの人々にとって良い影響を及ぼすのか?それとも悪い影響を及ぼすのか?ということを示していると考えられるので、
それは、より日常的な言葉でいうならば、幸福や快楽といった言葉に極めて近い概念であると考えられることになります。 ただし、
こうした功利主義において語られている幸福や快楽については、
単に、美味しいものをお腹いっぱい食べて満足だ、とか、お金をいっぱい儲けられてうれしいといった肉体的・即物的な快楽だけではなく、
素晴らしい内容の本を読んで感動したとか、困っている人を助けて心が晴れやかになったといった精神的・知性的な効用のことも含めて「快楽」と呼ばれているので、
功利主義において求められている幸福や快楽とは、
より正確に言うならば、
肉体的快楽と精神的快楽の両者を含めた意味での幸福ということになるのです。 満足な愚者の生き方と不満足なソクラテスの生き方の質的な差異
そして、ベンサムが、功利主義において問題となる快楽と苦痛はそのすべてが量的に比較可能であり、快楽や苦痛の種類に質的な優劣はないと考えたのに対して、
ミルは、幸福や快楽の実現が人生や社会における最大の目的と考える功利主義の立場に立っても、そうした幸福と快楽には質的な差異が存在すると主張することになります。
上記の「満足な豚より不満足な人間、満足な愚者より不満足なソクラテス」という言葉に表れているように、
十分な餌を与えられ肥え太った豚が何頭合わさっても、飢えてやせ細った一人の人間の価値に満たないように、
盗んだ金でご馳走にありついたり、酒や麻薬に溺れて肉体的な快楽を味わい尽くしたりするといった目先の欲望を満たすことで満足する愚者の生き方よりも、
善美なるものについての普遍的真理を見いだせず、人々を善なる生き方へと導くことができずに悩み続けることで
いつまでも不満足であるソクラテスの生き方の方が、たとえ本人にとっては不満足な状態にあるとしてもより価値のある優れた生き方であると考えられることになります。 アメリカメインの逆輸入車のような車
日本の交通事情、税制じゃ2Lがマスト
格差社会に差別化は必要
300万クラスの車としては他社比でも良い内装
マウンティング?あるかな?
買えないでちょっかい出してくるのは貧乏人かは知らんが、心が貧しい
毎度ありがとうございます俺です そして、こうしたソクラテスと愚者の双方における生き方の違いや、肉体的快楽と精神的快楽の違いに見られるように、
ミルは、幸福や快楽には、その質において大きな違いがあると考えたということになるのです。
そして、こうしたミルにおける質的快楽主義のことを分かりやすく示すための例えとして用いられたのが、
「満足な豚であるより、不満足な人間である方が良い。満足な愚者であるより、不満足なソクラテスである方が良い。」
という言葉であると考えられることになるのですが、
こうしたミルの質的快楽主義の例示における論理展開の真ん中の部分を取り去って、頭と末尾の部分をくっつけて簡略化した言葉が、
「満足な豚より不満足なソクラテス」という形で語られることが多い格言ということになります。 そして、ミルが肉体的快楽としては不満足な状態にあるが、精神的にはより価値の高い状態にある人物の例として
わざわざソクラテスのことを挙げている以上、そこには何か理由があると考えられることになるわけですが、
次回は、それではミルは、ソクラテスにおけるどのような思想のことを念頭において、
上記のような言葉を語っていると考えられるのか?ということについて考えていきたいと思います。 >>367
今日も少し早起きできたね。でもね、お父さんのことを悪く言うのは辞めた方がいいよ。君も規則正しい生活を送って働くことを目標に頑張っていこうよ。 酒やオンナに溺れて肉体的な快楽を味わい尽くしたりするといった目先の欲望を満たすことで満足する愚者の生き方よりも、
たとえ本人にとっては不満足な状態にあるとしてもより価値のある優れた生き方である ハリアー、フォレスター、CX-5、エクストレイル、CR-V、アウトランダーで迷ってたところにRAV4が来て
総合的に見てRAV4が一番魅力的だった >>350
営業担当マン(笑) 自分の造語ですね
契約は早くて6月なのでこれからです。
かれこれ7〜8台乗り継いでますがナビ移植は初めてで大抵購入時に新調するのが常識かと思ってましたが今回のストラーダは気に入り過ぎて
… 有用な知識を得られて良かったです! ただ生きることと善く生きることの違い
ソクラテスは、『クリトン』における友人クリトンとの対話の中で、人間が生きるべきあり方について以下のように語っています。
一番大切なことはただ生きることではなく、善く生きることである(プラトン著、『クリトン』、第8節)
それでは、ここでソクラテスが言う「善く生きる」とはいかなる生き方のことを指していて、
それは「ただ生きる」ということとはどのように違うのか?ということですが、
こうしたことについては、『クリトン』の中では、さらに以下のように語られている箇所があります。 『クリトン』では、アテナイの人々の手による民衆裁判によって死刑判決を下されたのち、毒人参の杯をあおいで死を迎えるまでの時を牢獄の中で過ごしているソクラテスの姿が描かれているのですが、
そのような中、面会に訪れた友人クリトンが牢獄からの脱獄とアテナイの国外への逃亡を勧めるのを聞いていたソクラテスは、
彼を思う友人の勧めとは反対に、法によって定められた裁判の結果を受け入れることが正義に適った善く生きる生き方であることを様々な論駁の議論によって示していくことになります。
そうした論駁の中で、ソクラテスは、
クリトンの勧めに従って国外へと逃亡することになった場合、自分が落ちのびることになる土地としてアテナイの北西にあったギリシア中部の都市国家テッサリアのことを例に挙げながら、自問自答していく形で、以下のように自分自身に語りかけることになるのです。 お前は、こうした地方を立ち退いて、クリトンの友人たちを頼ってテッサリアへと行こうとでもするのだろう。…
しかし、いったいお前はテッサリアに行って何をしようというのだ?ご馳走になること以外には、あたかもテッサリアへと引っ越したのは食事にありつくためであったとでも言うように!
(プラトン著、『クリトン』、第15節) ここで、ソクラテスは、
自分が法を破るという行為を犯してまで国外へと逃亡した場合、
そのような正義を踏みにじる恥ずべき行為を犯した自分が道徳や正義について語っても、
そのことに聞く耳を待つ人はもはや誰もいなくなってしまうであろうし、
何よりも、そのようなことをしてまで生きのびても、ソクラテス自身の生き甲斐であり、生きることの最大の目的である善美なるものについての探究と、
善く生きることの追求が果たせなくなってしまうということを問題にしていると考えられることになります。 そして、そのようにしてまで生きながらえるとするならば、それはいったい何のためか?ということになりますが、
そこには、不正を犯しては食事にありつき、ただ食欲を満たし続けること以上の生きる目的はどこにもないと考えられることになります。
そして、ソクラテスは、こうした食事にありついてただ生きることのためだけに生きていくあり方は、
自分自身が目指している善く生きることによって、善く死ぬことを受け入れる生き方よりも価値がある生き方であるとは自分には到底思うことができない、
ということを語っていると考えられるのです。 以上のように、
『クリトン』の中で示されているソクラテスの人生観においては、
ただ食事にありつき、食欲を満たし続けるといったただ生きるだけの生き方は人間の生き方としては不十分であり、
人間が人間である以上、ただ生きること以上に、善美なるものについての知を探究し、自らが正義に基づいて正しく生きようとする善く生きることを求め続ける生き方がより価値のある生き方として求められていると考えられることになります。 そして、ソクラテスが自らの信念に従って、自らが善く生きるために法によって定められた死を受けいれた、
そのおよそ2000年後の時代を生きたミルも、こうしたソクラテスにおける人生についての考え方と
善く生きることの価値を念頭に置いたうえで、
冒頭の
「満足な豚であるより、不満足な人間である方が良い。満足な愚者であるより、不満足なソクラテスである方が良い。」
という言葉を残したと考えられることになるのです。 「満足な豚であるより、不満足な人間である方が良い。RAV4を買って満足する豚より、買えずに不満足なソクラテスであるほうがよい。」 「善く生きる」とは、ソクラテスが彼自身の人生のすべてをかけて求め続けてきた生き方であり、彼自身の哲学活動における最大のテーマでもあったのですが、
それでは、
ソクラテスの言う「善く生きる」とは、具体的にはどのような生き方のことを指すことになるのでしょうか? >>357
だって、たまたまネッツ店で良い感じの車出たから気になってるだけじゃん?CH-Rはコンパクト過ぎだったし…
君、贔屓の店とか無いの? プラトン著『ソクラテスの弁明』の中で、ソクラテスは、自分が今まで行ってきた哲学探究の活動がどのようなものであり、
それがいかなる意味で善なる生き方に適った行いであるのか?ということについて以下のように語っています。
私は自分の息と力の続く限り、知を愛求し、諸君に忠告し続けることをやめないであろう。…
そして、また、私は以下のようにも信じてもいる。
神に対する私のこの奉仕以上に大きな善がこの国で行われたことがいまだかつてなかったということを。
なぜならば、私が歩き回ってしていることと言えば、身体のことも金銭のことも、どのようにすれば魂をできるだけ優れたものにすることができるのかということ以上に、
あるいは同じくらいにでも気遣ってはならないということを、老いも若きも諸君のすべてに向かって説いて回ることにほかならないからである。
(プラトン著、『ソクラテスの弁明』、第17節) つまり、
ソクラテスにおいて、この世界で最も価値がある善なる行いとされることは、
経済活動を通じてお金を稼ぐことでも、運動や食生活によって体を気遣い、自らの健康と容姿を維持することでもなく、
ひとえに自分の魂をより優れた善なるものにするという魂への気遣いにほかならないということです。 >>385
車売るときナビついてても査定額変わりません言われて、サイバーナビ外して新しい車に載せたけどサービスだったよ そして、
こうした魂への気遣い、すなわち、自らの魂を善いものへと高め、さらには、周りの人々の魂をも巻き込んで、
それらを共により優れたより善いものへと高めていくための知の愛求こそが人生の最大の目的であり、
それが善く生きるという生き方の核心でもあると考えられることになるのです。 ところで、
上記のソクラテスの言葉において、金銭や身体への気遣いに比べて、魂への気遣いの方を重視してそれを優先すべきであるということが語られているからといって、
それは、もちろん、経済面や身体面への配慮をおろそかにしてもいいということを意味しているわけではありません。
身体が不調となり、健康を害して病気になってしまえば、魂を気遣うための思考活動にも支障をきたしてしまいますし、病状が悪化して重病となれば、最終的には、善く生きるための前提となる命自体が失われてしまうことになります。 そして、
経済面での困窮も、それが窮まれば、自由に知を愛求するための心理的な余裕も失われていきますし、
金銭面の不足を補うために無理を重ねれば、身体の不調も引き起こされやすくなることになります。 このように、
魂と身体と金銭の関係は、健全で幸福な人生を歩むうえでは、どれもが欠かすことができない三位一体の関係にある要素であると考えられることになるのです。
しかし、それでは、これらの三つの要素のすべてがその人の人生における意味と価値を決定づけるのに同等の重要性を持った要素なのか?
というと、必ずしもそうではなく、
例えば、いかに、身体が丈夫で有り余るほどの富に囲まれていたとしても、
その人の魂が未熟で悪しきものであるとするならば、その人生自体が無意味で無価値なものとなり、
世界にとっても、その人自身にとっても、むしろこの世に生まれてこない方がよかったという結論にさえ行き着いてしまう
と考えられることになります。 それに対して、
たとえ、健全な身体に恵まれず、十分なお金もなくて、経済的な困窮の内に短命の人生を終えるとしても、その人の魂が善きものであったとするならば、
その人の魂とそこから放たれる言葉と行為が周りの人々の魂にも働きかけ、これを癒し、世界に何らかの良い影響を必ず残していくことになるので、
その人の困窮の内に終えた短い人生がまったくの無価値で意味のないものであったということには到底なり得ないということになります。 そして、むしろ、そのような経済的困窮と病による身体的苦痛といった苦難を与えられてもなお、
自らの魂をより優れたより善いものにする探究を試み続けたその意志の強さと気高さこそが、
その人の人生が、世界にとってもその人自身にとっても大きな価値のある素晴らしいものであったことの確固たる証明となると考えられることになるのです。 それはちょうど、
ソクラテス自身の人生が、晩年は経済的にも困窮した状態にあり、最後には、無実の罪によって死刑判決を下されることになりながらも、
その判決から逃れるために自らの考えを曲げることもなく、
最期まで、自分の考えと生き方を貫き通した人生であり、
そうした知の愛求と善く生きることを探究し続ける姿勢を貫き続けたソクラテスの生き方と死に様自体が、
ソクラテス自身の魂の善さと気高さを明確に表しているのと同じ関係にあると考えられることになります。 以上のように、
ソクラテスの言う「善く生きる」ということの核心には、自らの魂を善くするための魂への気遣いと、それをもたらすための知の愛求があると考えられることになるのですが、
それでは、こうした善く生きるための魂への気遣いと知の愛求は、より具体的にはどのようにして実現されていくことになるのでしょうか? 善く生きるとは何か?A
四元徳に基づく善い生き方とソクラテスにおける知徳一致の思想
前回書いたように、ソクラテスの哲学における「善く生きる」ことの核心には、自らの魂を善くするための魂への気遣いがあると考えられるのですが、
ソクラテスにおいては、そうした魂への気遣いは、端的に言えば、徳の習得によってもたらされると考えられることになります。 ギリシア語における徳(arete、アレテー)とは、もともと、人間の持つ能力やその優れたあり方、卓越性のことを指す概念であり、
例えば、
ミケランジェロのように優れた彫像を作り上げることができる人物は、彫刻家としての徳を持った人であり、
優れた政治家のように、言論によって人々を説得する技術に秀でた人物は、政治家としての徳を持った人、または、弁論術の徳を持った人であると考えられることになります。
しかし、
ここでソクラテスが言っている徳とは、そうした人間が有する能力や技術の全般についての徳(アレテー)のことを指しているわけではなく、
人間が有するあらゆる徳のうちでも、特に、魂の善さを実現するのに関わる能力と卓越性を持った徳について語っていると考えられることになります。 そして、
そうした人間の魂の善さに関わる徳のあり方については、
のちに、ソクラテスの弟子であるプラトンにおいて、知恵と勇気と節制そして正義という四つの徳、すなわち、四元徳の形にまでまとめ上げられることになるのですが、
こうした四つの徳の相互作用によって人間の人格とその人の人生のあり方が形成されていくと捉えられることになります。 つまり、
善く生きるための魂の気遣いは、知恵・勇気・節制・正義といった人間の魂を善いものにするための徳の習得によってもたらされ、
それぞれの徳の力が十分に発揮された時に、善く生きるという人間にとっての理想の人生の実現がもたらされると考えられるということです。 そして、以上のことを踏まえると、
どうすれば善く生きることができるのか?という問いに対する一般的な解答としては、ひとまずは、四元徳のあり方に基づいて、
善悪についての十分な知恵と知識を持ったうえで、節制のある規則正しい生活を送り、それが自分の人生や社会にとって善い行いであるならば勇気をもって行動に移し、選択を迫られるあらゆる局面で不正を働かずに正義を行うことができれば、
それが人生の総体としての善い生き方につながっていくと考えられることになります。 それでは、次に、どうすれば、四元徳に適うような生き方が可能となり、人間の魂の善さに関わる徳を十分に習得することができるのか?ということですが、
そうした魂を善くする徳を身につけることは、知の愛求(philosophia、フィロソフィア)すなわち、哲学の営みによってのみもたらされるというのがこの問いに対するソクラテスの解答ということになります。 つまり、
自らの魂をより善いものへと高めていくための徳の習得は、そうした善なる徳についての知識を得ること、すなわち、善美なるもの(kalon kagathon、カロン・カガトン)についての知を得ることによってもたらされるということです。 そして、
こうした「徳とは知である」というソクラテスにおける知徳一致の思想は、
さらには、道徳の実現は、善なるものについての知によってのみもたらされるという
ソクラテスの主知主義の思想へとつながっていくことになるのです。 しかし、
善なる知からは必ず善なる徳、そして、善なる行いがもたらされるとするこうした主知主義の主張は、一見するとすぐに矛盾へと陥ってしまうようなパラドキシカルな議論を含んでいるとも考えられることになります。
例えば、もしも、
こうした主知主義の主張を通常の字義通りに解釈して、一般的な善についての知識を持っている人は、その知識に従って必ず善なる行動のみを行うとするならば、
善悪に関する道徳的な知識も含めた十分な教養を身につけた知性の面でも優れている人物は、必然的に善なる行動のみを行い、悪いことは一切しないと考えられることになりますが、
現実の世界では、そうした学歴も高く、知能も十分にある人間が悪事に手を染めるケースはあえて例を挙げるまでもないほどに、実際には数多く存在すると考えられることになります。 このように、
かえってそうした知識や知恵があるゆえに、それを利用して他人を騙したり、不正を働いたりして悪の道へと進んでしまう人間もいる以上、
知恵や知識自体は善い生き方だけではなく、悪い生き方にも同等に用いることができると考えられることになりますし、
単に知識として何が善で何が悪であるかを知っていたとしても、そのことだけですべての人が善人になるといったことは到底あり得ず、
むしろ、実際に人が悪事を行う場合においては、自分がやっていることが悪と分からずに行う悪人よりも、悪を悪と分かっていながら行う悪人の方がよっぽど多いと考えられることになります。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています