【悟り】マインドフルネス瞑想法 【霊覚】<No.2>
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マインドフルネスとは、歩行や呼吸、動作など、今行っていることに対して
意識を向けるという、簡単な手法です。
これは単なる健康法にとどまらず、悟りや、
霊性の向上にもつながります。 悟りとは言ってません
自分の観察が本当に出来ていたら絶望しない方が嘘ですよ
そこを超えてこないとありのまま評価せずのマインドフルネスの観察にはなりません
そちら側は絶望はありません
もっとシンプルに言うなら
ゴータマさんは絶望をして正に目指す瞑想をやって悟れなかったんです
それでは悟れないとわかって観察瞑想をやって悟った
今言われてるマインドフルネス、サティを入れるということは
ゴータマさんが仏陀に悟った後の話です
悟れまでは言わなくとも「あるがまま評価せず」にならないとサティは
原理的に無理です
それはやはり失敗し続けるので、いずれ絶望します
そこで、投げ出さずにしっかりと絶望的な自分を見て下さいね
そうでないとマインドフルネスになりませんから 瞑想がきちんと出来てない人ほど瞑想をきちんとしたいと思い他人の瞑想にもつい口を出してしまうという典型的な例だな 確かに観察し続けると
自分の汚さに絶句する所まで行く 自分は行った
初めは調子良くてエゴの数も少ないんだけど
いよいよ核心に迫るとエゴも焦るのか
現実世界と想念の挟み撃ちで観察させなくしてきた
正気を保つのにフルフルしながら
それでも観察を続けたらパーっと霧が晴れるように無思考の無敵状態になった
世界が全く違って見える特別な時間 全てがOK、完璧に回ってる
それが約2ヶ月くらい続いて
今また普通の日常に戻ってる
雑念で散らかった部屋を眺めてる
どうしようもないなってw
私は何が目的で観察してるのか分からないけど観察が癖になってしまった
感情的に怒ってる時もジーッと観てる
現在は体の調子が悪く絶望的な気分で過ごしてる……のをまたジーッと観てる ありがとう
自分と同じではなくて見え方が違うけど
最初の禅支が取れて一境性に入り、喜悦感、軽楽感を味わったという段階かな?と思いました
だとしたら喜悦感軽楽感は、仏教的には苦の裏表なので捨てます
248さんがということではなく一般論ですが
何かを目指す瞑想をしているとここで捨てないと思います
悟ったと思ってしまうんですね
それくらい無我的な状態で強い喜びと楽な感覚が出てくる
また、それを捨てないと進まないということも普通はハッキリわからないでしょうけれど
捨てても捨てなくてもそこからなんですね
絶望感がひしひしと観えてくるのは
じーっと観ていけばスッキリ消えるはずですが…
もし消えないのだとしたら
喜悦感、軽楽感が苦であると観て捨てられてるか確認することと
慈悲の瞑想を練習することをお勧めします ヒキ板の人って文章が本当に長いよね
ヒキ板自体をよく読んだことはないんだけど、
他板へ移住した奴の文章に共通点がある 瞑想ってただ座って目つぶってたらいいんでしょ。
それがまた難しいんだよな。 1分から3分が限界
それも毎日とかむり。 飽きる 寝る前にやるのがいい。
元気なときにやると落ち着かずそわそわして気が散りやすい。 素人だけど悟るとなんかいいことあるの?
それとも現実に希望を見いだせない人が逃避的にやるとか、超人願望が動機なのかな? 仏陀がそうだったように自分の苦や悩みを終わらせたい人がいろいろやって結果的に終わらせることができた境地が悟りでしょ
超人願望動機でやってる人はただのエゴのお遊び >>257
じゃあ人生充実してて根も能天気な俺には悟りは必要ないわけね?
んじゃ俺いつまで経っても解脱できずにグルグル輪廻しちゃうわけだ、まあいいけどw >>259
それってすでに悟りの中にいると思う。
仏教になんの縁もなく、人生を楽しく過ごせてる人は無意識に悟ってるんだろうなって思う。 >>260
それが悟りと言われてもピンと来ないけど、ゾーンのスゲーのは経験したことあるかな
意識が拡大して「我ここにあり!」って感じの圧倒的存在感、無敵感に数時間包まれたことがある
丹田がカーッと熱くなってたんで、やっぱこういう意識って丹田と関係あるんだなと思ったな
でも調べると覚醒剤打ったときと似てるみたいなんだよなw
脳内麻薬のなせる業だわ
面白かったけどあれ続くと普通の生活に支障出そうとは思った 人は絶対に死ぬ
自分もいつか絶対に死ぬ
「けど、そんなことは考えるのは嫌だから考えたくない」
というのなら悟ってない >>259
自分がケガや病気になって動けなくなっても家族や知り合いが何人死んでいなくなっても自分がもうすぐ死ぬことがわかっても能天気でいられるならそれでいいんじゃない? >>264
そういう意味では悟ってるとは言えないねー
病気で仕事できなくなったら、ジタバタするかも
でももう死ぬとなったら意外とあっさり諦めそう
輪廻転生とか信じてるし 自分が満足して楽しんで暮らしているなら
ほとんどの人は宗教なんていらんでしょう ある程度自分の望み通りになってるときは満足してたのしめてもそのまま人生ずっと望み通りに行くわけじゃないからな
最後には得たものは全部失って死ぬし 今しかないのだから、いま幸せだったらそれでいいと思う
先の事考えていつか死ぬから不幸だって考えるのって執着に完全に執着にはまってしまってる。
その執着にはまらないように修行するわけで、
執着がなく、今楽しめてる人は無意識のうちにその境地に達してるんだと思うね。
修行してるから修行してない人より、先に行ってるとか思ったらダメだと思う。
むしろうまく出来ないポンコツだから修行が必要なのだと。 でもオカ板、スピ板みてもけっこう苦悩してる奴多いみたいなんだよなあ
もう考えて解決に向かって一つ一つ手を打ってくっていう簡単なことすらできなくて思考停止したまま苦しんでるんだよね。
機能的に欠落してるんだろうか? そういう言い方もできるんだけど、誤解も生むと思うな
あなたは当然わかってる側から言ってるけど
「今が幸せなら良い」というのは大抵の人にとって「欲望に任せる」
ということとの違いがわからないのだから >>270
むしろ思考しすぎ思い描き過ぎで「ありのまま」が見えない状態だと思うな
逆に言えば、どんな障害を持っていてもマインドフルネスは可能
一切の思考や思い描きをストップすることだから マインドフルネスの目指すものはともかく過程は感情をモノとして、ツールとして扱うわけでしょ?
感情に振り回されるのは意味がない、ただの刺激に対する反射に過ぎないと理解するだけでもかなりメモリーの節約になると思うんだよなー >>265
輪廻転生したって今と全くおなじ世界のわけはない
つまり今の後悔ややり残したことは何百回輪廻転生してもやり直せない
好きなあの子も来世にそばに居るとは限らない >>257
苦や悩みから解放されたい。
唯一の方法が死ぬことだと思ってる。
それをブッダの瞑想とかで解放されるってことかなー
悟ってみたいなぁ 悟るとか悟らないとか考えず、ただ瞑想したら良いです
鼻呼吸で鼻の下、唇の上のところに当たる呼吸を感じる練習が
入りやすくて、深いところまでやれるからオススメ
それに先立ってヨガ二ドラー(youtubeに沢山ある)をやるといいですよ
以下も参考にされると良いと思います
呼吸観察瞑想(アナパナ瞑想)の詳しい説明
http://bodaijubunko.※.ne.jp/h/paauk.sayadaw.anapana.pdf
※→sakura
経典アーナパーナ・サティ・スッタの要約
http://spiwisdom.com/spibooks/meditation/larryrosenberg 今幸せだからそれでいいっていったって未来のために歯も磨くし洗濯もするし貯金もしてると思うが
それもしないくらいいまだけあればいいと思えてるなら結構だけど
死を恐れて負の感情に巻き込まれるのは問題だけど、負の感情に巻き込まれないよにマインドフルに死が間近になったとき平気でいられるよう準備をするのはちゃんとした修行だよ
仏陀だって弟子たちにわざわざわざ死体が腐る様子を見せて誰もがいつか死に腐っていくことを教えたんだから >>280
今が幸せで楽しい、不安がない
って状態、自分はやろうとしてもできないので
それが出来るのは、瞑想でサマーディに入るよりも尊いという気がしている。
今が幸せで楽しいって言ってる人に
いつか老いて死ぬ、いつまでも続かないよと水を差す
のってなんだか嫌らしい気がする。
子供に地獄の概念を教えて無駄に怖がらせるみたいな。 それで壊れる幸せなら必ず壊れるよ
親が亡くなったりしたら壊れる >>281
死の話をしてそれでいまの楽しさが消えて不安になってしまうならその程度のたのしさだったんじゃないの?
それじゃ不安がなくなっているんじゃなくて不安になることを見ないで済ましてるだけだよね
子供がおししいからといってお菓子ばかり食べていたら、そんなことじゃ病気になって死ぬよっておしえてあげるのもいいことだと思うけど 「今が幸せで楽しい」というのはたまたまそうなだけだろ?
不幸とまでは言わなくても、必ず失われるもの
それが失われたら苦痛になるんだよ、それが無常ということ
「あの頃は幸せだった」と思うようになったらますます不幸になる
何時肉親を失うかは「今」は全くわからない
自分だって何時死にそうになるかは全くわからない
それは水を差すもクソも、誰も逃れられない現実だから
現実から目をそらした「今の幸せ」というのはただの妄想ということでもある
振り返って兄弟や友達から「そうじゃなかった」なんて言われかねないね よく眠るためとか、ストレスがちょっと減れば良いなとか、クリアな頭で本が読みたいなとか、
要するに本来人間が持ってるニュートラルな状態に戻れる練習したら良い
そのために悟りとか関係なく瞑想やったら良いんだよ >>261
もともと悟ってる人は
仏教なりスピリチュアルなり好きなの選んで
心と幸せの学びの世界の法則を一度納得すると
悟りが確実感増すよ
学びには段階があって
下の人は上の世界が理解できないんだ。
同じ階層同士でしか分からない
逆に悟った人は下の世界の人間の心の在り方が理解ができるものなのだが、
もともと悟ってるひとはこの段階の存在を知らないでいる可能性が高い 過去のこと思い出してクヨクヨしてないとか
嫌いな人がいないとか
人生が生きやすかったら悟ってる可能性高いね 悟ってない人が悟りがどういうものかはわからないよねえ
悟りの定義自体もいろいろ言われてるけど
ちなみに釈迦の時代の仏教だと最低でも心も体も自分だとは思わなくなるとこから悟りと言われてるけど 虫はわかんない
目がキラキラわくわくしてる犬は悟ってるんじゃないかと思う
ちっちゃい子も悟ってる
生まれたときはみんな悟りを持ってる
アンパンマンみたいな世界に生きたいのが悟りだよ。
大人になるに向けてそれを忘れる遺伝子プログラムみたい。
悟りとはそれを思い出すことだよ >>293
悟りにも段階があるとしたら
それはかなり涅槃の境地の人なんだろうね うん、テーラワーダでは今でもそう
その最初の悟りを得てもブッダと同じ悟りの阿羅漢を目指す
大乗だと誰でも仏性があるとされてて誰でも菩薩(悟りに向かってる人)
「悟り」というと無分別ということになるのかな…
悟り、阿羅漢を目指す修行よりも菩薩として衆生を救うことが重んじられる ウサさんが悟りと言ってるのがどういうことなのかまだちょっとわかりませんが
多分天然で正しいことも言っているみたいなのでそれほど疑ってるわけではありません
テーラワーダの最初の悟りを預流果というのだけれど
その悟りになるとは「三結」が断たれること
まず、>>293に書かれてることが一つ
あとふたつは仏法を疑ってかかること、誤った教えに執着してしまうこと
が断たれるとされます
そんなことをちょっと頭の片隅に「自分もそうなってるかな?」と置いておいて
みてはどうかなと思いました ごめんなさい
実は仏教はほとんど分かってません
だから悟りって言葉を使うのはおかしいかもしれません
「気づき」って、言っておきます
気づいた人の情報が少ないので
今の立ち位置をちょっと知りたくて来たのです
ここで勉強させてもらいますね >>301
仏教を知らないながらも
多分同じ状態になってます
感覚的には「人生幸せ学び小学校」を卒業し
中学生になった感じです。高校生かもしれません。
まだ上の方はもちろんいるのでしょう
相手が悟ってる(気づいてる)かどうかは
ある程度その人の話を聞けばわかります。
不満を言ってるかどうかがポイントですね。
仏法を知らないながらも
世間で言われる仏教メソッドはそのとおりだと思っています。
実はスピリチュアルも馬鹿にしてたんですが、似たようなこと言ってるとしか思えません。
誤った教えから離れてるかは証明できないんですが
幸せになるためのストーリー(例えばアンパンマン)から反してるものには
不快感を覚えます。
反してるストーリーが嫌いじゃなくて
胃や胸がとてつもなく気持ち悪いんです。
反してるとは、スピリチュアル言うところの「負の波動」のようなものです。
まだ初心者だからでしょうか?
どうしたらいいか知ってる方は教えてください。 ちょっと頭の片隅に、といったのはそれは不退転の悟りだからです
そうなれば初期仏教の教え的には燐廻転生で悪趣に落ちず、
数回生まれ変わるうちに阿羅漢に悟り涅槃に至るとされます
その説明が具体的に言葉のまんまを意味するのかどうかはともかく
悟りでない状態に戻ることはないということになっています
実際は、世間的な基準での幸福ということに振り回されず
苦が生じたならばそれを滅しながら生きていくことが出来る
という感じでしょうか
問いを持つということは、確かめながら生きていくということになります
正しい教えをむやみに疑わずにそのような態度で確かめていく
誤った教えに対しても同じ様に確かめていくなら自然に離れていきます >>304
どうもありがとう。
では、まだまだこの自問自答の人生は続くのですね。 ところで虫の悟りなんだけど
過去や未来のことで悩んでなさそうだから
悟ってそう 負を気持ち悪くなるのはそういう分別、善と悪を分けている自分を作っているから
自分があると思い、その自分にとって良かったり自分を肯定してくれるものは善、その自分に対立したり傷つけるものは悪とみなしてしまう
結局のところ自分という個を守ろうとその好き嫌いから生じる身勝手な判断にすぎない
そもそも負なんていうものはこの世にはない
自分が何かをそのように見て判断しているだけ
悟りとは子供に戻ることじゃなくて生まれる前に戻ることという例えはだからある
純粋な子供はただ心が純粋なだけ
悟りはその心すら自分ではないとわかること 悟りというのは迷いがあってこそのものだから、その迷いがない虫は悟れない
しかし、我々が目指すのは悟りと迷いの相対を超えた境地だから、その境地に虫は既に達しているとも言える >>307
前半はエゴの事でしょうか?
エゴはだいたい分かるんです。
今はほとんどしゃしゃり出ることはありません。
しゃしゃり出ることがあると、
子供に話すように自分に語りかけるようにしています。
負のニュースを見て気持ちが悪くなったときは、
またエゴの出現かと自らに問いかけたのですが
なんか違うんですね。
説明が難しいです。
それと、負と説明しましたが、それを好きとか嫌いとか、単純な善悪、そういう個人的なジャッジではないんです。
アンパンマンの世界とは全く違う雰囲気。
胃から胸にかけて気持ち悪い、風邪でも引いたかと錯覚する感覚です。
そしてまた感覚の話で申し訳ないのですが
エゴって悪いものだと少し前までおもってたのですが、
実はその人のことを守ってるんですよね。
胃から胸まで気持ち悪くなったときは、
拠り所にするものがない、そんな感じです。 >>309
エゴは何も守らない
エゴが守るのはエゴ自身
ただそれは悪いものではにし良いも悪いもない
そもそもエゴはただ生じ消えるもので自分とは実は全く関係ない
自分と関係あるとみなすエゴがあるだけ
拠り所がなくなることへの恐怖じゃないの?
何らかの拠り所を持ってそれに依存して自分を保っているから拠り所ないと気持ち悪くなるんでしょう
そもそも感覚が自分かどうかしっかり調べたほうがいいかと
感覚は関係性の中に生じ消えるものでただそれだけ
好き嫌いやジャッジがないと言っても自分の立ち位置を作りそこからの判断や感覚を生じさせているのでは
拠り所がなくて平気なら立ち位置もいらないしどこに何が生じ消えても平気かと 拠り所というのは、普段ないんですよ。
ないので依存もしていません。
とりあえず、気持ち悪さが過ぎ去れば
今は問題ないですね(笑)
気付きから約一ヶ月なのですが、
気持ち悪さが2度ほどあったので
どうしたら良いのかな?と思ったのです。
今不安になってるわけではないのです。 私はエゴは護ってくれてると思ってますよ。
車の運転をするときに感じることがあります
「ちっ、赤信号!」みたいなね(笑)
最近はこういう下品な感覚がないので、
自分でも可笑しくなってしまいます。
私は緊張しやすいので、こういうちょっと強気で下品な自分を演出し
運転中(ずっとじゃないんですが)ときおり顔を出してくれてる気がします。
運転中のエゴは消さないようにしてます
エゴと言っても危険運転の肯定はしませんよ。 それから、よく意識についてのサイトを見ると
「エゴによって自分だと思わされている意識」とあるのですが、
気付きを得る前から、エゴの見せる自分は、どこかで、本当の自分では無いという感覚を持っていました。でも気持ちを度々持っていかれていると。 >>310
ところであなたは悟っておられるのですか? 悟ってるかどうかは時分で名乗るもの手間はありません
体験もあまり詳細に語るものではありません
どうしてもそこにエゴは生じてきてさまいますから
その人の言ってることは言葉通りで正ししいと思いますよ
あと、悟りました、と思ってもあまり言わないほうが良いです
本当に悟りであっても嫉妬する人が出てきますし
間違っていたら、読んで思い描く人が出てきますから
文字のみのコミュニケーションは難しいですね >>313
人には考えや思いというものがありますね
それが自分だと思いこむことがエゴなのです
多分わかると思いますが
一旦そこから離れたなら、そうではない自分、言葉には出来ない自分から
「思いの自分」を観ることが出来ます >>314
他人が悟っているかどうか聞いてどうするのですか?
どのような返事が返って来てもそれはただの言葉ですよ
あなたに拠り所がなにもなければそのようなことはどうでもよくなると思います >>315
そうですね。
リアル世界では言わないつもりですよ。
幸せに向かう行いが大事で
悟ったかどうかなんて本当は関係ないからです。
ここ、ネットではごめんなさいね。
悟った人の話を聞きたかったのです。
でもスレ読み直したらだいたい分かります。
悟った人は思いだしていますからね、
人は皆、愛とか勇気とか幸福をもって生まれたことをね。
そういうのが俄然、大好きだったことを思い出すんです。
その価値観が言葉に含まれてるかどうかが、
気づいてるかどうかの違いだと思っています。
みなさんがこれからも幸せでありますように☆ >>317
うん、聞いてみただけですよ
ありがとうね。 マインドフルネスのスレなのでマインドフルネスに沿って言えば心でも身体でもない自分は観る者であり、
ただ生じ消える対象を観るだけ
観る者には場所も時間もなく生れること消えることや一切の事象と関係なく、なぜかというとそれは言葉通り観る側であって観られる対象にはならないから
自分とは対象にならないものであり、それが気づきと呼ばれるもの
対象にならないゆえにどであるとも言い表すことはできず、自由でも不自由でも何でもなく、そういう意味で自由
便宜上自分という言葉を使うけど自分でも何でもない
最終的にはそれがわかるように観る者としての訓練をするのがマインドフルネス
心と身体に生じ消えるものをただ観ていくとそれらを自分の一部だとみなさなくなっていく
ただマインドフルネスの訓練中の観る者はそれもまた変化の中の観る者になってしまっていて、本当の観る者(気づき)とは対象と観る者その両方にただ気づいているものだけど 気持ち悪さの件は自己解決しました。
幸せである、幸せに向かいたいという
私の本当の願いから反するものに
真が拒否反応を起こしたのだと分かりました。
負とか拒否はその瞬間の真の感情はありますよ。
強い幸福感もですね。
まあ、空腹感もある程度の肉体的痛みもそうですね。
そうでなければ生きてないということになりますからね。
ただ過ぎさればいつもニュートラルです。
私の場合瞑想で獲得したわけではないですが。
ありがとうございました。 誤った考え方に触れて好き嫌いするということは特にありません
そういうことも自分が知らないだけで、実際にあるのかなと思っておきます
けれど、実際にその問いを生きることで本当ではないことがわかってくれば
自然と離れていきます
避けるわけではなくとも遠ざかっていきます
そうして誤った考え方に執着することはしなくなります
善悪、好き嫌いなどに分けて反応してるということですと
分別が取れてない、弱まっていないということになります
それは、普通は誰でも持っている心の働きなので悪いと言うつもりはありませんが
「悟った」としてそれが強く残っていると「(私は悟ってるからわかるけど)それは悪」
という本末転倒にもなりかねません
ちょっと我執が弱まってきた時にはとても世界が変わったように感じるものですが
しばらくしたらそれ(分別の心)に苦しむことになります
これは頭で分別を外そうとしても不可能です 思いの自分ともう一人の自分、それは観察者、真の自分と言っても変わりないでしょう
ともかく人間にはその二つの意識があります
もう一人の自分から思いの自分を観るのが観察です
観察なしにネガティブな思いの手放しということは出来ません
手放しが起きたとするならどこかで観察の要素が入ったと言えるでしょう
何かに反応して苦しみを生み出すのは思いの自分です
そこで、何に不快感を持ったのか考えることは思いの自分の働きです
もう一人の自分には判断したり分別したりという働きはありません
そちらの自分の意識でなければ、嫌いだった人の幸せを願うことは出来ないし
自分自身の幸せすら本当には願えません
ここを混同してしまうとエゴは戻ってきてしまいます
もう一人の自分の視点から思いの自分を観ることで分別なくありのままの自分の心が観えます
瞑想を始めてもすぐにはそこにはいきません
シンプルですが簡単でもありません
色んなものが邪魔するからです
実際は悟った人も苦を滅し続けて歩んでいくんです
不退転の預流果と言えど、煩悩や慢は残ってます
マインドフルネスとはそのための手段(の一つ)です
その滅し続ける道に疑いがないことが不退転です
滅し続ける以外に生き方はないと知っており、悪趣に堕ちません
不退転に悟ったから自分が思ってることは全部正しいとか
そんな事ではありません
そんなのは究極の悟り、阿羅漢果に悟った人だけで、彼らには慢心はありません > もう一人の自分には判断したり分別したりという働きはありません
失礼、もう一人の自分に判断がないかというと微妙ですね
智慧がありますから
分別、執着、あるいは思考、思い、悩みのたぐいはないです >>324 これも訂正
預流果にも煩悩は残っているとされます
不退転とされます
阿羅漢に慢心はないとされます
などなど、通説については伝聞です
時間潰しに書いてたのでちょっと言葉が雑でした
失礼しました >>323
うーん、ごめんなさい
私の言葉の使い方がかなりおかしい事をお断りします
一般的な善悪ではなく
「マインドの統合?統一?から反する」という意味での負、悪とでもいいましょうか?
単純に私には合わないもの、ということです。
いずれにせよ私の身体が反応するので
私の身体が弱い部分が反応したのだと思います。
どうしたって身体の苦しみは嫌じゃないですか。
ただ、これを恐れてはいけないと判断しました。 私は、苦の滅にフォーカスを当てるのではなく
ニコニコ幸せに生きることでマインドの統一にフォーカスを当てる道を選びたいと思います
そういう意味で今のところは仏教は合っていません
英語の数ある参考書の一つと捉えています。
しかし、いずれまた仏教に戻ってくるかもしれません。
マインドフルネス瞑想とは
未だ悟ってないものが悟るためというより
悟りの入り口に入った人のためのものかもしれないですね。
私が預流果かどうかはわかりませんが
そもそも気づくつもりじゃなかったのに、気づきを得たのです。
ここに入るのにマインドフルネス瞑想は必要ない思っています。
どちらかといえば慈悲の瞑想ではないですか?
気づきに必要なのは、エゴを無視することではなく、
エゴを乗り越えて愛を指し出す己の葛藤が必要だと確信しています。 マインドフルネスは入る為ではなく、苦を滅し続ける手段だね ブッダは四聖諦についてしか説いていないと言います
四聖諦とは一切皆苦を知り、その原因を知り、それが滅することを知り、
苦を滅し続ける道があることを知り行じていく、ということです
マインドフルネスは苦を滅し続ける道を構成するもの、それが本来の意味合いです
ですから、もし悟ったなら尚の事、生涯続けていくのがマインドフルネスです
それで、、ニコニコ幸せに生きることというのもマインドフルネスですからねw
マインドが統一されるようにというのも、そこに自己の心をみつめる事が入っているなら
やはりマインドフルネスです
ティク・ナット・ハンというベトナムのお坊さんも微笑みの重要性を問いてます
慈悲の瞑想的に、積極的に自分も(苦手な)他人も幸せを願うということが出来るのであれば
それは大変に結構なことだと思います
微笑みを絶やさず生きることにフルに活用なさると良いと思います スルーしてた
こういうのはその場できちんと観察したほうが良いですよ〜
多分、観察できると思うんですよねウサさんは
自問自答ではなく、ただあるがままそれがあることに注意を向けて下さい
>>309
> そしてまた感覚の話で申し訳ないのですが
> エゴって悪いものだと少し前までおもってたのですが、
> 実はその人のことを守ってるんですよね。
> 胃から胸まで気持ち悪くなったときは、
> 拠り所にするものがない、そんな感じです。
エゴの働きというのは、思いや考えを自分と思うことがまず第一
エゴは「自分の考え」を守ってくれるので、すなわちエゴを強化します
「思い」「考え」とは何でしょう、幸せだったらそれが過剰になることはありません
でもエゴはそれらが自分であることを望みます
つまり結局はエゴは不幸になることを願います
マインドの統一とは逆です、矛盾してきますよ
この働きが本当の自分ではないと、何時でも手放せることがマインドフルネスでもあります
マインドを統一させようとすることではなく、既に統一された心があります
それがもう一人の自分とか観察者などと言われている自分です
それは、誰でも持っているものです 有身見断たれてないし預流果はないよ。
話を読んでると瞑想に入ったばかりのことを思い出すんだけど、
しばらくの間は色んな強い反応が起きてくるだろう。
それに対してしっかりサティ入れていかないといけないね。
そうしないとまた心は雲に覆われてくるよ。 これって瞑想とは違うの?
瞑想の深さなのか、結局生きることを楽しめなのかだったら後者になるのかな >>334
おっけー、さんきゅー!
やっぱくっそ単純なんだな、それが難しいって言う人もいるのかもしれんけど いや、まず普通は一切皆苦がわからない
苦がなんだかわからない
それなりに暮らせちゃってる人はあえてそれを見ようとはしないから >>330
気づいたと気づいたころは
まだ直近の記憶で苦手な人の思い出があり、
慈悲の瞑想を何度かやったら
抵抗なくできるようになりました。
続けてみます。 >>331
ありがとう。
マインドフルネス瞑想では
特に持っていかれるものはない状態です。
サラサラと意識が流れるだけです。
日常でエゴを自覚したら観察してみますね。 >>332
預流果未然での気づきはありますでしょうか?
とにかく気がついたときは過去の悩みにほぼアクセスできなくなり
とにかく悩みがないんです。
それから過去のいろいろな出来事もこの気付きのためにあったと
良い方の意味づけにどんどん繋げている最中です。
それから最近自分のことはどうでも良くなり
目の前で会う人が自分のことのように感じます。
私としては気づきの名称に拘るのは本意ではないので
(オカルトではない)スピリチュアルでしばらくは真理を学ぼうかなと思ってます。 あと質問ですが
マインドフルネス瞑想で
なにも思いつかない状態なのですが
何をしたら良いんでしょうか?
呼吸に集中するだけでいいですか?
飽きるので長くできません。 >>341
マインドフルネスの境界が曖昧なのでそのあたり適当だけど、、そもそも意識は何処にあるの?コントロールくらいは出来る? 飽きたら飽きたって思い、長く出来ないなら長く出来ないっていう状態を観察するのがマインドフルネスでしょ
何をしてようと何もしてなかろうと観察の対象はあるでしょ
失神してない限り認識は自動的に働いてるんだから ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています