年長者・エルダースピリット
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小さき人の子よ。
この世界を実践しているのは誰か? 天台宗は、唐に留学した最澄が日本に持ち帰った仏教です。
次第に発展していったわけですが、組織が大きくなるとともに、延暦寺は権威となり権力を持ち腐敗し、本来の教えから乖離していったと言われています。
出家した知的エリートのみが仏教を学び、エリートのみが解脱できる。
または多くお布施をした貴族だの、裕福な商人だのが輝かしい来世を約束される。
一般の民が置き去りにされた教え。輪廻に苦しむ民を救ってこその仏教なのではないか? 宗教家が権力や権威に固執すると、必ずおかしくなる。
本質からずれてくる。
そして歴史は繰り返すと言いますか・・・
スケールは全然違いますが、スピリチュアルの世界でも同じことをしていますよね。 日常とはあまりにかけ離れた抽象的な理屈ばかりならべる。
そして高額な金を出してワークだの、セッションだの、セミナーだの、あれやこれやとやってはいるけど、
これまた日常とは何も関係ない。日常に活用できない。
屁理屈や内輪のスピリチュアル用語、宗教用語にくわしくなるだけで、境地はまるで定まっていない。 ここでルターの言葉を少々拝借。
「人は宗教的権威にすがることよって罪がつぐなえるのではなく、
日常の善行によって、その罪はつぐなえる」 生憎ですが、真理は不都合なものですよ。
誰もがそれを受け取れるわけではありません。
禍福は糾える縄の如し。
二元性世界の成り立ちの故に、苦しみと快楽は
必然的に全体として等価になる。
常人にはこのことが理解できません。
それは例えば、猫を相手に税金について
教えることができないようなものなのです。 求める者だけが見出します。
そして自分の命さえ憎んだことのある者だけが、
理解します。
低きに流され、引き裂かれる故に、
それを許すときは大きな許しであり、
大きな器なのです。
誰もが真理を得るようにはできていません。 また、宗教的な権威や
それにまつわるビジネスをする人々がいること。
これも善悪ではなく、必然としてそうであることです。
世俗的な利益の眼鏡を通して少しずつ学んでいく、
そういう道の上を歩くように定められた人々も
いるからです。
彼らは何れにせよ、真理そのものを開示されても
それを受け入れることはありません。
が、お金や快楽の増大という方向に向かって
活動する中で、彼らに相応しいペースで
魂を成長させていくのです。 真理とは、この世界の不変の法則です。
その法則に則り、全ての物事のバランスは
完全に保たれています。
そうした神の、真の見えざる手によって
全ては生み出されているのです。
何事かの意味があり、何事かの理由があり、
必要でなかったものが存在したことはありません。
世界には人間だけ居れば良いわけではないように、
雪虫のように儚い命にも何かしらの宿命があり、
そこに優劣を設けるのは悪い思い過ごしというものです。
ですので、麻薬ビジネスも、賭博も、
人身売買のようなことについても、
全ては必要な時に必要なだけ生まれています。
私たちはこれについて深く観想しなければなりません。 真理を理解するという宿命もあります。
しかしそれも、別に何か特別良いことなのではありません。
ただ神が、今一時必要としたのです。
そういう人々を。
ある種のカエルでは、個体数が増えすぎると
共食いに適した大型個体が突然生まれてくるそうです。
不思議なものですね。
仲間外れの変なカエルは、恐ろしい異常な化け物です。
ですが、それもまた神の手になることであれば
嫌われ者も等しく望まれてはいるのです。 精神の領域においては、治療と教育の境目はいつもはっきりしない。
今はまだ全人類が未熟な段階なのだと言うこともできるし、或いはまた
全人類が三毒の病の中で、苦しみ呻いているのだと言うこともできる。 クラスを置いておくかどうか。
あれは誰かの役に立つのだろうか。
修養者というよりヒーラーとかその類の
人なら、何かのヒントにはできるのかもしれないが。
具体的な修行方法に関心のある人は案外少ない。
人は、今現時点の自分を誰かに認めてほしいものなのだ。 コンテンツをオーダーメイドで提供するというのは良い視点だ。
ロングテールが益々長大になっていくのだとしたら、
中央集権的に作られた模範的コンテンツは、未来の人々にとって
粗組に過ぎないものになっていくのかもしれない。
そして人は、作品に宿らせた自らの意図が、作品の中で
半ば意図的に半ば自動的に、成長し変容していく様を楽しむのだろう。 報いというものはあるよ。
人を裁いた人は、その罪によって裁かれる。
虐げた者は、いずれ虐げられる側になる。
私はかつて、ある国の王が始めた戦争で、
その国の王子が命を落とすのを見た。
王は世継ぎを失い、王権は親類の手に移った。
人は弱く愚かだ。しかしそれは、仕方の無い現実だ。
結局皆誰もが定められた弱さの奴隷なのであれば、
虐げる者も、虐げられる者も、そのどちらも救うのが
宗教者の役割なのだろう。 昨日も一昨年も同じで
今日もまた昨日と同じなんて
そんなの楽しくない。
成長するためには
せめて変化がなければ。
良い映画と悪い映画、どっちを見たい?
人類を、より良い存在へ、変えよう。
だって
今日もまた昨日と同じなんて
苦しいじゃないか。 地球の人類を全部悟らせるゲームなんて、
実に面白いじゃないか。
一体どういうことが起きるんだろうな。 巧言令色鮮(すく)なし仁
口先だけうまく、顔つきだけよくする者には、真の仁者はいない。
「巧言」は「言を巧(たく)みにす」とも読み、口先・言葉を飾っておべんちゃらを言うこと。 子曰、巧言令色、鮮矣仁。
先生はおっしゃいました。「人に気に入られるように、口先でうまいことだけ言って中身が伴わない人間には、思いやりの心がないものだ」と。 先生が言われた。
「馬を見れば大きすぎると言い、
猫を見れば小さすぎると言う。
こういう者には人を任せることはできない」 やってみな、一生懸命。
それを止めやしないよ。
自分で気付くことに重大な意味がある。
そんな努力は不要で間違っていたってことに、
自分で気付かなくてはね。
良いんだ、それで。この先もいつだって、
赤の他人の好き勝手な意見に出会うだろう。
だとしても、その道を疑うなよ。
何処かには続いているさ。
ちゃんと意味は生まれるさ。 具体的な技術。
私の持っているレパートリーの中で最も短期間高効率な修養方法。
リバースアナリシス、反面分析について。
1 自分自身が「絶対に許せない」ような対象を一つ想起する。
2 その対象の「良い面」を思いつく限り列挙する。
3 2の作業を、対象が「あっても良い」と思えるまで繰り返す。
慣れてきたら、対象を「絶対に許せない」ものから
「絶対に必要」なものに切り替えて同様に行う。
この場合は「別に無くても良い」と思えるまで。
人間の精神というのは案外簡単に拡大できるものだ。
それに現代人は、兎角簡便ですぐ効果のあるものを好むから
こういうやり方は時代に合っていると言えるだろう。 逆分析で何が起こるか?
普通に頭が良くなる。
無知に二つあって、「知らない」というのは
大した問題ではない。しかし「見えない」というのが
私たちの人生を悪くする大きな足枷だ。
事実を受け入れられない心。
触れているのに学べない制約。
それが認知の歪み。
それが知能の限界。
この限界を取り去る。 ウツルヒの破壊の風、成長の雨、創造の炎。
吹き荒れろ、湧き返れ、躍り狂え。
まだ見ぬ真善美の高みへ
私を連れて行ってくれ。 社会の大きな流れは良くなっている。
が局所的には、膿の濃縮が進んでいる。
無責任と自己保身、トカゲのしっぽ切りと善良さへの憎しみ。
平均化されたフラットな地獄。
罪と罰。虐げてきた者の悪夢。虐げられてきた者の救い。
誰も因果から逃れられない。 罪の能力。責任感。
それが人をより優れた存在に成長させる。
無邪気な人々よ、自分の罪から目を背けるな。
差が付いてしまう。置いて行かれてしまう。
追い詰められてしまう。いずれ止められなくなる。
君が生きて、年齢を重ねたその先にあるものが
周囲からの呆れた視線と君自身の耐え難い劣等感なのだとしたら
私は悲しい。 具体的な修養方法。
呼吸について。
吸った空気を足下側へ押し付けて、下腹を膨らませる。
次に下腹部を凹ませながら、それを吐き出す。
すると随意的な筋肉で呼吸をサポートする形になる。
精神が動揺すると、人間は胸で浅い呼吸をするようになる。
酸素の供給量が減り、重心が高くなって、身体が落ち着かなくなる。
その逆。重心を足下側へ降ろしておく。
一日数回意識して、下腹部で呼吸すると良い。
すぐにクセが付くだろう。 演技をすることが増えた。
多分、簡単なやり方を覚えて、それに甘んじているのだ。
人は年を取ると、狡くなるものだろうか。
いいや、きっとそれも、自分自身に対する言い訳だ。 日本人は経済的に豊かな時間が長かったから、
お金への執着が強い。
お金があることは悪いことではないが、
問題は、お金が無いと何もできないと
思い込む人間が増えてしまうことだ。
命を与えられているのに、その使い方が
わからない。これは空しいことだ。
真の価値創造は破壊を伴う。
雲が晴れ霧がかき消えるように、
それは世界を変えてしまう。
金銭財産のような蓄積的な要素は、
その足枷にもなる。
自分で作ったのではない価値の上に
たまたま預かっている人であれば尚更、
進化と成長を嫌がるのは当然と言うものだ。 ごん、お前だったのか、
出来たばかりの頃ののスピリチュアル板を
無関係なセリフで荒らし回っていたのは。 神は人間を救うかどうか。
神は、人間を救いはしない。
ただ彼は、私たち一人一人を望む。
私たち一人一人が生きることを。
しかし
存在させようとすると、苦楽が共に生じる。
幸福がある一方で、人間の底無しの汚濁があり、
虐げられる者もまた生まれてくる。
神は何を思うか。
神は人と共に些細な喜びを噛み締め、
人と共に、その苦しみと絶望の、血の涙を流す。
彼は世界のあらゆる苦しみを味わう。
それでも尚、世界を望んで言う。
私たちに、「生きよ」と。 ELI、私は彼を、彼女を悲しませたくないだけなんだよ。 ビジネス宗教を批判する気持ちはわかるけど
でも、お金を払う決まりがなかったとしたら、
誰に相談すべきか、誰がちゃんと問題を
解決してくれるか、どうやって判断するの?
お金でしか価値がわからないだろう?
私たち自身がそうさ。
しかしだからこそ、利用もされるんだ。
中身の無い水や札で高額な対価を要求されたところで
結局はわからない。いや、むしろ満足するさ。
ちゃんとお金を使って買ったわけだからね。
皮肉だと思うかい?
縁だよ、縁。全ては決まっているんだ。 売り買いの概念に洗脳された、人間の無様な
浅ましい心を相応しい商品で満足させてやる。
根本的に宗教とは関係ないことだけれど、
これもまた悪いことではないな。
或いはその、クソみたいな商品売買の流れの中に、
どれだけ本物の価値をねじ込んでしまうか。
無理やり、且つこっそりと。
それが当世風の宗教家なのかもしれないね。 私たち日本人は、一体、スマホのゲームに年間
幾ら投入してるんだ?
世界にはご飯すら食べてない貧しい人が、
たくさんいるのにな。
戦争もそうだ。今日もやってる。
でも私たちにとっては、中東で見知らぬ子供が
ズタボロに引き裂かれることより、
今日の晩御飯が何かってことの方が、重大問題だろう。
だが、そういうものだよ。
人間はそういう生き物として生まれてきたんだ。
世界は案外、当然のように未完成だよ。 パリのあるダンス教室で、人気の講師が言ったそうだ。
「私は元々アメリカ人。アメリカで同じ教室を
開いても鳴かず飛ばず。けれどここパリに移って
状況は変わった。
というのも、私が"パリの"ダンス講師になったからだ。
今では世界中から、特にアメリカの金持ちが
わざわざここへ習いに来る。」 生まれてきたなら、悟りを人生の、
ひとつの目標にすると良い。
折角意識を持ってこの宇宙の存在を
認知しているのだから。 私は男性には仏教を、女性にはキリスト教を勧める。
女というのは、自分の精神の根底から沸き起こってくる
罪と悪に苛まれ絡め取られ、その毒に溺れて
身動きできなくなっているものだからだ。
それは先ず、許されなくてはならない。
智慧の教義である仏教にはその視点がないから、
女性を悟りに至らせるやり方は
大変遠回りになってしまう。
こういうわけで、女性には、罪と許しに関する
キリスト教の教義があっているのだ。 例外を言うとすれば、仏教の中でも唯一浄土真宗の
教義だけは、女性を導く適性がある。 頭と心の悟り。
聖書でいう水と霊による洗礼ですね。 そう、片方だけでは、足りないのです。
人間は皆心の中に男性と女性を持っています。
このどちらも大切にしなくてはなりません。 もしも死んでしまう日には
言いたいことは何も言えなくなってしまう。
だから死んだ後のことだって
どっかには書いておかなきゃいけない。
遺書なんて大層なものは、俺たちには必要ない。
名刺用の用紙に、適当に印刷して。
不安ならラミネートするとか
耐水の紙を使うとか、その程度。
それで財布にでも入れておけば、十分だろう。
先生が言っていた。
「どんな赤ん坊だって、
もう死ぬのに十分なくらい
生きてはいるのさ」 https://youtu.be/TkLT5krv_6c
「あなたへ辿り着く為なら、
何度でも生まれ変わってみせる」と
それは誓った。 ノンデュアリティスレから来ました。
色々教えてください。 >>271
ようこそ。あなたを待っていたわ。
では先ず現状をチェックしましょう。
二つ質問します。
一つ、賑やかな都会か、自然豊かな田舎か。
あなたが住んでる場所は、どちらかと言えばどっち?
二つ、もしもあなたが絵描きだったとして、
自己評価では50点だけれど、100人いる内の100人から賞賛してもらえた絵。
自己評価では100点なのに、100人中の誰一人理解さえしてくれなかった絵。
あなたにとってより大切だと思う絵はどっち? 賑やかな都会ではないので、どちらかというと自然豊かな田舎ですかね。
まあ普通の住宅街です。
2番目の質問は難しいですね。
人から賞賛された絵は自信もてるし、自己評価100点の絵もお気に入りになるだろうし。
でもまあより大切だと思うのは後者の自己評価100点のほうですかね。
昔ものづくりの仕事してたとき思い出してみれば、こんなもんでもokもらえて褒められるより、
自分で納得できたもの作れたほうが達成感あったし。 なるほど、わかりました。では始めましょうか。
確かあなたは、具体的な修養方法を知りたがっていましたね。
教えなければならないことはいくつかあるでしょうから、
少しずつ教えていきます。
先ず、一つ目ですが。
睡眠時間はちゃんと取れていますか?7時間か7時間半。
それを下回るようなら生活リズムの改善をおすすめします。
こんな時間まで起きているのは、あまり良くないですよ。
睡眠不足で意識レベルの低下した身体では、難しいのです。
1万円でアメリカに行くのと、10万円でアメリカに
行くというのでは話が違うでしょう。
さあ、では今日のところは。お休みなさい。
そうそう、今後何か質問があれば、随時聞いて下さい。
時間のある時に答えておきますからね。
それじゃあ、また明日にでも。 睡眠時間はちゃんと取れています。安心してください。
そうです、具体的な修養方法が知りたいんです。
瞑想で覚醒にいたれるのか?マハルシの私はだれかと問い続けるのがいいのか?
それ以外の方法があるのか?知りたいです。
ごんさんはどのような方法で行なっていますか?
瞑想はしてますか?
それではまた明日もよろしくお願いします。 >>275
ジッドゥ・クリシュナムルティはこう述べました。
「真理とは道なき土地である」
真理に辿り着く道は無い、ということです。
これは全くその通りですよ。
ラマナ・マハルシは修養についてこんな風に述べています。
「夢の中の病を終わらせる為には、
夢の中の薬を使わなくてはならない」
このことと、クリシュナムルティの言っていることの
繋がりがわかるでしょうか?
加えて、私の見解はこうです。
「真理の姿は、複雑に入り組んだ虚妄の
コンプレックス(複合体)を通して現れる」
何か一つの方法で、私たちが真理に辿り着くことは
ありません。線的な努力が崩壊する時に夢は晴れ、
悟りは現れるからです。
その為には沢山の相容れないものを通して
私たちの心に圧力が生じていなくてはなりません。 修養方法は沢山ありますが、重要なのは
自分に必要な修養を行うということです。
「私とは誰か」を問い続ける真我探求も、
その内のたった一つですし、誰にとってもこれが
最善というわけではありません。
瞑想もまたそうです。
それが完全な答えであるということはありませんが
ある一つのやり方としては成立しています。
真理は不変です。
であれば問題はいつも、私たち自身が、
どんな雑念の中に捕らわれ溺れているのか、
ということでは無いでしょうか? では、少し具体的なことを教えましょう。
ちょうどこのスレッドに、
>>245-246
>>250
の二つの修養方法が書いてあります。
あなたには逆分析の方が向いていそうですが
折角なので両方覚えてください。
やり方に疑問などあれば、随時答えます。 キリスト教神学では、神の局面は真・善・美の三つに分かれている。
科学、学問、合理性の追求、これが真。善は宗教、教育、倫理、福祉。美は芸術。
これが神の三つの局面。
だからどこかが偏ってもダメ。真が本物になるには善と美があって本物で、善も真と美があって本物。美、芸術も善なる部分と合理的な部分があって初めて本当の芸術。
スピリチュアルというのは、精神だけが神だと思っている。 宗教だけが神じゃないんですよ。モーツァルトのほうが、よっぽど神なる天上界のものを受けているし、アインシュタインのほうが宇宙の音楽を聴いたと。
科学を究めた人、芸術を究めた人のほうがよっぽど神に近いですよ。
また物質、経済というのも神の局面です。物質を作ったのも神ですから。 上の方でごんさんは悟ったと言ってるようだけどどこまで悟ったの?
大悟徹底されましたか?
過去生が見えたり寝ている間も意識があったりしますか? >>270
真理に道はないんですね。それはたぶん誰も真理というものがわからないから、
そのため道もわからず探求のしようがないんだと思います。
でもノンデュアリティの場合は、結果がわかっています。到達点が見えてます。
自我が消えること、意識が拡大して逆転現象が起こり、意識の中に世界は存在するという感覚になること。
みんなその到達点に憧れて目指して探求しています。
到達点も明確で、マハルシマハラジトニーパーソンズ大和田菜穂みたいな指導者もいるのに、彼らのほとんどは特別な体験で悟ったので誰にも、悟り方を教えることができないんです。
それはまるで宝くじで1億円当たりましたよ、でも当たる方法はわかりませんよ、
という感じと同じだと思います。
彼らは真理がわからないので道を教えられないのではなく、特別体験によって覚醒したので教えることができないんです。
逆分析や腹式呼吸を行えば自我は消えますか?逆転現象起きますか?
もしこの修養方法がその前の準備段階なら、核心の修養方法が知りたいです。
ぜひ道を示してください。
そしてごんさんはどのレベルまで覚醒していますか?
自我の消滅は起こりましたか?自分と世界の逆転現象が起こりましたか?
意識の中に世界や私があるという感覚がありますか? そりゃもう私は、これ以上なく悟っていますとも。
大悟も大悟、大大悟。
大和田さんやシュリーマハルシより上の段階ですよ私は。
それでね、そういう大大悟の私が言うわけですけれども、
その意識の逆転現象ってものが起きると、
何です?
それで人は幸せになれるの?
過去性が見えれば一切の苦しみから解放されますか?
あなたは何を求めてるの?
ああ、いいえ、聞かなくてもわかりますとも。
超能力。超能力が欲しいわけですね。 はっきり言いましょう。
超能力というのは、自我の見る幻想です。
考えたことがありますか?
能力が能力を超越することなどないのです。
能力は能力です。そこにはタネも仕掛けもあるのです。
では超能力って何でしょうか。
それはね、「他の人より特別優れた能力」ということです。
つまり、エゴの思い描く理想、幻想なのです。そういうものはあり得ません。
あなたも私も、他人より特別な存在ではないからです。 それでね、悟り、或いは真理の、
完全な幸福へ至る正しい道があるとすれば。
それは超能力とは正反対の方向にあるのです。
自我を強化するための超能力、或いは金銭や、
地位名誉などでも良いでしょう。
そういうものを苦し紛れに積み上げるのではなく、
逆に、エゴや自我という低次の機能を乗り越え、
解放されより大きな存在との繋がりを開いていく、
という方向に。
私が教えているのは、前段階ではありません。
私が教えているのは、真理そのものです。
今はまだわからないかもしれませんね。
でも、あなたはきっとわかるようになるでしょうとも。
遅かれ早かれね。 質問者さん。長いので仮に、モモンさんとお呼びしましょうか。
モモンさんは、本当は何を渇望しているの?
どうなりたい?
何が欲しい?
逆転現象の先に、どんな世界を期待する?
それを先ず見てましょう。
それこそ問題だからです。
あなたについて教えてください。
あなたの本心、その願いと、飢えと、苦しみを。 >>283
いえ、過去生が見えるかどうかというのは身体や記憶を自分と同一視してないひとつの基準となると思い聞いたのです。
もちろん、過去生が見えるのでしたらどのように見えるのかお聞きしたいですが。
それは能力が欲しいということではなく、過去生を観るのも今の自分を自分だと思わない為の実践として、
仏教でも修行として有効だといわれているからです。
別に観えるなら観えるで観えないなら観えないで観えるかどうか言わないなら言わないで、
それでかまわないのですよ。
ただ他人との優劣の問題ではなく、
自己同一化がなくなっていく過程(悟っていく過程)で実際どのようになるのか具体的にお聞きしたかったのです。
自分の実践の参考にしたかったまでです。 ちなみに私は逆転現象とか話している方ではありませんので念のため。 モモンは2人いた…!
過去生ですか。そんなものはありませんよ。
どこの仏教徒がそんな良い加減なこと言うのでしょう。
時間というのは幻想です。
相対性理論でもそう説いているでしょう。
ただ"今"というエネルギーだけが変化し続けているのです。
それはどこにも、過去などというものはどこにも
蓄積されていないのです。
つまりその、なんだ、私たちの頭の中の、
ある種の幻想としてのみ、反響としてのみ、
過去というものはあるのです。
そういうファンタジーの一種としてであれば、
まあ過去生というのも許されるでしょうね。
ちなみに私は前世はタワシでした。 >>289
それは真我のみがあるので過去生はないというような意味ですよね。
ただ、個我の視点からの過去生はあるとも言えるのではないですか?
夢や幻想としてあるといういい方でもいいですが。
過去生を観るのはテーラワーダ仏教で行われている実践方法ですよ。
別にそれがいいというわけではありませんが。
過去生はないという言い方をしてもいいですが、
過去生を観ることで、過去生は幻想にすぎないと理解するのも、
それはそれでいいと思いますがね。
まあ自分は特に過去生を観たいと思っているわけではないので、
何か観えても気にしないでいますが。 >>290
あーわかった。
それはあれね、多分、末那識とか阿頼耶識の話なのね。
私はフォーカシングとホオポノポノでまかなってるよ。
過去生という言葉はあまり馴染みがなくて、
ピンと来なかったよ。
「僕の地球を守って」みたいな話かと思った。 そうですか
ごんさんがどういう方か自分なりにわかった気もしましたのでこの話は終わりでだいじょうぶです。
お話ありがとうございました。 >>286
自分がなぜ悟りたい覚醒したいかというと、輪廻転生を解脱したいからです。
人間が生きて何度も生まれ変わるのはそれが大きな理由と思うからです。
魂のレベルを上げたい、より霊的に成長したい、
キリストやブッダレベルの霊格を持ちたい、
そこまでいかなくても、グルジェフとかクリシュナムルティーとかラマナマハルシのような
霊的指導者、覚者、マスターみたいになりたいんです。
彼らには多くの信者が彼を慕い、彼の周りに集まります。
なぜなら真理を悟った人間を超えた存在だからです。
自分もそのような素晴らしい存在になりたいという思いが正直あります。
なので自己流で今まで霊的探求してきましたし、これからもしていくでしょう。
輪廻転生や死後の世界についてぼくはスピリチュアリズムを信じているので信じています。
スピリチュアリズムでは、超能力や霊能力の存在を認め、
死後の世界は存在すること、前世は存在すること、輪廻転生は存在すること、を認めています。
そして我々地上に生まれてくるレベルの魂は、輪廻転生からの解脱が目標になります。
輪廻転生を解脱するには、悟りを開き覚醒するしかないと気づいたのです。
悟るには悟った人の教えを学べばいいと思い、ラマナマハルシやニサルガダッタマハラジなどの
覚醒者を調べていると彼らの意識の中に世界があるという逆転現象が起こるんです。
その逆転現象は悟りを開くと訪れるらしく、そこが起こるか起こらないかで判断できます。
なので簡単にまとめると、
自分は生きる目的は魂の成長と輪廻転生の解脱だと思っている、
そのために悟りを開きたい、とただそれだけの理由でノンデュアリティを実践したいんですが、
実践方法がわからないので困ってるんです。 実戦も何も、次は地球には来ない。
訓練だろうが、指導だろうが、救済だろうが、どんな理由を付けられても地球はお断りだと固く決意して、実行すれば良いだけではなかろーか?
オラも次は他の星系行きたいしな。
もう、ここは飽きたわ。 >>293
よく分かりました。ご自分のことを把握して
それを答えられるというのは良い傾向ですね。
逆転現象の概念についても承知しました。
それが起こるには、先ずワンネスを理解しなければ
いけませんね。
しかし、その前に、大きな課題があります。
クリシュナムルティについて、本を読んだことがありますか?
より良い存在へ、素晴らしい人間に、
「なり行くこと」。どこかを目指すこと。
それこそ、彼がその全思想の中で指摘し続けた
人間の愚かさ、蒙昧、無知そのものです。
そうした無知の霧が、人間本来の能力を制限し
つまらない惨めな存在へと変えてしまいます。
あなたはそれを手放さなくてはならないのです。
そのご自分の闇を。このことを先ず理解されて下さい。
その闇が消えて先に、偉大な存在としてのあなたが居ます。
皮肉なことですね。一切の、なり行くことを
完全に手放した先に。
ただ単に諦めた、と口で言っても駄目ですよ。
やり方はまあ、ちゃんと教えますので安心した下さい。 >>293
では、質問をしましょう。
モモンさんは、ワンネスという概念についてどう思いますか? 本は残念ながら読んだことありません。
そういう者になろうとしないことは、普通に生きてる人たちと何も変わらなくなるのでは?
子供はプロ野球選手に憧れて、プロ野球選手になります。
医者になりたいと思うことで、人は医者になります。
覚者になりたいと思うことで、覚者になっていけるのではないですか?
悟りを目指すな、覚者になろうとするな、何者になろうとしないことは、
何にもならないことになりませんか?
真理の探求をするな、ということは愚者になれと言ってるようなものじゃありませんか?
ぼくは愚者になりたいんじゃありません。賢者になりたいんです!
覚者になりたいんです!悟りを開きたいんです!
明確な目標があります。そこに到達する道を教えてください師匠! >>297
ワンネスの概念ですか。
なかなか難しいです。
すべては1つという感覚でしょうか。
自分と他人と神はすべて1つという感覚。
そんなイメージがあります。 おめでとう、モモンさん。
私はどうやらあなたにとても素晴らしいことを教えてあげられるようだ。
それは、悟りというのは、全く別の世界だということ。
モモンさんが想像しているような、小さなドングリの背比べなんかでは
全くなく、もっと遙かに偉大で、大きく、異次元的な解放を
私たちにもたらすものだということです。
精神的に覚醒すること、覚者になるということは、医者とか野球選手とか、
大統領とか、国際連合のリーダーとかいった、そういう低次の領域における
役割の分別とは、全く一線を画す存在になるということなのです。
それはつまりですね、ああ、きっと今のあなたは誤解するだろうけれど。
それはつまり、あなた自身が神になるということなのです。 そして、このことを良く理解してください。
そうした精神的覚醒者たちは、その視点のあまりに高く、
あまりに現世から遠い故に、世俗的な地位財産には
何の価値も見出さないのです。
彼らの仕事は宇宙の運行を統べること、その秩序と成長とを
各々の個性によって味付けし、促していくことなのです。
ですから、どうぞモモンさん、あなたも理解されてください。
まるで他の普通の人々と全く同じように、もっと有名になろうと思ったり、
もっと財産を蓄えたり、そういうことへの願望に支配された
盲目で無知な精神の霧を打ち払ってください。
クリシュナムルティやラマナマハルシ、シュタイナーやグルジェフ、
ブッダやイエス、ラジニーシやシャンカラ、ヴェイユ、フランクルに至るまで。
あらゆる精神的到達者達と同様の、精神の資質を身に付けてください。
それは、普通の人々のように、もっとこうなろう、こうでなければ、という
より多くを求める心、飢餓と枯渇の中から生じてくる虚無感と不満感を、
その存在の輝きによって、生き生きと超越しているということなのです。 >>299
素晴らしい。素晴らしすぎます。
ぼくもぜひその境地にたどり着きたいです。
神のような人格を手に入れることこそ、ずっと求めてきたものです。
それがすべての魂の目的だと思います。
でもごんさんからすると、そのたどり着きたいとか神のような人格を手にいれようとすることも
よろしくないとおっしゃるのでしょう。
悟りの境地とは別次元で、そこには到達しようとおもって到達できるような場所ではないと。
なんとなくわかるような気もします。
そこに到達するには、なにかになろうとする願望をまず捨てることなんですね。
ここで1つ疑問に思ったのですが、
覚者になろうとすることと真理を探求することは別なんですか?
覚者になろうとすることを放棄するのはわかります。それは野心ですから。
真理を求めることも放棄すべきですか?それも野心になるのでしょか?
教えてください師匠。 >>301
いいえ、全く同じですよ。
あらゆる願望を放棄すべきです。
こういうと、モモンさんには矛盾して聞こえるでしょうね。
またこうも思うでしょう。悟りとは結局、
あらゆる欲望を捨て去ること、ご飯も食べない、
睡眠も取らないで、静かに座って死んでいくこと
なのではないだろうか、そんな恐ろしいことを
自分は求めるのか、と。
しかしそれもまた思い違いというものですので、
大丈夫です。
確かに論理上、真理の探究を掲げる私が
あらゆる願望を超越せよと述べるのは矛盾しています。
しかし、そこにもちゃんと答えがありますし、
寧ろその矛盾の転換点が鍵なのです。
モモンさんは、ノンデュアリティについて
少し勉強されていましたね。
では次は、これについて質問しましょう。
"私"とは何でしょうか?
その境界線は?
絶対条件は? 真理を求めることもやめたほうがいいんですね。
それにはただやめようと思うだけでいいんでしょうか?
それとも別の方法があるんでしょうか?
ぼくが思う私、自分とは魂だと思います。霊だと思います。
こう思うのはスピリチュアリズムを信じてるところから来ています。
肉体は一時的に宿るもので、肉体を脱ぐと霊体がありそれが真実の姿らしいのです。
霊体にもちゃんと姿かたちがあるそうです。
でもそれは知識として知っているというだけで、自分自身の考えではありませんし、
実体験でそう思うようになったわけでもないのです。
鏡を見れば容姿が私だと思いますし、名前を呼ばれれば私だと思います。
自意識が高まる場面では、内面の私という部分が強く反応しますし、
過去を思い出しては私の過去の私の行いがありありとよみがえります。
それらすべて含めて私という認識をしているんだと思います。
ノンデュアリティでは私はいないといいますが、それも実体験していないのでよくわからない感覚です。
覚者たちはその感覚を体感してるんでしょうが、ぼくは体感していないので
まだ自信をもって私はいない!と断言できないレベルにいます。 境界線、絶対条件はやはり肉体じゃないでしょうか。
肉体を境に、私とそれ以外を区別してるんだと思います。
なぜなら肉体には痛みを感じますが、肉体以外には痛みを感じないからです。
痛みを感じないので無責任でいられ、自分ではない感覚が生まれるのではないでしょうか。
いくらお気に入りの服を身につけても、その服は私じゃないんです、痛みを感じませんから。
もしあらゆるものに痛みを感じれば、それだけ私は大きくなるのかもしれません。
慈悲の悲しみが痛みであるとしたら、その痛みこそ大いなる私を感じられる原因なのでしょうか。
適当なこと言いました、すみません。 モモンさんは、本は嫌いかな?
何か特別本を読めないような理由があるだろうか?
でなければ、俺は思うんだけど、多分あなたの場合は
クリシュナムルティの対話集を読むのが一番近道だよ。
「人生をどう生きますか?」ってやつ。
あなたはもともと結構、頭が良いんだろうね。
だからその、他よりちょっと頭の良い部分に溺れてしまう。
クリシュナムルティの思想に触れてみるのは良いことだよ。
自分がどんなに低いレベルの知性しか持ち合わせていないのかってことを、
あれは良く教えてくれるから。 さて、修行者モモンよ、お聞きなさい。
あなたの述べたことには二つの奇妙な点があります。
まず一つ、「分からぬのに、信じるということ」
一体何を根拠に、あなたはスピリティズムのそうしたファンタジーを
信ずるのか。いいえ、私はそれを止めろと言っているわけではありません。
そうではなくて、その信じる心、信じたいという思いが、どこから
出てくるのか、それを良く吟味してほしいと思うのです。
なぜなら、良く分からぬものを信ずるのが良くないことは、
あなた自身も分かっていることだからです。
「お金を預けてくれたら100倍にして返します」という人を信じて
1億円を担保無しにそっくり預けるでしょうか?そうではないはずです。
ですので、吟味してほしいのです。なぜあなたは、あなたにとっては何の
根拠も無いそれらの知識を信じたのか。
信ずるに値する何が、一体そこにあったのかということを。 もうひとつは、肉体についてです。
あなたは”私”の境界線は肉体ではないか、と言いましたが、
では一体、肉体のどの部分が”私”を作り上げているのでしょう。
腕のない人はどうですか。心臓を人口物に置き換えたら?
”私”は脳に宿るのでしょうか?そうでなければ、身体のどの部分の細胞に?
”私”を形成するために、絶対になくてはならない身体部位は?
こうした些細な論理に対して、あなたは随分と容易くそれを
無いものとして答えを出したのです。
それがつまり、自分の知識ではない、ということではありませんか?
あなたは言葉を並べるが、分かったようで分かっていないと
自分でも感じている。
知識に対する、新しい態度を身に付けなければなりません。
わからぬ知識を退け、わかる知識を大切にするという態度を、です。 ほら、故事にもあるでしょう。
「半歩崩拳、あまねく天下を打つ」ですよ。
華美で浮ついた多彩な知識や技術。
そういうものは、本当に身に染みて磨き抜かれた、たった一個だけの技、
たった一つのことへの深い透徹した理解に、及ばないのです。 >>309
年長者。地球という家の、優しいお兄さんお姉さんのようなものです。
それは霊的な公務員でもあるし、教育係でもあります。 310
スピリチュアリズムでいうところの
守護霊(ガイド)たちのことでしょうか クリシュナムルティの本読んでみようと思います。
ずっと興味はあったのですがなかなか出会えないままここまできてしまいました。
本はけっこう読むほうで、スピリチュアル関連の本は数十冊くらいもっています。
ノンデュアリティの本もこの前、4冊買ったんですが難しすぎてなかなか読み進められずにいます。
スピリチュアリズムを信じるようになったのはなぜ?と聞かれると自分でもどうしてかよくわかりません。
元々オカルトとか心霊みたいなものに興味があって信じるタイプの人間でした。
10年くらい前にスピリチュアルブームが起こりました。そのとき江原さんの本を読んで感銘を受けました。
その本で紹介されているシルバーバーチの霊訓という本を読んでみました。
この本は素晴らしく、一度読んだら信じてしまうほど信憑性のある内容でした。
そしてスピリチュアリズムにどっぷりと浸かって、ずっと人生の指針として生きてきました。
ぼくにとっては宗教のようなものだったのかもしれません。
盲目的な信仰だったのかもしれませんが、自分としては100パーセント真実に違いないと思っていました。
まあどの宗教を信じる人もみなそういう気持ちで信じているんだと思いますが。 >>307
難しいです師匠。
師匠のおっしゃりたいことは、つまり
自分の経験から得た知識を大切にせよ、ということでしょうか?
そしてそれ以外の聞きかじりの知識は重視するな、ということですか?
それが真理の近道ならそうします!
ぼくは今まで自分なりに真理を探求してきたつもりです。
その方法は読書です。
聖書を読んだり、老子を読んだり、ブッダの言葉を読んだり、
その他たくさんの精神世界の本を読んできました。
それらの本には真理が書かれてあり、本をたくさん読むことで真理を得られると思ったからです。
でももし真理をわかることは、知識として知ることではないとすると、
ぼくは今まで無駄な努力をしてしまったことになります。
真理の探求とは本を読んで得られるわけではないのですか? 大事なのは、真理を理解していくということです。
真理についての本や言葉を、どれだけ沢山
暗記してみた所で、何になるでしょう。
理解していない言葉の羅列は、例えば円周率を
ひたすら覚えたことと変わりがありません。
モモンさん、私は、信仰者でありません。
信仰は人を強くする一方で、弱くもします。
頑迷に、盲目にもするのです。
私は現代人です。空想の神を信じてはいません。
私は、何も信じません。何一つ。
とりわけ自分自身、自分が何かを信じていないという、
その自負を信じません。
そして、学びはしても常に疑い、
自分の経験と照らして「確かに」と思えたことだけを
自分の知識として、人にも伝えているのです。 今まで読んで覚えたものが無駄になるかと言えば、
全くそんなことはないですよ。
暗記した知識というのは調理器具みたいなものです。
しかし調理器具だけやたらに溜め込んでおいても
意味が無いでしょう。
そこで、実際に料理を始めていくということです。
備えのない人は少ない道具でやらなければいけませんが、
モモンさんの手元には十分な道具が揃っています。
それは全く良いことです。
ああ、あの本に書いてあったのはこういうこと
だったか、という場面が増えますから。 >>315
ゴンさんのその姿勢はいいと思います。
ぼくも見習いたいです。
考えてみればぼくの憧れるキリストやブッダやクリシュナムルティやラマナマハルシも
盲目的な信仰はしていなかったように思います。
自分の内から生まれた真理に忠実に生きたのだと思います。
その観点からごんさんの姿勢はより真理的かもしれません。
本の知識を材料に料理をするにはどうしたらいいですか?
どうすれば自分自身で真理を見出すことができるんでしょうか? >>317
良いでしょう。では料理をするために、マインドフルネスの領域へと舵を切って行きましょう。
マインドフルネスとは、一言で言えば、この世界の存在に対して意識的であることです。
例えばこういう方法があります。寛いだ姿勢で、落ち着いて立ったり座ったり。
行動するのを止め、「今ここ」の瞬間に意識を集中します。
「今ここ」とは何か。それは外の世界から私たちの心の中へ、まさに今この瞬間に
流れ込んできている情報の全てです。
それは肉体の知覚作用を通して現れます。つまり、色、音、感触、匂い、味の
5つの
精神領域です。じっとして、行動を止め、順番にこれらの精神領域に意識を向けていきます。
姿勢や環境、集中している時間の長さなどに細かくこだわらなくとも良いです。
注意することはひとつだけ。それは、自分の心の内側に入っていかないということです。
意識の流れは外から内へ流れています。この外からの情報を掴もうとすると、どうしても
その流れに流されて、自分の心の内側、頭の中の空想や雑念の、迷いの海に入っていって
しまいやすいからです。こういう場合はリセットして、もう一度やり直します。
外からの情報だけを。順番に、慎重に、何周もしながら、確かめていきます。
一日何度でも良いですよ。空いた時間毎に、こまめに沢山するクセをつけると
良いでしょう。 こうした修行に何の意味があるか。
それは、わかることと、わからぬこととを、はっきり分別するためです。
人は言葉を操る生き物で、言葉の世界は仮想空間になっています。
その仮想空間は、ある程度自分の好きなように拡張できてしまいます。
しかし、好き勝手な拡張を進めるということは、要するに幻想を増やすということ。
幻想が増え、強化されていけば、それは偏見や迷妄になり、やや狂気に近付いて、
段々と現実との適応力、調和能力が失われていきます。
これが無知です。これが愚かさです。これが真実を知らないということ。
これが真理を覆い隠す霧であり、つまづきの石なのです。
ですので、そのシュミレーション用の仮想空間における模倣物と、
本当にこの世界の実在から放たれている真の情報とを、選り分けられるように
なる必要があります。
モモンさんには先ず、そうした切り分けを可能にする能力を
しっかりと身に付けていただきたいと思います。 >>318
マインドフルネスですね。
一時期やっていたことがあります。
でも今ここに気づき続けることが一体なんの意味があるのか?と疑問に思い始め
次第にやらなくなってしまいました。
今ここに気づくと思考が止まる、思考が止まると一体なんになるのか、と思うようになってしまったのです。
あと瞑想について疑問に思ってたことがあるんです。
瞑想の意識状態というのは半睡眠状態の変性意識の状態なんでしょうか?
それとも精神統一のような神経が研ぎ澄まされた、より目覚めてる状態の意識なんでしょうか?
マインドフルネスは後者ですよね。今ここに全神経を集中させることでより目覚めた意識と思います。
でも一般的な瞑想というのはボーっとするような目覚めと睡眠の真ん中の状態なんでしょうか?
もしそうなら悟りを開き覚醒に至るには、どちらのほうがいいのでしょう?
坐る瞑想もしたほうがいいんでしょうか?
あとラマナマハルシの私は誰か?と問う探求方法についてどう思いますか?
ごんさんはどのような方法で覚醒に至りましたか? >>320
なるほど、経験がありましたか。
それでは多少手間が省けますね。
私が何を通して悟りへ至ったか。
そこには何も特別な方法はありません。
様々なことを学ぶ中で、自然に悟ったのです。
しかし真理に関する、方法の不在という事実が恐らく、
モモンさんの成長を妨げる限界にもなっているのでしょう。
ラマナマハルシの説いた方法も、やはり完全ではありません。
ある面から見れば核心を捉えていますが、
誰にでも向いているという修行ではありません。 誰にでも向いている修行。
生憎そういうものは無いのです。
なぜかわかりますか?
真理は不変で、間違いがないものだからです。
では晴らすべき虚偽が何処にあるかと言えば、
それは私たち自身の人格、願望、精神の方にあるのです。
つまり真理へ至る答えは、私たち人類の
70億通りの虚妄の数だけ、70億種類の嘘の数だけ、
必要なのです。
だからね、モモンさん。簡単なことなのですよ。
あなたはまだ、あなた自身という問題を、
知らなすぎるのだ。
あなた自身の中にある欲望と、虚偽と、抑圧とを。
それに向き合い、それと和解し、それか
ら解き放たれねばなりません。 なるほど。
その人自身の方法でしか悟る方法はないということですね。
いくらごんさんが熟達した者であっても、ぼくの真理の道を教えることはできないということでしょうか。
真理の道は自ら発見しなければならない、と。
そして試行錯誤する中で自分の道がひらけてくるんでょうか。
そうだとするとぼくは大きな勘違いをしていたのかもしれません。
真理の道は1つで、その道に到達した人はその道を教えることができると。
でも様々な覚者がある特定の方法論を述べないのは、こういう理由からかもしれません。
ぼくは覚者やごんさんに真理に到達する道を聞けば、到達できるものと思っていました。
でもその道は様々あるので1つの方法をのべるのは逆に真理的ではないと。
その中でごんさんが示してくれた方法に感謝します。
それを加味しながら自分なりの道を探していこうと思います。 ぼくの問題は自分自身の欲望を知らなさすぎる所と感じますか。
こうなりたいとか、真理の道を求めたいという欲望が自分の中にあるのかもしれません。
それが真理から遠ざかる原因なのですね。
僕の道として、まずそれらの欲を消し去ることが重要なんですね。
それからマインドフルネスで今ここを意識する実践方法に進むんですね。
話は早いかもしれませんが、その後にはどのような探求方法が待っているんでしょうか?
マインドフルネスを実践しつづけていれば覚醒にいたれるのか、
それは前段階でさらに上の方法があるのか。
おっと、これさえも欲から出る質問になってしまってますね。
すみません。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています