【パヨクの祖国】韓国国会 東京五輪での旭日旗の持ち込み禁止要請可決
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【ソウル共同】韓国国会は30日、来年の東京五輪・パラリンピックで、旭日旗の競技場への持ち込みを
禁止するよう国際オリンピック委員会(IOC)や大会組織委員会に求める決議を採択した。
https://this.kiji.is/551295111756006497?c=39546741839462401
参考
韓国国会 東京五輪での旭日旗の持ち込み禁止要請可決
https://hayabusa9.5ch.net/test/read.cgi/news/1569827350/ 惜しかったよなぁ
赤い夕日が沈む満州国。
日本が朝鮮半島を車の両輪として設定出来てれば
半島に足がかりが出来たのだけどな。
軍人は物を壊すのが仕事だからな。ものを生産する立場ではないのだよ。
軍人が主人面をしてはお終いです。軍事は従でないとな。
満州に五族共存の国が出来て続いていればな。
ウンと楽しかったのにな(⌒∇⌒)。 クソチョンよ
都合のよい文献を部分引用して、
適当な感想くっつけるのは楽しいか?
肝心の日本云々の記述の所は全部クソチョンの妄想じゃねぇか!
そりゃあ、日本から出て行けって言われるのも判るわ。
アジアの統失患者!
アジアのゲッペルズは黙れ!! 〇山田顯義が残した言葉
「軍とは何のためにあるか。帝室を守衛し人民を安全にするためである。
しかし他にも、国には法があり律があり、教育の道がある」
「欧米諸国の国法と我人民慣習の法とを斟酌し国法の条目を審議し、
国法に依り以て国律を確定すべし」
「英雄は死す。されど凱旋門は残る。英雄の名声と遺産によって、
市民はその豊かさを享受する」
「兵は凶器なり」
「法律は軍事に優先する」
「生きた。闘った。使命を全うした。人生に悔いはない」
〇高杉晋作の山田評
高杉晋作が亡くなる時に、「奇兵隊を引き継ぐ人物は?」と問われて、
晋作が名を挙げたのは、大村益次郎であった。しかし、
大村は元々、村医者だった為「その次は?」と問うと
「山田市之允」と答えたという。この時、山田顕義はまだ23歳の青年であった。
〇西郷隆盛の山田評
小柄で背が低く童顔だった山田に対して西郷は「よか稚児」と残している。
「神算鬼謀の将」
「あの小わっぱ(小童)、用兵の天才でごわす」 山田顯義と木戸孝允と伊藤博文は自由民権運動に、ある程度理解はあり、
民衆の政治参加と合意形成が、近代国家に必要だという考えだったが、
山県有朋系は、いかに民衆を政府に従わせるか、いかに民衆の声を抑制するかに、
力点を置いていた
吉田松陰門下だからといって、同じ主義とはいえない どうだい。法政大学にもう一つ 山田法典伯タワーを立てるのわ。 [無断転載禁止]2ch.net
http://medaka.2ch.net/test/read.cgi/jsaloon/1502794279/
山田顯義はボアソナードが編纂した民法を
基礎に
日本人に最良の法典を完成させるんだがな。
「民法出でて忠孝滅ぶ」と攻撃され
遂に最後は悲憤死するんだがな。
でもな,
山田は法典の第1回帝国議会での通過を願って
40度の高熱を出しながらも国会の壇上に立つんだよな。
山田はボアソナードと同様、日本に最良の法律を作ったと
自負していたんだな。
明治天皇陛下は山田顯義の気持ちをよく理解していて
山田の死亡まで法典の延期を公布しませんでした。
天皇陛下は山田の再登板を心待ちしていたのではないのかな。
朕尚其比翼ヲ望ミシニ 遂に渝亡ヲ聞ク 曷(イズクン)ソ軫悼二勝ヘン
なんでも鑑定団 愛のエメラルド 明治天皇陛下のご信任厚い山田顯義司法大臣
山田顯義は弁護人制度の実施や 軍人の恩給制度、
拷問制度の廃止などにも貢献した人物なんだがな。
意外に知られてはいないな。でもな晩年は飛ぶ鳥を落とすほどの
政府高官で明治天皇に大変信頼された人物です。
ボアソナードの法典に心中した形です。
山田顯義は商法と民法が第1回帝国議会で否決されたのに憤慨、
病気を理由に辞表を出すんだなぁ。ところが明治天皇陛下が
頑として受け取らない。
山田顯義の辞職をどうしても受け取らない。
明治天皇は山田顯義に心の師匠として
補佐して貰いたかったんだな。
天皇陛下は年齢も近く懇切丁寧、
虚勢を張らない。
強力な推進力で日本を法治国家に
作り上げていく山田顯義を
高く評価していました。 顯義公
>…前略 兵、何を以って国家に至要なるや、兵は凶器なり、而して能く巨万の金額を費やし
>人民を労し少壮の事業を妨げ、其の学問を礙し、其の性を傷害し、其の才を束縛し
>其の刑罰を厳酷にし、或は又、醜業に習慣し、蜜陰を盛にし、梅毒を繁殖す。…後略
小説志士の肖像より
この顕義伯の建白書が仇敵山縣有朋の猜疑心を拡大せしめ、政敵とし、無欲の顕義伯を
政界の頂点から追い出す原因となったと思う。師匠であった益次郎の暗殺も不運であった。
高杉晋作が周囲から「次は」と言われたのが「益次郎」、「その次」はと問われたら
「市之充」と答えたことは有名。
岩倉遣節団の中で顕義伯だけは放蕩せず、欧米の軍隊、法律をつぶさに研究している。
身分の卑しい利助などは金髪女を金で買っていたのと対照的である。
悲しいことにこの長きにわたる欧米視察の合間に、山縣が軍部を掌握してしまったことである。
帰国後西南戦争も起きていない時期に徴兵制を断行しようとした山縣を、この建白書で暗に糾弾
したのである。
しかし、顕義伯の欧米視察は無駄ではなかった。兵制の違いをフランス、プロシア、オーストリア、
スイス等などを比較しているし、国民平等であるナポレオン法典を日本の法に参照しようとも
考えていた。
戊辰戦争では五稜郭を落とし、伯は海軍の親玉にもなれたであろう。薩の海軍、長の陸軍などまだ
できあがってない時期だったし。
兎に角顕義伯は真面目過ぎた。松陰先生のように童貞のまま死ぬ、ということはなかったが。
もう少し世あたり上手であれば、大村益次郎が暗殺されなかったら、というIFがつきまとう。
そのIFが現実だったらならば、俺は日大に入れなかったであろう。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています