1944年、米軍潜水艦の魚雷に撃沈された学童疎開船「対馬丸」に乗り、自身は生き残ったが、親族や友人を亡くした平良啓子さん(84)=大宜味村=は2014年6月、那覇市の対馬丸記念館を訪れた前天皇ご夫妻との懇談に参加しなかった。

「沖縄に寄り添う前陛下の姿勢に文句はない。でも、あの頃を思い出してしまうから、会いたいけど会いたくないんですよ」

疎開当時は国頭村の安波国民学校4年生。
徹底した皇民化教育で「国のため、天皇のため死を恐れない」という思想をたたき込まれた。
「天皇制が続く限り、あの時代に逆戻りしないかという懸念は消えない」と語気を強める。

両親の反対を押し切って平良さんに付いて来た、いとこの時子さんは亡くなった。
「対馬丸に乗らなければ、時子は生きていたかもしれない。私は戦争の被害者でもあり、加害者でもあると思うと苦しくなる」

人々が皇居で日章旗を振る光景には違和感を覚える。
令和への代替わりで、国民が浮き立つ様子を素直に見ていられないという。
「やっぱり死んだ同級生や家族のことを考えると、はしゃいでいられない」と平良さん。「とにかく、平和な時代になれば」と語った。

https://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/415408


参考
お婆さん「人々が皇居で日章旗を振る光景に違和感 天皇制が続く限り戦前に戻る懸念は消えない」
http://hayabusa9.2ch.net/test/read.cgi/news/1556758339/l50