藤原惺窩の李氏朝鮮の朱子学の熱狂的支持者には天皇も含まれる

https://ja.wikipedia.org/wiki/後光明天皇
儒学に傾倒して典礼を重んじ、朝儀再興を目指した。

天皇は武芸を学ぶなど激烈で直情径行的な性格の持ち主であり、反幕府的な態度をとっていたともいわれるが、
その反面で幼少から学問を好み、特に儒学や漢学を尊重して、これを奨励した。初め明経家の伏原賢忠から『周易』
の伝授を受け、後に程朱学派に傾倒すると、二条康道の推薦で民間から朝山素心を招き入れて進講を受けている。
慶安4年(1651年)9月には、儒者藤原惺窩の功績を称えてその文集に勅序を与えた。天皇が庶民の書に序文を賜
うことは、これが最初という。また、漢詩文の詩作を好み、御集に『鳳啼集』がある。

仏教を「無用の学」と言うほどの仏教嫌いであった。開けてはならないとされる三種の神器が収められた唐櫃を開け、
鏡の他に仏舎利が有るのを見ると、「怪しい仏舎利め」として庭に打ち棄てさせた[6]。

https://ja.wikipedia.org/wiki/林羅山

また、万象を貫く道徳的属性を考える立場に立って、幕藩体制下の身分秩序とそこにおける実践道徳を
形而上学的に基礎づけた[6]。『春鑑抄』においては、宇宙の原理である理は、人間関係では身分として
現れるとして上下定分の理を説いて士農工商の身分制度を正当化したが、これは、幕藩体制の根幹をな
す身分秩序絶対化の理論であった[8]。羅山は、同書で、国をよく治めるためには「序」(秩序・序列)
を保つため、「敬」(つつしみあざむかない心)と、その具体的な現れである「礼」(礼儀・法度)が
重要視されるべきことを説き、持敬(心のなかに「敬」を持ち続けること)を強調している(存心持敬)。
羅山は、宇宙の原理である理をきわめれば、内に敬、外には礼として現れると説き、敬と礼が人倫の基本
であり、理と心の一体化を説いたのである(居敬窮理)[7][注釈 4]。

羅山の朱子学は中国から直輸入したものではなく、豊臣秀吉の朝鮮出兵を契機に流入した朝鮮朱子学を
自覚的、選択的に摂取したものであるとされている[9]。なお、「羅山」の号も、朝鮮本の『延平問答』
に由来するものである[10]。