野上 安倍の母・洋子にインタビューした際、「我が家は独立国家の共同体のようなものでした。皆が勝手に育ってしまった」と言ったものです。この言葉がすごく印象に残っています。幼心に、多忙で不在がちの両親に愛情を求めても得られないことを納得させようとしていたのか、安倍は「泣かない」子供だった。しかし気丈でも、子供は子供。養育係の久保ウメには甘えた。中学生になるまでウメの布団にもぐりこんでいたそうです。

鈴木 それに比べると、同じ政治家一家でも、石破家はまだ普通の家庭であり、石破はすくすく育った感じがしますね。もちろん、いろんな苦労はしていると思いますが。

野上 安倍は私立の成蹊小学校に通っていた高学年の頃、よく「映画監督ごっこ」をしていたそうです。寂しがり屋だったからというのもありますが、大勢の友達を家に連れてきて。部屋の片隅に安倍が台本代わりの本を持って監督然として座って、「おまえ、笑う時はもっと大きな声で笑って」などと指示を出していた。ウメは安倍のことを「自己主張・自我が人一倍強い」と言っていました。「ああしろ、こうしろ」と振り付けするのが好き。これは現在にも通じるものがあります。今でも安倍は周辺に「政治家にならなかったら、映画監督になりたかった」と話していますからね。

鈴木 子供の頃の石破はいじめられっ子でした。理由は知事の息子だったからです。国立の鳥取大付属小・中学校に通ったのですが、東大紛争(1968〜69年)の後、まだ大学が荒れていて、「反体制」がはやっていた。中学になるとみんな大人びてきて、知事の息子、つまり「体制側」の息子だということでいじめられたのです。知事ですから、住民の反対を押し切って行政を進めると、地元の商店の息子などから「おまえの親父のせいで」などと責められる。決定的な事件は、父親が鳥取駅前の再開発に着手し、用地買収などで揉めていた頃に、駅前で大きな火事があったことです。クラスメートから「おまえの親父が火をつけたんだろう」と言われ、「もうここ(鳥取)にいるのは嫌だ」となった。

野上 逆に、安倍は神経のずぶとい子供でした。宿題を忘れたり、遅刻をして、先生に「またか」と怒られても平然としていた。めったにいない父・晋太郎が家にいた際に、父の私物がなくなり、子供が悪さをしたと思った父が兄弟をきつく叱ったことがあった。兄はびっくりして半泣きになっていたのに、安倍は「晋三、おまえなのか」と矛先を向けられても、プーッと頬を膨らませて横を向いたまま口を開かない。その状態が何時間も続き、しびれを切らした父が、「晋三、おまえはしぶとい!」と白旗を揚げたそうです。(つづく・敬称略)

▽野上忠興 1940年東京生まれ。64年早大政経学部卒。共同通信社で72年より政治部、自民党福田派・安倍派(清和政策研究会)の番記者を長く務めた。自民党キャップ、政治部次長、整理部長、静岡支局長などを歴任後、2000年に退職。安倍晋三首相のウォッチャーでもあり、15年11月発売の著書「安倍晋三 沈黙の仮面 その血脈と生い立ちの秘密」(小学館)が話題。他に「気骨 安倍晋三のDNA」(講談社)など。

▽鈴木哲夫 1958年福岡県生まれ。早大卒。テレビ西日本報道部、フジテレビ政治部、日本BS放送報道局長などを経て13年からフリーに。25年にわたる永田町の取材活動で与野党問わず広い人脈を持つ。著書に「政党が操る選挙報道」(集英社新書)、「安倍政権のメディア支配」(イースト新書)など多数。またテレビ・ラジオでコメンテーターとしても活躍。

日刊ゲンダイ
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