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経済学者で同志社大学大学院教授の浜矩子さんの「AERA」巻頭エッセイ「eyes」をお届けします。時事問題に、経済学的視点で切り込みます。

*  *  *
 記憶されていないことに関する記録が、続々と出てくる。存在しないはずの文書の存在が、次々と判明する。愛媛県で加計問題。財務省で森友問題。防衛省で日報問題。

 授業をやっていて、つくづく思う。人の記憶とは、実に厄介なものだ。まずは、そのスパンが短い。先週の授業でやったことを、今週まで正確に記憶してくれている学生さんは、とても少ない。何回も聞いているはずのことが、ものの見事に忘れ去られていたりもする。

 こうした実態を踏まえて考えれば、「記憶している限り、誰それにお会いしたことはございません」などという言い方には、全く何の信憑性(しんぴょうせい)もない。「記憶にございません」と言われても、そこには、事実の証明としての意味は何もない。

 記憶の問題性はほかにもある。選択性と願望性である。これも、授業をやっているとよく分かる。人は、自分が憶(おぼ)えていたいと思うことを憶えている。そして、自分が憶えていたいと思う通りに憶えている。前者が選択的記憶で、後者が願望的記憶である。これらのバリアーを超えて、本当に憶えておいてほしいことを、憶えていてもらいたい通りに憶え込んでもらうことは、誠に誠に至難の業だ。

 記憶は、短期的で選択的で願望的だ。この三大問題があるから、全てを記憶にゆだねるわけにはいかない。だからこそ、記録に重要な意味がある。記憶は長期保存が利かない。ご都合主義的につまみ食いされる。願望的思い込みによって彩られる。

 それに対して、記録は保管に注意すれば長持ちする。記録をつまみ食いすると、つじつまが合わなくなる。だから、記録をえり好みするわけにはいかない。記録を誰かの願望色に塗ると、他の誰かが異を唱えるから、収拾がつかなくなる。かくして、記録は忘却にも選択にも願望にも侵食されない。だから、記録は頼りになる。

 そのはずだった。ところが、いまや、記録が記憶に調子を合わせるという現象が起きている。こんなにとんでもない状況の中だというのに、与党は「働き方改革」関連法案を衆院で採決に持ち込もうとしている。正気の沙汰だとは思えない。

※AERA 6月4日号

https://dot.asahi.com/aera/2018053000037.html?page=1

管理人
ネットの反応
名無し
アホノミクス本を毎年出す人?
名無し
でもその記録自体に信憑性客観性妥当性がなかったんですわー
っていう1番大事なことを書かないとか、学者じゃなくて活動家だな
名無し
1ドル50円時代が浜矩子の記録から消えてしまった事?
名無し
1ドル=50円 日経平均10000円割れの記憶は?
名無し
自分が経済予測を外しまくっている記憶を認知できない人間が言っても説得力がまるでない
名無し
>授業をやっていて、つくづく思う。人の記憶とは、実に厄介なものだ。まずは、そのスパンが短い。先週の授業でやったことを、今週まで正確に記憶してくれている学生さんは、とても少ない。

専門で無能晒し続ける紫ハバアに馬鹿にされる同大生が哀れでならない
名無し
1ドル50円予想は都合よく忘却されたんでしたっけ?