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 混迷した社会民主党(社民党)の党首選びが決着する見通しとなった。1月12日に現在2期目の吉田忠智(ただとも)党首(61)の任期満了に伴う党首選を告示したが、吉田氏が告示直前、「非議員」を理由に不出馬を表明。26日再告示という異例の展開の末に、又市征治幹事長(73)に白羽の矢が立ち、無投票当選の公算だ。党存亡の危機がいわれて久しい「落日の社民」。ここまできては消滅も射程に入ってきた。又市氏は、最後の党首なのか−。

 吉田氏は12日告示の前日、又市氏らから慰留されていたが、党本部の会合で不出馬を表明した。その後、記者団にも「国会議員のバッジをつけていない党首は非常に制約が多い。党首としての任務を果たすことができない」と説明した。

 12日の告示は立候補の届け出がなく、告示の延期に追い込まれた。又市氏は延期を決めた12日、記者団から吉田氏続投以外の選択肢を問われ、「考えていない。26日までに吉田氏が出馬の意向を固める」と断言した。「議員でなくても党首はできる」として吉田氏を説得し続けた。

 ただ、又市氏らから度重なる慰留を受けても、吉田氏は22日の両院議員総会で不出馬の意向を重ねて示した。最終回答だった。一時的とはいえ、地方議員らを含めて吉田氏以外に誰も名乗りをあげない事態は、政党の存在価値が問われるとともに、これまで吉田氏に任せっきり、いわば「タダトモ」頼みのツケが露呈したといえる。

 自治労大分県職員連合労組委員長から同県議を経て参院議員となった吉田氏は平成28年の参院選で落選し、引責辞任を申し出た。その際は、又市氏らに「議員バッジがなくても党首はできる。任期満了まで続けてほしい」と慰留され、翻意した。もっとも、社民党は吉田氏の落選で現職の国会議員4人の政党に転落。人材難が深刻化する中、「吉田氏続投」はやむを得ない事情もあった。

 とはいえ、非議員の党首は国会論戦に参加できない。国民から信任を得ていない党首が各地で支持や党勢拡大を叫んでも、有権者の心に響かないし、届かないのではないかという懸念が拭えない。吉田氏は、そんな負い目を引きずっていたのだろう。

 実際、党首続投後も党勢は回復するどころか、ジリ貧路線は加速するばかりだ。昨年10月の衆院選では目標の5議席に対し現有2議席にとどまり、得票率も政党要件の2%を割り込んだ。比例代表の得票は過去最低の約94万票に落ち込んだ。衆院選後、「選挙の最高責任者として責任をとらなければいけない」とこぼす吉田氏は非議員の「限界」を肌身で感じていた。

 社民党は28年の参院選で比例代表の得票率が2%を上回ったので、最短でも34年までは政党要件を満たす。しかし、国政選挙で「国会議員5人未満、比例得票率2%未満」が続けば、いずれ政党要件を失うことになる。

 党首力の低下も不出馬の背景にあったようだ。衆院解散前の昨年9月中旬、民進、自由、社民の3党による衆院での統一会派構想の動きが表面化した。当時民進党の代表だった前原誠司・現希望の党衆院議員(55)は3党首会談の予定も明らかにし、社民党の吉田、又市両氏ともに前向きだった。ところが、党内の一部議員が強く反対し、頓挫した。党の生き残りをかけた吉田氏の判断だったが、実現せず党首の威信は傷ついた。

 時計の針を戻すと、前回の28年参院選前も党首力が大きく低下した“事件”があった。当時、吉田氏は「民進党との合流も一つの選択肢」と唐突にぶち上げた。党勢低迷で改選を迎えていた自身の議席確保さえ危ぶまれる中、「強い危機感で出た発言」と説明するが、党内は一斉に反発した。

 根回し不足も重なり、吉田氏は直後に「本意ではなく撤回する。党員、支持者に大変な不安や動揺を与えたことについて深くおわびをする」と頭を下げた。合流発言から1週間。「タダトモの乱」はあっけなく“鎮圧”されてしまった。

 こうした経緯を知る党関係者は「今回ばかりは吉田氏の不出馬の意志は固い。任期満了という節目を迎え、約束は果たしたという意識が強いはずだ」と分析する。

 非議員の吉田氏を含まない国会議員4人は23日、吉田氏の不出馬の意向は固いとみて説得工作を断念、後継党首を協議し、又市氏擁立で合意した。理由は簡単。安倍晋三首相(63)が目指す憲法改正の阻止や、安全保障関連法制の廃止には野党共闘が欠かせず、他の野党とのパイプの太い又市氏が適任という判断だ。

(略)