写真:民進党・枝野幸男代表代行(左)とロシア「立憲民主党」のパーヴェル・ミリュコーフ
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民進党の枝野幸男代表代行が10月2日、「希望の党」への合流に反発するリベラル系の民進党前衆院議員らと新党を結成する方針を固めたと時事ドットコムなどが報じた。
新党の名前は旧党名の「民主党」のほか「立憲民主党」が候補に挙がっているという。

"枝野新党"の候補名に上がっている「立憲民主党」。
これは2016年3月に「民主党」と「維新の党」が合流した際に、新党名の候補として「民進党」とともに上がっていた名前だ。

■「立憲」冠した政党、これまでにもいっぱい

現在、党名に「立憲」を関した政党は存在しないが、議会政治初期の明治?大正時代にかけては「立憲」を党名に掲げた政党が多く結成された。
山川出版社の『日本史小事典』をめくると、以下のような政党名が出てくる。

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・立憲改進党(1882-96):「明治14年の政変」で下野した大隈重信などを中心に結党。

・立憲帝政党(1882-83):民権派に対抗するため、東京日々新聞社長の福地源一郎らを中心に結成。

・立憲自由党(1890-91):民権派が結集した「大同団結運動」で結成。板垣退助らが参加。

・立憲政友会(1900-40):伊藤博文を中心に結党。西園寺公望・原敬などが参加

・立憲国民党(1910-22):憲政本党を軸に、又新会・無名会などが合同して成立。犬養毅らが参加。

・立憲同志会(1913-16):桂太郎が計画。加藤高明を中心に結党。

・立憲民政党(1927-40):浜口雄幸、若槻礼次郎らが参加。浜口内閣で金解禁・ロンドン海軍軍縮条約を実現。日中戦争中、斎藤孝夫が「反軍演説」で政府を批判すると、斎藤の議員除名を支持した。

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「立憲民主党」という名前は、これまで日本史の教科書には登場していない政党名のようだ。
だが、意外なことに世界史の教科書には載っている。
「立憲民主党」は、今からおよそ100年前、帝政ロシア末期に登場する。

■帝政ロシア末期に成立 「立憲民主党」とは?

「立憲民主党(カデット)」は、帝政末期のロシアで活躍した有力政党だ。
1905年、ロマノフ朝打倒を掲げた民衆蜂起(第1次ロシア革命)が広がると、皇帝ニコライ2世は首相ウィッテが起草した「十月宣言」を公布。
選挙で選ばれた議員で構成される「国会(ドゥーマ)」の開設を約束した。

こうした動きの中、歴史家パーヴェル・ミリュコーフらを中心に結党されたのが「立憲民主党」だ。
ブルジョワ・知識人・地主など、自由主義的な知識層を基盤とし、民主化された立憲君主制の確立をめざした。
1906年の第1議会では最多議席を獲得し第1党に。立憲君主政の定着を図った。
しかし、ニコライ2世の専制政治(ツァーリズム)を抑えることができず、ロシアが第一次世界大戦に参戦する道を容認した。

1917年の「二月革命」でロマノフ王朝が崩壊。
その後、「臨時政府」が組織されると、立憲民主党からはリヴォフが首相、党首ミリューコフが外相に就任した。
この「臨時政府」には、社会主義政党の「エスエル党(社会革命党)」のケレンスキーも入閣。
党派を超え、一定の社会改革を目指した。

ただ、厭戦気分漂う中にあっても、臨時政府は第一次世界大戦の継続を主張。
ロシア革命が進むにつれて、スローガン「すべての権力をソヴィエトへ」を掲げたレーニン率いるボリシェヴィキが台頭。
1917年の「十月革命」後、立憲民主党は「人民の敵」として解散させられ、ロシアは社会主義国家「ソヴィエト連邦」となる。

奇しくも、今年はロシア革命100周年。
「立憲民主党」という名前が歴史に再び登場することは、何かの因縁なのだろうか。

http://www.huffingtonpost.jp/2017/10/01/edano-rikken-minsyutou_a_23229155/?utm_hp_ref=jp-homepage