戦時中、疎開船が米軍機の攻撃を受けた「尖閣列島戦時遭難事件」の犠牲者を悼む慰霊祭(主催・尖閣列島戦時遭難者遺族会)が3日、沖縄県石垣市新川の慰霊之碑であった。約50人が参列し、尖閣近海の平穏と恒久平和を願った。式辞で慶田城用武会長(74)は石垣島への自衛隊配備計画に触れ「経済発展の阻害要因となる」などと反対した。

 慶田城会長は、強行採決された「共謀罪」法などの成立や南西地域への自衛隊配備計画など近年の政治状況に懸念を示し「魚釣島の領土問題は経済や文化を通し信頼関係を築き、外交で解決すべきだ」と指摘した。

 その上で、「石垣島は経済が自立可能な宝の島。経済の発展の阻害要因となる自衛隊配備はやめるべきです」などと訴え、非戦・平和への思いを語った。
兄姉思い 語り継ぐ決意

 【石垣】1945年7月3日、台湾へ向かう疎開船2隻が米軍の攻撃を受けて少なくとも80人余が犠牲となった尖閣列島戦時遭難事件。72年たった慰霊祭に参加できた生存者は2人。高齢化で遺族らの参加も減る中、父や母の思いを胸に次世代へ語り継ごうと誓う参列者の姿があった。

 事件は、疎開船2隻のうち1隻が沈没し、もう1隻は航行不能で尖閣諸島の魚釣島へ漂着した。

 銃撃死や溺死、漂着先での約1カ月間で餓死者も出たが、正確な犠牲者数は不明という。

 「いつも私たちを連れて海で手を合わせ、無言で涙を流した姿が忘れられない」。浦添市の崎村サヨさん(69)=石垣市出身=は慰霊祭で、父・知名定喜さん(享年60)の無念を語った。

 知名さんは当時34歳で、前妻と子ども3人の家族全員を失った。妻たちは台湾で働く知名さんの元へ疎開し、一緒になるはずだった。崎村さんは知名さんと再婚した豊子さん(99)との長女。幼くして亡くなった兄姉の話は幼少時から聞いていた。

 慰霊祭は、足を悪くした豊子さんに代わり3年前から参列。「生きていればやりたいこともあっただろうし無念だったろう。顔も見たこともない兄姉だが、母にも『絶対に忘れないで』と言われた。生きている限り、父と母の思いを大事にしたい」と涙をぬぐった。

 四男・知名克昇さん(55)は別の兄姉がいたことを最近聞いて初めて参列。「母が父の墓に供えた物を海へ流したのは覚えている。語り継ぎ、平和な日が続くようにしたい」と話した。

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