鬼和尚の仏教勉強会 講読ゼミ 3

1名無しを整える。2018/06/14(木) 06:16:59.12ID:QDZvGNkZ
前スレ:鬼和尚の仏教勉強会 講読ゼミ 2

466名無しを整える。2018/10/21(日) 00:22:06.55ID:HrvfcOqa
鬼和尚、したらばの方にくまさんの新スレ立ってますよ。

467名無しを整える。2018/10/21(日) 09:07:53.10ID:6PFBcj/I
>>461
時の流れ 4
鈴木 大拙

「時」の流れに沿うて歴史が展開して行くと云ふことを聞くこともあるが、こんな無意味なことはないと思ふ。歴史と云ふものがあつて、時を流れるとは考へられぬ。
時は前述の如く、白紙を瀑布のやうに拡げて居て、そこを歴史が或る高処から落ちて来る。而してそれを吾等が見て居ると云ふものではないのである。
白紙を掛けたやうな「時」と云ふものは本よりないのである。さう考へるのは抽象の結果である。
随つて歴史が其上に何か跡づけて行くと云ふのは、本当の歴史の影を追つかけて飛びまはると同じである。
手に入れたと思ふのは抜殻に外ならぬ。そんな抜けがらを捉へて後生大事と心得て居るものに限つて、生きたものを死んだものに仕替へてしまふ。
即ち死骸のミイラを仏壇なり神殿なりに祭り込んで、その前に三拝九拝して、その中から後光の流れ出るのを待つて居る。
鰯の頭の信心よりまだ馬鹿げて居るのみならず、こんな手合ひに限つて、自分の抽象した干枯びたミイラの押売りをやらうとする。
自分だけの信心ならそれもさうで、別に他から何とも云はれず、またそれで趣きのあるものである。が、干物の押売をやる連中になると、その禍の及ぶところ誠に図り知るべからざるものがある。
 歴史の干物、「時」の影ぼふしを随喜渇仰して居る人々は、「過去」に膠着して一歩も前進し能はぬのである。干物はどうしても蘇息せぬ、影ぼふしはどうしても自分で動き出し能はぬ。
それ故、彼等には現在も未来もない、また主観を飛び越えるほどの元気もない。彼等はいつも過去の影を背負つて居るので、而してその影の重きに堪へ得ないので、過去をぬけ出て、現在にはひることが出来ぬ。
ましてそれから未来への飛躍を試みんとする意気に至りては、露ほどもない。本当の歴史は飛躍の連続である、非連続の連続である。
独尊者はいつも現在の刹那において過去から未来へ躍り出る。彼は現在の一刹那において黒暗暗の真只中を切り抜ける。此一飛躍の中で所謂る「過去の歴史」なるものが、溌剌たる生気を取り返すのである。
独尊者の巨歩は実に此の如く堂堂たるものである。何ものの閑人ぞ、敢て彼を干乾しにはせんとする。又何ものの「現実」主義者ぞ、彼を「過去」の棺桶の中に封じ去らんとする。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

468鬼和尚 ◆GBl7rog7bM 2018/10/21(日) 22:09:54.02ID:9L4oacuu
>>465>>466 行って見るのじゃ。

469名無しを整える。2018/10/22(月) 06:48:47.42ID:Cb0x4iHx
>>467
時の流れ 5
鈴木 大拙

 独尊者は「時」の流れに順はぬ、「時」の中に居ない。「時」は却つて彼の跡を逐ふのである。彼あるが故に「時」がある。彼の動くあとに「時」がのこるのである。
彼には固より「時」をのこす意図も何もない、彼ほど現実の具体者はない。抽象せられた「時」なるものは彼を何ともすることが出来ぬ。彼の後へにくつついてまはつて居る。彼に追ひつかんといくらあせつても
、彼はいつも「時」よりも一歩前進して居る。彼は「時」を使ふが、「時」は彼を使ひ得ぬ。昔趙州禅師は「諸人は十二時に使はれて居るが自分は十二時を使つて居る」と云つたが、その通りである。趙州は独尊
者であつた。これが臨済の、「随処に主となる」である。別に何かのはからひがあつて、主人公となると云ふのではない。「自然法爾」底なのである。人間的に「主」とか「客」とか云ふが、独尊者の方からはそ
んなものはない。孤行独往である。それを人間――「時」――が跡から跡からと逐ひまはる。而してそれを「歴史」と云つて、それに一所懸命にくひ下つて居る。彼等は「時」の流れに溺れるものである。
 独尊者とか、主人公とか、独往などと云ふと、世間で云ふ自我主義者又は専制家又は暴力団などを聯想するかも知れぬが、これほど甚しい誤解はないのである。
殊に近来は「力」哲学が盛んに宣伝せられて居る。力の前にはすべてのものが懾服しなければならぬやうに仕向けられて来た。それから此種の宣伝に乗じて、各種の暴力主義が謳歌せられて居る、又実行せられて
居る。併し此ほど危険な思想と現実はないのである。これが何年か続けば、国は亡びてしまふ、民族は衰へてしまふ。誠に寒心すべきである。

 歴史を解するには「時」を知らなければならぬ。「時」を知るには、多少かの思索・反省・分析が必要である。併し只それだけではいけない。思惟から直観へはひらねばならぬ。
即ち独尊者の実体を把握しなければならぬ、最も具体的か最も真実的で最後的なものを把握しなければならぬ。その時、「時」の流れと云ふことの意味に徹底し得られる。即ち本当に生きて行けると自分は信ずる。
(´・(ェ)・`)
(おわり)

470鬼和尚 ◆GBl7rog7bM 2018/10/22(月) 19:21:56.52ID:7ybubiMN
みつからなかったのじゃ。
おかしなことじゃ。

471名無しを整える。2018/10/22(月) 19:33:31.57ID:oORbRlU7
鬼和尚の仏教購読会 別館
https://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1539697204/8-n

どうでしょうか?

472名無しを整える。2018/10/22(月) 20:29:01.15ID:Cb0x4iHx
>>471
   , - ,----、
  (U(   )
  | |∨T∨
  (__)_)
ありがとうであります。

473名無しを整える。2018/10/23(火) 07:20:29.11ID:VTpVov2z
釈宗演師を語る
鈴木大拙1

 今年の夏、米国シカゴ市で万国博覧会を開くその序ついでに、万国宗教大会を催すと云う計劃けいかくがあったと聞く。併しかしそれは中止になったらしい。その理由の一として、もしそんな大会を開くと、今
から四十年前に同じ市で同じ会合があった時のように、東方からの宗教者に宣伝の好機会を与え、藪から蛇をつつき出すことになる、而しかしてそれは基督キリスト教徒にとって好都合のことではないと、こう云
うのが一の理由となって中止せられたものだと、或る人は云って居た。こんな理由もあったかも知れぬ。何故かと云うに、吠檀多ヴェーダンタ教や仏教など云う東方の教えが米国に入り込んだのは、実に印度や日
本の人々が宗教大会に大いに気焔を吐いた、その時からのことである。釈宗演師などの名が米国に伝わり、又再度の渡航を促すようになったのは、実にその因縁をこの時に結んだのである。
 不思議な因縁で、自分の渡米もこの時に出来たのである。仏教のうちでも禅が割合に英米に知れて来たのも、やはりその機はこの時から熟し始めたのである。それで今釈宗演師につきて語らんとするに当り、自
分の想は自然に今度計劃せられた宗教大会から四十年前の大会に溯るわけである。
 宗演師はその頃既に多少英語を解して居られたけれど、大したことではなかった。自分の英語も怪しいものであったけれど、それでも何かの助けになった。大会のプログラムを談じたり、講演の草稿をこしらえ
たり、往復の手紙を書いたりなどした。今から見ると、どんな事をやったか、随分冷汗をかくような事をやったに違いない。宗演師講演の英訳を了おえて、それを当時円覚寺内の帰源院に来て居られた夏目漱石さ
んに見てもらったことを覚えて居る。元良もとら先生も、その時居られたかと思う。
 とに角、この大会が縁になって、米国のケーラス博士は『仏陀の福音』と云うものを書いた。これが不思議にも欧米によく売れた。ケーラスは随分沢山色々の書物を書いたが、今でも売れる本は『仏陀の福音』
だけである。彼の名はこれで不朽になるであろう。自分はこの書を和訳した。それから、大会のプログラムによりて、自分は又また『新宗教論』と云う一著述をやった。
 余宗は知らぬが、こんな大会に臨済宗の管長で師家であったものが単身出かけるなど云うことは、破天荒の事であった。それで宗演師の渡米に反対するものも、可なりあったのは事実だ。併し師は敢然として外
遊することに決心して、著著その準備を進めた。今では禅坊さんの外国行は何でもないが、時勢も変れば変るもの。但しその始めをなす人には、可なりの決意と先見とが必要である。この点から見ても、宗演師に
は時代から一歩先んずるだけの見識と実行力があったわけである。その当時、師はまだ三十を越ゆること四、五を出でぬと思う(今年代記を持ち合わせて居ないし、その上自分は殊に時の観念に乏しいので、歴史
的記述は何時も無茶苦茶である。乞御諒察)。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

474鬼和尚 ◆GBl7rog7bM 2018/10/23(火) 23:02:31.58ID:pNxsBj4V
>>471 ご苦労さんなのじゃ。
 行ってみたのじゃ。

475名無しを整える。2018/10/24(水) 04:58:19.06ID:YiNn80E3
>>473
釈宗演師を語る2
鈴木大拙

 その頃平井金三ひらいきんぞうと云う人がシカゴ市に居て、大会では仏教のために大雄弁を振ったと聞いて居る、何でも英語に堪能であったと見える。印度からはヴィヴェカナンダと云う吠檀多教の大立者が来
て、この人が大会の花形役者であった。今時の米国基教者は、この人のようなものが、又大会に乗り込んで来るかと心配して居るのだ。印度人は語学の天才で、雄弁・高論をやる、その上印度思想の幽遠なところ
を滔滔とうとうとしゃべり立てたので、基教の外、世界に何の宗教もないと思って居たものにとっては、千年の夢一時に醒めたと云う塩梅であったに違いない。仏教者はそれほどに光彩を放たなかったが、今まで
の基教的伝統・因襲に飽きたらず居たものは、喜んで仏教に耳を欹そばだてたのである。宗演師の一行は、シカゴ市附近の富豪で、又思想界の趨向に興味を持って居たヘグラー翁に招かれ、その家にしばらく滞在
して、宗教上の問答をやった。固もとより師などは余り語学がいけないので、相手役は平井氏が主として勤めたが、言葉の上よりも、人格の上で一段の威圧を感ぜしめたのは、宗演師であったらしい。それは自分
が渡米してからも、何時までもその人々の口に上ったからである。これに言葉が自由に出来たら、中々面白き事もあったろうと思う。とに角これが機会となって、ケーラス氏をして『仏陀の福音』を書かしめたこ
とは、大なる収穫であった。
 宗演師は人を包容するだけの器量を備えて居られた、即ち人をして出来るだけその力を延ばさしめられた。自分等でも、喜んでその能を尽さんとの決心をしたものである。親切でよく人の世話をせられたけれど
、干渉がましいことは少しもしなかった。他を信じすぎられたかと思われさえもした。自分の力ではどうかと危ぶむことでも、平気で、「やれ」と命ぜられた、そう云われると、何だか今まで無い自信までついて
来ることもあった。
 こんな風にして弟子を育てられたものと見える。併し自分等は俗人でもあった故か、そんなに叱られたこともなかったが、植村などは随分ひどくやられたと思われた。植村定造と云うのは、始め自分等と一緒に
学生として参禅したものだ。ところが、大学を出てから植村は坊さんになった。老師の弟子になって宗光と命名せられた。自分が在米十余年間に一廉の人物に仕上げられたらしい。その間の生活は知らなかったが
、老師が再度の渡米の時洩らされた述懐談で、その模様の大体を知り得た。宗光の亡くなったのは、宗演師にとりて非常の打撃であった。彼もし今日に生きて居たなら、一方の宗匠として、何かやり得たと思う。
他のお師家さん達や管長さん等のように、妙に納まりこんで、「吾こそは三界の大尊師でござる」と云って居ることはなかかろうと信ずる。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

476名無しを整える。2018/10/25(木) 07:23:23.65ID:6zs4wAut
>>475
 話は横に入ったが、植村宗光は、日露戦争が休戦の仮条約を締結したその次の日に戦死したのである。彼は予備少尉か中尉であったので、戦争に呼び出された。戦争も大分進んで居た頃なので、新参の士官など
は古参のものにいじめられたそうだ。それで馬賊の指揮の方へまわされて、正規の戦闘よりも、間道へ間道へと進んで行った。これが早く休戦の報に接する機を失した所以だ。その頃東京の自分へ送った手紙には
、「直宗光」と云う赤い大きな名刺を添えて、実戦に処した経験などを審つまびらかに云って来た。通化附近の戦に股を射貫かれて倒れ、遂に捕虜となったらしい。それから先は、どうしても分明でない。その筋
も手を尽したが、どうも通化あたりで銃殺せられたらしい。その報知が在米の宗演師の手許に来たのだ。
 もう休戦にもなったから植村も除隊で渡米して来るかも知れぬなどと、互に噂して喜んで居た矢先、宗光戦死の知らせ。その時の老師の落胆の模様は今でも目に浮ぶようだ。「死んではもう万事休す」だと云わ
れた時、自分も旧友を懐おもうて悵然ちょうぜんたらざるを得なかった。丁度夕方頃で、太平洋沿岸の一室、落莫たる大海原に対して憮然ぶぜん久之の光景、誠に気の毒であった。その後老師の洩らされた言葉に
、「こんなに死んで行くなら、あれほどにしなくても善かったのに」と云うのである。その意味は、「あれまでに強く痛棒を加えて、無慈悲と思われるほど鍛錬の力を加えなくてもよかった、可哀相なことした」
と云う心である。植村は中年で僧侶になったもの故、殊に目をかけて、我慢の角を矯め、且つ他時異日たじいじつの発展を期せんとて、痛く鉗鎚けんついを加えられたものと見える。それでこの長歎息ちょうたん
そくがあったわけだ。親が子供に対すると同じ情熱の気分が見える。宗演師は一個の禅僧として、意志強く、又世を浮雲の如く見て行く、所謂いわゆるお悟りの人のように思われもしたであろうが、その実、情の
人であった。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

477名無しを整える。2018/10/26(金) 02:40:20.46ID:/NSX7I9Y
>>476
釈宗演師を語る4
鈴木大拙

 情の話をすると、こんなことがあった。或る時、若い婦人(と思う)が早世した。その葬式に臨んで、不図ふと師は涕泣ていきゅうした。傍人はこれを怪しんで、「世捨人にも亦これあるか」と云う。このこと
を師は後からわしらに話して、「世間では禅坊主はまるで人間でないと思って居るらしい」と云って居られた。
 宮崎虎之助みやざきとらのすけは、「予言者」として飛びあるいた、妙な宗教者であった。わしの所へ尋ねて来て、これから東慶寺へ行くから紹介せよと云う。宗演師に会って、色々と自分の不遇・不幸を訴え
たと見える、即ち或る宗教者は有福なブル的生活をして居るのに、自分は轗軻かんか不遇、今日の衣食にすら窮すると云う不平であったらしい。これは後から老師から聞いたのである。その時老師は、「そんな不
平があっては、まだ真の予言者にはなれぬ、今一段の修行を要する。併し実際問題として、衣食に窮してはお困りだろう」と云って、老師は信者の喜捨金一包をそのまま与えて別れられたことがある。宮崎君のよ
うな宗教家は時々見付かる。一種の体験はあるが、知性の発達が、これに伴って居ないので、事物全般の展望が欠けて居る、それで畸形児的なものに成って仕舞う。一寸書き加えておく。
 野田大塊居士が、野人そのままの風采で、、円覚寺から下りて来て、向いの松ヶ岡へ行かれるのに、時々出くわしたことがある。呼ばれて東慶寺で一緒に話したこともある。少し出過ぎたかも知れぬが、或る日
老師に、「野田と云う人は、所謂る昔風の豪傑で、枝大葉そしたいよう、今日の政治家に適して居るか、どうです」と云った。すると老師は、「いや、ああ見えても、中々秩序の立ったよい頭を持って居る」とて
、深く推奨せられたことを覚えて居る。
 又或る時、円覚寺中興の祖、誠拙せいせつ和尚に「大用国師」の追諡ついしがあった時、わしは又出過ぎたことを云ったことがある、「今日の坊さんは、国師号を戴くことや、寺を建てたり、法事をしたりする
ことに、骨を折ってばかり居る。もっと建設的な仕事をやらぬと、仏教や禅道の将来は思いやられる」と。こう云った時、老師は何時ものようには何の意見も吐かれず、黙して居られた。寺を建てること、法事の
ことなどにつきての老師の意見は多少知って居るが、今度は国師号のことを附け加えて愚見を吐いたので、「予が現に報いんとする切情を知らぬ、この馬鹿奴」とでも思われて、沈黙を守られたかと、まあ今はそ
う考えて居る。
 宗演師は六十一にならんとして逝かれた。今日生きて居られぬ齢でもない。居られると、有難い高僧であったろう。折に触れて逝かれた人を思うこと誠に切なるものがある。学生時代から、金がなければ金を貰
い、智慧が足りなければ智慧を借り、徳が薄いところ、気のきかぬところは、その時々に補って貰い、亡くなられるまで面倒をかけたその人と、相別れて既に十五年(?)ほどになる。
 師は誰にでも情の厚い人であったが、自分から見ると殊にそんなように感ずる、これは人情の常であろう。
 今日師を語らんとして、ただ思い出すことの一片を書き付くると、何時とはなしに
、私情を語るようになった。読者の寛恕を乞う。
(三月三十一日、円覚寺、春雨に閉籠められて記す。)

(´・(ェ)・`)
(おわり)

478名無しを整える。2018/10/27(土) 09:48:15.21ID:196wGA8V
>>477
――禅僧の友人に与う――
鈴木大拙

 昔は方外の友などといえば、面白い聯想もあったものである。勿論もちろん近代といえども、僧侶殊に禅僧については、尚なお従来の伝説やら歴史やら挿話などが、くっついているので、わしらも審美的に方外
の友に対して一種の興味を有っていることは事実である。併しこんな趣味がいつまでも続いて行くのがよくないのかも知れぬ、所謂いわゆる中古的骨董的趣味とでもいうべきもので、進化の歴史からは、こんな低
徊主義は自ら亡びて行くのが本当かも知れぬ。今日の多くの禅僧達には

楊岐乍住屋壁疎  楊岐ようぎ乍はじめて住するや屋壁おくへき疎まばらにして
満床皆布雪真珠  満床まんしょう皆な布しく雪ゆきの真珠しんじゅ
縮却項暗嗟吁   項くびを縮却ちぢめ暗ひそかに嗟吁さうし
翻憶古人樹下居  翻ひるがえって憶おもう古人こじんの樹下じゅげに居せしを
(『楊岐法会語録』)

などと貧乏に安んずる清僧も余りないようであり、又

摧残枯木倚寒林  摧残さいざんせる枯木こぼく寒林に倚より
幾度逢春不変心  幾度いくたびか春に逢うも心を変えず
樵客遇之猶不顧  樵客しょうかく之に遇うも猶お顧かえりみず
郢人那得苦追尋  郢人えいひと那なんぞ苦しきりに追尋ついじんするを得ん
(『景徳伝燈録』巻七大梅法常章)

というような風流気のある仙僧も見受けぬようである。これに反して日曜学校をたてたり、病院をこしらえたり、孤児院の世話をしたり、小学校や中学校を経営するものは、そこここに見当らぬこともない、これ
が禅僧の時勢に適しいやり方なのであろうか。
女房もあり子供もあり、葷酒はいうに及ばず肉食も勝手にやるようになった今日では、禅僧について居た古来の聯想や歴史を全く棄てて、当世風になるのが、所謂る和光同塵の精神かも知れぬ。併しかしわしらは
今日までも尚なお禅僧の君等を方外の友人として見たいのである。

(´・(ェ)・`)
(つづく)

479名無しを整える。2018/10/28(日) 05:11:45.03ID:zgNaECcQ
>>478
僧堂教育論
――禅僧の友人に与う――
鈴木大拙

 中学時代から世話してやった大学の学生がこの頃遊びに来ると、曰く、もう三十以上の人間は今時駄目である、古い頭では何にもならぬと。わしらは三十どころでないのであるから、頭も最も古い方々に属する
。そのせいか知らぬが、禅僧などに対する趣味は尤もっとも古臭い。殊に工業主義、器械主義、商売主義のみ横行する今日のような世界に、昔気質の禅僧が一人や二人、出来るなら、日本全国に百人ばかり居てく
れたらと思うこと屡しばしばである。貧乏寺でも何でも構わぬが、孤貧を守りて金力に屈せぬ坊さんがいると如何にも愉快に感ずる。大臣だとか華族だとかいえば、慇懃いんぎんを尽くすというような阿附主義で
ない坊さんがいると如何にも溜飲が下がる。枯淡な生活に安んじて、如何にも古禅僧を憶うというような坊さんに出遇うと、何か知らず有りがたくなる。如何にも消極的ではあろうが、そこに不思議に人を引きつ
ける力がある。自分が権力を憚はばかり、金力を恐れねばならぬ境遇にいるからの事でもあろう、君等の禅僧の地位が羨ましい。この期待を裏切る坊さんがいると、それだけ癪しゃくにさわるわけであるが、それ
は余り多くを坊さんに望むからのことであろう。それはとに角として、世間には自分たちのような理想を禅僧の上に懸けて居る人がないでもなかろう。趣味の新古は別として、わしらは保守主義の上にも一種の審
美感を有っているのは事実である。これは田舎の爺さんにちょん髷まげを望むのと少しは違うと思う、強いて言えば、角力取すもうとりの髷をそのままに保存したいと思う位かも知れず。併し予自身にとりては、
保守主義の古禅僧にはそれどころでない、もっともっと意義ある何かが著いているように思う。
 処ところが、今日の禅宗には段々に古いところがなくなって、どこに禅宗の禅宗たるところがあるのか分からなくなって仕舞った。お経のよみかたが違い、お経が違い、儀式が違い、お寺の構造が違い、衣や袈
裟が違う、それだけで禅宗の特色が出るものなら、五山も十刹も、片端しからつぶして、それを皆真宗に代えたらよい。真宗にも制度の上や歴史の上などで随分変更させなくてはならぬものもあるはあるが、日本
に発達した仏教、民衆の宗教としては、禅宗などより真宗の方が余程力がある。禅は余りに貴族的で、選ばれたものだけの宗教であるが、真宗には誰人をも包摂する力がある。禅刹をみな真宗に改めるも亦また妙
ではないか、肉食妻帯お構いなしの処などは、今時の禅坊さんの尤も歓迎するところである。それはそうとして、予が始めから述べたいと思うところは僧堂教育なのである。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

480名無しを整える。2018/10/29(月) 06:00:30.83ID:pHb3VOsB
>>479
僧堂教育論 (つづき)
――禅僧の友人に与う――
鈴木大拙

 禅宗にはどこにも禅の特色として見るべきものがない、今日の処、禅は一派の宗旨としては、亡滅の悲運を期するより外にないと云うてよい。それにしても何とかして救いたきはその教育法である。その中に始
めから居るものは、こんなものなどと云うかも知れぬが、予等の如き俗人にとりては、僧堂教育の精神ほど有り難いものはないのである。予自身の歴史から見て、僅かの年月ではあるけれども、僧堂のご飯を食べ
たと云うことが、どれほど予が徳性の上に影響を及ぼしたかわからぬ。今でもその時代のことを思い出しては有り難いと感謝して居る。こんな因縁だけでも、予は禅に対して報恩底のことを何か為なくてはならぬ
と思わざるを得ぬのである。その時代の人で下らぬ坊さんも居たとは思うが、それでも今日一方に割拠して既墜きついの真風を振い起さんとして居る人もないではない。禅宗の命脈は現時のお寺様の上に亡びて、
僧堂のうちに繋がれて行くのである。所謂る和尚さまなるものの上には、弥いやが上うえに痛棒を加えておいてよいが、禅堂の組織と精神の上には何とかして行末絶えざる栄光あれと祈るのである。
 殊に僧堂教育の精神が現時日本の学校教育の痛処に針を下すが如き趣があるので、これはどうしても守り立てなくてはならぬ、今のままでは勿論よくあるまい。もっと閑があり、金があったら、シナへ行って僧
堂の現状から、その地における歴史、それから日本僧堂の沿革などを調べて見たら、何か現時の精神教育に裨益ひえきすることもあると信ずる。今は自身の経験から見た特徴の最も尊ぶべきを二、三述べたいと思
う。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

まもなく、落ちそうである。
落ちたら、青空文庫でつづきをどうぞ!

481名無しを整える。2018/10/30(火) 08:20:57.68ID:aJG/qZmC
>>480
僧堂教育論(つづき)
――禅僧の友人に与う――
鈴木大拙

 禅堂教育で予の最も喜ぶところはその実地的なるところに在る。人生の実際について直ちに品性の陶冶とうやをやるところが教育になるのである。近頃米国あたりの新教育主義に“Learning by doing”と云う
事がある、それは勿論知識修得の上の話である。固もとより知識修得がやがて品性陶冶になるので、所謂る智育と徳育とは一つになって行なわれるのである、が、新教育主義の眼目は知識を実地経験の上に獲得し
ようとする処に在る。僧堂教育はこれを直ちに品性修養の上に実習するのである。「一日不作一日不食」というた百丈の精神は経済的であったか、今日の所謂る共産主義者の心持であったかどうか、それはわから
ぬとしても、日日の作務普請によりて、禅の力を実地の上に鍛錬することは、禅堂の特色である。大衆が自営主義を実行するのは貧乏のためだけではない、この貧乏で一物いちもつ不将来ふしょうらいの所が又有
り難いのであるが、とに角経済の上には托鉢をやり田作りをやり薪拾いをやらねばならぬ。それをやる所に空想妄想の発生を自ら防ぐ途が開けて来る。そうしてその中から水を汲み柴を搬はこぶ即ち是れ神通妙用
じんずうみょうゆうという智慧が湧き出る。かくの如くにして湧き出たものでないと、所謂る学校の卒業生のようで煩悶とかいうものに囚われて仕舞う。何だか理窟はいうても、手や足が言うことを聞かぬ。覚え
た理窟は概念で抽象性を帯びているから具体の実地界へ来るとまごつかざるを得ぬ。これを禅坊さんの如何にも甲斐々々しいのに比べると話にならぬ。実地の訓練をへぬと物にならぬ。日本近時の学校教育が形式
にばかりなって働きがないのは、つまり僧堂教育の精神がかけているからである。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

482名無しを整える。2018/11/04(日) 10:21:41.82ID:sMyUToME
【炎の講演家】鴨頭嘉人【稀代の天才】
http://itest.5ch.net/fate/test/read.cgi/keihatsu/1541292729

483名無しを整える。2018/11/17(土) 11:10:06.89ID:fLI40mer
>>481
僧堂教育論(つづき)
――禅僧の友人に与う――
鈴木大拙

 第一学校で時間を定めて、朝八時から午後二時か三時まで、何を教え、何を習うというのが間違である。こんな稽古はまず跡まわしにして学校では実地の仕事を先きにやる。学校の掃除、器具の手入れは勿論、
賄まかないもやる、草取りもやる、運動場の設備もやる、その町々の衛生的経営実施もやる、村の道普請もやる、殖林もやる、校舎の増築もやる、電車の軌道も築き上げる、耕作もやる、下水の疎通もやる、園丁
にもなる、小使にもなる、使あるきをやる、その外人生社会に必須な仕事は何でもやる、必要なる専門家の指揮の下でこれをやる。これを午前午後の日課にする、或は一日の授業がこれで済んでもよい。
何十人か何百人かの学生が手を分けて毎日一定の時間だけこんな塩梅になって行けば、学校のある附近の町々は、余程文明的施設に富むことになるに相違ない。
勿論もちろんこれをやるには今日の学校の組織では出来ぬ。根本の主義が違うからである。市の原則、即ち実行によりて学習するという原則を本とした教育法は、又別個の問題として深く実地的に考えて見ねばなるまい。
(´・(ェ)・`)
(つづく)
落ちたら、青空文庫へ

484名無しを整える。2018/11/18(日) 10:02:34.98ID:00Jr3zD3
僧堂教育論(つづき)
――禅僧の友人に与う――
鈴木大拙

 とに角、禅堂教育の主眼は実地主義であるから従来の慣習を今少し拡張して、禅堂所在の村々に対して何か社会的計画をやることにまで歩を進めたらどんなものか知らぬ。
雲水の大衆は僧堂に何年かいるものとして、その幾年かの一分を社会的奉仕に用うる。
本山における事業を扶たすけるのみでなく、又村の葬式をやるだけでなく、前の川が雨で崩れたらそれも直す、道路の修繕も、小作もやる、村の若いものの夜学や日曜日の稽古や遊びなども指導してやる、村に図
書館のようなものでも建てる世話をしてやる、悪い顕俗を矯ためてやる、屋根葺やねふきも手伝ってやる、必要なら車も引く、馬を追う、何でも社会的生活に大切なこと、これを向上するようなことには、大衆の
手を貸してやる。
そうしてそれに対する報酬は、相手の随意にしておく、而して師家を助けて行く評席格の人々は、是等の奉仕者を監督し、激励して行く、僧堂教育の精神をよく発揮するように世話してやる。
 こんな塩梅に実地に修行して行くと六、七年の後には、世間の経験に習熟した禅坊主さんの幾許いくばくかが毎年社会に出て行くことになる。
こんな人々が自分の寺に帰ると、直ちに肉食妻帯の和尚さん又は葬式屋さんにはならずして、その村々のために文化的施設をやろうと思う、自己の向上のために益学問でもやろうと思う人々が出来る。
僧堂卒業の人が皆こうなるではなかろうが、何分の一かがかくの如くなって行けば、十年五十年の後、可なりの人類が日本に出来るようになるに相違ない。
(´・(ェ)・`)
(つづく)
落ちたら、青空文庫へ

485名無しを整える。2018/11/19(月) 07:02:54.69ID:jq5Ij3Yy
僧堂教育論(つづき)
――禅僧の友人に与う――
鈴木大拙

 封建時代の僧堂を出た人は、在堂の間に色々の事を修得した、単に労作的の事だけでなく、趣味的文化的修養さえもやった。詩文の一つも出来るのみならず、坐作進退などの諸儀式も習った。刀のぬきかた、槍
の使い方さえも心得る、その外随分さまざまの芸をやった。
昔しの坊様は社会的に有用家人であった、人を教うる資格があった。
今日は封建の時代と違い、吾々の理想は遥かに広く高くなった。従ってそれに相応した実地の教育が僧堂に行われてもよいと思う。
近頃一燈園の評判が高い、善悪の批評はあるが、又一種の試みである。とに角、これに入り来るものが相当にある処を見ると、ある種の希望を満足させるものと見ねばならぬ。
奉仕のあとが近代的でなく、又如何にも消極的で、退嬰たいえい主義のところがあるのは、まったく欠点であるというて可い。
 禅宗の坊さんが只冥想にのみ耽けらずに勤労に服すると云う教育はどこまでも保存しなくてはならぬ。
百丈が「一日作さざれば」の精神を、経済的にだけでなく、寧ろ宗教的に解して、これを禅堂の根本主義に、いつまでも、しておきたいものである。
(´・(ェ)・`)
(つづく)
落ちたら、青空文庫へ

486名無しを整える。2018/11/20(火) 06:11:34.82ID:ZBT+MzXF
僧堂教育論(つづき)
――禅僧の友人に与う――
鈴木大拙

 実行によりて学習すと云う精神と相並びて大切なのは陰徳を重んずることである。
これはシナから伝来した禅風かどうかは知らぬが、禅堂生活の第一義としてこの「左の手でした事を右の手に知らせない」と云う道徳は、是亦また誠に有り難いことである。
世間的道徳律をのみ見て居た青年の自分が禅堂に入りてこの陰徳主義を教えられたとき、これは誠に有り難いことであると思うた。何でもないようなことであるが、わしらの頃には、禅堂で朝起きて面なり手なり
を洗う水の如何にも少なかったことである。普通手洗水鉢に備えてある手杓の三分一ほどの手製のものがあった、それで汲み得る水で面を洗うのである。又それで口を嗽すすぐのである。猫の顔を洗うような塩梅
であった。なぜそんなことをするのかと聞けば、陰徳をつむのである。天与のものを無駄使いせぬのであると云われた。
そこにどんどん水が出て居てもそれである。その時私は思うた。成程そうである。われらは天与のものを乱用アビユースする権利はない。太陽は正直なものの上にも、不正直なものの上にも照ると云うが、われら
から見ればその照るのが有り難いのである、勿体もったいないのである、この勿体ないと云う事が宗教の精神である。
(´・(ェ)・`)
(つづく)
落ちたら、青空文庫へ

487名無しを整える。2018/11/21(水) 06:42:54.51ID:8dU7ryKD
>>486
僧堂教育論(つづき)
――禅僧の友人に与う――
鈴木大拙

禅宗では人を人とも思わぬようなことをやるが、それでもこの勿体ないと云う心、与えられたものを無暗むやみに使い尽さぬと云う心がなかったら、多くの禅坊さんは皆箭やより速かに地獄へ堕つることであろう
。この主義を推して行くと中々種々の事の上に応用せられる、今一々これを説くわけにゆかぬが、どうしてもこの勿体ないという心持が何事につけてもなくては十年二十年の修行も全く無用である。陰徳をつむと
いう処に語弊はある。が、勿体ない、有り難いという心には、誠に尊むべき宗教心の閃めきが仰がれる、禅の修行もこれを目当にしなくてはならぬ。一向宗の人は何かいうと「有り難うございます」という、口癖といえばそれまでであるが、ここに留意す
べき心念がある。基教の人は謙遜ヒュミリティーという、その心持は「有り難い」と同じであろう。どの教でも究竟はここへ来ることではないかしらん。
(´・(ェ)・`)
(つづく)
落ちたら、青空文庫へ

488名無しを整える。2018/11/22(木) 03:57:57.98ID:lR9c4m5i
僧堂教育論(つづき)
――禅僧の友人に与う――
鈴木大拙

 この「有り難い」を禅堂教育の中心主義としたい。これは義務心だとか権利だとかいうのではない。只何故とも知らずに「涕涙ているいこぼるる」である。こうなると報酬の念が出なくなる。近代文化の大禍害
を癒やし得る最上の良薬はこの無報酬の念でなくてはならぬ。
何かというに、今日吾等の文明が吾等の精神の上に加えた最も罪深い仕業は、何事をも金銭で勘定をつけるということである。
如何なるものも何かの代金で買われるという考え、これが近代文明の一切の悪事の基本的概念なりである。
あれはいくらの収入がある、いくらの財産を持って居るなどいうことが、すべての人の上下貴賤を批判する唯一の標準になって仕舞った。何でもかでも金銭でその価値を定めるというのである。
是れは如何にも賤しい考である。どうしてもこの考から超越しなければ、本当の精神的価値は出て来ぬ。
世間の学校では形式的の忠孝主義や愛国心の鼓吹をやったけれども、これには亦時代錯誤の処もある。
これからは人間の真個の価値というものを目当てにして、これを完成するようにしなくてはならぬ。そうして之をするには無功用主義の道徳をその根本から闡明せんめいするということが先ず第一である。
(´・(ェ)・`)
(つづく)
落ちたら、青空文庫へ

489名無しを整える。2018/11/23(金) 08:22:05.45ID:W/xBF/bL
僧堂教育論(つづき)
――禅僧の友人に与う――
鈴木大拙

 何でも金銭で勘定することになると、金持ちが一番えらくなる、これが今日の趨勢である。
あれは何百万円出したとか、家屋や庭園を公共用に提出したとか云うと、新聞などは大騒ぎをやる、如何にも馬鹿げた話しである。
わしらは金こそ提供しない、地面こそ寄附しない、そんなものは始めからないのである。
併しわしらは自分の持って居る力を日々提供して居る。少しの学問でもあれば、それを奉仕の用に使う、読書の力、文章の力、思索の力、何でも有るものは悉ことごとく公衆のため文化促進のために使って居る。
そうして是等は金銭で換算せられて居らぬ、その実は換算出来ぬのである。
禅堂の師家など如何にも無報酬労働主義を体験して居らるる、えらいものである。
その労働を資本主義家の金にしたらどの位になるか知れぬ。数字に直して何十とか何百とか云えば、世間の盲目漢はきょろきょろする、如何にも見苦しい。
共産主義の人々は此等俗人の俗見に倦あいて来た、それでこれを経済的見地から改造しようと思うのである。
併し見地が経済的水準を出ない以上は、何処かに欠陥が現われないでは止まぬ。そうしてその欠陥が以前のより更に大なるかも知れぬ。
どうしても考を経済学以上の処まで上げなくてはいけない。それをなし得るのは、宗教の力、殊に僧堂の如き教育組織の下で成就すると信ずる。
(´・(ェ)・`)
(つづく)
落ちたら、青空文庫へ

490名無しを整える。2018/11/24(土) 01:01:37.08ID:2QZoz2jB
僧堂教育論(つづき)
――禅僧の友人に与う――
鈴木大拙

 今日の僧堂教育は種々な方面から改造を要することであろう。
それはその局に当るものが深く考えたら何か名案が出るに相違ない。
只わしらの大おおいに当局者に頼みたいことは、上来じょうらいほんの大体だけを述べた陰徳と労力主義との二つを教育の中心にして万端の施設をそれから割出して欲しいと云うことである。
この二つは何れも今日の教育の弊を矯めるの最も有効なる原則である。
これが昔しから僧堂に伝わって来たと云うことは、吾等の祖師に対して大に感謝すべきところなのである。
恐らくは予が禅僧に対する保守的趣味の根元を分析して見ると此等両個の原理に対するあこがれが現われ出るも知れぬ。
近頃そこらあたりに、いくつとなくごろごろして居る禅寺の坊さんに対する嫌悪の念、又その中に二、三今尚古風を標榜して居らる禅僧に対する欣幸きんこうの念、この二つの正反対の感じが、わしら俗人どもの
胸に往来するのは、単に保守主義に対する審美感より出るのではないかも知れぬ。
もっと深いところに何かあるのであろう。吾等の宗教的意識は近代化した禅宗だけでは、何としても、満足することが出来ぬのである。
 尚君に書きつけて送りたいこともあるが、余り暑いのにと思うて又次の折を待つことにする。
(´・(ェ)・`)
(おわり)

491名無しを整える。2018/11/24(土) 07:52:42.91ID:2QZoz2jB
サティパッターナ・スッタ (Satipatthana Sutta) 大念住経 (大念処経)

わたしはこのように聞きました。

ある時期、ブッダは クル国 のカンマーサッダンマという町に滞在していました。
ある日ブッダは「修行者たちよ」と声をかけられました。
「はい、尊者よ」と修行者たちが返事をすると、ブッダは次のように説き始められました。
たった一本の道があります。
その道とは、生きているものを清らかにする道です。
悲しみや嘆きを乗り越える道です。
肉体的苦痛や精神的苦痛を終わらせる 道です。
正しい道 を見つけ、ニルヴァーナ を実現する道です。
そのたった一本の道とは、四つの サティパッターナ です。
この四つとはそれぞれ何でしょう。
身体は身体にすぎない、わたしのものでもなく、わたしでもなく、自分でもなく、現象にすぎない と気を抜くことなく、きちんと理解し、心に留めます。
そのようにいつも感じて生き、この世での強欲や憂いを遠ざけるのです。

感覚 は感覚にすぎない、わたしのものでもなく、わたしでもなく、自分でもなく、現象にすぎない と気を抜くことなく、きちんと理解し、心に留めます。
そのようにいつも感じて生き、この世での強欲や憂いを遠ざけるのです。

心は心にすぎない、わたしのものでもなく、わたしでもなく、自分でもなく、現象にすぎない と気を抜くことなく、きちんと理解し、心に留めます。
そのようにいつも感じて生き、この世での強欲や憂いを遠ざけるのです。

心の中味 は心の中味にすぎない、わたしのものでもなく、わたしでもなく、自分でもなく、現象にすぎない と気を抜くことなく、きちんと理解し、心に留めます。
そのようにいつも感じて生き、この世での強欲や憂いを遠ざけるのです。
(わたしはこのように聞きました 了)
(´・(ェ)・`)つ

492名無しを整える。2018/11/25(日) 08:29:21.68ID:84qwfDLe
サティパッターナ・スッタ (Satipatthana Sutta) 大念住経 又は 大念処経

一 身体のサティパッターナ
1. 息を吐く・息を吸う

では、どうすれば、身体は身体にすぎない、わたしのものでもなく、わたしでもなく、自分でもなく、現象にすぎない といつも感じて生きることができるでしょう。

森に行き、樹の下か、誰もいない静かな場所で脚を組み、背筋を伸ばして座り、深い気づきをその対象に向けます。
そして、研ぎ澄まされた深い気づきで、息を吸い、息を吐きます。
長く息を吸う時には 「長く息を吸っている」 と自覚します。
長く息を吐いている時には 「長く息を吐いている」 と自覚します。
短く息を吸う時には 「短く息を吸っている」 と自覚します。
短く息を吐いている時には 「短く息を吐いている」 と自覚します。
「呼吸する身体全体を感じながら、息を吸おう」 このように訓練します。
「呼吸する身体全体を感じながら、息を吐こう」 このように訓練します。
「呼吸を静めながら、息を吸おう」 このように訓練します。
「呼吸を静めながら、息を吐こう」 このように訓練します。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

493名無しを整える。2018/11/26(月) 06:50:14.16ID:J5c85IAe
>>492
サティパッターナ・スッタ (Satipatthana Sutta) 大念住経 又は 大念処経

一 身体のサティパッターナ
1. 息を吐く・息を吸う(つづき)

熟練の轆轤 (ろくろ) 匠にしてもその弟子にしても、轆轤 (ろくろ) の紐を長く引く時には 「長く引いている」 と自覚しています。短く引く時には 「短く引いている」 と自覚しています。
そのように、修行者も長く息を吸う時には 「長く息を吸っている」 と自覚し、長く息を吐く時には 「長く息を吐いている」 と自覚するのです。
短く息を吸う時には 「短く息を吸っている」 と自覚し、短く息を吐いている時には 「短く息を吐いている」 と自覚するのです。
「呼吸する身体全体を感じながら、息を吸おう」 このように訓練します。
「呼吸する身体全体を感じながら、息を吐こう」 このように訓練します。
「呼吸を静めながら、息を吸おう」 このように訓練します。
「呼吸を静めながら、息を吐こう」 このように訓練します。
このように、自分にとって身体は身体にすぎない、わたしのものでもなく、わたしでもなく、自分でもなく、現象にすぎない、といつも感じて生きるのです。
他人にとっても 身体は身体にすぎない、といつも感じて生きるのです。
自分にとっても他人にとっても 、身体は身体にすぎない、といつも感じて生きるので。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

494名無しを整える。2018/11/27(火) 07:21:59.67ID:9Q2Se5FL
>>493
サティパッターナ・スッタ (Satipatthana Sutta) 大念住経 又は 大念処経

一 身体のサティパッターナ
1. 息を吐く・息を吸う(つづき)

身体が存在する原因 と、実際に身体が出現するのを、いつも感じて生きるのです。
身体が存在する原因と、身体が実際に消消滅するのを、いつも感じて生きるのです。
身体が実際に出現し、実際に消滅するのを、 原因 とともに、いつも感じて生きるのです。
つまり、魂でもなく、自分でもなく、わたしでもなく、身体のみが存在するという事実を、はっきりと自覚するのです。この自覚が、洞察や気づきを着実にもたらすのです。
修行者は、渇望や 間違ったものの見方 から距離を置き、世の中の何ものにも執着しないで生きるのです。
* (注 )
これが身体は身体にすぎない、といつも感じて生きる方法なのです。
(息を吐く・息を吸う 了)
(´・(ェ)・`)つ

495名無しを整える。2018/11/28(水) 07:02:54.65ID:+uNAgXZA
>>494
サティパッターナ・スッタ (Satipatthana Sutta) 大念住経 又は 大念処経

一 身体のサティパッターナ

2. 歩く・立つ・座る・横たわる

そして、歩いている時には 「歩いている」 と自覚します。
立っている時には 「立っている」 と自覚します。
座っている時には 「座っている」 と自覚します。
横になっている時には 「横になっている」 と自覚します。
つまり、自分の身体がどのように動いているのか、止まっているのか、を自覚するのです。
このように、自分にとって身体は身体にすぎない、わたしのものでもなく、わたしでもなく、自分でもなく、現象にすぎない、といつも感じて生きるのです。
他人にとっても 身体は身体にすぎない、といつも感じて生きるのです。
自分にとっても他人にとっても 、身体は身体にすぎない、といつも感じて生きるのです。
身体が存在する原因 と、実際に身体が出現するのを、いつも感じて生きるのです。
身体が存在する原因と、身体が実際に消滅
するのを、いつも感じて生きるのです。
身体が実際に出現し、実際に消滅するのを、原因 とともに、いつも感じて生きるのです。
つまり、魂でもなく、自分でもなく、わたしでもなく、身体のみが存在するという事実を、はっきりと自覚するのです。
この自覚が、洞察や気づきを着実にもたらすのです。
修行者は、渇望や 間違ったものの見方から距離を置き、世の中の何ものにも執着しないで生きるのです。
* (注 )
これが身体は身体にすぎない、といつも感じて生きる方法なのです。
(歩く・立つ・座る・横たわる 了)
(´・(ェ)・`)つ

496名無しを整える。2018/11/29(木) 06:08:07.10ID:zWAdKiks
サティパッターナ・スッタ (Satipatthana Sutta) 大念住経 又は 大念処経

一 身体のサティパッターナ
3. きちんと把握する

修行者は、出ていく時も戻る時も、きちんと把握して行動します。
前を見ていても、どこを見ていても、きちんと把握して見ます。
手足を曲げる時も、伸ばす時も、きちんと把握してそうします。
托鉢の鉢を持つ時も、僧衣を身に着ける時も、きちんと把握してそうします。
食べる時も、飲む時も、噛む時も、味わう時も、きちんと把握してそうします。
小便をする時も、大便をする時も、きちんと把握してそうします。
歩く時も、立つ時も、座る時も、寝入る時も、目覚める時も、話す時も、黙っている時も、きちんと把握してそうします。
このように、自分にとって身体は身体にすぎない、わたしのものでもなく、わたしで
もなく、自分でもなく、現象にすぎない、といつも感じて生きるのです。
他人にとっても 身体は身体にすぎない、といつも感じて生きるのです。
自分にとっても他人にとっても 、身体は身体にすぎない、といつも感じて生きるのです。
身体が存在する原因 と、実際に身体が出現するのを、いつも感じて生きるのです。
身体が存在する原因と、身体が実際に消滅するのを、いつも感じて生きるのです。
身体が実際に出現し、実際に消滅するのを、 原因 とともに、いつも感じて生きるのです。
つまり、魂でもなく、自分でもなく、わたしでもなく、身体のみが存在するという事実を、はっきりと自覚するのです。
この自覚が、洞察や気づきを着実にもたらすのです。修行者は、渇望や 間違ったものの見方 から距離を置き、世の中の何ものにも執着しないで生きるのです。
* (注 )
これが身体は身体にすぎない、といつも感じて生きる方法なのです。
(きちんと把握する 了)
(´・(ェ)・`)つ

497名無しを整える。2018/11/30(金) 14:28:14.61ID:hmI6l8+U
サティパッターナ・スッタ (Satipatthana Sutta) 大念住経 又は 大念処経

一 身体のサティパッターナ
4. 不浄の観想

そして、足の裏から上へと、髪の毛の先から下へと、皮膚に覆われさまざまな不浄物でいっぱいのこの身体をじっくりと観想します。

「この身体には、髪、毛、爪、歯、皮膚、肉、筋、骨、骨髄、腎臓、心臓、肝臓、肋膜、脾臓、肺、腸、腸間膜、喉、顔、脳、胆汁、痰、膿、血、汗、固形脂肪、涙、液体脂、唾液、粘液、滑液、尿がある」 と。
両端に口があり、中にサーリ籾米、ヴィーヒ籾米、緑豆、豆、胡麻、玄米など、いろいろな穀物で一杯になっている袋があるようなものです。

見分ける眼を持った者が、袋を開けて 「これはサーリ籾米です。これはヴィーヒ籾米です。これは緑豆です。これは豆です。これは胡麻です。これは玄米です」 と調べるようにです。

このようにして、足の裏から上へと、髪の毛の先から下へと、皮膚に覆われ、さまざまな不浄物でいっぱいのこの身体をじっく
りと観想します。

「この身体には、髪、毛、爪、歯、皮膚、肉、筋、骨、骨髄、腎臓、心臓、肝臓、肋膜、脾臓、肺、腸、腸間膜、喉、顔、脳、胆汁、痰、膿、血、汗、固形脂肪、涙、液体脂、唾液、粘液、滑液、尿がある」 と。
このように、自分にとって身体は身体にすぎない、わたしのものでもなく、わたしでもなく、自分でもなく、現象にすぎない、といつも感じて生きるのです。

他人にとっても 身体は身体にすぎない、といつも感じて生きるのです。
自分にとっても他人にとっても 、身体は身体にすぎない、といつも感じて生きるのです。

身体が存在する原因 と、実際に身体が出現するのを、いつも感じて生きるのです。
身体が存在する原因と、身体が実際に消滅するのを、いつも感じて生きるのです。
身体が実際に出現し、実際に消滅するのを、 原因 とともに、いつも感じて生きるのです。

つまり、魂でもなく、自分でもなく、わたしでもなく、身体のみが存在するという事実を、はっきりと自覚するのです。この自覚が、洞察や気づきを着実にもたらすのです。

修行者は、渇望や 間違ったものの見方 から距離を置き、世の中の何ものにも執着しないで生きるのです。
* (注 )
これが身体は身体にすぎない、といつも感じて生きる方法なのです。
(不浄の観想 了)
(´・(ェ)・`)つ

498名無しを整える。2018/12/01(土) 08:03:20.34ID:/287bwHj
サティパッターナ・スッタ (Satipatthana Sutta) 大念住経 又は 大念処経

一 身体のサティパッターナ

5. 元素 の観想
そして、身体がどのような構造になっていようとも、主要元素で構成されているものとして、この身体をじっくりと観想します。 「この身体は地の元素、水の元素、火の元素、風の元素でできている」 と。

腕の良い屠殺人かその弟子が、牛を屠殺して肉片に解体し、大道の 四辻 に座っているように、修行者も身体がどのような構造になっていようとも、主要元素で構成されているものとして、この身体をじっくりと
観想します。 「この身体は地の元素、水の元素、火の元素、風の元素でできている」 と

このように、自分にとって身体は身体にすぎない、わたしのものでもなく、わたしでもなく、自分でもなく、現象にすぎない、といつも感じて生きるのです。
他人にとっても 身体は身体にすぎない、といつも感じて生きるのです。
自分にとっても他人にとっても 、身体は身体にすぎない、といつも感じて生きるのです。
身体が存在する原因 と、実際に身体が出現するのを、いつも感じて生きるのです。
身体が存在する原因と、身体が実際に消滅するのを、いつも感じて生きるのです。
身体が実際に出現し、実際に消滅するのを、 原因 とともに、いつも感じて生きるのです。

つまり、魂でもなく、自分でもなく、わたしでもなく、身体のみが存在するという事実を、はっきりと自覚するのです。
この自覚が、洞察や気づきを着実にもたらすのです。
修行者は、渇望や 間違ったものの見方 から距離を置き、世の中の何ものにも執着しないで生きるのです。
* (注 )

これが身体は身体にすぎない、といつも感じて生きる方法なのです。
(元素の観想 了)
(´・(ェ)・`)つ

499名無しを整える。2018/12/02(日) 08:18:15.18ID:fETiOJED
サティパッターナ・スッタ (Satipatthana Sutta) 大念住経 又は 大念処経

一 身体のサティパッターナ
6. 九段階の死体

[第1段階]
まず、死体置き場に捨てられ、死後一日、二日、三日と経ち、腫れあがり、青黒く変色し、膿の流れている死体を見るのです。
そうして、その死体と自分の身体とを比べるのです。
「間違いなく、この身体はあの死体と同じなのだ、この身体もあのようになるのだ、それは避けられないことなのだ」 と。
このように、自分にとって身体は身体にすぎない、わたしのものでもなく、わたしでもなく、自分でもなく、現象にすぎない、といつも感じて生きるのです。
他人にとっても 身体は身体にすぎない、といつも感じて生きるのです。
自分にとっても他人にとっても 、身体は身体にすぎない、といつも感じて生きるのです。
身体が存在する原因 と、実際に身体が出現するのを、いつも感じて生きるのです。
身体が存在する原因と、身体が実際に消滅するのを、いつも感じて生きるのです。
身体が実際に出現し、実際に消滅するのを、 原因 とともに、いつも感じて生きるのです。
つまり、魂でもなく、自分でもなく、わたしでもなく、身体のみが存在するという事実を、はっきりと自覚するのです。
この自覚が、洞察や気づきを着実にもたらすのです。
修行者は、渇望や 間違ったものの見方 から距離を置き、世の中の何ものにも執着しないで生きるのです。

(´・(ェ)・`)
(つづく)

500名無しを整える。2018/12/03(月) 07:13:15.47ID:2EA5/tgW
>>499
サティパッターナ・スッタ (Satipatthana Sutta) 大念住経 又は 大念処経

一 身体のサティパッターナ
6. 九段階の死体(つづき)

[第2段階]
死体置き場に捨てられ、カラスに貪られ、鷹に貪られ、ハゲワシに貪られ、サギに貪られ、犬に貪られ、虎に貪られ、豹に貪られ、ジャッカルに貪られ、さまざまな虫に貪られている死体を見るのです。
そうして、その死体と自分の身体とを比べるのです。
「間違いなく、この身体はあの死体と同じなのだ、この身体もあのようになるのだ、それは避けられないことなのだ」 と。
このように、自分にとって身体は身体にすぎない、わたしのものでもなく、わたしでもなく、自分でもなく、現象にすぎない、といつも感じて生きるのです。
他人にとっても 身体は身体にすぎない、といつも感じて生きるのです。
自分にとっても他人にとっても 、身体は身体にすぎない、といつも感じて生きるのです。
身体が存在する原因 と、実際に身体が出現するのを、いつも感じて生きるのです。
身体が存在する原因と、身体が実際に消滅するのを、いつも感じて生きるのです。
身体が実際に出現し、実際に消滅するのを、原因 とともに、いつも感じて生きるのです。
つまり、魂でもなく、自分でもなく、わたしでもなく、身体のみが存在するという事実を、はっきりと自覚するのです。
この自覚が、洞察や気づきを着実にもたらすのです。
修行者は、渇望や 間違ったものの見方 から距離を置き、世の中の何ものにも執着しないで生きるのです。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

501名無しを整える。2018/12/04(火) 08:02:35.03ID:TIDSvLC+
>>500
サティパッターナ・スッタ (Satipatthana Sutta) 大念住経 又は 大念処経
一 身体のサティパッターナ
6. 九段階の死体(つづき)

[第3段階]
死体置き場に捨てられ、腱でつながり、血と肉がまだついている 骸骨でしかない死体 を見るのです。
そうして、その死体と自分の身体とを比べるのです。
「間違いなく、この身体はあの死体と同じなのだ、この身体もあのようになるのだ、それは避けられないことなのだ」 と。
このように、自分にとって身体は身体にすぎない、わたしのものでもなく、わたしでもなく、自分でもなく、現象にすぎない、といつも感じて生きるのです。
他人にとっても 身体は身体にすぎない、といつも感じて生きるのです。
自分にとっても他人にとっても 、身体は身体にすぎない、といつも感じて生きるのです。
身体が存在する原因 と、実際に身体が出現するのを、いつも感じて生きるのです。
身体が存在する原因と、身体が実際に消滅するのを、いつも感じて生きるのです。
身体が実際に出現し、実際に消滅するのを、 原因 とともに、いつも感じて生きるのです。
つまり、魂でもなく、自分でもなく、わたしでもなく、身体のみが存在するという事実を、はっきりと自覚するのです。
この自覚が、洞察や気づきを着実にもたらすのです。
修行者は、渇望や 間違ったものの見方 から距離を置き、世の中の何ものにも執着しないで生きるのです。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

502名無しを整える。2018/12/05(水) 08:27:29.89ID:rF7MJag9
サティパッターナ・スッタ (Satipatthana Sutta) 大念住経 又は 大念処経

一 身体のサティパッターナ
6. 九段階の死体(つづき)

[第4段階]
死体置き場に捨てられ、腱でつながり、血のついた肉のない骸骨でしかない死体を見るのです。 そうして、その死体と自分の身体とを比べるのです。
「間違いなく、この身体はあの死体と同じなのだ、この身体もあのようになるのだ、それは避けられないことなのだ」 と。
このように、自分にとって身体は身体にすぎない、わたしのものでもなく、わたしでもなく、自分でもなく、現象にすぎない、といつも感じて生きるのです。
他人にとっても 身体は身体にすぎない、といつも感じて生きるのです。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

503名無しを整える。2018/12/06(木) 06:46:50.36ID:dz22TcB3
>>502
サティパッターナ・スッタ (Satipatthana Sutta) 大念住経 又は 大念処経

一 身体のサティパッターナ
6. 九段階の死体

[第4段階] (つづき)

自分にとっても他人にとっても 、身体は身体にすぎない、といつも感じて生きるのです。
身体が存在する原因 と、実際に身体が出現するのを、いつも感じて生きるのです。
身体が存在する原因と、身体が実際に消滅するのを、いつも感じて生きるのです。
身体が実際に出現し、実際に消滅するのを、 原因 とともに、いつも感じて生きるのです。
つまり、魂でもなく、自分でもなく、わたしでもなく、身体のみが存在するという事実を、はっきりと自覚するのです。
この自覚が、洞察や気づきを着実にもたらすのです。修行者は、渇望や 間違ったものの見方 から距離を置き、世の中の何ものにも執着しないで生きるのです。
(´・(ェ)・`)つ

504名無しを整える。2018/12/07(金) 07:32:52.41ID:RRUt2iHB
>>503
サティパッターナ・スッタ (Satipatthana Sutta) 大念住経 又は 大念処経

一 身体のサティパッターナ
6. 九段階の死体(つづき)

[第5段階]
死体置き場に捨てられ、腱でつながり、血も肉もついていない骸骨にすぎない死体を見るのです。 そうして、その死体と自分の身体とを比べるのです。
「間違いなく、この身体はあの死体と同じなのだ、この身体もあのようになるのだ、それは避けられないことなのだ」 と。
このように、自分にとって身体は身体にすぎない、わたしのものでもなく、わたしでもなく、自分でもなく、現象にすぎない、といつも感じて生きるのです。
他人にとっても 身体は身体にすぎない、といつも感じて生きるのです。
自分にとっても他人にとっても 、身体は身体にすぎない、といつも感じて生きるのです。
身体が存在する原因 と、実際に身体が出現するのを、いつも感じて生きるのです。
身体が存在する原因と、身体が実際に消滅するのを、いつも感じて生きるのです。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

505名無しを整える。2018/12/08(土) 09:23:58.50ID:yhdHbru2
>>504
サティパッターナ・スッタ (Satipatthana Sutta) 大念住経 又は 大念処経

一 身体のサティパッターナ
6. 九段階の死体

[第5段階] (つづき)

身体が存在する原因と、身体が実際に消滅するのを、いつも感じて生きるのです。
身体が実際に出現し、実際に消滅するのを、 原因 とともに、いつも感じて生きるのです。
つまり、魂でもなく、自分でもなく、わたしでもなく、身体のみが存在するという事実を、はっきりと自覚するのです。
この自覚が、洞察や気づきを着実にもたらすのです。
修行者は、渇望や 間違ったものの見方 から距離を置き、世の中の何ものにも執着しないで生きるのです。
(´・(ェ)・`)つ

506名無しを整える。2018/12/09(日) 07:59:12.82ID:rRGekwY2
>>505
サティパッターナ・スッタ (Satipatthana Sutta) 大念住経 又は 大念処経

一 身体のサティパッターナ
6. 九段階の死体(つづき)

[第6段階]
死体置き場に捨てられ、骨があらゆる方向に散らばり、ばらばらの骨にすぎない死体を見るのです。
ある所には手の骨が、ある所には足の骨が、ある所には足首の骨が、ある所には脛 (すね) の骨が、ある所には腿 (もも) の骨が、ある所には尻の骨が、ある所には肋骨が、ある所には背骨が、ある所には肩の
骨が、ある所には頸 (くび) の骨が、ある所には顎の骨が、ある所には歯が、ある所には頭蓋骨が、散らばっているのです。
そうして、その死体と自分の身体とを比べるのです。
「間違いなく、この身体はあの死体と同じなのだ、この身体もあのようになるのだ、それは避けられないことなのだ」 と。
このように、自分にとって身体は身体にすぎない、わたしのものでもなく、わたしでもなく、自分でもなく、現象にすぎない、といつも感じて生きるのです。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

507名無しを整える。2018/12/10(月) 07:51:46.49ID:nLKJ2ihV
>>506
サティパッターナ・スッタ (Satipatthana Sutta) 大念住経 又は 大念処経

一 身体のサティパッターナ
6. 九段階の死体

[第6段階] (つづき)

他人にとっても 身体は身体にすぎない、といつも感じて生きるのです。 自分にとっても他人にとっても 、身体は身体にすぎない、といつも感じて生きるのです。
身体が存在する原因 と、実際に身体が出現するのを、いつも感じて生きるのです。
身体が存在する原因と、身体が実際に消滅するのを、いつも感じて生きるのです。
身体が実際に出現し、実際に消滅するのを、 原因 とともに、いつも感じて生きるのです。
つまり、魂でもなく、自分でもなく、わたしでもなく、身体のみが存在するという事実を、はっきりと自覚するのです。
この自覚が、洞察や気づきを着実にもたらすのです。修行者は、渇望や 間違ったものの見方 から距離を置き、世の中の何ものにも執着しないで生きるのです。
(´・(ェ)・`)つ

508名無しを整える。2018/12/11(火) 06:41:33.03ID:W/OGySu1
>>507
サティパッターナ・スッタ (Satipatthana Sutta) 大念住経 又は 大念処経

一 身体のサティパッターナ
6. 九段階の死体(つづき)

[第7段階]
死体置き場に捨てられた、ホラ貝のように白くなった骨にすぎない死体を見るのです。 そうして、その死体と自分の身体とを比べるのです。
「間違いなく、この身体はあの死体と同じなのだ、この身体もあのようになるのだ、それは避けられないことなのだ」 と。
このように、自分にとって身体は身体にすぎない、わたしのものでもなく、わたしでもなく、自分でもなく、現象にすぎない、といつも感じて生きるのです。
他人にとっても 身体は身体にすぎない、といつも感じて生きるのです。
自分にとっても他人にとっても 、身体は身体にすぎない、といつも感じて生きるのです。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

509名無しを整える。2018/12/12(水) 01:34:15.80ID:ofcbogcf
>>508
サティパッターナ・スッタ (Satipatthana Sutta) 大念住経 又は 大念処経

一 身体のサティパッターナ
6. 九段階の死体)

[第7段階] (つづき)
身体が存在する原因 と、実際に身体が出現するのを、いつも感じて生きるのです。
身体が存在する原因と、身体が実際に消滅するのを、いつも感じて生きるのです。
身体が実際に出現し、実際に消滅するのを、 原因 とともに、いつも感じて生きるのです。

つまり、魂でもなく、自分でもなく、わたしでもなく、身体のみが存在するという事実を、はっきりと自覚するのです。
この自覚が、洞察や気づきを着実にもたらすのです。
修行者は、渇望や 間違ったものの見方 から距離を置き、世の中の何ものにも執着しないで生きるのです。
(´・(ェ)・`)つ

510名無しを整える。2018/12/13(木) 06:14:30.06ID:UrP2Cjvz
>>509
サティパッターナ・スッタ (Satipatthana Sutta) 大念住経 又は 大念処経

一 身体のサティパッターナ
6. 九段階の死体(つづき)

[第8段階]
死体置き場に捨てられ、一年以上経ち、山積みの骨となった死体を見るのです。 そうして、その死体と自分の身体とを比べるのです。
「間違いなく、この身体はあの死体と同じなのだ、この身体もあのようになるのだ、それは避けられないことなのだ」 と。
このように、自分にとって身体は身体にすぎない、わたしのものでもなく、わたしでもなく、自分でもなく、現象にすぎない、といつも感じて生きるのです。
他人にとっても 身体は身体にすぎない、といつも感じて生きるのです。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

511名無しを整える。2018/12/14(金) 06:20:56.95ID:8KdH7OZo
>>510
サティパッターナ・スッタ (Satipatthana Sutta) 大念住経 又は 大念処経

一 身体のサティパッターナ
6. 九段階の死体(つづき)

自分にとっても他人にとっても、身体は身体にすぎない、といつも感じて生きるのです。
身体が存在する原因 と、実際に身体が出現するのを、いつも感じて生きるのです。
身体が存在する原因と、身体が実際に消滅するのを、いつも感じて生きるのです。
身体が実際に出現し、実際に消滅するのを、原因 とともに、いつも感じて生きるのです。

つまり、魂でもなく、自分でもなく、わたしでもなく、身体のみが存在するという事実を、はっきりと自覚するのです。
この自覚が、洞察や気づきを着実にもたらすのです。修行者は、渇望や間違ったものの見方から距離を置き、世の中の何ものにも執着しないで生きるのです。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

512名無しを整える。2018/12/15(土) 05:33:30.77ID:g8h67jHY
>>511
[第9段階]
死体置き場に捨てられ、骨が粉々になり、塵(ちり)にすぎない死体を見るのです。 そうして、その死体と自分の身体とを比べるのです。
「間違いなく、この身体はあの死体と同じなのだ、この身体もあのようになるのだ、それは避けられないことなのだ」と。
このように、自分にとって身体は身体にすぎない、わたしのものでもなく、わたしでもなく、自分でもなく、現象にすぎない、といつも感じて生きるのです。
他人にとっても 身体は身体にすぎない、といつも感じて生きるのです。
自分にとっても他人にとっても、身体は身体にすぎない、といつも感じて生きるのです。
身体が存在する原因と、実際に身体が出現するのを、いつも感じて生きるのです。
身体が存在する原因と、身体が実際に消滅するのを、いつも感じて生きるのです。
身体が実際に出現し、実際に消滅するのを、原因とともに、いつも感じて生きるのです。
つまり、魂でもなく、自分でもなく、わたしでもなく、身体のみが存在するという事実を、はっきりと自覚するのです。この自覚が、洞察や気づきを着実にもたらすのです。
修行者は、渇望や間違ったものの見方から距離を置き、世の中の何ものにも執着しないで生きるのです。

これが身体は身体にすぎない、といつも感じて生きる方法なのです。
(九段階の死体 了)
(´・(ェ)・`)
(おわり)

513名無しを整える。2018/12/16(日) 14:02:57.11ID:ZwN7xdXF
>>512
サティパッターナ・スッタ (Satipatthana Sutta) 大念住経 又は 大念処経

二  感覚 のサティパッターナ

では、どうすれば、 感覚は感覚にすぎない、わたしのものでもなく、わたしで
もなく、自分でもなく、現象にすぎない といつも感じて生きることができるで
しょう。
心地良い感覚を体験している時、 「心地良い感覚を体験している」 と自覚する
のです。
心地悪い感覚を体験している時、 「心地悪い感覚を体験している」 と自覚する
のです。
心地良くも悪くもない感覚 を体験している時、 「心地良くも悪くもない感覚を
体験している」 と自覚するbフです。
肉体的快楽と関係する心地良い 感覚を体験 している時、 「肉体的快楽と関係
する心地良い感覚を体験している」 と自覚するのです。
肉体的快楽と無関係の心地良い感覚を体験している時 「肉体的快楽と無関係の
心地良い感覚を体験している」 と自覚するのです。
肉体的快楽と関係する心地悪い感覚を体験
している時、 「肉体的快楽と関係す
る心地悪い感覚を体験している」 と自覚するのです。
肉体的快楽と無関係の心地悪い感覚を体験している時、 「肉体的快楽と無関係
の心地悪い感覚を体験している」 と自覚するのです。
肉体的快楽と関係する心地良くも悪くもない感覚を体験している時、 「肉体的
快楽と関係する心地良くも悪くもない感覚を体験している」と自覚するのです。
肉体的快楽と無関係の心地良くも悪くもない感覚を体験している時、 「肉体的
快楽と無関係の心地良くも悪くもない感覚を体験している」 と自覚するのです。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

514名無しを整える。2018/12/17(月) 06:32:41.50ID:S22y30aw
>>513
サティパッターナ・スッタ (Satipatthana Sutta) 大念住経 又は 大念処経

二  感覚 のサティパッターナ

このように、自分にとって感覚は感覚にすぎない、わたしのものでもなく、わたし
でもなく、自分でもなく、現象にすぎない、といつも感じて生きるのです。
他人にとっても 感覚は感覚にすぎない、といつも感じて生きるのです。
自分にとっても他人にとっても 、感覚は感覚にすぎない、といつも感じて生きるの
です。
感覚が存在する原因と、実際に感覚が出現するのを、いつも感じて生きるのです。
感覚が存在する原因と、感覚が実際に消滅するのを、いつも感じて生きるのです。
感覚が実際に出現し、実際に消滅するのを、 原因 とともに、いつも感じて生きる
のです。

つまり、魂でもなく、自分でもなく、わたしでもなく、感覚のみが存在するという
事実を、はっきりと自覚するのです。
この自覚が、洞察や気づきを着実にもたらすのです。
修行者は、渇望や 間違ったものの見方 から距離を置き、世の中の何ものにも執着
しないで生きるのです。
これが感覚は感覚にすぎない、といつも感じて生きる方法なのです。
(感覚のサティパッターナ 了)
(´・(ェ)・`)つ

515名無しを整える。2018/12/18(火) 05:56:10.95ID:PuyW6NrT
>>514
サティパッターナ・スッタ (Satipatthana Sutta) 大念住経 又は 大念処経

三 心のサティパッターナ

では、どうすれば、 心は心にすぎない、わたしのものでもなく、わたしでもなく、自分でもなく、現象にすぎない といつも感じて生きることができるでしょう。
心に欲望が生じた時、「心に欲望が生じている」 と自覚するのです。
心に欲望が生じていない時、「心に欲望が生じていない」 と自覚するのです。
心に怒りが生じた時 、「心に怒りが生じている」 と自覚するのです。
心に怒りが生じていない時 、「心に怒りが生じていない」 と自覚するのです。
心に妄想が生じた時 、「心に妄想が生じている」 と自覚するのです。
心に妄想が生じていない時、「心に妄想が生じていない」 と自覚するのです。
心にゆるみが生じ、怠け心が芽生えた時、「心にゆるみが生じ、怠け心が芽生えている」 と自覚するのです。
気が散っている時には、「気が散っている」 と自覚するのです。
心に寛容が生じた時、「心に寛容が生じている」 と自覚するのです。
心に寛容が生じていない時、「心に寛容が生じていない」 と自覚するのです。
心に劣等感が生じた時、「心に劣等感が生じている」 と自覚するのです。
心に優越感が生じた時、「心に優越感が生じている」 と自覚するのです。
心に集中力が生じた時、「心に集中力が生じている」 と自覚するのです。
心に集中力が欠けている時、「心に集中力が欠けている」 と自覚するのです。
心から一時的に汚れが消えた時、「心から一時的に汚れが消えた」 と自覚するのです。
心から汚れが消えない時、「心から汚れが消えない」 と自覚するのです。

(´・(ェ)・`)
(つづく)

516名無しを整える。2018/12/19(水) 01:05:54.23ID:5oGcgCjw
>>515
サティパッターナ・スッタ (Satipatthana Sutta) 大念住経 又は 大念処経

三 心のサティパッターナ (つづき)

このように、自分にとって心は心にすぎない、わたしのものでもなく、わたしでもなく、自分でもなく、現象にすぎない、といつも感じて生きるのです。
他人にとっても 心は心にすぎない、といつも感じて生きるのです。
自分にとっても他人にとっても、心は心にすぎない、といつも感じて生きるのです。
心が存在する原因と、実際に心が出現するのを、いつも感じて生きるのです。
心が存在する原因と、心が実際に消滅するのを、いつも感じて生きるのです。
心が実際に出現し、実際に消滅するのを、 原因 とともに、いつも感じて生きるのです。
つまり、魂でもなく、自分でもなく、わたしでもなく、心のみが存在するという事実を、はっきりと自覚するのです。
この自覚が、洞察や気づきを着実にもたらすのです。
修行者は、渇望や 間違ったものの見方 から距離を置き、世の中の何ものにも執着しないで生きるのです。

これが心は心にすぎない、といつも感じて生きる方法なのです。
(心のサティパッターナ 了)
(´・(ェ)・`)つ

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