肉体には肉体の役割がある。
その役割をなおざりにしてまで、なお悟りがあるとするのは明らかに邪道であり、観念の遊戯にすぎない。
悟りという心の問題は、健康な肉体と健全な心にある。
病弱で意識が不明瞭な者にどうして、仏の心を自覚させることが出来よう。

食べるものも食べず、摂るものも摂らず、肉体をどんなに苦しめてみても、心は安らかにならない。
肉体を苦しめる苦行によって悟ることが出来るのなら、過去に苦行をした人たちの中から悟った人が出ていてもよいわけであるが、誰も出ていない。

「生まれて来なければ、このような苦しみを受けずにすむものを、」と考えるが、
生れてきた以上は人間には何らかの目的と意味があるはずである。