僧堂教育論(つづき)
――禅僧の友人に与う――
鈴木大拙

 この「有り難い」を禅堂教育の中心主義としたい。これは義務心だとか権利だとかいうのではない。只何故とも知らずに「涕涙ているいこぼるる」である。こうなると報酬の念が出なくなる。近代文化の大禍害
を癒やし得る最上の良薬はこの無報酬の念でなくてはならぬ。
何かというに、今日吾等の文明が吾等の精神の上に加えた最も罪深い仕業は、何事をも金銭で勘定をつけるということである。
如何なるものも何かの代金で買われるという考え、これが近代文明の一切の悪事の基本的概念なりである。
あれはいくらの収入がある、いくらの財産を持って居るなどいうことが、すべての人の上下貴賤を批判する唯一の標準になって仕舞った。何でもかでも金銭でその価値を定めるというのである。
是れは如何にも賤しい考である。どうしてもこの考から超越しなければ、本当の精神的価値は出て来ぬ。
世間の学校では形式的の忠孝主義や愛国心の鼓吹をやったけれども、これには亦時代錯誤の処もある。
これからは人間の真個の価値というものを目当てにして、これを完成するようにしなくてはならぬ。そうして之をするには無功用主義の道徳をその根本から闡明せんめいするということが先ず第一である。
(´・(ェ)・`)
(つづく)
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