>>53
逃げたID:C+vneY6Xはこの際おいといて>>38のあなたの主張
>たとえ心があるとはわかっていても食べなければ人間は生きていけない >
植物をベジが殺したところで、それを批判する資格なんて誰にもない

というのは同時に、何人も雑食者による肉食を批判することもできない、という意味でよろしいでしょうか?

それと、余談というかスレタイからすればこちらが本題のようにも思いますが、私は>>7を書いた者で、心の有無は「心」という語の定義によると思います。
言葉の広い使い方のうちでは、ときに人は動物に心があるとも植物に心があるとも言ったりしますが、様々な人が様々な場面で鳥の心を詩に読んだり、花の心を歌にしたりする場合に、同じ「心」という語が使われていてもその意味は必ずしも一定ではないようです。
別の用例では例えば>>7で例にあげた広辞苑の使い方では、「心」は人間の機能であるという具合に書かれています。
ですから、心の有無といってもその「心」というのがどういう意味なのかが定まらなければ有無を論じられないのではないでしょうか。こう私は考えています。

で、あなたの>>38を読むとまた別の定義が示唆されていました。
私がちょっと面白いなと思ったのは、あなたの>>38に書かれていることが「心の有無というのは、人が愛情を注ぐ対象になるかどうかである」という風にも読めるということです。
(あなたの意図はそういう意味ではなかったかもしれませんが)
「心というのは対象である動物や植物が固有に持っているとかいないとかのものでなく、人が対象に見いだすかどうかである」とすれば、
同じ動物なり植物なりが、ある人にとっては心を持つように見えるが別の人にはそうではないことの説明がつくように見えたからです。
いずれにしろ「心」という語の定義の話ではありますが、「心とは、見られる対象によって有無が決まるのではなく見る側の主観によって有無が決まる」という定義は実態をとても上手く説明できるものだと思います。