>>325
このスレの内容も非常に興味深いですね。
”人を変えようとしても変わらない”と、僕も同じように思います。
人間の自由意志の尊さがどれほどの物か、人を変えようとしてしまった際、特に感じます。

>>人に対して尽くそうとするお人好しにはちょっと過酷な世界

という事に関して、願望成就という点では同感ですが、真の意味での過酷さという観点からするとそうではないように思います。

その根拠としては、僕自身、願望を叶えるための最善な方法として「世界観から神を抹消する」という方法を使った時の事があげられます。
人間の上位にある価値観に”神”があるのですが、この価値観があると、”何か別の物に人生が動かされている”という感覚が強くなり、受け身の行動が多くなり願望成就への行動ができなくなると当時の僕は考えていました。
そこで僕は、自分の脳の中における【神】の概念を【自分の未来を描いた小説】へとそのまますり替える事で、どう足掻いてもどうせ自身が描いた未来どおりになってしまう、と自身を洗脳する事にしました。
この手法を考えたきっかけは、人生に対するイメージが”試練”である人は、実際に試練を呼んでいたし、人生に対するイメージが試練の人は自己像を「幸せ者」に変えようとしても難しかったことから、より影響度の高い概念から”自身の願望成就に都合の良い物に変えよう”と考えたことです。
その方法により、(良心や常識からも)自由に行動できるようになり・また自身の世界観が願望が叶った形として現実に投影できるようになるのではないか?と考えたのです。
その効果は強烈で様々な願望が叶い続けました。
過去、良心によりやらないでおこうと思った事までもが平然と出来てしまうのです。

まさに信じた事がそのまま実現する世界に近づいていました。
その当時の僕から観ると、もはや様々なアニメやゲームを通じて説かれる”愛”の概念は、支配者層の洗脳だとすら思うあり様でした。
愛を意識すれば大多数の人の行動に制限がかかり、愛が支配者層にとって都合の良い人を作る洗脳のように思えたからです。

ですので、願望成就という観点においては、お人好しにとっては過酷な世界であるのは間違いありません。
過去の僕のような人間に無自覚に利用され、身動きできない状態にされてしまうのですから。

しかし、真の意味での過酷さという観点から言えば、今の「愛」に関心を持つ僕よりも、遥かに過去の僕の方が過酷な環境にいます。
癒える事の無い渇きのままに様々な願望を求める過程で、気の休まらない闘いの日々が続き、しかもそれで得るものは【一つ得た事で次には10や100の問題を産むものばかり】です。
そもそも、自身の思考や存在に全てを頼らなければいけない事自体が、どれほどの過酷さかが今ならよく分かります。
自分がその低い物的次元において賢くなればなるほど、間違いが大きくなり、おかしな方向に行ってしまいます。

それらの経験もあり、真の意味での過酷さでいえばお人好しの方が大分良くて、願望を叶える事に一切の抵抗の無い人間の方が大分過酷な状況にあると言えます。

この内容については書くかどうか迷いましたが、僕が闇に落ちた際の経験が現在役に立っている事を考えると、書いた方が良いのだと思いました。
一度闇に落ちると真理の有難さがより分かります。