>>174
ご自身の認識をお持ちで素敵ですね。
このような話が出来るとは、僕もこのスレを立ち上げたかいがあります。

僕の場合は、意識の拡大と世間で言われているものは「仮の自我」を減らした度合いに合わせて、人類の自我(カルマ)に近づいていく過程だと考えています。
(人類のカルマについては、>>60にて、自我に関する回答にも書かせて頂いています)

その根拠と考えている主な点は、善行や精神的欠点の克服により仮の自我を減らした場合、精神年齢が上がるに合わせて【世界に存在する自分以外の人の問題に心を痛めるようになる】という事実が存在することです。
仮に、完全な無の空間でお互いの心や精神世界が隔られていたならば、他の人の問題に心を痛める事は無いはずと考えていて、その時点で自分と人は”何か”で繋がっているという前提が成り立っています。
その”何か”こそが人類の自我というもので、仮の自我が減るほど、他の人の精神向上を”自分の問題”として捉えるようになります。
では、その自分とは何か?という事なのですが、それが人類の自我と呼べる存在なのだと思います。

また、この肉体的自我に対する視点の変化なども根拠の一つになるかもしれません。
仮の自我から抜け”意識の拡大”(と世間で言われているもの)が起こるほどに、自分がどのような扱いをされても大して気にならなくなったり、肉体的自我に対する客観的視点が強まります。
では、その客観的視点は誰による視点なのか?
それが人類の自我というものだと考えています。
ただ、人類の自我と一言でいってもその中身には無数の存在があり、誰しもが持つ「実体(霊的自我)」という存在もその一つだと思います。
ですので、ミクロな視点で判断するなら、意識の拡大というのは、誰もが持つ固有の実体へと近づく過程なのだと思います。

意識の拡大というテーマはとても面白いですね。
きっと、僕の今の視点はより大きな自我を持つ存在からすると、森の中の1本の木を見ているような物かもしれません。
さらに木にも様々な物があり、人それぞれ様々な見識があり、またそれは真実の1側面を現わしているのだと考えています。