貯金ゼロまで寄付してみたらこの世とあの世の仕組みを一部教えてもらえた(ただ寄付のみやるのは推奨しません)
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以前からカルマの法則の実験をしていて、寄付を続けていました。
始めの頃は収入が増えるという形で結果が出ています。(ただ、誰でも収入が増えるわけではないのがその後に分かっています)
しだいに【貯金ゼロまで寄付してみたらどうなるか】に関心を持ちはじめました。
やってみた結果、妻から罵倒されたものの生活は問題なかったのですが、なぜか霊的存在によってこの世とあの世の仕組みを少し教えてもらえました。
需要があるか分かりませんが、このスレでは霊的存在から教えてもらえた知識について質問のある方はご質問ください。
こういった掲示板を使うのは初めてで、なにか無礼がありましたら、ご遠慮なくおっしゃってください。
宜しくお願いいたします。 メグ様
いつもお世話になっています
>>151こちらで代理で御相談させて頂いたものです
メグ様からの御回答を頂き、彼からご返事がありましたので、載せさせて頂きますm(__)m
「ありがとうございます。
幼少期というよりは年齢を重ねれば重ねるほど、親によって私は社会から疎外されてきました。
自由がないのです。
母は生きていても死んでも私を苦しめる
生きて道を開くよりも死を願います。
許してください。」
以上です。 続きです
彼は寿命が知りたいそうです
メグ様は寿命についてどのようにお考えでしょうか
また寿命を知りたいと願う者にどのようにお声かけされるでしょうか
もしご返事いただけましたら幸いですm(__)m メグ様のご経験から到達されたこの世界の素晴らしい仕組みについて、私たちにその情報を提供してくださること感謝しています >>171
無事田舎に到着しお墓の簡易的な掃除とお参りに神棚隠しと仏壇へのお参りができました。
想念や自我の脱却へのガイドとして神棚や仏壇や墓があるのだと感じます、メグさんはこれらがなくとも色々見えているのではないでしょうか 寿命について私も知りたいです
ある方が寿命以外で死ぬとお迎えがこず浮遊霊になると言われてました
自殺もそうですし、医療による延命でもそうなるらしい
それが真実なら寿命は知ってたい >>175
超簡単に比喩しますと
たとえば真理と言われる実像が100とします、それを実感として観ることができれば悟りです。私達は自我意識によって1しか観れていません。(自我意識とはは以前書きました)
これは固定観念や概念やその人の過去生や当然自我意識で視野(正しいとか間違いとか、善とか悪とか)を制約されています。
その1の制約された意識を取り除くこと、つまり拡大と言うより本来の意識に戻すと言うことです。当然波動は上がります
怪しい宗教の教えほどその逆を説きます、苦しみや怒りは有る、それを消すにはこうしろ、ああしろと信者を制約や理屈で雁字搦めにして視野(意識)を狭めさせそして盲信させます。私はそれを懸念しています。
確かに反省するのは大事かもしれませんが、それをするたびにひとつカルマを増やしていますよ、不調和なことをやったイコール自分が悪ではないです、相手のカルマを解消させるための行いかもしれませんから
カルマに理屈はいらないです
自分のしたことの結果を潔く受け止め、二度としないと心に留めて過去の過ちをいつまでも思い起こさず、今を愛そのものとして生きれば、結果真我が顕れることもあると思いますが、
メグさんが重いカルマを背負わぬことを祈ります(笑)
ではでは >>168
メグ様、お返事ありがとうございます。
そうですか、楽しいのですか。それならばなによりです。 >>177様
その方と僕をこうして仲介をされ、とてもお優しいのですね。
美しいその心に敬意を表します。
それで、人生の苦難の最中、このような形でご縁を頂いた事に感謝いたします。
始めにお伝えすると、寿命に関する情報は僕には得られません。
知ってしまうと、その人の人生上の学びに悪影響が大きすぎる案件であるために、実体からの情報提供が無いのです。
僕に分かる(ことがある)のは、
【その人が人生を実りある物にするために何をした方がいいか?】
という事に関してです。
寿命に対する考えは事故や病気と同様だと思っています。
精神向上にとって必要があればそれが起き、それを通じて学ぶものだと思います。
事故で足を怪我したなら松葉杖生活など様々な生活の不便を通し、精神向上へと必要な事を学びます。
同様に、死によってもたらされた”新しい世界”を通して、精神向上へと必要な事を学びます。
それが自死であれ病死であれ他殺であれ、その見方は変わりません。
ただ、その「死の質」を決めるにあたって問題なのはその死がもたらされた背景です。
カルマの法則では行為による影響の大きさは、”本質的成長の機会を与えた・損失させた度合い”で割り出されることが多いです。
動機しだいですが、ほとんどの自死の場合ですと、自身の命を自分で奪うことで「成長の機会を損失した」という事で、停滞を前提とした世界に足を踏み入れることになります。
多くの場合、それは永遠に続くかと思えるような長い悪夢のようなもので、ただただ暗黒・出口の無い迷路・暗い森の中・決して出られない自宅の部屋の中など、その人の精神構造に合わせ、様々な形がとられます。
共通するのは出口が無いという事で、そこを抜けるには時間が経つのを待つしかありません。
まさに停滞を前提とする世界です。
寿命を知りたいとおっしゃる方に関して言えば、伝えられることは、
【本質的に判断すれば、寿命という概念はあまり意味が無い】ということです。
この世もあの世も地続きでして、この世であってもあの世であっても自身の精神構造が環境に投影されています。
ただ、違う所があるとすれば、この世の1年は大体においてあの世よりも密度が濃いという点です。
例えば、ロウソクの火を手で一瞬でかすめるだけなら大して熱くないですが、10分かけて通過させれば地獄の苦しみになります。
この世での時間の価値は一瞬で火の上を通過するか如きものです。
ですので、わざわざ死して業火の中に身を投じずとも、この世で、熱い地点を通り過ぎる方が良いと思います。
この世においては”ほんの少しの意識の持ち方”だけで人生やその後の未来を変える事が出来ますから。 >>178様
そのお気持ちとても光栄に思っています。
こちらこそ感謝いたします。
178様は僕とは違う素晴らしい境地に辿り着く事のできる方ですし、僕を通して現れる知識など178様の人生のピース数個分でしか無いと思います。
きっと僕が想像するよりも世界は広くて、素晴らしいものだと思います。
お互い、人生を通じて様々な事を知れたらいいですね。 >>179様
ご評価頂けているようで光栄なのですが、僕の知らない世界がそこにある可能性は非常に高いと思います。
というのも、以前、「お墓参りをした方が良い」という心の声が聴こえて、実際にやってみた際に、停滞していた事が一気に動き出した事がありました。
僕自身は、人間同士は精神で繋がっているのでお墓にあまり囚われない方が良い、という考えだったのですが、そんな僕だからこそ見えない世界がそこにあってもおかしくありません。
世界は僕が考えるよりもずっと広いのは間違いないと思います。
良いきっかけを頂き本当にありがとうございます。 >>180様
ご質問を頂き本当にありがとうございます。
とても気になる気持ち分かります。
寿命に対する考え方については>>183にも書かせて頂きましたので、この回答では「医療による延命や自死でも浮遊霊になる」という説に関して回答させて頂きます。
ご質問に答えるにあたって、まず浮遊霊が何かを定義する必要があります。
僕の定義ですと
・何らかの理由で死後にお迎えが来ない・あるいは、お迎えの存在を感知できない
・成長不足により霊的自我が現れていないため、何をどうすればいいのか分からないので彷徨う
といったものが世間で言われる浮遊霊であろうと考えました。
それで、ほとんどの自死に関しては浮遊霊として過ごす期間が生じるであろうと思います。
医療の延命に関しては浮遊霊になるかどうかは、その人の精神成長度合いによると思われます。
全体的な傾向としては、精神の成長が大きくなると延命の余地もなく死が訪れるケースが増えますが、それも絶対ではありません。
基本的には、人生を「日々、より良く生きよう!」と日々過ごしている人であれば、浮遊霊としての時期を経験する恐れは無いと思われます。 >>181 斜交様
想像するよりも素晴らしい見識をお持ちで感動いたしました。
スレにこのようなご意見を頂けたのは読者様にとって幸いだと思います。
実は、僕自身も「無価値感と向き合う3年」の間に、カルマの法則を人に説くのは世界のためになるのだろうか?
と、自問自答を度々していました。
おっしゃる通り、いかに言葉に表しても真理の全貌を自我意識で正確に把握するのは無理でしょう。
ですので、それを説く事で、逆に人を不自由にしてしまうのではないか?と考えていました。
斜交様が懸念されるのと同様に、僕は現在も懸念しています。
僕自身が重いカルマを背負うのは気になりませんが、人の自由意志を奪う事だけは避けたいと考えています。
ただ、無価値感と向き合う中、一つの考えに辿り着きました。
僕は、無価値感と向き合う3年より前にカルマの法則を200人ほどの人を対象にネット上で伝えていまして、その際、僕が伝える以上に真理は深いものであるのを知る出来事がありました。
例えば、「善行を行えば価値観や偏見を正すための膿だし現象が起こります」と伝えていた際に、数人ほどが膿だし現象が一向に起こらなかったのです。
その数名は中でも僕に対する盲信が強く、後に、それは盲信を外すための出来事であったことを知りました。
(数人しか覚えていませんが、実際はもっといた可能性も高いでしょう)
僕の言っている通りの苦難をその人に起こさない事で、僕に対する盲信を外してくれたのです。
その導きは実に見事で、その人達は「メグの言ったような苦難が起こらないことが苦難」といった状態でした。
その経験から、真理は僕や全ての人が思う以上に深く、包容力のあるものだと感じました。
いくら僕がカルマの法則を説こうと、真理はそれを上回る形で人間を導いてくれる事を原理として確認できたので、その後、” 今は ”カルマの法則を説く方が良いという結論にいたりました。
(当然、説く側も聴いている人達に盲信させない努力は大切だと思いますが)
このように考えれば、僕を通じて現れたカルマの法則など、真理の奥深さからすると、「このレストランが美味しい!」といった記事と変わらないと思います。
気を付けていれば、真の意味で人間の自由意思を奪うことは無いのだと確信しました。
現に、斜交様がスレで盲信の問題について警鐘を鳴らすという出来事を真理は引き起こしてくれました。
見事に良い形でバランスが取られています。(僕自身がこのように書く事が前提、だと思うのですが)
おそらく、世界の多様性を守るためにも、僕が成長するほど反対意見も多く必要になるのではないかと思っています。
実際の所、5ちゃんねるでカルマの法則を伝え始めたのは、こうした反対意見も欲しいからでもあります。
願わくば、この先も僕の意見に疑問があれば、ぜひ書き込みをして頂けたら幸いです。
真理とは一人によって解明されるのではなく、全ての人の生き様により解明していくものだと思います。 今回は「感情を脱するための瞑想の方法」について書きます。
まず始めに、なぜ、瞑想が必要なのかについてお伝えいたします。
>>173の内容の中に、” 人生では感情のコントロールの重要度が高い ”と書かせて頂きました。
それは何故かと言うと、感情は仮の自我由来のものですので、感情のままに動くほどに心の声を無視する事になります。
心の声というのは潜在意識からの知恵とも呼べるものでして、その人の実体(霊体)からの情報提供や導き手による知恵など、様々なものが心の声として湧きあがります。
ちなみに、思考として突然ふっと湧いた考えは往々にして心の声では無いことが多いです。
瞑想が定着するとそのような事も認識しやすくなります。
また、人間本来の自由意志の力を引き出すためには、現状、僕は瞑想以上に良い方法を知りません。
それぐらい仮の自我(通常、自分として認識してる自分)というのは、この世に存在する”別の何か”に動かされているものです。
それでは自由意志を発揮しているとは言えず、そのために、まず仮の自我を抑える必要があります。
次に、瞑想の方法についてお伝えします。
方法は非常に簡単で『目をつぶって、背筋を伸ばし座るだけ』です。
できれば何も考えない方が良いですが、それは必須ではありません。
集中しようとする思いも雑念になりますので、集中しようともしない方が良いでしょう。
僕自身は呼吸などにも意識を向けない方が良いと思っていますが、おそらく、そこは自由にされるのが良いと思います。
(あくまでも、現状の僕が知る、感情を脱する瞑想のやり方ですが)
それで、肝心なのはそれを行う頻度とタイミングです。
行うと良いタイミングは「感情が動かされている時」です。
感情とはイライラ・不安といった感情から、嬉しいといった感情まで含めます。
例えば、何か待ち合わせをしていて、約束の時間に間に合わないと焦っている時ほど、瞑想するには良いタイミングでしょう。
感情に突き動かされて問題をクリアできるなら人生の意義など存在しません。
ですので、こうした事が身に着くまでは『感情をコントロールした先に得られる答えがより良い答えだ』と考えるのが良いと思います。
感情を積極的に克服する過程は、チキンレースのように強い恐怖が伴うものですが、それらを経験するほど仮の自我を抜けやすくなります。
また、感情を落ち着けていると、真にやらなければいけない事はやることになります。
より激しく感情が動かされている時ほど、瞑想できた際の「感情コントロール力」の経験値が大きいですので、感情が動かされたらすぐに瞑想をする事が大切です。
この感情コントロール力の経験値が貯まっていくと、仮の自我の奥にもう一人の自分が現れます。
すると、瞑想しなくても《感情に突き動かされた仮の自我が誤った行動を起こそうとしている》というのが、分かりやすくなります。
あと、もう一つ大切なのは【行動し続けたいと願う仮の自我を、瞑想で寸断する】という事が初期の実践では大切だと思います。
イメージとしてはルンバが掃除を終える度に充電に戻るのと同様です。
行動をした後に瞑想に戻るようにするのが良いと多みます。
とにかく、行動毎に瞑想を挟むようにします。
瞑想により感情を落ち着けた場合に、やりたかった事が「しなくていい行動」であれば、感情の落ち着きと共にそれをしたい気持ちが無くなっていくでしょう。
こうしたプロセスを辿ることでも、人間は自身から知性を引き出すことができます。
人間は無意識に《仮の自我の感情のままに動かされてした過去の失敗》の穴埋めを現在していて、瞑想によりそれを防ぐこともできます。
不要な事をしないのは必要な事をするのと同等の価値があります。
長くなりましたので、続きは次に書き込みいたします。 >>188の続きです。
分かりやすいのは劣等感により行動を誘発させられる場合です。
劣等感により知識を蓄えたり、外見を磨いたりする事は多いのですが、劣等感に突き動かされてする努力は真の意味では遠回りになりやすいです。
そうした努力は小さな世界においては報われるので、決して無駄ではないのですが、大きな世界で報われるためには障害になりがちです。
仮に、劣等感による行動で上手くいった場合は、それは傲慢さに変わります。
貧乏にコンプレックスがあった人がお金持ちになれば、貧乏から脱却しようとしない人を蔑みがちです。
そして、次は、その傲慢さを減らすためにまた......と中々、大きな世界においては前進できないのです。
ちなみに、劣等感による行動で上手くいかない場合ですと、やっぱり〇〇が無い自分はダメなんだ、と錯覚による不幸を経験しますが、その実、〇〇が無いからこその良い面に出会うでしょう。
精神向上と共に、〇〇などが霞んでしまうほどの価値があるものも得られます。
実質、劣等感による行動は上手くいかない方が人生としては実りは大きい傾向があります。
さらに言えば、
「そもそも劣等感による行動を防ぐことができた」という事の方が望ましいです。
この場合では、大きな世界において報われる行動をただ続けられるので、到達点は遥かに素晴らしいものになるでしょう。
ちなみに、『その人の精神状態によっては瞑想が悪く作用する』という説も聴いた事がある人はいると思います。
実体や導き手でも何でもない、悪魔と呼ばれるような存在の影響を受けてしまったり、などです。
確かにこのような場合も存在していて、超能力の欲しさゆえの瞑想だったり、そもそも瞑想に精神を依存している場合ですと、そのような事がありえます。
そのため、” 感情が動いている時に瞑想を行う "という事が大切だと思います。
感情を落ち着けようとする所に悪い存在が入り込む隙は少ないですので、そのようなやり方をすると安全性は極めて高いと思います。 親子関係についても知りたいです
叩かれる覚悟で書きますが、運悪く障害のある子を産んでしまいました。親としての責務は果たすつもりですが、前世で私何やらかしたんだろ…とよく思ってしまいます。何かカルマのようなものがあるのでしょうか。 >>135
どん!!!ときましたね。
さて。準備運動を兼ねて始めよう。
分からずやはどこにいるのか。
おい!知らぬふりするな。
ここだな。枕の下からずごごごご。聞こえる がたがた ゆらゆら
異質異物 炙り出し 瞑想って感情が動いていない時ほど効果的で、するべきモノだと思っていました…… 挙動不審 身近でありませんか?
皆で観察 注意
炙り出される 頭の中の法に触れる事
本当はやりたいことの様だ。
from hell cowboy
ここの主さんへ
綺麗事だけで邪や魔は退かない。
現実は映す 写す 移す
邪や魔はこうなると。
綺麗事を通す!!!
綺麗事を通せる様に段取り作業中 >>192
人は生物ですから感情があります。
その感情で自分の中から外からより良い事を受け取ろう。綺麗事を述べても罵倒される事なく、そうだよなそうすべきだよな。という状態がとりあえずの目標です。
綺麗事言ってんじゃねぇぞ!!言われた
ああ?出来ねえのがえらそうにしてんじゃねぇぞ。が今の段階です。
大きな力 作用による野放しにされた人の様な者に対する粛清の最中です。 >>192
その人の感情の起伏
その人の欲をどの様な状態であっても抑制する様訓練鍛錬するのが初期仏教と呼ばれるものだと考えています。 >>192
社会に出たら大変だ。
欲を刺激されて大変だ。 イスラムの人々は根差しているから。
おいそれとは相入れない。 その根に有るのは、初期仏教にある様な
欲の抑制だから、今の欲爆発欲全開の思考は受け入れられない。
彼等イスラムの中に初期仏教の個人の欲の抑制 制御の力が働かない限り受け入れられない!!の意志を感じている。
とても大事な事だと思います。
争いの原因 機械 動力の働きで急成長出来たとしても、基礎基本の教え思想観念信念が無ければイスラムの彼等に受け入れられる事は無いと思う。それだけこの場所を大事に考えているともいえます。それを軽々しくテロだとかテロ国家だとか呼ばれている現在。納得いかないのは当たり前だと思います。 イスラムの彼等は
自然の中で今まで通りに
今まで伝えられしてきた様な事を
その様に、穏やかに過ごし人生を終える。その事が最上であると伝えられてきてその様に過ごしているのだから。民主主義 資本主義 社会主義 共産主義などどうでも良いのだ。ただ穏やかに今まで通りに穏やかに過ごしたいだけ。これに文句垂れ、新たな物を受け入れろ!!とやっている様に見える。それが争いの原因なのかと考える。 イスラムさんは
基礎基本が無い所しか攻撃していないだろう?
基礎基本が無い所には代表となってほしくないんだ。と私は考えている。
その為にはテロ自爆行為特攻も辞さないしなんでもやる。保守自守行為でしょう。現在かなりおしくらまんじゅう状態。 はっきり言ってしまうと
精神世界と物質世界では
全くの反対となってしまう。
精神世界では
イスラム利き手の右手
物質世界では
ユダヤが源流のどこそこが利き手
押さえて、法の鉄槌 どんどん!どどん!!!法の鉄槌。どんどん!どどんがどん! 個人の本質が出てくる。 人のコンサート会場に勝手に乗り込んできて頼まれてもいないのに歌い出すようなマネやめてもらえませんか? >>202
それを日本は第二次世界大戦で見せた。
実際にやってみせた、
良い事なのか良くない事なのか判断は出来ないが、やってみせた。
彼等は今もやっている。やめろやるな とは言えない。過去日本はやっていた事だから。特攻自爆 そろそろ終わりですよ!
主さんが いいかげんにしろ!
来たので。たまちゃん座玉ちゃん図
撤収用意
すみませんねお騒がせして。
ではでは
たまちゃん座撤収!!! 楽しんで参考にするくせに
このやどーー!
おい!ほうず!おとなしくしなさい!
撤収ですよ! 嘘 偽り
明らかに
浮き彫りに
本心本音
口から出た事
差異を浮き彫りに
ではまいりましょう。 口から出たことの前に
頭から考え発散した事と
する事やる事の差異ですね。
では!始めましょうか、 兄弟が障害を持っていてつらい思いをしました。なぜ親は自分の子供が障害を持って生まれたのにそのあとの子を産もうと思うのでしょうか?兄弟がつらい思いをするかもしれないと考えなかったのでしょうか?
「起きた現象に意味は無い。意味をつけるのは人が意味づけをしないとメンタルが持たないから意味づけをしたりストーリーを創作している」というのが持論なのですが、めぐさんはどう思われますか? >>190
これから日本では障害もって生まれる子が増えると言われており、
その中から次の時代を作る天才が多く生まれてくると言われてる >>190様
ご質問を頂き本当にありがとうございます。
育児という大きなお仕事の過程でご縁を頂き光栄です。
僕自身、障害を持つ子供の親ですので、「前世で、何をやらかしたんだろう?」と感じるお気持ちはとても良く分かります。
障害を持つ子供の親になる場合では、一概には言えないような様々な事情があるでしょう。
190様の場合ですと、『筋が通った事以外納得できない』というまじめな性質があり、障害を持つ子供の育児を通して、「筋の通らないことも受け止める包容力」を身に着ける過程にあられるようです。
その包容力は、自身の予想とかけ離れた子供の行動への対応によって築かれる”より高い次元における物事への論理的理解”によって構成されます。
ですので、お子様が予想のつかない行動をした場合、まず自身の「えっ!?なんでそんなことやらかすの?理解できない」とイライラする気持ちで次の行動を起こしてしまう前に”この場合、どのように対応するのが最善だろうか?”と心に問いかける事が大切です。
感情的な行動から一拍置く効果もありますので、今後の育児にとても良いと思います。
あと、お子様とは心の付き合いをする事が大切で、お子様が眠った後など自由になる時間に心の中でお子様を思い描き、愛してるよ、などの言葉を念じるように習慣づけると、次第に育児における成功が見えてくるでしょう。
その行為により作られた想念は様々な恵みを双方にもたらします。
190様が今回の育児に携わるきっかけはお父様との関係が直接的にはあるようです。
かなり厳格なお父様だったのでしょうか、どうやらお父様との関りの中で「ルールを守る事」に対する意識が過剰に強まった可能性があります。
190様のお子様は、190様の成長を阻害しているその価値観を壊す役割として誕生されていると同時に、ご自身に欠けている要素を教えてくれる存在でもあられます。
そのため、お子様の行動をいくつか真似て、その視点を学ぶ事で、お子様と共に190様の人生も栄光が溢れるものになられるでしょう。
今回の育児に関して、前世に関しても原因はあられるかもしれませんが、それについては知らない方が良い事が多いようです。
おそらく”筋の通った事以外受け入れたくない”といった性質の解消のために、あえて知らない方が良いという理由があるのかもしれません。
あと、そもそも、前世に関する詳細な情報提供は本来望ましくないものなのかもしれません。
ただ、190様の場合ですと、障害を持つ子供の育児を任せられる事は何かの罰としての側面は少なく、過去に助けてもらった誰かに対する恩返しとしての側面が大きいようです。
おそらく、育児を通して精神向上を重ねるほど、そのあたりの事情は心の中の”安堵感や達成感”として無意識に湧いてくるかもしれません。
後を振り返ってみると、育児ほど偉大な仕事は中々無いことに気づかされます。
とはいえ、190様の場合は、むしろ気を張らずに育児に取り組むことが大切だと思います。
ご自身の中にある”ルールへの囚われ”がことごとく壊されるため、子供を制すための努力は報われにくいでしょう。
その代わり、ご自身の心を柔軟にする努力は報われると思います。
育児は長期に渡るものですので、この先も、何かあればご相談に乗らせて頂けると幸いです。
190様の価値ある人生に関わらせて頂き光栄です。 メグ様
190ですが詳しくありがとうございました。メグ様も障害のあるお子様を持ってられるとのことで共感いたします。
メグ様がおっしゃられてた「一拍おいた行動、子供に愛の想念を送ること」少しでもいいので取り入れていきたいと思います。言葉の通じにくい我が子に、もともと薄かった愛情が枯れていたので…
ちょっとずつでも、包容力鍛えていきたいです メグさんは日月神示を読んだことはありますか?
もしあれば、守護神様はそれを何と言っておられるか、なにかありましたらお教えください。 >>183
貴重なお話をありがとうございますm(__)m
彼に伝えさせて頂きます
いつもありがとうございます >>188
メグ様
>人間は無意識に《仮の自我の感情のままに動かされてした過去の失敗》の穴埋めを現在していて、
過去の失敗について、その穴埋めが数年で済めばいいと思いますが中には、
大病、大きな不運、身体的障害など、一生をかけて埋め合わせすることもあると思います
またその失敗は現世だけでなく自身が前世から引き継いでいるもの、または本人は何もしていなくてもご先祖や家族によるものを引き受ける場合もあると思います
失敗の埋め合わせといってもこれらの大きな規模の埋め合わせについてはどのように思われ、また対策されますか? >>211様
辛い思いをされたのですね。
お気持ちを察するに余りあるものなのだと思います。
この辺りの事情について実体から情報提供があるか試みてみます。
少しでもご参考になれば良いのですが。
211様の場合ですと、今はとても自立心が育っておられるようなのですが、それらはご兄弟のいた環境によって育まれたものであるようです。
その過程でかなり重い体験をされておられると思いますので、211様のお気持ちを考えれば最善であったとは言えません。
ただ、現在の自立心は様々な物への反発心により築かれているので、それらが恋愛や他の人間関係に影響を与えていて、それらをより良くするには、まずはもう少し明るく柔らかい服を着る方が良いと思います。
外見から変えるのは初期にはとても有効で、徐々に精神に影響を与え、次の段階へと導いてくれるでしょう。
それで【起きた現象に意味は無い】という思想にも立派な意味があると思います。
実際、人はメンタルを支えるために迷信じみたものを信仰し、その迷信を解くための人生展開にある人は多いですので。
この思想も探究していけば、より優れた思想になり得るのではないでしょうか。
単に、起きた現象に意味は無いとして、何の法則性も見出さなければ人生は堂々巡りになってしまうでしょう。
「起きた現象に意味は無い」という思想であっても、一つの出来事が様々な事実関係から成り立つことは疑いようのない事実だと思います。
一人の人間がどの漫画を読んでいる事一つとっても、その人の様々な心理的な要素が重なって、その漫画へと辿りついています。
1の出来事を構成する100の事実を分析していくと、様々な法則性を見いだせ、自身の人生に応用できるものが見つかっていくのではないでしょうか。
そうすると、目の前の現象が自身にとって意味のあるものになるかもしれません。
僕は、精神向上に関しても現実主義を極める過程が必要と考えているため、211様の思想にも素晴らしい可能性を感じます。 瞑想って感情が動いていない時ほど効果的で、するべきモノだと思っていました…… >>212様
そうおっしゃる気持ちもとてもよく分かります。
結婚し子供が産まれる過程は”抗いようのない流れ”をより強く感じる瞬間でもあります。
実質、全ての人が”抗いようのない流れ”の中にいて、その延長である思考(仮の自我)を築いていきます。
経験の違いは人間同士に考えの違いをもたらしますが、その考えの違いの全てが未来には共感に変わると思います。
ちなみに、昔、妻の分娩に立ち会いましたが、過去あれほど感動的な瞬間はありませんでした。
当時の僕ですらも涙を流して妻へ感謝をし、娘の誕生を喜びました。 >>213様
素晴らしいご意見をお聞かせ頂きありがとうございます!
おっしゃる通り、僕も、次の時代を作る人達は障害を持つ人からも産まれてくると思います。
障害にも様々ありますが、あらゆる障害を持つ人は様々な面で社会における価値を持つでしょう。
そもそも、生産性という意味で貢献できそうに無い人でも、助け合いの世界へ進む上では存在そのものが大きな価値を放っていると思います。
僕自身、障害を持つ娘との関りで得られたものがとても大きいですので、その点も娘に感謝しています。
(今日も限界まで鍛錬してもらいました) >>216様
ご質問を頂き本当にありがとうございます。
日月神示、とても興味深いですね。
あまり読んだ事が無いので、今、ネットで少し読んでみました。
これに関して、僕の実体は意見を差し控えた方がいいと判断しているようです。
日月神示に関わらず、あらゆる人の特定の著作に対する意見はしない方が良い、というスタンスです。
なぜかと言うと【世界の多様性を阻害せず、より多くの真相を世界に現わす必要があるため】ということです。 >>192様
素晴らしいご感想を頂きありがとうございます。
おっしゃる通り「感情が動いていない時にやる瞑想」もあり、またそれらも有効な局面もあると思います。
ただ、長時間の瞑想ができる人であっても、日常の感情の波に囚われている人が多く見受けられます。
すると、過去の自分(脱却したい自分)からすれば当たり前の行動を取り、過去の自分ならいたるであろう結末へと向かってしまうでしょう。
そのため、感情を制す力を身に着けるに直結する【感情が動いている時の瞑想】の方が優先度が高いように僕は考えています。
少しでも感情を制す力を身につければ、感情をやり過ごすことで過去の自分が取らないであろう行動が取れます。
地味なのですが、この過程が想像を絶するような違いを未来に生んでいきます。 >>223
こちらは初めて拝見しましたが的確な回答ですね
真実を含んでいたとしても、送り手や受け手の能力・傾向によりそれぞれ真理値や表現形式が異なるため、特定の観点からの評価はメッセンジャーやその信奉者同士の間に要らぬ軋轢を生むことになりますからね >>218様
ご質問を頂き本当にありがとうございます。
「失敗の穴埋め」に関しては、多くの人が関心をお持ちだと思います。
まず前提としてお伝えした方が良いと思うのは、人間は失うよりも多くを得る仕組みの中にいる、という事実です。
カルマの法則自体、過去に100の失敗があっても1の苦難で済む事が多いのです。
この辺りは、僕が20歳〜30歳まで褒められたものではない生き方をしていても、30歳〜32歳までの1〜2年の実践で仮の自我を急激に減らすことが出来たことを一つの根拠にしています。
とはいえ、1人の人間が一生涯で影響できる人数は1000人から時に何十億人と数が多いですので、その分まで考慮する必要があります。
(影響する人数は一つの尺度なのですが、影響する人数が大ければ大きな影響が返ってくる、というシンプルな物ではないのも事実です)
それで、大病や先天的な身体的障害など、さらに他のこの世の肉体的な意味でのご先祖様や家族、さらに人類の過去の失敗による穴埋めまでをひっくるめて判断するに、その全ての負の影響は、その影響に逆行する過程で全てプラスに転じます。
オセロが黒から白に変わるのと同じで、過去の負のものは自身の強さや愛として転換されていきます。
ですので、今の状況から精神向上を目指すだけで自然と穴埋めは成されます。
僕の場合、その際にはこのスレに書いたような事を行うと思いますし、実際に現在も行っています。
奇妙な話かもしれませんが、過去に負の物がある人間であるほど、それらを解消した時の到達点は「過去に失敗をしなかった人」よりも大きくなります。
この点が『今失敗をしている人を責めない方がいいし、自身も失敗を恐れない方が良い』と僕が考える理由です。
それで、家族による影響の場合、厳密にいえば、この世におけるご先祖様や家族によるカルマを代わりに解消することはありません。
仮に、家族による莫大な借金を背負い、その返済のために働いた場合では、人格という本質的財産において多くの美徳が備えられます。
「常人外れの意志力」「苦を乗り越えたことで得た思考力」「いかなる金銭的プレッシャーにも揺るがない精神」など、長期における繁栄に繋がる性質が得られます。
この場合、”家族によるカルマを代わりに解消していた”という事であれば、プラマイゼロとなり、自身に本質的財産である人格への影響は無いでしょう。
一見、家族の負を自身が解消しているように見えるのですが、それは物的な面に限定されていて、本質的には負をおっている事はありません。
身体的な障害においても同様で、その苦を乗り越えた人なりの価値あるものが得られますので、”外部の影響により、自身の人生の方向性が限定される”といった大規模な埋め合わせに対しては、その分だけ大きな物が得られると考えるのが正しいように思っています。
もちろん、それらは何かしら前世などにも原因はあると思いますが、それを負い目に感じる必要は無いと思います。
また、カルマの法則では、その人の現在の知性に合わせた減免措置がありますので、”現在の知性がいたらないばかりに起こしてしまう問題”に関しては、多くが免除されているのもまた事実です。
人間、良かれと思ってやっても失敗することはありますので。
過去に100の失敗があっても1の苦難で済む、というのはこの辺りの法則も関係しているでしょう。
カルマの減免措置は「動機」(その時の知性)により判断されます。
2歳児の子供がお店から物を取ってもカルマは微々たるものですが、物事の良し悪しを常識的に理解している20歳の人がそれを行えば、そのカルマは大きくなるでしょう。
それはすぐに自身の人格に影響が返ってきて、思考に歪みが生じてくるでしょう。
ただ、仮に、その20歳の人が親に「物を盗ることは良いこと」と教わっていた場合、その20歳の人にはカルマは生じず、そのカルマは親に向かいます。
そうして20歳の人が刑務所に入れられた場合、”親の影響から脱却する機会”として、本質的な意味での帳尻が合わせられます。
この世的な尺度で行くとただただ可哀想なのですが、本質的にはその人が救われるきっかけになっています。
(またそれらの真相に合わせ、この世においても情状酌量という形の出来事も起こりやすくなるでしょう)
様々な面から考慮して、大規模な埋め合わせにより少しも前進できない、という事は無いと言えます。
重度の知的障害により”思考も使えない”(貢献や精神向上への努力ができない)という場合も存在しますが、この件に関しても、特有の事情があります。
ただ、現時点において、これらの事をここに書くのが良いかは現在答えが出ていません。 >>226様
素敵なお言葉を頂き本当にありがとうございます。
ご縁を頂けて光栄です。
真理を現わそうと苦心している人達や、それを信じる人達で争うのは悲しい事ですよね。
全てのメッセージには必要とする人がいて、相応の意味があると思っています。 >>227
御回答ありがとうございます
大きな失敗の埋め合わせに向き合うには大きな成長のためという力強い信念が必要だと思いました
勇気も大事ですね 少し思うのですが、家族でもご先祖でも他人でも誰でも、誰かのカルマの解消はできると思います
エネルギーの循環みたいなもので、人と人との間でそれは共有できるので、人のカルマの解消は可能だと思っています
負のエネルギー体を移動させるみたいなイメージです 黒から白に・・・
これは相当な修行だと思います
かなりの信念と力強さがいると思います
ただぼけーっと生きているだけでは挫折してしまうことが多いかと想像します
成し遂げられる人は少ないのではと思います
またそのような成長の機会を得られる人も少ないんじゃないかなとも
私が世間知らずなだけかもしれないですが 連投を申し訳ございません
メグ様の力強さに圧倒されていますm(__)m >>188
自分が感情を動かされる事なく、イライラする事なく、事実をつけつけるのみ。
になります。 現世では無理でも死後と来世において苦痛や困難に対する十分な対価や代償が与えらなければほぼ全ての人間はあえて魂の向上を選ばない
見返りが無ければ現世で怠惰と強欲に基づく享楽的な生を選び、極度の不幸に見舞われれば自殺して生から逃避したいなどと思う
人間の良心や善意は脆く現実の苦痛等に対して生前には無かったとしても死後に見返りを期待しているから我慢しているだけだねえ 肉の世界で頂点目指すのかな。
キリスト否 日本では切り捨て君
天から切り捨てられても。 君が与える苦痛は一瞬だ。
ただ、君が与えている事は全て天に届けられる。嘘か誠か自分で経験しろ。 便所の掃き溜めの5ちゃんなんかで真摯にスピリチュアリズム論を展開するのはお勧めしませんけどね
ゴミみたいな統合失調者やキチガイだらけで荒らし等の雑音(ノイズ)を排除できないから
スレ主様は自分で荒らしコメント削除等ができる無料ブログ等を立ち上げてそちらに記載することをお勧めします 叩いてきましたね。
思想の士の武士に切り捨てられて
キリストとかしゃれにもなりません。
悔しくて意地悪でしょうか。 うんち野郎が我慢して真面目な文章書こうとしてこんな感じとか。 >>244
便所の掃き溜めにしているのは
神の様な者なのだが。
他の者は皆看板に対して真面目に対応 応対している。
君だけだが。うんち野郎 アンチ野郎君 >>232,231,230,229様
優れたご意見を頂き本当にありがとうございます!
>>家族でもご先祖でも他人でも誰でも、誰かのカルマの解消はできると思います
というご意見は、一つの真実を言い表していると思います。
実は、僕自身も半分はそのように考えていて、ただ判然とつかない要素があって断定できない状態となっています。
例えば、自身の精神向上により「痛い目に合う必要が無くなる」といった場合、「自分に痛い目を合わせるであろう人物」に関する変化を考えた時に、果たしてこれはその人物のカルマ解消にまで繋がっているのだろうか?と疑問に感じる事があります。
自分に対してネチネチ文句を言う闇子さんが家族にいて、”飛躍的な精神向上により文句を言われる事に何も苦痛を感じなくなった良子さん”という人物がいた場合、闇子さんの文句は急激に減っていきます。
(ここまでになると、そもそも縁が無くなる事も非常に多いですが)
ただ、こうした場合、闇子さんは文句を言わずに愉快な気分でテレビでも観ながら笑っている事が増えるのですが、闇子さんのカルマの解消(精神の向上)が成されているかと考えると、疑問の余地があります。
文句を言う陰湿な部分は表面上おさまっているのですが、テレビの人物に対して文句を言うなど、矛先が変わっているだけな事が非常に多いのです。
良子さんの精神向上による闇子さんの表面的な性格に対する変化は、極めて限定的と判断せざるえない面もあります。
ただ、テレビの人物に文句を言うより、良子さんに直接文句を言う方がカルマは大きいため、「良子さんは闇子さんの文句を封じた」という事で、悪い行為を防いだという意味では確かだと思います。
しかし、自身の精神成長(カルマの解消)がカルマ上の接点のある人物の精神向上に直接影響が及ぶか?という点では未知な部分です。
仮に、闇子さんが良子さんの親で、良子さんの人格形成に闇子さんが関与していたのであれば、その影響はもっと大きくなると思います。
良子さんの成長により、闇子さんが過去良子さんに対してした過ちの分のカルマが幾らか解消されるためです。
そうではない場合ですと、やはり精神成長に直接つながるような影響が出るかは微妙かもしれません。
精神成長のきっかけを与えるなどの事は可能なのですが。
ただ、そう考える一方、娘の事を考えると「カルマの解消をしている」と判断しても良い面もあります。
娘の場合は僕が少しでも対応をミスるとすぐに不穏になり、潜在的性格である所の”世を恨みやすい””尋常じゃないほどの反発心”という部分が現れていました。
そのため、僕は娘の世界観(仮の自我、表面上の性格)に良い影響を与えるべく毎日ハグしたり、大好きだよ、と娘の年齢分の期間、毎日声をかけ続け、娘の仮の自我形成に良い影響を出すようにした所、潜在的性格である所の”世を恨みやすい””尋常じゃないほどの反発心”などの部分が明白に少なくなりました。
これを僕が”娘のカルマを直接解消している”とみなして良いものか分かりませんが、潜在的性格の変化は未来の変化と考える今の思想に照らし合わせると、娘のカルマを解消できたのが事実である可能性は高いでしょう。
親と子の関係の場合は、他の人間関係において影響が比較にならないほど大きいため、自分が他者のカルマを直接解消した事例として扱うのは難しいかもしれません。
しかし、事実は事実として存在するのであれば、やはり人は誰かの精神を直接成長させられる可能性があると判断しても良いと思います。
ガチガチの理詰めで考えがちなのが僕の欠点でもあるのでしょう。
実際、232様のおっしゃる、エネルギーというのは人間の脳では計り知れないものであるゆえ、誰かの産んだエネルギーが誰かの精神成長に直接作用している可能性は非常に高いです。
この通り、僕には、今もってカルマの法則において未知の部分が多いということです。
僕の実体も僕が理解できる度合いに合わせて情報提供しているだけですので。
全ての人がそうしているのと同様に、世界の真相をより知るための探究と成長が僕には必要です。
精神向上するほどに、「232様だからこそ分かる事」が必ず出てきますので、長期的視点を持ってゆっくり取り組めたら良いのではないでしょうか。 >>233
ご感想を頂き本当にありがとうございます。
おっしゃる通り、イライラする事無く、事実を直視できていたら様々な真相が観えそうですね。
感情が動くと「目の前の事実」が途端に観えなくなるため、今、本当に大切な事ができなくなりがちだと思います。
お互い、この人生をより良く生きられたらいいですね。 その連続です。どこかでありましたね。達人が穏やかに瞑想するとか。皆の今ある環境でその様な瞑想状態になれればいいのですが。知ってる?そんな状態。なれる?そんな状態。なれるもんならなってみろ。うるさいのが、おい!何静かにしてんだ!おい!とやられたら達人は何と答えるのだろうか。聞いてみたい。 >>234様
素晴らしいご意見を頂きありがとうございます。
流れるような美しい文章ですね。
おっしゃる通り、”十分な対価が無ければほぼ全ての人間はあえて魂の向上を選ばない”というのは事実だと思います。
僕自身は、魂の向上どころか、さらに低い視点から始まっていて「寄付をしたら収入が増えるんじゃないか」という発想から、真剣にカルマの法則を研究し始めました。
現状、対価を求める基準が変わっているだけで、精神成長の過程でいつかはそれが無くなるのだろうか?という点も気になる所です。
ただ、高次の存在は対価を求める気持ちを持つ人達をそれほど悪く見てない、とも思うようになりました。
お駄賃を目的にお手伝いをしようとする子供のような可愛い存在なのだと思います。 >>244様
思いやりのあるご意見を頂きとても嬉しいです。
ここで書いたお陰で、244様のような誠実なご意見を頂ける方とも出会う事ができました。
僕自身、5ちゃんねるの方々が好きでして、自身に対する無価値感と闘ってきた美しい魂を持つ人達が多いです。
十分に敬意を表するに相応しい場だと感じています。
ただ、244様のご意見は的確で、その内、ここで書かせて頂いた内容をまとめたサイトを作る必要も出てくるかもしれません。
基本的にはここの内容の転載はご自由なのですが、誰も転載しない場合は僕自身が行った方が良いのだと思います。 度々失礼いたします。
>>253にて、ここの内容の転載はご自由と書きましたが、念のため、僕の発言の転載はご自由に、という事にいたしました。 >>249
ありがとうございます
お嬢様へのメグ様の影響が私がお伝えしたかったことに近いと思いました こんばんは、ご相談させてください。長文すみません。お返事は急ぎません。
まとめると人間嫌い引きこもりだけど生活するため、どうしたらいいのかわからないという状態です。
30代後半なのですが7年くらい引きこもってます。一人暮らしで貯金や元彼にもらったブランド物を売って生活してます。
スーパーコンビニ以外は外出しません。
引きこもる前は人間関係は築いていましたが学校の卒業や、会社の退職で人間関係を切ってきました。人間関係3年以上はきついです。仕事も最長3年です。仲良くしても(相手から寄ってくる)、それなりに楽しい思いはしても煩わしくなります(自分に対しても、人に対しても)。1人が安心します。
ずっと1人でのんびりしていられるなら何も要らない、何も経験できなくていい、誰とも出会いたくないと思ってます。
しかし貯金があと1年ばかりでつきます。
働かなくてはなりませんが、値踏みされる面接が大嫌いなのと、怠惰な性質なので行動になかなかうつせません。まだ気楽なアルバイトなら、と思って応募しましたが面接は当日キャンセルしてしまいました。
働きたくないし、人とも出会いたくないけど、生活するために変えなくてはなりませんよね。もし実体?からわかる原因や改善策とかあれば教えてほしいです。怠け者で甘えてるだけなのは分かってますが突破口がほしいです。。よろしくお願い致します。 集金教の地獄に陥るなかれ
宗教・精神世界のなかには、「超能力をもつ」と自称する教祖によって、
現世利益がもたらされると説く教団があります。そういった教団は往々にして、「まだ信心
がたりない」「病気が治らないのは先祖が成仏していないからだ」「あなたが不幸なのは、霊
がとりついているからだ」などと、不安感をあおりたてるようです。
そして救霊のためとの名目で、霊法や印鑑や仏像を法外な値段で売りつけたり、次から次ぎへ
と献金を強要するのが常套手段。
しかしその手口にいったんはまったら最後、「次の祈祷では大開運するかも」というギャンブル
と同じ心理状態に陥り、際限なく献金してしまいます。
つらいときは藁にもすがりたくなる。これが人間の常。しかしそうやって集金された金は、
教団を裕福にはしますが、信者に幸福や心の平安をもたらすとは限りません。
世界の治安や個人の不安感につけこんで金品を要求したり、お札や石を売りつけるのは、往々に
してうさんくさい宗教といって間違いありません。 金儲け主義の教団が乱立する現代日本
しかし、今日のブームはちょっと様子が違います。人生の目的や生きる価値の探求、
スピリチュアルなものへの興味がメイン。カルト教団や金儲け第一主義の教団は、そ
うしたものを求める人々に「金を払えば人生の目的を与えてあげるよ」「もっとお布施す
れば、もっとすばらしい人生が開けるよ」と甘いことばを投げかけて、誘惑しているので
す。
人の不安感や悩みにつけこんで、「もっともっと」と金品を要求するのは、総じてイン
チキなうさんくさい教団ですが、人生の目的までが金で買えてしまうと勘違いさせる時代
にも問題があるように思われます。 私は実は日本に20世帯くらいしか存在していないレア名字の家系です。
コモン名字よりも比較的記憶に残りやすい(当たり前ではありますが)メリットはありますが
反面、ネットの爆発的な普及もあり(それでかえって埋もれてくれる?可能性もゼロではありませんが・・・)
運悪く、冤罪事件等にでも巻き込まれようもんなら、一発で取り返しのつかないような
窮地に立たされる危険性を孕んでいる様な気がしてならないのです。
犯罪行為に巻き込まれないにしろ
Virusのせいで、PCやスマホ内の個人情報が流出、ばら撒かれようもんなら
なんかもうそれだけで辛いです。
カルマ的観点から見れば
このレア名字の家系に産まれてしまった現象は、どう解釈したら良いんでしょうか?
性格が粗くて、シンプルな目立ちががり屋さんみたいな人からは、
よく羨望の眼差しを向けられるのですが
私自身、自身が目立ちたい!よりも、悪目立ちをするデメリットをどうしても回避したい!の方が圧倒的に大きい為
本当に困っています。
有り触れた名字に産まれただけでも
だいぶ、自身のセルフイメージや、生き方なんかは変わっていたかと思います。
メグさん自身の名字はどうかわかりませんが
こればっかりは、レア名字に産まれてみないことには
この悩みの真髄は中々伝わらないかと思います。
コモン名字の生き方も体験してみたかったと言うのは正直少しありますが(基本的には対極も知っておかなければ気が済まない性格な為)
自身の性格が完全な【バランス志向型】な為
【『有り触れた』レア名字】(ある意味矛盾笑 例:喜屋武、等)
くらいが、自身の性格だと丁度良かったのでは無いかな、と
個人的には思っていますが・・・笑
なんか、自分自身でも、なんで今このタイミングで、こんな長文を書いてしまったのか
って謎な感じですが・・・。
上の方も仰有られていますが、
どこかのタイミングで、このスレッドの内容は他のプラットフォームに移行するだろうし
自然にそうなるのだろうな、とは思います。
スレの雰囲気と内容が内容なだけに・・・。 過去の失敗の穴埋めを、自分を含め家族に対しても、病気の苦しみで埋めたくないです
どうしても避けたいです
苦しむこと、苦しむ姿を見ること、耐えられる自信がありません
避ける方法がもしありましたらアドバイスいただけますでしょうかm(__)m >>253
実に興味深いスレですね
実験好きのスレ主の傾向を反映してか説明が合理的で明快ですね
ガイドないしは実体が遠慮深謀で慎重なのも印象的です
自分もいわゆるオタク、ひきこもり、ネット民の多くは、世間の物質中心の言わば倒錯した価値観に対し、それを受け入れることを拒否して自分の内在的な価値観を純粋に守ろうとする人たちで、実は今後やって来る世界の最先端にいる可能性があると見ています >>252
スレの内容からすると寄付の実験は複数人で行っているようにお見受けしましたが、
一口に寄付と言っても、寄付する対象以外に、寄付する財の性質(お金を得た手段)、寄付金の額や本人の経済状況、寄付する動機(現世利益目的、精神向上目的、利他慈善目的など)、本人の精神的成長の位置等々、諸条件は各自異なると思います
現時点でこれらの条件の相違は寄付による効果と何らかの相関関係がある、あるいはそこに何らかの法則があるとお考えですか?
スレをまだ全部通読していないため、すでに説明済みでしたらすみません >>256様
ご相談を頂き本当にありがとうございます。
引きこもり生活は周囲から観ると、怠惰なように観られがちですが、その実、過酷な試練の一つなのだと思います。
その苦労も実る時が来ると思います。
この件に関して、実体からの情報提供があるか試みてみます。
256様の場合ですと、現在の状況は”内面を充実させるための過程”であるようです。
その過程はどのようなものかというと、”外面的には何も無い自分”でも楽しくやっていけると思えるまでの道のりです。
過去、容姿などを褒められることが多かったのでしょうか。
人は褒められ方しだいでも執着が生まれ、その執着を外すための道のりが生まれます。
このプロセスでは外面を取り繕うほどに内面に”問題”が現れていきます。
表面の現象としては、部屋を掃除する気にならなくなったり、何もする気にならなかったりなど、様々な形で問題が生まれていきます。
ですので、この場合、スーパーやコンビニに行く際、外面を取り繕うのを止めることも効果的です。
お化粧などもせずすっぴんで行くのも良いでしょう。
「外面を取り繕わなければ人から見捨てられてしまう」という根本的な不安があられ、その不安に逆らった行動の方が報われまし、生活の保証に繋がります。
現状、人間嫌いの一人でいたい性質が強くなるよう導かれているのは、外面を取り繕う性質を減らすまでの道のりの一つでしょう。
ただ、これらの行動ができなかったとしても、>>65で書かせて頂いたように「適切なものを望む」という事だけでも人生は変えられます。
この場合ですと、”人から外面的にどう見られても気にしない強さが欲しい”と願うように意識づけるのも良いと思います。
適切な願いには力があり、その想念は現実を変えていく力になります。
とはいえ、表面的な自我はこれを望みません。
外面的なものへの囚われにより一部が出来ているため、外面的な物に囚われない心を望むことを表面的自我は拒否します。
ただ、それでも意識づけることは可能ですので、呪文のように心の中で”人から外面的にどう見られても気にしない強さが欲しい”と、ただ繰り返すだけで大丈夫です。
それだけでも人生において大きな前進が見込めるでしょう。
心配の種であった経済的な問題については、「精神的欠点を克服しようとする」という事の方がより強い保証になっていますのでご心配の必要は無いと思います。
それは貯金よりも遥かに安心が得られる、人生の法則による保証です。 >>257,258様
素晴らしいご意見をお聞かせ頂きありがとうございます。
この世において”集金教”は様々な場所に存在していますね。
不安による行動は世界にひずみを出しますが、集金教もそのひずみの一つなのだと思います。
その一方、集金教もまた、信者の人達の盲信を解消するための一つの試練の場なのだと思います。
盲信を解消するための宗教ではなく、より高き真相を現わすための宗教が大多数を占め、集金教の存在意義が無くなるような世界が来るといいですね。 >>259様
ご質問を頂き本当にありがとうございます。
レア名字の家系に産まれてしまった現象への解釈、についてですね。
その人が置かれる状況には独自の背景がありますので、この辺り、実体からの情報提供があるか試みつつ考えてみたいと思います。
259様の場合ですと、「霊的な意味におけるエリート意識を克服する事」が、精神の成長におけるポイントであるようです。
どこからか湧いてくる不思議な自信はここから発生していて、そのシンボルがレア名字として形になっていると思います。
その自信は知識欲や向上心の強さにも換わっているのですが、これより先は、普通の人(特に精神的な事に関心の無い人)に対する共感により高い境地へ到達できるようです。
レア名字は克服する予定である課題点を反映しているため、そのレア名字に人が反応するのと同じぐらい、259様も他の人に関心を持つ事が望ましいようです。
このプロセスでは”人が関心を持つものを、自身も関心を持ってみる”という事が、人生を実りあるものにしてくれるのだと思います。
適切な答えなのか分かりませんが、少しでもご参考になれば幸いです。
僕自身は子供の時に名字が2回変わっていて、その都度、自分の中の何かが変わっていった気がします。
確かに、名字によるセルフイメージへの影響は存在するように思えます。 >>260様
ご質問を頂き本当にありがとうございます。
その思い、とてもよく分かります。
病気には”過去の失敗の穴埋め”という要素ばかりでは無いのですが、それで苦しむのは辛いのは確かです。
それで、病気などによる苦しみを避ける、僕が知りうる限り最善の方法をお伝えいたします。
根本的に病気を避ける方法として良いのは
『苦しんでもいい、苦しんでる家族のお世話をしてもいい、と思える覚悟を身に着けること』
だと思います。
例えば、何か悪い事をしてしまい、叱れても仕方がないと覚悟をしたら、なぜか、思ったほどは叱られなかった、という事は多くの人が経験していると思います。
覚悟は様々な困難を”起こる必要の無いもの”に変えてくれます。
そのため、逆説的なのですが、病気による苦しみを覚悟できる度合いに合わせて、病気による困難は精神成長にあたって不要という事になります。
ただ、現状、そのような覚悟ができないからこそ、この質問をされているのだと思います。
ですので、ここでも”求める”という事が大切です。
《外面的な苦痛に対する不動の心が欲しい》と、おまじないのように心の中で繰り返すだけで良いです。
すると、人生は価値のあるものほど得られやすいので、覚悟できるような不動の心が手に入る道をいけるでしょう。
現状、それらが得られるまでは気が遠くなる期間を要するように思えるのかもしれませんが、価値のある物をしっかり望む事さえできれば、想像するよりも人生の密度はずっと濃くなっていきます。
そのため、数年であっても、”数年前の自分を懐かしめるような”大きな進歩を得ることも可能でしょう。 >>262,261様
ご質問を頂き本当にありがとうございます。
こちらとしてもご縁を頂けて光栄です。
おっしゃる通り、現在の世の中の尺度では”うまくいかない人”であっても、本質的には繁栄にいたる道を歩んでいる事があると思います。
それで、寄付に関する詳細な事に言及された質問がなされたのは、読者様にとって幸いだと思います。
感謝いたします。
寄付に関しては200人ほどの人と共に実践した事があります。
ご質問の
>>寄付する対象以外に、寄付する財の性質(お金を得た手段)、寄付金の額や本人の経済状況、寄付する動機(現世利益目的、精神向上目的、利他慈善目的など)、本人の精神的成長の位置等々、諸条件は各自異なると思います
現時点でこれらの条件の相違は寄付による効果と何らかの相関関係がある、あるいはそこに何らかの法則があるとお考えですか?
という件について、実践した際に分かった事をお伝えいたします。
長くなりましたので分割して投稿いたします。
まず寄付する財の性質の影響については、そもそも「本人のお金の使い方」に対して、十分影響が及ぶと思います。
この場合、寄付先やお金の使い方の性質に変化が無自覚に出る、という形です。
例えば、人から奪い取るように稼いだお金を寄付に使う.....となる事はそもそも非常に少なく、机上の空論になってしまうかもしれません。
ここに稼いだお金の質が本人に対し無自覚に作用する部分でして、この場合は寄付しようとすら思えないのが実際です。
基本的には、良くない稼ぎ方をしたお金は、本人の成長を阻害するような物へと使われます。
贅沢な性質が欠点であれば、贅沢な事に使ってその欠点を増大させますし、稼ぎ方の質の低さに合わせて明らかに非合理的なお金の使い方にいたります。
非合理とは自身にとっても、また、世界全体にとっても非合理ということです。
(ただ、お金の使い方はその人の精神年齢など全体の事が影響するので、稼ぎ方のみで決まる物ではないと考えています)
逆に、良いお金の稼ぎ方をした場合では、本人にとって本質的に価値のある事にお金を使えるようになります。
その一つが誰かを助ける寄付であったり、精神的欠点の克服につながる使い方であったり、様々だと思います。
この”お金の稼ぎ方の良し悪し”というのが、また表現しづらい概念なのですが、避けられぬテーマですので表現してみたいと思います。
無数の尺度があるのですが、分かりやすい所では、
「得たものよりも多くを提供しているか?低く提供しているか」
などがあると思います。
一つの段階における見方では、仕事において給料よりも2倍の価値を産んだ場合、そこで稼いだお金はより本質的に価値のあるものへと使える傾向があります。
例えば、営業マンとして給料の2倍の利益を会社にもたらした場合、そのお金の使い方は”その人がより多くお金を稼げるを身に着けるに直結するもの”に向かいやすくなります。
この場合、勉強に使うとかだけでは無く、潜在意識に物的豊かさを刻み付けるための”贅沢”など、好きな女性へのプレゼントなど、様々な使い方によって、お金そのものよりも高い価値を持つ”お金を稼ぐ力”を得る方向へと無意識に使われたりします。
ただ、その会社がそもそも世界全体にとって良い事をしているとは限りません。
ですので、その人が精神成長していく場合、会社のために給料以上に働くという事が”良いお金の稼ぎ方”に該当するのは、一定の段階まででしょう。
仮に、その人が物的見返りの無い寄付などを行えば、より世界全体にとって貢献度の高い会社に行きついたり、別のお金の稼ぎ方をするよう導かれます。
(往々にして、世界全体への貢献度の高い会社もまた、この世における尺度と違っています)
このように、1つの段階における尺度は、他の段階における尺度と違う事情もあるため、お金の稼ぎ方(手元の財の性質)の良し悪しを理論で現すのが難しくもあります。
ただ、より良いお金の使い方をするほどに、精神的欠点の克服が早く成される仕事や状況により、お金を得る事になりますので、お金の使い方と稼ぎ方は連動しています。
そのため、”手元にある財をより良く使おう”という意識さえあれば、悪い稼ぎ方をしてしまう危険を避けられるのは間違いないでしょう。
とはいえ、高い段階であるほど、稼ぎ方の質はお金が入ってくる経路で決まるのではなく、その人の精神成長に沿った入り方がされているかがポイントになるため、一般的にお金の稼ぎ方の質(財の質)を判断するのは難しいように思います。 >>267の続きです。
寄付金の額や本人の経済状況による影響についてお伝えします。
結論から申し上げると「経済状況が不安定な中で行われる寄付」の方が精神成長に大きく作用します。
仮の自我は”お金を人のために使っていたら自分の生活が行き詰まる”と信じておりますので、その盲信を破る事が仮の自我脱却につながる事は確かです。
また、不安定な中での実践の方が、より多くのピンチでより多くの奇跡を経験したり、様々な法則を見いだしやすいのもまた事実でしょう。
世界全体からすると、寄付の金額の大小以上に、それぞれの人が”仮の自我”を脱却できる度合いの方が大きく作用するため、1兆円の財産を持つ富豪による1億円の寄付よりも、貯金が10万円の人の1万円の方が実質世界全体に対する貢献度合いは大きくなります。
僕達、人間的自我ではその理由は見いだしにくいのですが、自身が仮の自我を抜けるに従い、困難を避けられる人達が世界中に現れていきます。
仮の自我を抜けた人の想念は世界中に大きく作用し、カルマ上の接点のある人達の苦難を大きく減らす事になっています。
そのため、貢献度を判断するに寄付額の大小はそれほど大きい要素では無いと思っています。
ただ、注意が必要なのは、僕自身がここにこれを書いた事で、少し事情が変わるという点です。
このスレを見て実践する人は、寄付に関する前提知識が加わりましたので、寄付に関する心理的抵抗はかなり落ちるでしょう。
その分、寄付が精神成長に及ぼす影響は少なくなっていて、他の、”感情が動いている時の瞑想”などの重要性が高まると思います。
とはいえ、お金による人助けの実践は誰もが怖く、乗り越える対象であり続けるため、寄付の有効性が消えるとまではいかないとも考えています。
寄付に対する考え方自由であった方が良いと思いますが、僕自身は寄付による実践は”人生によりストップがかかるまではした方が良い”と考えています。
というのも、他の善行を優先しすぎると、空回りが多くなりがちだからです。
例えば、育児をしていて、「子供を心配してあげるのが子供のため」と心配性な母親は思います。
その母親は子供を心配によりがんじがらめにしますが、それを善行だと信じています。
他には、自身の健康法は全ての人を救えると信じ、それを広めようとするのも善行だと信じる事もあります。
こうした場合、その善行に拘ってしまうと、10年〜20年かけて”その善行によるひずみ”を学ぶ必要が出てきます。
寄付による実践が入ると、多くの場合、自身の信じていた物よりも高い次元の善行が観えてきますので、10年で学ぶはずだったものが1年以下で学べたりします。
これは寄付がすごいわけではなく”仮の自我による盲信を大きく突き崩す行為”がすごいということです。
寄付でなくても、仮の自我が怯むほどの状況下で自身の身を呈して誰かを助けているなら、十分に、同様かそれ以上の精神成長が起こり、より真相が観えるようになるものだと思います。
ただ、仮の自我が怯むのは行為だけではなく「何もしない」という事など多岐に渡ります。
気が焦る中で、感情を制し何もしないよう努めるほど辛いものは中々無く、これらも含めて仮の自我を抜ける行為であり、広い意味においては善行になると思います。 >>266
メグ様
御回答くださりありがとうございます
避ける方法を教えてくださり感謝していますm(__)m
とても希望が持てました
どうしても避けたいので頑張りたいと思います!
メグ様が皆様に答えられているの黒を白にする精神力・方法・法則に感服しています!
これこそが真の永遠なる力強さですね
そしてそれを人類は求めるし世界はずっと教えてくださっているのですね 貧者の一灯でしょうか
私も実践していますが、なかなか負の思いが払拭されないですね
全ては過去の失敗の埋め合わせのためにひたすら行っているので、成長や繁栄の道とは違う道なのかもしれませんね 神社や、町のお地蔵さんに寄付するのも
同等か、それ以上の効果は得られるモノでしょうか? >>265
御回答の程、本当にありがとうございます。
>「霊的な意味におけるエリート意識を克服する事」が、精神の成長におけるポイントであるようです。
>どこからか湧いてくる不思議な自信はここから発生していて、そのシンボルがレア名字として形になっていると思います。
>その自信は知識欲や向上心の強さにも換わっているのですが、これより先は、
普通の人(特に精神的な事に関心の無い人)に対する共感により高い境地へ到達できるようです。
ここの部分に置いては、特に脱帽モノなのですが
同じ境遇なはずの弟も、同様に近い性質は持ち合わせては居ないのか?と言うところは、多少なりとも氣になりますね・・・
>普通の人(特に精神的な事に関心の無い人)
コモン名字の家庭に産まれた『母』が特に向上心も無い普通の人なのですが(まぁ割と普通じゃない部分もあるのですが笑)
ネットに疎いせいかなのかはわかりませんが、超レア名字に変化したにも関わらず
私の様に、無駄に臆病にはなっていない様に思われます。
メグさん自身は、幼少期に2度の名字変更があったとの事なので
概ね心中御察し致しますが
また、その出来事、事象が
今のメグさんの実体(?とお呼びしても宜しいのでしょうか)
を形作った要因の一つと言うことはあるのでしょうか?
そこに関しては、やはり寄付や瞑想行が大きいのでしょうか。 >>268の続きです。
次は寄付する動機(現世利益、向上目的、利他慈善目的など)という観点による寄付行為への影響についてお伝えいたします。
(精神成長度合いの影響に関する回答も含んでいます)
動機はその行為が良いかどうかの判定基準になる、コンパスと地図のような役割を示していて、あらゆる行為の判定基準になります。
ただ、動機による判定法には一つ問題があり、「真に純粋な動機で行動できるのは仮の自我を大幅に抜けた人のみ」という点です。
というのも仮の自我というのは常に保身を図ろうとするものですので、その中にいる内は動機に保身や不安が加わるのは仕方がありません。
ですので、仮の自我を抜けて動機による判定法による精度が上がるまでは、動機以上に、”極力、自身に物的見返りが無い奉仕をする”という基準で、精神成長を目指すほうが良いと思っています。
そのため、寄付に関しては動機による判断の重要性は少し下げても良いと、僕は考えています。
すでにこのスレの>>12で「寄付等による善行は偏見・盲信を解消するための苦難(膿だし現象)として影響が返ってくる」と書いておりますので、それを知りながらも実践できる人であれば動機の面でも素晴らしいと思います。
もちろん、寄付に関わらず、動機が良いほどその行為は力のあるものになります。
ただ、正確に言えば、真に世界にとって必要な行為に対しては、自然と動機が良くなる、と表現するのが良いと思っています。
せっかくですので、ここで僕が知る【動機が作用する原理】についてお伝えいたします。
まず”動機の良し悪し”の判断は、普通には分からぬほど複雑かもしれません。
基本的には自身よりも人のためを思うほど動機は良いのですが、
意外にも「動機がそもそも存在しない行為」がもっとも力があり、より実体による知恵を現わすことができます。
”必要だから無意識にそうしてしまう行為”こそが、より潜在意識の知恵が反映されています。
例えば、待ち合わせの時間に間に合わないと焦っている時に、あえて瞑想をします。
焦りの感情がおさまった場合、間に合う必要が真にあれば感情を超えて、無意識に間に合わせるための行動を取る事になります。
簡潔にお伝えすると、不安によるチキンレースに打ち勝った末には、無動機による行動が現れ、それは世界にとって最善の結果をもたらします。
僕自身は育児においてよくこれを経験させられます。
外出せねばいけない時に娘がダラダラ遊んでいるといった場合、まずは自身の感情を落ち着けます。
始めは、「間に合わなかったらどうするんだ!」という怒りと不安による行動が生じやすいですが、まず、これを落ち着けます。
すると、感情を落ち着けた末に、真に間に合う必要があれば、自身や娘にとってもっとも良いやり方で娘を動かし、外出することになります。
もっとも優れた知恵は感情を制した後に、無動機の状態でやってくる事が多いように思います。
逆に、もっとも質の低い知恵は感情が高ぶっている状態でやってくるのが常です。
そのため、感情のコントロールと動機の分析は表裏一体だと僕は考えています。 >>270様
おっしゃる通り、過酷な環境からの奉仕の偉大さは”貧者の一灯”という言葉でも伝えられていますね。
仮の自我を突き抜けるまでは様々な葛藤が起こりますが、必ず、報われるものだと思います。
ただ、270様の場合ですと、コミュニケーションにおいて人から誤解を招きやすい面があるかもしれません。
特に、現段階においては、笑顔を大切にされるのが大きなポイントだと思います。
顔の筋肉を鍛えるように、笑顔でいる時間を増やすようトレーニングをすると、無意識に笑顔でいられるようになります。
(僕自身もやったことがあります)
何かのご参考になれば幸いです。
寄付による実践は間接的に”自身の精神成長にとって必要な情報”を引き寄せる事が多いですので、周囲の人からもたらされる情報には特に注目されるのが良いと思います。
270様の努力は必ず報われます。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています