利他の心、慈悲の心、真我、大我の心とは?
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仏教やスピリチュアリズムやキリスト教を学んでると、
ある共通した教えに気づく。
それは、
自我→大我
利己主義→利他主義
自己愛→慈悲
という、自分中心の心から相手中心の心になるようにしていこう、という教えが
どの教義にも含まれている。
たぶん、これはなにより重視すべきポイントだと思うんだけど、
この、自己中心的な心から他人中心の心になるとは、一体どういうことなのか?
それは心がけでなっていくものなのか、ある程度修行が必要なのか、
年齢を重ねると自然とそのような心になっていくのか、
利他的な心のことを仏性とか真我と呼んでるにすぎないのか、
そもそも別ものなのか、
逆に、仏性や真我が開くと自然に利他主義になるのか、
では、そもそもどうやって仏性や真我が開くのか、
教えてください。 聖人君子のふみ行うべき道は、たとえば遠方の土地に行くのも必ず近くから始めるようなものであり、
高い所へ登るのも必ず低い所から始めるようなものである。
まず身近なところから始まるのだ。
詩経には「妻や子たちの温かい和やかさ、まるで琴と大琴の合奏。兄弟もすっかりむつみあい、
やわらぎの中で楽しんでいる。なんじの家庭をうまくととのえ、なんじの妻子を楽しませている」
とうたわれている。
先生は言われた、
「父も母も満足しておられるだろうね」と。
(中庸) 詩経に「錦の衣を着てその上から薄物をかける」とあるのは、
錦のもようがきらびやかに外に出るのを嫌ったものである。錦は薄ものをすかしてこそ美しい。
そこで、君子のふみ行う道は人目をひかないで、それでいて日に日にその真価があらわれてくるものだが、
つまらない小人(しょうじん)の道ははっきりして人目をひきながら、それでいて日に日に消え失せてしまう。
「かすかかなことほどかえって明らかになる」と知って、何事も身近な地味なことから始めれば、進んで徳の世界に入ることができるのだ。 詩経には、「深くもぐって隠れていても、やはりはっきりとあらわれる」とうたわれている。
だから、君子は外を飾るよりも内心を修め内に省みてやましいところを持たず、心に恥じることもない。
凡人には及びもつかない君子の長所は、他でもない、他人にはうかがえないところ、その内心の境地にこそあるのだろう。
詩経には、「お前が居間にいるのを見るのに、どうか部屋の隅の神の御坐所に恥じないようにしてほしい」とうたわれている。
だから、そうした君子は内心の徳が充実しているので、行動を起こすまでもなく人から尊敬され、
言葉をだすまでもなく人から信用されるのである。
(中庸) なにかの機会に、「ああ、かわいそうだ」と感じることがある。
そのときの心を、ふだん平気で見過ごしていた事がらにまで広めたもの、それが仁である。
また、「絶対によくないことだ、やるまい」と決心することがある。
そのときの心を、いままで平気で行ってきた事がらにまで広めたもの、それが義である。
たとえば、「他人から軽んじられたくない」という気持ちを大切にし、自分にそれだけの実質的人格を
育ててゆくならば、行うことすべて義の道にかなうのである。
(孟子) 仁の心はだれにでもある、というわけはこうだ。
幼児がヨチヨチと井戸に近づいて行くのを見かけたとする。
だれでもハッとして、「かわいそうだ、救ってやろう」と思う。
それは別に、幼児を救った縁でその親と近づきになりたいと思ったためではない。
村人や友人にほめてもらうためでもない。
また、救わなければ非難される、それが怖いためでもない。
してみると、かわいそうだと思う心(仁)は、人間だれしも備えているものだ。
人間は生まれながら心を備えているように、この仁を備えている。
それなのに、自分は仁や義など実行できぬと決めこむのは、自分を傷つけるものである。
他人に対しても、同じように決めつけるのは、他人を傷つけるものである。
自分に備わっているこの仁と義を、育てようと思い立てば、樹木が生い茂るようにそれは
限りなく大きくなってゆく。そうすれば、天下を安定することもできる。
しかし育てなければ、自分の父母を養うことすらできない。
(孟子) 仁ならば栄えるし、不仁ならば辱めを受ける。
辱められるのを嫌がるのに不仁であるならば、それは湿り気を憎みながら低湿地にいるのと同じことだ。
書経にこうある、
「天の下す災いはまだ避ける道もあろうが、みずから成せる災いから逃れる道はない」
(孟子) 古きよき時代に、輝かしい徳をもった聖人は、まずその国をよく治めた。
その国をよく治めようとした人は、まずその家を和合させた。
その家を和合させようとした人は、それに先だってまずわが身をよく修めた。
わが身をよく修めようとした人は、それに先だってまず自分の心を正した。
自分の心を正そうとした人は、それに先だってまず自分の思いを誠実にした。
自分の思いを誠実にしようとした人は、それに先だってまず自分の知能を十分におし究めた。
知能をおし究めるには、学問によって物事の善悪を確かめることだ。
学問を積んで、物事の善悪が確かめられてこそ、はじめて知能がおし究められる。
知能がおし究められてこそ、はじめて思いが誠実になる。
思いが誠実になってこそ、はじめて心が正しくなる。
心が正しくなってこそ、はじめて一身がよく修まる。
一身がよく修まってこそ、はじめて家が和合する。
家が和合してこそ、はじめて国がよく治まる。
国がよく治まってこそ、はじめて世界中が平安になる。
こうしたわけで、君子はまず何よりも自分の徳の充実に気をつけるのである。
(大学) 最上位にあるものの苦しみとは
白髪の見えるほど
苦しむ者に慈悲を表す時の苦悩である
下賎の苦しみとは
おのれのことばかりにとらわれる心根にある
利己を越え他人の悩みに悩め
悩み続けるほどに
仏性は輝き
幸福の元は深くなる 「聖人はもともとある。我々の天性に内在しているのだ。だが、人の欲望がこれをおおい隠してしまっているため、表に現れない。
だから、欲望をなくし続けて、眠っている聖人を出すことが大切なのだ。
学問することで聖人に至るのではない。もともとあるのを引き出すのである」
彼らは早速、師の教えを実践しようとした。すなわち、座禅を組んだり、瞑想にふけったりしたのである。それを見た王陽明は
「何をやっているのか!そんなことはいとも簡単なことである。本当の修行とは、そんなことをするのではない!」
「座禅なんかしたって、それだけで聖人にはなれっこない。瞑想したくらいで聖人になれるなら、これほどやさしいことはない。本当の修行とは日常生活の中で行うものなのだ」 つまり、役人は役人という仕事の上において人欲をなくし、教育者は教育者という仕事の上において、本来の良知を出す修行をしなければならないのだ。
このように、日々の生活や仕事の中で人欲をなくし、聖人になる修行をしなければならないと、王陽明は説いたのである。そして彼は、こうした日常生活の中での修行を「事上錬磨」と呼び、これこそが最も大切であると主張したのである。
深山幽谷で瞑想にふけっても、あるいは滝に打たれ断食しても、日常生活に戻ったとたんに欲望にかられたり、みだらな妄想にかられたとしたら、何の意味もないではないか。 ここでお断りしておくが、厳密に彼の主張を述べれば、決して正座や座禅は否定してはいない。
これらを静の修行とし、今、述べた点を動の修行として、静動一致を説いたのである。しかし、当時は静と知の修行がほとんどであり、動の修行は彼によって初めて喧伝されたわけである。 「山の中での修行は誰だってできる。だがひとたび俗界に下りてきて生活を始めたら、異性関係は乱れ、お金では欲望に目をくらませ、人間関係では激しく葛藤する。これがもっぱらである。
そのようなのは本当の修行ではない。本当の修行とは動中の静にある。すなわち、日常生活の中で座禅をしているような、外相にとらわれない静かな境地を維持しなければならない」
外界の条件に惑わされて念を起こす。これを無明とす
日常のさまざまな活動、色声香味触法の六塵である現実の中で、
正念を打失するのはどの時かと、常に自己点検しなくてはならない 過去、未来、現在の如来は、ただ一法だけでは、無上のさとりを完成することはできない。
(1)貪欲のものには布施をすすめ、(2)規則をおかすものには持戒をすすめ、(3)怒りやすいものには、忍辱をすすめ、
(4)怠惰なものには精進をすすめ、(5)こころの乱れやすいものには禅定をすすめ、(6)愚痴のおおいものには智慧をすすめ、
(7)仁愛に欠けるものには、慈をすすめ、(8)人を傷害するものには悲をすすめ、(9)こころに憂いをいだくものには喜をすすめ、
(9) 愛憎のつよいものには捨をすすめておられる。
このようにして訓練をつづけていくならば、やがてすべての真理を悟ることになるであろう。 万象実在の迷執を起さば
ついに涅槃の大義を失い
万象は空にして無自性なりと識得すれば
まさに涅槃の大覚を得ん
万象差別の相対世界に泥(なず)んで
生死流転の難を求むれば
真理を離るることはなはだ遠く
たとえば大空と大地の如し
無念にして彼我の別なく
ただよく一切の救済に志し
悟りおわってなおも永恒に有情を恵む
ここに無上離染の喜びあり
もし人、欲のために真理を説かば
彼れ欲を捨てしかも欲を取る
愚かなる者は真理の道を聞いて
かえってこれを世間名利のためにせんとす
空華、水泡の観察戯論を捨てて
まさに勇猛精進のこころを起し
一切をしてことごとく
真如正覚の大生命に入らしむべし >利他の心、慈悲の心、真我、大我の心とは?
「自分を大切にする心」と別に変わらない。
「自己犠牲」や「他人中心」とは根本的に違うもので、
本当の「ワンネスの心」は自他を区別する心とは違う。
「他人を優先にする心」とはつまり「偏りのある心」
他者に心が「偏っている」から、そちらを(他者を)優先させるようなメッセージを謳う霊的存在は、
ニセモノか、霊的指導者ぶりたいだけの自己満足な未熟者の霊。
さしずめ本物のマスターの言葉なり何なりを語る姿を見て聞いて、それに憧れて、
マスターの真似事をすることで自分も本物のマスターになった気になって優越感に浸っているだけのバッタモンと思われる。
お手軽でどんな未熟な霊的存在にも簡単にできるテンプレート霊言集は、あの世にもこの世にもよく転がってるから、
こういう自称霊的教師の未熟な霊たちの実に多いこと、迷惑この上なし…… >>1
仏性、真我は超純粋な利他心です。
それは人間の内部に眠っており、
利他行の実践により少しずつ目覚めていく、育んでいく、育てていきます。
天に宝を積むとはこのことです。
時が満ちると仏性が生まれ出ます。
それが解脱、即身成仏、神人合一と言われている境地です。 仏性、真我は人間の内部に眠ってるってどういうことなのだろう?
仏教でもスピリチュアリズムでも、眠ってるという表現する。
眠ってるということは、元々そなわってると言うこと?
たとえば、普段思いやりない人が感動映画みたとき一時的に利他的な気持ちになったりする。
それが眠ってる真我が目覚める瞬間ということ?
悪人や犯罪者も家族のこと思ったりする瞬間もある、
それも利己的人間が一時的に利他心が芽生える瞬間ということかな。
じゃあ仏性や真我を開いて利他心や慈悲の心になっていくとは、
日常生活で感動映画や小説をたくさん読んで、他人思いの気持ちを育てていけば
内に眠ってる仏性や真我が目覚めていくかな? >>17
それは実際に利他行の実践をし続けて、実際に仏性が生まれて、
解脱、即身成仏、神人合一と言われている境地に達した人じゃないと
確認できないことだよね?
あなたは今現在、すでにその境地に達しているのですか? >>18
宗教とかスピリチュアルなんよりも、まずは「アサーション、アサーティブというものを勉強した方がいいよ。
自他の考え・意見・感情・権利を尊重しながら築く人間関係やコミュニケーション。
大切なのは、「自分も尊重し大切にしなければ」他者に対しても慈悲の心は現わせないということ。
一方的な利他の行いは、実は相手にとっても重荷だったりする自己満足になりかねないし、
極論を言えば、下手するとメディアを利用してヒトラーがドイツ国民をプロパガンダ洗脳で選民思想に染めたように
「メサイアコンプレックス」「ヒーローシンドローム」「メロドラマ症候群」に陥ってしまいかねないからね。
お釈迦様曰く
「自灯明・法灯明(自分を拠り所とし、仏法を拠り所とする)」(←※「自灯明」が先に来ているところがミソ)
臨済禅師曰く
「逢仏殺仏(仏に会ったら仏を殺せ)」
(※もちろん殺人のススメではなく「他者や過去の教え・言葉に固執してても目覚めることはできない」
といったような意味らしいよ)
まあこれらも仏教の言葉ではあるんだけど、要は「信じる」のではなく、自分を主体として「参考にする」。
うまくいかなかったり自分の感覚にしっくりこなければ手放せばいい。
「手放す・捨てる」という仏教の教えを紋切型に何でもかんでも捨てなさいと、
「自分とは違う別人になる」ように宣う人や霊くん達が多いけど、それではまるっきり「他灯明」ス。 >>20
最近読んだブッダの本も同じような解説だった。
自我の滅却といっても、自分を捨てるということではなく、自分あっての他者というような。
キリストも自分を愛するように他者を愛しなさいと言ったけど、
自分を愛するより他者を愛しなさいとは言わなかった。
つまり、自分への愛があってこその利他愛があるっていうことなんだとおもう。
より深い解説では、自分という枠が自分を超えて外にはみ出しそれが他者への愛になるというような。
それは理屈では理解できる。
自分の心が愛に溢れてると人々や世界も愛に溢れて幸せそう見える。
そのときの気持ちが仏性や神性が開いた状態ってこと?
そのときの精神状態が利他的で慈悲というものなの?
それとも別のものなのかな? 人間には仏性が内在されている。
人間には神性が眠っている。
それは奥のほうに眠っていて、まだ目覚めていない。
それを目覚めさせるには、勤行や瞑想や利他行の実践を行いうことで、
感謝や奉仕や慈悲のような心境が目覚めてくる。それが仏性や神性が目覚める、ということ?
仏性や神性はつまり修行や実践によって目覚めてくるもの?
勤行や瞑想や利他行があらゆる宗教で重要視されてるのはそのためだろうけど。
感動する映画や小説を読んで心が利他愛になって清々しくなるのとは、まったく別のことなの?
もし映画やドラマでその慈悲の心が目覚めるなら、見続けることも修行で、
最終的に仏性や神性が開くこともできるということになる?
他者への思いやりや気遣いや愛によって仏性や神性が目覚めるなら、
日々、人々を愛の目で見続けることを習慣にすれば、いつか仏性や神性が開かれるんじゃないかな?
とすると、勤行や祈りや瞑想や奉仕活動は仏性や神性を開くうえで必要ないということもいえる?
それとも自分はなにか大きな考え方のミスをおかしてる?
神性や仏性がどういうものなのか、わかるかた教えてください。 大我はなんか違うくないか?
無我とか真我が一般的じゃないか 心霊現象、幸運幸福、
心霊写真、幸運幸福、
<所有金融資産 my Financial Assets>(単位円) を F とおけば、
log F = 9.0000000001164153227 (対数は常用対数、底は10)
Fは、tの関数とみなされるので、F=F(t)とすると、その t に於ける微分は、
dF(t)/dt ≧ 0 (always)
log<F(t)> ≧ 9.0000000001164153227 (対数は常用対数、底は10) ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています