【悟り】マインドフルネス瞑想法 【霊覚】
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マインドフルネスとは、歩行や呼吸、動作など、今行っていることに対して
意識を向けるという、簡単な手法です。
これは単なる健康法にとどまらず、悟りや、
霊性の向上にもつながります。 しかし長文書いてる人は毎回自分は悟ったんだと言いたいわけかw
単に瞑想してるだけだろw
そして瞑想スレであるw
まぁ勉強は他をシャットアウトして勉強に集中するしかないんじゃないかな
他に気を取られるよりは瞑想は良いと思うけど
結局は勉強が大事だと思い込んでやるしかない >>387
1は、音でも、見えてるものでも、身体の感覚でもいい。なんでもいい。
つまり今この瞬間に意識を向けることができれば、どんな方法でもいい。
今この瞬間に気づいていればいいから、音に集中してみたり、見えるものを見続けたり、自分の感覚で変えていくのもいい。
2は、これはとてもよくわかる。
思考は止めようと思って止められるものじゃない。
瞑想しようと無になろうとすると、思考が沸き起こってくる。
でもその思考を観察していると、思考によって感情は発生してることに気づくはず。
なので感情を止めようとするんじゃなく、思考のみを対象とすること。
思考が止まれば感情も止まる。問題原因を思考一本化する。
思考のみを敵だとする。思考も感情もと色々止めようとすると、荒波に飲み込まれる。
思考さえ止まればもう勝ったも当然。
瞑想中に沸き起こる思考について、思考を消そうとしてはいけない。
消そうとして消えるものではないから。止めようとして止まるものじゃない。
もし瞑想中に思考が沸き起こってきたら、そのことに気づくことが重要。
あ!今思考してた!そう気づいたら再び、音なり身体に感覚なりに意識を向ける。
また意識が思考に向かおうとしたら、気づいて、意識を今ここの音や感覚に向ける。
その繰り返し。
ポイントは、思考に気づくことと、意識を思考から今ここへと引き戻す意志の力、
この2つ。 >>391
ありがとう。
さっそく教えてもらったポイントに気をつけて実践してみる。 >>391
思考の威力が激しすぎて頭割れそう
最後の抵抗的なものなのかな?
今ここが全く見えないぐらいの積乱雲のど真ん中にいる状態がずっと続くww
ほんと助けて >>393
やり方を変えてみるといいかも。
自分に合った方法を見つけたほうがいいと思う。
自分も色々試した。
マントラや真言を唱える方法や、インナーボディーを感じる方法や、思考を観察する方法や、
ロウソクの火を見続ける方法や、呼吸でお腹の膨らむ感覚を感じる方法など。
自分の場合は呼吸の瞑想は合ってなかった。
息が苦しくなるし、雑念思考が湧いてきてどうにもならなくなる。
自分に合ってた方法は、音を聞き続ける方法。
ユーチューブで瞑想音楽流しながら、その音を意識的に聞き続ける。
その音に全神経を集中させて、とにかくずーっと聞き続ける。
そしたら10分くらいで、思考は完全に止んで瞑想状態に入ることができた。
慣れてくると音楽も邪魔になってきて、部屋で自然に聞こえてくる時計の秒針の音を聞き続けたりした。
自我消滅体験直前の頃には、瞑想中に雑念がわくことはほぼなくなってた。
外出中や仕事中でマインドフルネスしてると雑念が起こったけど、
家でちゃんと瞑想するときは、瞑想中は思考はほとんど止んでたな。
もし違うやりかたでやってたとすると、今でも雑念思考がわいて瞑想って難しいと思ってたはず。
もちろん悟りも開けなかったとおもう。
自分に合った方法を見つけよう。色々試してみて、一番思考が止まる方法。
それが一番合ってるということ。 >>394
ありがとう。
教えてもらった音楽、音、呼吸…色々試したよ。
自分にあっていたのか、身体感覚とマントラはいい線いってるような気もしたよ。
ただ、それも気付けば頻繁に思考に戻ってしまってる…
普段歩きながらでも色々考えてたからか、元々空想癖があるからなのか……う〜ん…
難しいね…
なんでこんなに思考が走るんだろうね。
朝起きた瞬間から思考が走って、妄想気味で女の子のことを考え始めてたときに絶望的な気分になった。
一瞬前に夢を見ていたときの思考と全然違って、起きた瞬間、俗過ぎるというのか、自我過ぎるというのか、固体にこだわってる妄想というのか、とにかく、自分自身にうんざりしてしまうね… >>395
意識しか存在しない、あの完全な静寂の時間…
ずっとその状態でいたいのに、
なんでこんなに思考に振り回されてしまうんだろう…
修行が足りない…とかそういうことなのかな…? 連投ごめん。
無になることに、すごく抵抗がある。
何も無いと信じたくない、というのかな。
自我、自意識、思考、どれかわからないんだけど、それらが、何も無い、と言われることを拒否してるという感じ。
自意識の解体?そこもポイントなのかな?
よくわからないことばかり書いて、ごめん。
個人的にはすごく苦しんでいて、何か手がかりが欲しい状況です。 その悩みはよくわかる。
自分もまったく同じことで悩んでたように思う。
たぶん瞑想が上達してきたあたりだったとおもう。
真我と自我の分離が起こり始めるとそうなるのかも。
そこで真我こそ本当の自分なのだ、自我は偽者で実在しないんだ、と言い聞かせてた。
自我が消えつまり思考が止まり、真我の意識状態でい続けられることを信じてた。
そういう強い意志があったから、
思考を敵とみなし、瞑想中に思考が沸き起こっても相手にしないようにした。
自我が消えて無になるのではなく、
自我が消えて真我の本当の自分に目覚める。
もしかするとあなたは思考を止める目的の瞑想になってしまってるのかもね。
だから思考が止まると無になる、という思いが沸き起こってくるのかも。
自分は真我を開くための瞑想だったから、
思考を止めることで自我が消え、その瞬間に真我が開かれるという考えだったので、
思考が止まることは目的ではなく手段でしかなく、その先の真我の状態を感じ続けることこそが、
目的だったから。
もしそうなら、真我瞑想に切り替えてみるのもいいかも。
ムージの動画はとても参考になる。ラマナマハルシとか。 >>398
ありがとう。とてもわかりやすくて、本当に、ありがとう。
ほんと、普段の行いが良いとは思えないというか、他人に迷惑もかけてること多いし、こういうときに助けてもらえると、なんと言っていいかわからない。ありがとう、とか、感謝とか、ほんと、ありがとう。(語彙力アレでごめん)
>自我が消えて無になるのではなく、
>自我が消えて真我の本当の自分に目覚める。
>もしかするとあなたは思考を止める目的の瞑想になってしまってるのかもね。
>だから思考が止まると無になる、という思いが沸き起こってくるのかも。
確かに真我の目覚めについては、ほとんど全く考えてなかった…
そういえば昨日、頭の中が暴風雨のように荒れ狂っていたとき、ふと「目覚めろ目覚めろ目覚めろ」もしくは「目覚める目覚める目覚める」と無意識から言葉が出てきて、そう唱えていたときは、少し楽になっていた気がする。
真我と自我のせめぎ合いなのかな…今日も朝から頭の中に暴風雨が渦巻いていて、仕事どころじゃないw
休めばよかったよ… >>398
真我瞑想というのは、下記URLのやり方でいいのかな?とりあえずそれで今やってみてる。
https://m.chiebukuro.yahoo.co.jp/detail/q1033829765
ムージとラマナマハルシの動画は今いくつか見てるんだけど、その中きら気になったのをピックアップしたいので、少しレス遅れます。 真我瞑想は、基本的には思考を観察する方法かな。
パパジやムージのいうような。
思考を観察することによって思考が止まる方法。
その思考を観察してるものが真我。
でも方法はどうでもいいと思う。
真我になるという目標がきちんとあればいい。
その目的があれば、それに向かって無意識にその道に導かれていく。
心がけることは、真我を開くこと。それのみ。
そのための思考を止めること、という意識。
どんな瞑想法であれ、思考が止まって瞑想状態のときは真我の状態になってる。
なのでどんな方法であれ、その真我の状態を感じ続けることが真我瞑想。 無になることに抵抗を感じるなら、考え方を変えればいい。
無になるんじゃなく、観察者になる。
その思考に気づいてる観察者。
その音に気づいてる観察者。
その呼吸に気づいてる観察者。
その観察者こそ、真我そのもの。
つまり気づいて観察してる状態はすでに真我の状態になってる。
その状態を感じ続けること。
それは無になることじゃない。意識的に真我を体感するということ。
真我の状態はけして無ではないことが理解できるはず。
思考も止まり感情も止まるけど、意識はちゃんと存在していて、感覚もあり、
知恵もある、その本当の自分であるものを感じる。
それはけして自我のない人形のようなものじゃない。
思考を観察してる者、音を聞いてる者、呼吸を感じてる者、
その者を意識してみる。それは自我じゃない。思考が止まり自我が消えたのに存在するその者。
その存在を感じてみる。
それが真我を開く瞑想。 >>401
>>402
ありがとう。とてもわかりやすくて、少しずつ近づいているような気がするよ。
ムージの話は、その通りそうなんだよね、と思いながらいろいろ見てる最中。
動画の中には今自分が悩んでる苦しんでることとほぼ同じような内容を言ってる人もいて、こういう動画を見るのは初めてなんだけど、似過ぎてて驚いてる。 >>402
真我の状態、意識だけの状態が少しずつほんの少しずつ増えてきてるような気がする。
観察者という言葉が自分にはかなりフィットしてるのかも。
自意識が強過ぎると友人からよく言われていて、この自意識というのが、純粋意識と混同するというか、ある種観察者と癒着し続けようとしている感じがあって、とても厄介。
純粋観察者としての集中を続けて、なんとかこの癒着を剥がしたいところ。 気がつくと頭の中で、知ってる誰かとおしゃべりしてる。
なんなんだろう、このおしゃべりは…しゃべり過ぎ…
これも思考に分類されるのかな? 瞑想はそういう繰り返しなんだよね。
それで少しづつ思考が止まる時間がだんだんと増えてくる。
トレーニングみたいなものかもしれない。
だから仏教でも生涯をかけて修行に挑むのだし。
そんな簡単なものじゃないけど、それだけの価値はあるとおもう。
自分も頭の中のおしゃべりがひどい時があって、原因探したらどうやら日々の読書にあったらしい。
読書の習慣をやめたら、頭の中の独り言やおしゃべりが無くなったので、それが原因とわかった。
もしそれ以外に原因があるとすれば、ちょっと自分にはわからないな。 >>406
なるほど。自分は最近よく人と喋るよう心がけてるところがあるから、人と喋る時用に予行演習のようなことをしてるのかも。
予行演習だとタグ付けして、観察者視点を心がけます。
ありがとう。 思えば、子供の頃って思考なんか挟まずに、歩くときはもくもくと歩いて、水の流れの感触を感じてるときは延々と感じて、虫の音を聴いてるときはただただその音色を聴き続けていて…
そう思うと、いつからそういった純粋な思考の無い感覚を味わう時間が大幅に減ってしまってたんだろうね。
思考もしくは自我というのが、随分後天的な能力なのか、人間の社会的文脈でのみ存在する幻なのか…
詳しくはわからないけど、逆にある種の成長に必要な要素だったりしたりするのかな? 意味不明な質問かもしれないんだけど、真我が目覚めた後、自我みたいなものを使用、利用したりする?
おもちゃのように、陽気な自我を使って他人を楽しませるとか、真剣風な自我を使って真面目なふりするとか… >>409
そういうふうな、自分を演じるというのは無くなったかな。
自我があった頃は、場面によって演じてた所があったかもしれないけど。
今は、部屋でくつろいでるときと、外歩いてるときと、会社にいるときでは、
まったく何も変わらない。誰に接するときも、同じ自分で接してるとおもう。
まあもしかしたら無意識に変えてるのかもしれないけど、
意識的に変えようとはしてないよ。
自我を使おうとすれば使えるかな。わからないな。もしかしたら使えなくなってるかも。
自我を使うことで相手はその自我に反応して、自我がぶつかり合うので、
自我を使うことは幸せには繋がらない。それが愉快で明るい自我だとしても。
反対に自我があることで人間関係の苦しみが起こるように思う。
自我がないと相手の自我に反応しなくなるので、
一切の人間関係の悩みから解放される。
例えるなら、子供は老人をライバル視して敵視したり嫉妬したりしないでしょ。
大人は子供にそうしないでしょ。
それと同じ。自我がない人に対しては自我がある人は反応できなくなる。 >>410
>例えるなら、子供は老人をライバル視して敵視したり嫉妬したりしないでしょ。
>大人は子供にそうしないでしょ。
>それと同じ。自我がない人に対しては自我がある人は反応できなくなる。
言われてみると、なるほど確かにそうだとなる…が、ついつい幻の自分の自我に振り回されそうになってしまうな…
ここ二日は、教えてもらったアドバイスやポイントのおかげで、頭の中の暴風雨はかなり鳴り止んで、身体の中心にあるような静けさが身体全体にうっすらと拡がっているような感じで、随分落ち着いてきたところです。
横になってる時も座ってるときも、ふとしたとにに、音、色、身体感覚、で空を感じる時間が増えています。 >>411
それはよかったです。
あと自分の生活習慣を見直すのもいいよ。
例えばテレビを観すぎてたり、つけっぱなしにしてると
無意識にその映像や音声が刺激となり思考を働かせて自我を刺激してしまうし、
仕事が忙しすぎたり人間関係が複雑だったりすると、
それもまた心休まることがないのであまり良くないと思う。
でも瞑想が熟達して真我に目覚めてくれば、だんだんとそういうものから距離を置こうとするから、
自然に静寂や穏やかな環境を求めるようになるから、その自分の欲求に素直になればいい方向に行くと思うよ。 >>406
読書しないなら当然テレビとかインターネットも見ないってこと?
だとすると空き時間は何をして過ごすの?
ずっと瞑想、観察? >>413
読書もするし、テレビもネットもみるよ。
でもなんかすぐ飽きてくる。疲れるというか。刺激がとても不快なものに感じられる。
だから、お気に入りの1人がけソファーに座って物音ひとつしない部屋で
静寂を楽しむというか。
座って何もしないんだけど、その状態が満たされてるというか。
何もしてないけど退屈とは感じず、満足感と安心感と安らぎの中に浸るような。
お風呂に入ってリラックスするような感じかな。
目をつむって心にある安らぎの場所を感じて癒されたり、
人の心境を感じ取ったりして楽しんでる。
ベッドに横になってもそんな感じで、数時間が過ぎる。
何もしないでいる状態こそ、自分にとっては一番幸せで心地よいと感じられる。
たぶんそれが瞑想状態ってことなのかな。
意識的に瞑想してるわけじゃないんだけど。
そういう状態になってしまってるということかな。 それ堕落(°∀°)単に稼働してないだけ笑
稼働しながらもマインドフルネスでいたら良いんだよ 自我は思考によって生まれる。
つまり自我があることによって派生するすべてのものが、思考を止めることによって消える。
自我によって生まれるものとは、まず喜怒哀楽や様々な気分。
そして、他者と自分を区別して考える見方。それによって仲間意識や敵意志が芽生え、誰かを攻撃したり愛したり憎んだりする。人に対する恐怖心や不信感もこのせい。
あとは、社会依存。自分は社会的にどれほどのステータスがあり、どの地位にいるのか。
上回れば優越感をと尊大な気分を感じ、下回れば強い劣等感とコンプレックスを感じる。
相手と自分の上下関係を意識し、そう振る舞うことが正しいと思う。
あと自我があることによって生まれるのは、死や病気の恐怖、過去や未来を思うことによる不安や恐怖感。
それらすべては自我があることによって生まれる。
つまり、動物的肉体の脳神経から生まれる、動物的本能の名残みたいなもの。
そこには霊的なものは一切ない。
自我がある以上、幸せなど永遠に感じることはできない。
じゃあ幸せってどこにあるの?ここにありますよ。あなたの中にすでにありますよ。
ただ自我が邪魔して見えなくなってるだけです。
その邪魔な動物的名残の自我を消せば、あなたはその瞬間、幸せを手に入れます。 >>415
その通り。
テレビ見ながらネットしながら今ここに在れば同じようなもの。 過去のことを思い出して嫌な気分になることもない、
将来を案じて不安になることもない、
社会的に上か下かで優越感劣等感を感じることもない、
上下関係も敵も味方もない人間関係、
色々なことでイライラしたり怒ったり憎んだり嫌ったりしない、
死や病気を恐れることもない、
自分の嫌な性格や欠点も存在しない、
そんな状態の気持ち想像してみてください。
まるで天国にいるような心境じゃないですか?
そんな状態の幸せな安らぎと穏やかさと静かな心になることができるんです。
自我を消せば。
自我を消す、つまり思考を止めれば。
思考を止める、つまり瞑想です。
瞑想で思考が止まれば、自我が消え、その瞬間元々あったあなたの霊性が目覚めます。
その霊性こそ真我と言われるものです。
その真我の特性は、自他の境のないおおいなる意識、利他的な気持ち、
静かで、平和で、穏やかで、安らかな心境。
そのような状態の、イスに座ってるだけでまるで天国にいるかのような心地よさを感じられる、
その状態が24時間毎日続く。
それが本当の幸せ >>417
ヾ(・д・`;)違うなぁ
テレビもネットも本も塵や泥だよ
他のことで自力で花を実を咲かし得るんだよ
火を燃やすとはこのことだから火をつけなさい
瞑想じたいも泥に漬かっているようだね君は(°∀°)笑 魚が水のなかで飼われているようだね
カエルならオタマジャクシから足が生える頃だね
井の中の蛙では宇宙の姿と合一してるとは云えないものだよ
もうじきに大きな鳥が現れるから掴まると良いよ(・∀・)♪ 何十年もかけて肥大してきた自我を今さら消すなんて気の遠くなるような努力がいるだろ
結局のところ自殺が一番手っ取り早いのでは…? >>421
なんでそうなるw
自我を消すのを諦めたらどうだい ここで言われる自我なる存在は脳が担当する[思考]くらいに、思っていれば良いかな。
そして[思考]を捨てるのではなく。
[思考]の結果生まれる、次元が一つ上の[感情]を重視しなさい程度で良いかと。
今の価値観だと逆になるけど、[思考]が結論を出した内容で、生まれる[感情]も変化する。
直接干渉出来るのは、3次元の肉体では当然、脳の思考になる。
だからこそ現代人は感情を無視して思考に偏りがちになるが、材料の思考が粗悪品だと、生まれる感情もまたろくでもないレベル。
そうすると、そのうち本体たる感情が、何かと問題ある食材ばかり回してくる思考にクレームを入れるようになり、精神病理が発症する。
自殺なんぞしなくても、良質な感情を生み出す思考をすれば良い。
要は同じ現象を見て、与える評価でその人の幸福感は変わる。
悪意の思考で卑下するか、善意に解釈して、ましな考え方を採用するか程度の問題かと。 何者かになろうとしないでください。
自分の性格の欠点を変えようとしたり、
尊敬する人の性格的ないい面を真似ようとしたり、
自分をより立派な人格になるよう努力しようとしたり、
謙虚さとか、温厚さとか、慈悲深い人格になろうとしないでください。
なぜそれらがいけないかというと、
自我から生まれる性格を改善したところで、それはしょせん自我を改善するにすぎないからです。
そして自我はそう簡単に改善できるものではないので、その無駄な努力によって苦しみが生まれるからです。
では、どうしたらいいのか?
そのままのあなたでいてください。
何も変わらないでください。
そしてそのまま、自我を消すのです。
すると真我が目覚めます。真我はあなたの望む理想の人格的特徴をすべて含み超越します。
まるで神のような人格です。自我を消すことで、あなたの内にある神の性質が目覚めるのです。 自分が現状で心地よく浸れる
ことがあるなら
それはそれでいいじゃん
その心地よさや落ち着きを使って
更になにか目指したいものが
産まれてくれば目指せば良いんだし
ひとつの教えとかに
服従して帰依してるので無ければ
数多くの素晴らしい考え方とかに
振り回されずに
自分の感じてることを
大事にした方がよいと思うがなあ >>412
>>424
返信ありがとう。
静寂な場所を求めるのはほんとそうだね。
ただ、会社の他にもついついいつもの癖で繁華街というか都会というかに出掛けちゃって、そこで随分色々と刺激を受けてしまって、思考と感情が出てきたりして、頭にまた暴風雨のたまごみたいなのが出来てきちゃう。
都会も都会で好きだし、なんとか静寂な状態で楽しみたいとも思うんだけど…
切り替えなのかな…それとも、静寂の中で楽しむことも出来るのかな? まずは都会じゃなくて自然に浸かりなよ
話しはそれからだw
不感症じゃないんだから意識はあって然るものだ >>427
自宅付近は自然が多くて随分好きなんだけどね。
ちょっと行くと繁華街ばっかりでね。
かわいい女の子いるなとか、キツい顔したオッさんおるなとか、広告、欲しい服、観たい映画……
まあ色々と目移りしてしまうよ。 まああんまりコン詰めてやらなくていいと思うよ。
瞑想が苦痛になるなら、やらないほうがよっぽどいい。
基本は楽しいこと自分の好きなやりたいことを重視して。 >>429
確かにそうだね。
映画や服とか人と話してる時なんかも楽しいんだけどね、
一番満たされてる時は瞑想の深く落ち着いてる時というか、そういう時でね…
随分と八方美人というのか、落ち着きがないというのか、頭が混乱してるというのか…
いまいち整理がつかないんだよね。 そうだね
未来の自分も同じこと言うだろうね
でも何人目かの自分は気づいてる
気づいていても気づかなくても日本の日常はそのまま続いている >>431
う〜ん…難しい……
もうちょっとだけ翻訳してもらえるとありがたいです。 鏡を見るとそこに映る人物を自分と認識する。
その自分を基準として、外の人を見ると、自分よりおしゃれな人や容姿のいい人、
自分よりもダサくて容姿悪い人、自分より老けた人、若い人、
鏡に写る自分とはまったく別人のような人々がたくさんいる。
この自分とその人々とを比較してしまう。どうしても比較してしまう。
彼らより優位に立ちたいと思い、オシャレしたり髪型をキメたりする。
車も同じ。自分の車と認識する車がある。それを基準に、他の車を見ては比較するようになる。
この原理。すこし疑問に思わないか?
鏡に写るこの人物をもし自分だと認識しなければ、道に歩いてるたくさんの人が他人と思わなくなる。
なので自分と他人を比較しなくなる。優劣を作って優位に立とうとしなくなる。
もし自分の乗ってる車が借り物のレンタカーだとすると、その車と他の車を比較してどうこう言わなくなる。
鏡に写るこの肉体って、ほんとあなたのものなのか?
それを借り物だとしてみ。地上にいる間だけ借りてるレンタル肉体。
それを本当の自分だと思うか?もしこの肉体が自分だと思わなければ、あなたの意識はより大きくなる。
鏡に写る人物が自分じゃないとすると、じゃあ自分ってそもそもなんなの?という疑問が起こる。
自分じゃないものを自分と思うことができるあなた。
なぜなら機械的に作られた車を、自分のものと思い込むことができるから。
鏡に写るものを自分と思い込むことができるので、あなたはどんなものをも自分と思い込むこともできる。
全世界が自分と思えば、そう思えてくるし、逆に、自分の肉体さえ自分じゃないし
すべてが自分じゃないと思えばそうなる。
これはとても興味深いと思わないか? 鏡を見なくても自分と感じられるものがある。
それは性格だろう。
なんか自分はすこし気が弱いきがする。ネガティヴになりやすい、
喜怒哀楽が激しい。頑固で少し短気ですぐイライラする。
自分の感覚で感じられるそういう感覚を感じて、ああ自分ってこういう性格の存在なんだなと認識する。
今まで出会ってきた人との関係性からも、自分ってこういうキャラのタイプの人間なんだなと認識する。
これもよく考えてみると疑問に思えてくる。
例えば、あなたは病気になったとする。とても身体が重いダルい。
その感覚の状態が本来の自分と思う?
良いことがあってとても嬉しい気分のとき、嫌なことがあって暗い気持ちのとき、
どっちの自分が本当の性格?
ある人に会ってる時の自分と、別の人に会ってるときの自分の内面も変化してるだろう。
つまりなにが言いたいかというと、
これが自分と思える内面の性格というのはそもそも存在しないということ。
その場面場面で感じられる精神状態を自分と認識してるだけで、
基準となる元々のあなたの性格や精神というのはない。
ドラマや映画を見てその主人公に感情移入して感動する原理。
自分の感情じゃないのに、相手の感情がなぜわかるの?
これってもしかして、性格とか感情さえも自分のものというのさえ存在しないんじゃないの?
自分という肉体が存在しないのと同じ原理で。 今まであなたはこれが自分だと思ってきた。
鏡に映る自分、感じられる性格や感情。
この容姿とこの性格。これが自分自身。
だから一生懸命、この2つを磨いてきた。
必死にオシャレして、運動して健康食品食べて若作りして、容姿を磨いて、
良い人に思われようと、優しい人や楽しい明るい人になろうと努力してきた。
そうでしょ?
その自分のカテゴリーに社会的なステータスや車や家も含まれる人もいる。
そのぶん彼らは努力してきたでしょう。自分を高めるために向上するために。
でも今知らされました。
あなたが今まで自分と思ってたものすべて、あなた自身じゃなかったということ。
その真実が知らされました。
この真実を知るときどのような気持ちになるでしょう。冷静に見つめてください。
はたして、今まで自分だと思ってたものすべてが、自分じゃなかったと思うとき、
どういう気持ちになるのか。
がっかりしますか?今までの努力が無駄だったことに。
それとも、なんとも言われぬすがすがしさを感じますか? あなたは存在しない。
あなたのものなど何一つ存在しない。
あなたはそれを知りとても無価値に思いますか?
自分がとても非力で価値無いように思われますか?
自分なんて存在しないのだ、と絶望して川辺でたそがれてるあなた。
なのに川はとても美しくキラキラとせせらぎ、空は青く澄み渡り、
鳥のさえずりが心地よく聞こえてくる。
そのとき涙がこぼれてきます。
そしてようやくわかったのです。
わたしはすべてだった、のだと。 わたしはすべてだった。
これに気づくために、神さまはこの世界に病気や自然災害を用意してくれています。
肉体が病気になることで、自分は肉体ではなかったのだ、と気づき、
災害によって家が流されることで、自分のものなど存在しないのだ、と学ばせるために。
なぜこの世はこんな不幸なことがあるのか?もし神さまがいるとしたらなぜこんなものを作ったのか。
その理由は、あなたを偽の肉体や性格から解放させ、
わたしはすべてだったのだ、という気づきを与えるために。
自我から真我へ。小我からおおいなる意識へ。
地球に生まれてくるすべての人は、この学びのための学校に入校してるようなもの。
おおいなる意識に目覚めるための、学校です。
おおいなる意識に目覚めれば、もう卒業です。それが輪廻転生を解脱するといいます。 おおいなる意識に目覚めるためには2つの方法があります。
病気や災害などを経験することによって目覚める方法と、
瞑想などによって意識的に目覚めていく方法。
どうせ同じ目覚めなら、できるだけ苦しみの少ないほうがいいと思いませんか?
どうせみな地上に生まれてくる人間は、この1つの目的のために生まれてきているし、
何度も生まれ変わってくるほど、このことを学ぼうとしてるので、
できるだけ苦痛の少ない、簡単で最短な方法でおおいなる意識に目覚めたいものですよね。
それには1つしか道はありません。
瞑想です。瞑想さえすれば、社会生活や結婚や家庭生活すべてを捨ててもじゅうぶんなほど、
その意味はあります。
なぜキリストもブッダも、社会生活も家庭生活も捨てたのか。
それはこのことを身をもって教えてくれています。
瞑想でおおいなる意識に目覚めることは、この世のすべての価値を超越するのだ、ということを。 社会的に成功しようと努力してる人がいます。
結婚したいと望み婚活に精を出す人がいます。
スポーツでメダルを取るため日々トレーニングしてる人がいます。
あなたももしかすると、今現在なにか目標に向けて努力してるかもしれません。
それはまるでゲームの中でレベルアップしようとしてるようなもの。
いくらゲームの中でレベルが上がり、お金が貯まろうと、しょせんはゲームです。
そのためにいくら努力しようと、それは本人の自由ですが、それが現実に生かされることはありません。
言いたいのは、
ゲームの中の目標のために努力をするのではなく、ゲームをしてることに気づくことです。
ゲームをしてる何者かに気づくことです。
ゲームをしてる存在に意識を向けることです。
つまり、ゲームをしてる者になることです。
ゲームの中のキャラクターは今現在のあなたの自我です。
ゲームをしてる者は、おおいなる意識、真我といわれるものです。
おおいなる意識に目覚めると、ゲームは終わります。
輪廻転生というゲームはようやく終わるのです。
それまでずっと何度も何度も、死んでは復活し、リセットして繰り返し生きていきます。
違うキャラで違いステータスで、それが前世と言われるものです。
ゲームをしてる何者かに気づくことです。
それでようやく終わるんです。
もうゲームの世界の怖いステージとか、凶暴なキャラやボスにはこりごりでしょう。
だからもうゲームは終わるんです。
あなたのゲームはもう終わるんです。 ゲーム内の物には価値などありません。
だからキリストもブッダも、この世というゲーム内のお金や物質や社会的地位や名誉に
価値を置かなかったんです。
この世のものには1つも価値などない。だから彼ら賢者は身にまとう布切れ一枚しか持たなかったんです。
彼らが唯一価値を置いたもの。
それはこの世というゲームの裏側にある、本当の世界の存在、そしてゲームをやっている者の存在。
それらこそ本物の実在なので、価値を置きました。
それが、霊界とか、神とか、天使とか、仏とか、魂とか、言われるものです。
ゲーム内のこの世界ではそれらは架空のものだと言いますが、
実はそちらのほうが実在だったのですね。
海の中の魚に実は陸の世界のほうが本当の世界なんだよ、と教えても
そんなわけあるか、陸には水が存在しないのになんで呼吸できるんだ?と言ってるようなもの。
面白いですね。 ゲームなんて言い方バカ丸出しだね。
ゲームならキリストも救いになんか来ないよ。 >>433 〜
返信ありがとう。
おおよそ半分はすごくわかる!んだけど、あと半分がやっぱり整理がつかないというのか、不安定なんだ…
書いてもらった返信をもう少し読み込んでみる。 活動しながら瞑想状態、マインドフルネス状態?というのか…そういう風になれればと思ってるんだけど、何かまだ思考を使う癖みたいなものが残っているのか、日常の中で頭がグシャグシャっとする時があるんだよね。
映画や本やショッピングや…が楽しい、時も、半分かそれ未満かは前より瞑想状態の何かがピーンと静かに聴こえてる、感じてる、とは思うんだけど、これがなかなか100%にならないというかね… ちょっと順不同というか、まとまってない状態で書いてしまうんだけど、
例えば、服なんかは、肉体が借り物という感じで、自分はスタイルとかもいい方ではないんだけれど、着せ替え遊び?なのかな、借り物の肉体を使って遊んでる感じ。
で、その遊びがなかなか面白な〜と思ってる。
人と差を出したい、というのが一番には来てなくて、ただ楽しいな〜とか、明るい気持ちになるな〜とか、そんな感じ。 瞑想中、ある程度深いところまでいくと肛門の奥の筋肉がうねり出して集中できなくなるんですが、似たような人いますか? >>447
うねりはわからないけれど、とりあえずウンコしに行きたくなることは多々あって、瞑想→便所→スッキリ→瞑想は週に3、4回起こるよ。
チャクラ的にその辺りってなんかある場合だし何かあるのかも?
自分はチャクラに全く精通してないので、何もわからないが… 寝る瞬間に気付かないのと同じで自我を失う瞬間に気付く事もないんだよ
もし自我が消えたとか自称してるやつがいたらそれは嘘 >>433 〜
なんとなくわかったかも。
服選んだりは確かに"ゲーム"、もしくは"遊び"というところで楽しいと思ってるのかも。
本や音楽、映画もそうかも。
それがどうと言われると…う〜ん自分でもよくわからないけど… 三昧という言葉があってさ
読書三昧 音楽三昧 洋服三昧 瞑想三昧
まぁそれぞれが独立した別個のことだよ >>451
ああ、確かに。
そうそうだからかな、まあ服選びも本や映画も、遊びとして、三昧として、楽しいし、それはそれであってもいいんじゃないのかなって、そういう意味で、自分の中の整理がつかなかったのかもしれない。
常に感じつつ、〇〇三昧、でもいいんじゃないのかなって。
ごめんね、独り言のようなことばかり書いちゃって。 何かをしているというのは学びなんだよね
音楽なら演奏家を師とするのか楽器職人など
何かをするのはそれに準じる道に乗っているわけだね
音楽をとりあげたけど他の何がしかの事柄をするのもその道の学びがあるわけだ なるほど…
繋がるかどうかわからないんだけど、
なんとなくモヤモヤしてるのは、
空であり、全てであるってことはすごくしっくり来るんだけど、
その後、だったら、何にでもなって、例えば鳥になって、蝉になって、木になって、音になって、服になって、食になって…という具合に全身(全霊?)で楽しむ、というのか、遊ぶというのか、ってのが静寂のそれと相性がいいんじゃないのかなって思ったりするところなのかな…
う〜ん…まとまらないw つまり、静寂と完璧な時間と感覚、は素晴らしく良い、なんだけど、それそれですごく良いんだけど、ちょっと退屈だな、次は何して遊ぼうかなって、何かしらの発火点を作って、完璧な時間の上に遊ぶ、ってのがやりたい、のは自分だけなのかもしれないけどw……なんかそんな感じ。
気になってるのはバランスなのかもしれないけれど。
遊びと静寂のバランス。
教えてくれてる人は、教えを説くという遊びをしてくれてるのかもしれない、のかな?とか。
意味不明かなあ…⁇ と、まあこういうことを考えてるのが、思考、ってことで良くないのかな? セックス依存性なんだけど瞑想教えて
鼻呼吸にして呼吸に集中して何も考えないでぼーっとしてればいいの? なんか止まってしまったんだけど…
個人的にすっごい悩んでるような感じなので、何か適当でもいいのでなんかアドバイス的なものあれば欲しいです…結構ガチ… >>461
あの状態をベースに、いろんなことを楽しみたい。
三昧と言い切ってしまえばそうなんだけど。
我がベースではなくて、あの状態をベースにいろんなことに取り組むと、もっと楽しめるよな〜って。
なので、日常生活で、ある種の瞑想状態にありながら、各種の何某に取り組めるといいな、と思ってるよ。 それって
何でも興味持ったもの
ガンガンやる人は
そういう経験
とっても味わっている気はするよ
また現実もあり得ないほどの
喜びを感じさせてくれると思うよ
傍目にはうまくいこうと行くまいと
関係なく
自分の中で喜びを得てる人いるからね >>462
じゃあ書いてあるようやれば良い
悩みは解決したか?他にあるか? >>463
返信ありがとう。
ここで教えてもらったことを参考に色々試しています。
おそらく移行期というか中途半端な状態でどっちつかずの現象が起きてるのかな、と思っています。
ある時ふと、思考が、頭の中のおしゃべりが、消えて、ただ見えている、という状態にもなったりするんだけど、やっぱり20分そこらしか続かなかったりして…
昨日も頭の中が大混乱で何でそんなこと考えてるのかもわからないのに、それがずっと続いて暴走気味に頭を支配したりして…異性の妄想とかでね…
趣味で絵を描くんだけど、描いてるときは、おしゃべり、思考が、小さくなる。瞑想中は思考が暴走するときもあるけど、コツを掴んで来たのか、無の状態が続くことが多くなってきた。
服を選んでいるときは無心。ずっと良いものないかなって探し続けているのに一点集中してる。楽しいからかな。
四六時中服選んでれるならいいんだけど、そうもいかないから、普段の生活でそんな状態になれればいいなと試行錯誤中です。
今の所、自分は意識を、胸の中心辺りに集中させると"思考が思考できない状態"になるんだなと気付いて、なるべくその状態をいつでも保てるように意識しています。
何かご感想頂ければ幸いです。
よろしくお願い致します。 瞑想って要はなにも考えないことですよね?
人間工学的になにも考えない状態というのは不可能だと思うんですけど
できてる人は本当になにも考えてないんですかね? >>465
それ普通のことだよ
食べ物食べれば必ず歯を磨くように汚れるからね
それに君の場合は自分で書いてあるように課題と解決の視野がすでにあるだろ
いい加減悩み相談うざいよ
もっと困ってる人は世の中にたくさんいるんだよ感謝しなよ
瞑想なんだから自分でとことんやれ君に付き合うのは気持ちが悪い
>>464を君は無視したけどそれが答えだよ >>466
その問い自体が1つの主題と答えがすでに決められてるわけだ
しかし1つなわけないだろ?色々だよ狭めるなよ >>468
その色々を教えてくださいよ
わからないんでしょ?w 目覚めた人って将来のことは全く不安にならないの?
保険にも入らない人間ドックも受けない風邪予防もしないセックスの時もゴムなんか使わないで常に生中出しなの? >>466
広い意味での瞑想は、パターン行動からの脱却になる
多くの現代人は一日の生活パターンが決まっていて
無意識のうちにそれを繰り返すだけで一日が終わってしまう
そういうパターンの繰り返しに忙殺されると、存在すること、生きることの意味を自問しなくなる
瞑想という形を取ることで、真剣に、いろんなことを「自問」するのである
通勤電車の中で考えるだけでもいいし、歩きながら考えるのもいい
ただ、幅を広げていろいろと深く考えることが大事
昼飯を何にするとか、仕事で何をするとか、そういうことではない
つまり、あぐらをかいて「瞑想」の形を取っていても、そういうパターンの雑念から逃げられなければ
それは瞑想になっていない
雑念から逃げられない人は、何も考えない「無の瞑想」がお薦め
雑念(パターン行動の残骸)を振り払って自分を見つめ直すきっかけになる
眼マスクをして、周りを見てみるといいかもしれない
周りを「見る」意識が変わる。耳から入って来る情報も変わる
普段無視していた音が聞こえてくるようになる 気付くのと気付こうとすることは本質的に全く違うこと
あれ、これ、それ、ここ、自分、と注意を向けていても気付きにはならない
それは思考フル、雑念フル
一説によればそれを続けていくといずれ目論見は大失敗して、
その時にマインドフルネスになるといわれる
そのコースでもマインドフルネスになれるということだが、道中はマインドフルネスではないことに注意して欲しい
マインドフルネスとはそのような雑念フルとは違う意識状態のこと
そうならないと「いま」に気付き続けるとかは不可能です
マインドフルネスや瞑想で無になろうとするでしょ。
ありのままの現実を受け入れて、判断しないようにするでしょ。
無になることを意識して生きて、なるべく思考を働かせないで今ここを意識して
生きていくようになるでしょ。
ふと疑問に思ったんだけど、それって引き寄せの法則からしたら何も引き寄せないことにならないかな?
願望実現なんかは、24時間ずっとその願望を潜在意識に焼きつくまで抱いてるとおもうんだけど、
マインドフルネスはその逆で、思考が止まって今ここに全力集中してることだよね。
そういう生き方では思考が止まってる以上、何一つ引き寄せない人生になってしまうんじゃないかと。
つまり何も変化のない変わりない、平凡で穏やかな人生になるだけなんじゃないかと。
それよりも自分の思うような憧れの理想の人生をつくっていきたい場合は、
そのような願望を抱き続けることが大切だとすると、
瞑想やマインドフルネスを日々行うことは、逆に障害になるんじゃないかと思うんだけど、違うかな? 駒場祭で超能力者どうしの合同結婚式を行います。
米田武くんと柏木章子ちゃんと多賀翠ちゃんに私、橋本淑子を含めて現在四組の参加が決まっています。
これからは私達超能力者も堂々と世間に出て超能力を使って活躍する時代です。
超能力者どうしの素晴らしい合同結婚式にしたいので、ふるってご参加下さい。
参加、参列については橋本淑子まで念、テレパシーでご連絡ください。
橋本淑子 >>474
そもそも引き寄せの法則が正しいかどうかも不明だしな
もしそんな真理があるならとっくに天才や聖人が見抜いて布教してるはずだ
実際のところはこの世界は半分引き寄せで半分偶然で半分反作用なんじゃないかな >>474
今の叶ってない現状はすでに潜在意識に積もり積もった思考の癖からできているから、それをクリアにしていくのが瞑想だよ。
潜在意識がごちゃついてるといくら願望を刷り込んでも意味ないからね。 >>474
いまここにちゃんと生きてる人が引き寄せられるんじゃね 自分が求めていることを
はっきりさせることも大事だろうね
現実にあるもので満たされることも
たくさんあるだろうからね まず引き寄せなんてこと考えていたらマインドフルネスにはならない 引き寄せはストーリーの世界
マインドフルネスやってればストーリーは自然に生じてくるのがハッキリするから引き寄せは無意味になる というかマーフィとか読めばわかるけど、そんな思いとか考えとか
卑しい次元でやったって引き寄せなんか出来ないのはわかれよ
マインドフルネスで汚い思いを捨ててそれからやる、というのはありだろうな 物質世界での自我の願望を叶える為に引き寄せるんだからマインドフルネスとベクトルは真逆なんだろうな
うまく行けばいくほど自我が膨らんでいきそうだしキリがない >>484
真逆というか、我欲がなくならなきゃ引き寄せなんか無理だと思うよ
スタート地点が我欲パンパンの自分だと考えてるのがおかしい 否定してるわけじゃなく、>>484が正解で、ほぼ真逆と言ったら良いかな
我執を薄めていって気分を楽にするのがマインドフルネス
我執の薄い状態で目的に飛躍するのが引き寄せ
スタート地点が逆、ベクトルが逆だと思う 霊覚なんてものは妄想、我執による現象でしかない
それにしがみついたら魔境だよ
そして、神秘的なだけに自己絶対化が起きてしまう
麻原がそれだ >>7
時間の概念ですけど、アインシュタインの相対性理論では
空間と時間が一つの塊として存在していて、分けて考えることは出来ないそうです。
>>41
今を精神と時の部屋のようにとてつもなく拡げるってことですか?
例えばそのシェルターの話だと、具体的には最優先に何をするべきなんですかね? ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています