【悟り】マインドフルネス瞑想法 【霊覚】
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
マインドフルネスとは、歩行や呼吸、動作など、今行っていることに対して
意識を向けるという、簡単な手法です。
これは単なる健康法にとどまらず、悟りや、
霊性の向上にもつながります。 われわれが普段、見て感じている世界は、「時間の幅の世界」です。
これは真実の世界ではありません。
真実の世界は一つしかありません。
それは0秒の世界です。
本来時間はありません。
時間の幅の世界に住むということは、あらゆる存在を生み出すことになります。
あれ、これ、それ、私、というのも、全て過去からの
流れの中で生み出されます。
不安や焦り、恐怖、欲求を叶えようとする想いも、過去から未来への
流れの中で生み出されます。
この時間の幅で捉える人間の生き方こそが、すべての不幸の始まりになります。 同じ名前のワークがわんさかあるのか。
ワンネスとか。
真言さんとか。 時間は幻想だ。いまだけが在る。
それ意外全てが変化する。
時計の針は常に動き、回り続ける。
だが、時計の軸は動いていない。
「いま」とは軸だ。
つまりあなたは常に過去にも未来にも
「いま」にしか在る事が出来ない。
故に変わり続けるのはあなたではなく
世界となる。 マインドフルネスと言えば、日月神示にも、マインドフルネスのような
ことが書かれてるんだよね
食べ物を食べるとき、噛むごとに数を数える
ヒ フ ミ ヨ イ ム ナ ヤ ・・・ そして最後にのみ込むという
噛むことによって体の病が無くなり、数えることによって心の病が治ると
これも立派なマインドフルネスだよね
マインドフルネスは心の病にはとくに有効だと思う
病まで行かなくとも、心が沈みがちとか、不安が多い人、あと、怒りやすい人
そういう人にも非常に効き目がある >>4
すばらしい
時間が無いということはどういうことかというと、すべての存在が
ゼロに集約されるということだよね
時計の軸に集約されるのと同じ
あっちの軸、こっちの軸と、複数の軸が存在するってことじゃなくて、
ゼロという一つの軸に全てのものが集約される
まさにそれがワンネスなんだよね
つまり、今に繋がることによって、ワンネス(ソース)に繋がることになる
今に入れば入るほど、ソースに近づくということになる
当然、いろんな神秘的な力も出てくるし、また我というものが薄らいでいく >>5
マインドフルネスもそうだけど、仏教や仙道や神道が完成させていたものを、
あえて中途半端に改悪したものが流行り過ぎ。
ちゃんと勉強した知識あるスピリチュアル業者がほとんどいないんじゃないかと思う。みんな利益優先だから。
大体の指導者は深い質問すると答えられなくなって逆ギレするし。 マインドフルネスの手法と論理というのは非常に簡単で、ただ今の状態に
意識を向けていくということ
今に意識を向けていけば、自分、我を含めた、あらゆる存在が消えていく
なぜなら、存在というものは時間の幅の中でしか
成り立たないからだ
それは不安や恐怖、苦痛といったものもそう
今に意識を向けるというのは何も宗教的な
特別なテクニックなどいらない
ただ今やってる動作、出来事、感覚に意識を向けていけばいいだけ
ようは、意識が今に向けられることで、時間の幅をもった余計な
思考の余地がなくなればいいわけだ
たとえば、あのステーキが美味しかったから、また食べたいと思ったとすると、
過去の経験の記憶から、未来の期待までを想定していることになる
およそ全ての「我を楽しませる行為」は、時間の幅がないと存続できない
人間はそうやって我で「楽」を味わおうと、時間の幅の世界に留まってしまう
同時にそれは、「苦」も作り出すことになる
たとえばガンの人が、未来の恐怖を生み出すのと同じようにだ
欲にまみれた人が今に意識をフォーカスするということは、欲を捨てることと同意義になるので
それは苦痛になるだろう
もし24時間行住坐臥、今にフォーカスするとすれば、そこにはもはや我を楽しませる
何ものも存在しない
同時に対象である我自体も無くなるだろう
我が無くなればなるほど、つまり、時間の幅が無くなればなくなるほど、
そこに真我(源泉)の光が流れ込んでくるので、その人の生活や運命は
かなり改善される
そしてそれはイコール、スピリチュアルの道ということだよね 諸行無常というのは、一般的な説明では、物事は舜俊刻々と変化している、
たとえば、リンゴは日を追うごとに腐っていく・・・
パンもカビが沸いていく・・・
変化しないものはなく、すべては廃れていく運命にある、だから物事に執着するな、
という意味になるわけだけど、本当はもう一つ深い意味があるんだよね。
物事が変化していく、これだけでは諸行無常の意味は不完全になる。
正しい説明は、物事は変化している、だから実在するものは何一つない、
ということ。
つまり、物事が変化していくのではなくて、変化していく実体がないということ。
物事が常に変化していくように見えるのは、実存するものが何一つないからだ、
ということになる。
実体の否定の言葉なんだよね
だから、諸法無我と対の言葉になってる。
仏教では実体というのは、時間の経過を経ても何一つ変化しないもの、
ということになってる。
我々は例えば、3歳の自分が20歳になったというが、実はこの言い方はおかしい。
3歳の自分が20歳になるということは無いからだ
もしあるなら、20歳の自分の中に、3歳の自分が隠れていることになる
しかし、20歳の自分の中に3歳の自分は、どこを探しても見つからない
すべてが変化してしまっている
で、人は3歳の頃から変わらない自分という実体を想定しているが、どこを探しても
その確たる自分というものは見つからない
変わらず在り続ける自分という確かな存在を。 たとえば、ある人がソフトクリームを食べているとする。
やがてそれが溶け落ちて、地面に落ちたとする。
食べている人がそれを後で見たとき、ああ、これは
溶けたソフトクリームだと言うわけだよね。
しかし、何も知らずに通った人は、それを見た時に、単なる白い液体が落ちているとしか見えずに、
ソフトクリームという存在を描き出すことは出来ないだろう。
最初の人は、食べる前、食べている時、そのソフトクリームが落下した後まで、
ソフトクリームという存在が続いている。
それは3歳の自分が20歳になった、40歳になった、というのと、
同じ思考だ。
形は変わっても、実体というものをとらえ続けてる
たとえば、白いパンがカビていくというが、白いパンが
カビるということは無い。
もしあるなら、カビたパンの中に白いパンが隠れているはずだ
また、カビたパンは「カビたパン」そのものであって、それは白いパンとは全く別物だ
その瞬間その瞬間のものは、他の瞬間とは別物であって、
同じということにはできない
人は「パン」という実体を掴んで、それが変化していく、
という風に見てしまっている
つまり、瞬間瞬間の世界はまったく違うのに、それがあたかも継続しているように
捉えてしまっている
それが思考の働きということであり、それが執着というものであり、
そしてそれが、時間の幅を生み出している。 3歳の自分が20歳になったというなら、3歳の自分と20歳の自分、
二つの自分が重なることになる。
これと同じように、白いパンにカビが生えたというなら、白いパンとカビたパン、
二つのパンの実体が重なっていることになる
たとえば、今九州に上陸しつつある台風が、九州に上陸するかと言えば、
それは上陸しない
なぜなら、もし上陸すれば、九州に上陸しつつある台風と、九州に上陸した台風と、
二重の台風が重なっていることになるからだ
もっと分かりやすく言うと、たとえばこの瞬間の台風が継続的に上陸するとすると、
その瞬間の台風は、その瞬間の気圧、湿度、温度、海流、雲、地理的位置、
まるごと引っ提げて上陸することになる
つまりは、その瞬間の宇宙まるごと引っ提げて、別の瞬間と重なるということになる。
他の瞬間と他の瞬間が重なるということはあり得ない
そしてまた、その瞬間のある事物の一部を切り取って、他の瞬間に重ね(継続)させる
ということもあり得ない。
その瞬間のものはその瞬間のものだ。
パズルのピースの一つを抜き取って、次の瞬間のパズル絵にはめようとしても、
そこには一つのピースの空きもない。 >>12
深い洞察だ。色即是空を見事に表している。 >>2 >>4
>>6->>13
どこにでも書いてある。過去を知って何になる。
その考え方を理解して、一体何が生まれる?
自分は賢いという自己満足?
>>1
単あるヨガの健康法?
それなら、体操と深呼吸、運動が精神にも大切で終わる。
なので >>8の意見が、このスレッドのすべての答えになる。 つまり、このようなテクニックによって
覚醒などありえない。
リラックスによる健康効果は、あるけど、たたそれだけです。 この私とは一体何なのか?
全てはこの問いに凝縮されて行く。
実体がないにも関わらず私は存在している。
なんという不思議だろうか。
私は私であるものを説明できない。 「集中」というのはみんな勘違いしてるけど、実は「放下」によって起こるんだよね
道元禅師流にいえば、「心身脱落」ということ。
人は意思の力で一つのものに意識を向け続けることを「集中」と思ってる
だが実は違う。
勉強しているときに、いつの間にか集中が起こるのは、それは勉強に自力で
意識を集中させたわけじゃない
今やってることに意識を向け続けることによって、今に入ることによって我が薄らいでいき、
我(意思の力で何かをやろうという思い)が全面降伏することによって、
今しかなくなった状態・・・ それが集中した状態であり、三昧だ。
ところがスポーツや仕事、芸術などでは、自分が力を入れて集中しようとしている状態と、
我の活動が弱まって降伏することが、入り混じったり、境界線がはっきり見えないことによって
自己の意思で集中していると錯覚する。
しかし、ハッキリ言って、自己の意思が強力であるうちは、
集中は起こることはない
我の降伏が起こることが「集中」であり、全面降伏が「三昧」だ
勉強でも、集中しようと思うと逆に出来なかったり、集中しようと思わなくても、
勉強している内にいつの間にか集中していたということが起こるだろう。
今に意識を向けるということは、ある程度意思の力を要する。
しかし、それが集中を起こすんじゃない。
意思の力が集中を起こすんじゃなくて、今に意識が向けられ続けた結果、
(時間の幅が狭められた結果)、我が活動出来なくなった状態が
集中と同意義ということ。 集中が極まって三昧に近づくと、人は何かを考えようとしても出来なくなる
ということを経験するだろう。
意思の力を働かせようとしても出来ない。
その時雑念が一切停止するんじゃなくて、雑念をコントロール出来なくなるようになる。
雑念に一切タッチ出来ない状態・・・完全なありのままということ。
そうして今に完全一致すると、記憶すら残らない。
その時、スポーツや仕事、日常生活、芸術などでは、
奇跡的なことを成し遂げているだろう。
道元禅師の「覚知にまじわるは証則にあらず」というのは
ちょうどこういうこと。 悟り目指してるわけじゃないんで
マインドフルネスしてみようかな
それともまた聞いてもないのに偉そうに話したがる尊師がわいてくるかな 自分のスレ立てて書き込めばいいだけの話なんですけどね
スピリチュアルに多いよねこういうエゴが肥大した豚
もう自分が他より賢いし偉いと勘違いしちゃってるよねぇ
戻れりゃいいけどね無理だろな いちいち人にイチャモン付けたがるやつがエゴが肥大したブタなんだけどね、
マインドフルネス的にはw 悟りとか関係なくマインドフルネスは効率悪いから仏教式やれって話でしょ >>28
>>24自身がエゴが肥大したブタだと言うことに気付いて欲しいんさ 25
なにスピリチュアルエゴ肥大豚効いちゃったの?w
26
その判断は実際にやってみてからそれぞれの人が決める事だろ 人に経験も判断もさせずにオレがやってるのが正しいんですよーって態度エゴが肥大してないとでも?
オレは今日は寝るからレス返すとしても明日になるぞ おはよー 返レスないのかな、無いほうがいいんだけどさ >>30
おまえ本当にマインドフルネスする気あんの? >>34
おや、レス付いてたね実は少ししか興味無い
この質問はどうしてしたの? >>35
無駄に攻撃的すぎる
たぶんお前には無理だろ >>36
攻撃的って表面的な印象だけで話してるだろ
オレが誰かを困らせたのか?ジャマでもしたのか? 寝るぞ返レスあったら書き込んどいて
こっちは夜には返せると思う たとえばもうすぐ大地震が起こるとか、大戦争が起こるとか、だから準備しなきゃいけない、
食料買って水買って、サバイバルツールを備えなければっていうけど、最終的な、物理的な逃げ場っていうのはどこにもないんだよな
地球上どこを探してもない
しかし、真の逃げ場ってのは一つだけあるんだよな
それが"今"ということ
"今"という逃げ場は非常に強力で、そこにはあらゆる病気、不幸、
死といったことも通用しない
いくら世界の終末に備えて準備しても、病気やケガをしたり、不運に見舞われるかもしれない
シェルターを準備しても、地震で壊滅したり、地球規模の災害で逃げ場が無くなったりする
しかし、"今"というシェルターは、戦争や災害、病気や、今目の前にある不幸さえ完全に防ぐことが出来る
これからの人間が一番やらなければならないことは、この"今"というシェルターに一刻も早く避難することなんだよね
それを最優先にしなければならない >>41
その通りだ。時間は幻想だ。
全ての存在は意識の中にだけある。
つまりあなたとは存在以前の存在であり
存在を超えている。
何ものでもない何か
あるいは有る事や無い事とはまるで関係のない
ただ在るというあり得ない有り様の何かだ。
これ以上私には言う事が出来ない。 >>44
その通りだ。
私は彼の本によって覚醒した。
私が彼だった事に気づいたのだ。
そしてあなたもまた同じものだ。 子供が成人してキャリアもとっくに頭打ちになった50代がやるぶんにはいいかもなコレ。あるいはまだまだ時間のある10代か。
30代の俺がやってもこのままじゃ何も手に入らないかもしれないという恐怖に勝てないだろう。 >>46
この世にあなたのものなど何ひとつありはしない。
手ぶらで行きなさい。
持っていようと持ってなかろうと同じ事だ。 >>48
それの何がいけないのかね?
誰であれ独り死んで行く。
あなたはひとりでに全く幸せだ。
恐怖心を拭い去りなさい。
精神的に死ぬ事によってだ。
ブッダの言う死王も及ばない境地とはそういう事だ。
ニルヴァーナとはあなた自身だ! ただ自分の子供が欲しいんだよ。
そんなささやかな願いさえ叶わないのか。 与えられないのもまた必要なことが与えられているということ。
出会う子供は皆自分の子供のように思えばよろしい。 >>50
あなたがその子どもなのだ。
「いま」と友達になりなさい。
「いま」を遊び場にしなさい。
どこに不足があろうか?
全てがあなたなのだ。 遠回しになるようにしかならないから妥協しなさいと言っているようにしか聞こえない。
そういう宗教なのかな。 >>50
そのためにはパートナーと協力する必要があって
そのパートナーと知り合うために
どんな自分が必要?
素の自分に一番近いそれを叶えている自分をイメージするといいと思います 我執は肉体を持つ以上、持って当然だからね
汚れを知らぬ赤ん坊もしっかり生存本能持っているでしょう?
食べること、生きること、子孫を増やすことは自然
かといって与えられた器以上のものは得難い時もあるので、その時の自分ができる最善を尽くせば良いと思います 瞑想したって意味無い
行動しろ
ブッダのように行動しろ
もし意味がある座学があるとしたら、35歳から80歳までブッダは何をしたのかを調べることくらいだ 仏陀の行動はその前に行った瞑想の結果だぞw
行動と瞑想を両方偏りなくするのが修業だ。 >>58
仏陀は修行しろ瞑想しろと説法してるぞ
お前が仏陀を調べろよ 仏陀が不要だと言ったのは苦行のことかな
だとしたら相川圭子とかいらんよね
苦行自慢 いいかね?生きる事が苦行なのだよ。
しかしその苦しみを終わらせる事が出来る。
それが涅槃(ニルヴァーナ)だ。
その為にはあなたは心底絶望しなければならない。
ゴータマブッダが苦行しても悟れず、村の娘から乳粥を貰い、苦行仲間から合相をつかされた時の様に。 >>62
苦行の必要はないと言う教えは、なまけろと言う意味ではないぞ
中庸を履き違えるなよ
本気で取り組むならまじめに学べよ
>>63
苦行ではない
根性を持って死ぬ気で取り組むべき >>65
ヨグマタさんのとこに行ったことあるんですか?
少し興味がありまして >>66
いとこ弟子に当たる人のとこで色々教わりました いとこ弟子というか、正確には甥弟子ですかね、そこの流れの人が日本にいらっしゃって、学びました パイロットババの弟子の弟子です
知る人ぞ知るって感じですけど、その方のスレここにありますよ >>72
具体的にはどのような事をするのでしょうか?
その師がスレ主のスレがオカ板に立ってるんですか? 探して見ようかな、色々と質問に答えて下さりありがとうございました >>65
その通りだ。そして精神的な死は悟りに於いて免れないのだ。
中庸の真髄は生きながらにして死ぬという事であり、ひとつ健康の為に瞑想でもしてみようか等と言った生易しいものではない。
無論そこまでしなければならないと言う事ではないし、またそう簡単に出来はしない。 >>60
まぁ普通に考えたら瞑想を続けて何かインスピレーションが湧いたらそれに従って行動するのがベターだよな。
それで金持ちになれれば大抵の人は満足するんだけど元々おぼっちゃまだったブッダ様はありもしないそれ以上の何かを求めて苦しむわけだ。
成功したのに自殺する白人歌手とそうはならない黒人ラッパーの関係に似てるな。
なんだかんだ白人と同じ権利は持てない黒人は白人ほど多くを求めないからな。 日本のスピリチュアル業界の人は、
お金持ちになれば幸せ!貧乏は不幸!
と言うが、
そりゃ違うよなあ
元々のスピリチュアルと逆になってるよ >>81
日本に限らずだよ
元はアメリカかな
クリスチャン・サイエンス、マーフィー、ザ・シークレットとかまさにそうでしょ スピリチュアルは修業じゃないから貧困状態は必要ないんだよ。お金は幸福の元ではなくて不幸の盾。お金で不必要なストレートを回避して
スピリチュアル的な真実を追究するからお金はあっても別に悪くはない。ただお金を目的にしないこと。 修行とか修行じゃないとか関係ないだろ
なんで修行だと貧困な必要があるのかもわからん かつてナザレのイエスは言った。
「幸いなるかな、心貧しき者よ」と。
心の貧しさとは何だろうか?
それは仏教で言うところの空ではないだろうか
空っぽの心。
心とは本来そうあるべきだ。
手ぶらで行きなさい。 原語のギリシャ言語では「霊的に貧しい人は幸いだ」これは絶望的に打ち砕かれている人の意味だよ神の助けがなければ立ち上がることも出来ない位絶望してる人のこと。 >>88
真に絶望した人は心に何も留める事が出来ない
自我が打ちのめされた時逆転が起こる。
精神的な死は恩寵をもたらす。
つまりなかなか人は気付かないが人生は恩寵に満ちているのだ。
余計な荷物を降ろす事が第一歩となる。 悲しむ人が慰められるというように、足りない人が満たされるという形の文型だから、
絶望に打ちひしがれてる人が、無条件に、天国がその人達のものになるというのはちょっとおかしい感じがするね
絶望してる人に希望が与えられるというなら分かるけどね
もう既に天国はその人達のようなものになるという精神性は、絶望ではなくて、絶望になったその先に起こる心境にあるわけだ
五井昌久はそれを、ー 心貧しいというのは謙虚ということです。すべては神さまのみ心により、神さまの力によって、
自分がさせて頂いているんだ、という想い方、心というものが、心貧しきものというものなのです。ー と言っている
それを裏付けるようにこのサイトでは、
http://www.koshien.net/KOZA/Fr_Koike/fr_koike200610.php
ー 「心の貧しさ」に当たるヘブライ語は、「アナウィム」と言うのだそうですが、翻訳される場所によっては、 「しいたげられている者」「苦しむ者」「あわれな者」「貧しい者」「柔和な者」
「へりくだる者」「弱い者」などとも訳せるようです − とある
おそらく、へりくだる者 (謙虚な者 = 我の無い者)と訳するのが自然だろう
回答No8の良くも悪くも有名な回答者、キグルミがなかなか鋭い回答をしている
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/5587916.html
こちらが分かりやすい
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/6217542.html 神は絶望した人間に宛に明確なメッセージを送るものだよ。創世記でも追放された子連れの女奴隷という当時一番最底辺の弱者に言葉を下ろされた。あなたはどこからきてどこにいこうとしてるのか?と その通りだ。
「天の御国はあなたがたの内にある」
何処へ行くと言うのか… そこに行くのです。
それは辿り着く場所なんですよ。 自分はスピリチュアルだから金持ちにも勝っているとか思い込んでる人間にはなりたくない。 辿り着く為には時間が必要となる。
時間がかかるのは距離があるからだ。
距離とは空間であり、時空から変化が生じる。
そして形あるものは必ず敗れる。
つまり平安を得るには時間に関わる一切の事物から離れなければならない。
離れる為には距離のない内に留まり
「私」が生じる以前の源泉に浸かるのだ。
そこが神の泉だ。
何処へも行く必要はないのだよ。 あなたは神の国を知らなかった頃の自分を
忘れてしまったのでしょうか。 >>95
スピリチュアル以前に、金持ちは醜い劣った存在だよ
日雇いを頑張っている清貧な人と、醜くブクブク肥え太った金持ち
どっちが汚い劣った存在か一目瞭然だよね >>99
ビルゲイツや松下幸之助、ロックフェラー、スティーブ・ジョブズ、リチャードブランソン、マイケル・ジャクソン等々
全くと言って良いほどブクブク肥ってないんだが ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています