【私はいない】ノンデュアリティ・ティーチャー総合2 [無断転載禁止]©2ch.net
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>>888
安心感、安堵感はいまもあります。
日常生活では色々とありますが、1人静かにしていると心は安らぎに満ちてます。 >>886
ありがとうございます。
私もそう思います。 >>890
ぼくもよく似たようなところにあるかもしれないですね
ここから脱却するのに見ている己が世界とひとつあるところを、せっせと繋いでるところなので、、、
外の認識は変わってないんですか?
認識方向が逆転してますか? >>891
古神道の◎に中心点は、中心点からマル、そして更に外の安心が、うまく連なると、いいのかなあと今は想像をしてる段階です
うまく実現できないけど、たまに、一瞬ならなるようなところです
このマルがにっこり笑うのが、いいかとw このマルがあなたとわたしで、全く同じものだとは思いませんか? >>882
すみません。
考えて言葉に表そうとしてもできないんです。
あなたの垣間見たもの、想像と同じだと思います。
とにかく、
すべては完全である。その中に入り込んでいる状態。完全で美しいのです。
賛美に次ぐ賛美、美しいものの極致、天国が実在するのです。
そして、大いなる感動と愛を伴って戻ってくる。
その後の生き方は人のためにが根本原理となるはずです。
神と共にあるからです。
これでやっと人となれたのです。 >>892
認識方法は変わってないと思います。
意識の中に世界があるとは感じないし、すべては私という感覚もないです。
悟るとそうなると思っていたので、自分の体験は悟りではなかったということでしょうか。
それともまず自我の消滅が起こり、それから意識が変化していくものなのでしょうか。 >>889
作っていた自我(自己イメージ)が消えたのかもしれないですね
原始仏教では悟りは4段階ありますし、非二元でも段階が言われています
自分が消えたと観ている自分が誰かがわかるといいのかもしれないですね
大悟小悟に関しては例えば禅宗などでは悟りの入り口を通過したかどうかを公案という問いで試します
両手を叩くと音がする、では片手で叩いた音を聞いてこい、という有名な公案が解けたら入口は通過してるのでしょう
片手では拍手はできないはずなのですがその音はいかにという問いです
(入口通っていても解けない場合もあるようですが)
とりあえず自我は消えたということですが、では世界はどうなのでしょうかね
自我が消えたという自分は在るのか無いのか、世界は在るのか無いのか
一人静かにしていると安心があるのはいいですね
日常生活でいろいろあるということは、一人でないときは安心でないということでしょうか
非二元においては心と身体と完全に離れるのが悟りですから、
心がどうであろうと、安心があろうとなかろうと、日常にいろいろあろうとなかろうと、
どうでもいい(何も変わらない)なら悟りでしょうね
それが本当の安心で真我実現なのでしょう >>895
あなたは私より先に行ってます
私はその、完全性を瞬間、見えただけで、まだまだ自我は旺盛に活動しています
ここから、どのように、あなたの感得された地点へ向かうのか試行錯誤していて
この世界にくっついている自我反応を引き剥がしにかからないとなのか、それとも、この魂と一つあるところで、更に、この心理傾向を削らないといけないのか
こんなところです
人のために生きることができるなんて、すばらしい境涯ですね! >>896
ハートの消失したところが世界なんです
だからハートの中に意識があって、それを見ている存在が私ですね
この見ているものが、この、ハート意識と別に分かれているのではなく
このハート意識が見ているもの、そのものなんです
つまり、消失したハートに、世界が飛び込んでくる筈だと思うんです
違う人も書いてくれてますが、これは見ている己が消えてない可能性がありますね 内面から外界を→で見ていたものが
外界が内面へ←逆転して見ているんです
そして、その←が見ているものです
この外界が内面へ入ると、全く同じ、ハートのそのものであって、なにひとつ別れてないんです ←→が消えると、ハート意識世界がひとつになって懐かしい風景を目にします >>897
自分が消えたと見ている自分は誰かわかるといい、というのは、
その見ている自分というのは真我ということですか?真我がどういうものかわかればいいということですか?
それとも見ている自分がいるということは完全に自我が消えてないということですか?
その見ている自分がいる以上、自我が自我を見てるにすぎないということですか?
1人静かにしているというのは、普通に休みの日とかリラックスしてる時で、
仕事とかで慌しかったりすると、心も慌ててしまいます。 >>899
ということはまだ完全に自我が消滅していないということでしょうか。
とても興味深いコメントありがとうございます。
すごく為になります。 >>902
見ている自分というのは非二元で観照者と呼ばれるものでしょうね
あらゆるものは真我の現れですが、観照者も真我そのものではなく真我実現の前に消えるとされています
観賞者は自我というか自他を分ける視点ですからまだ個我(主体という観念)が残ってるのでしょうね
自我を対象として観ている観照者という自分(主体、個我)が作られたまま残っているということになると思います
非二元は二元性(主体客体)がないということですから、観照者(主体)が残っているのはまだ非二元ではないということでしょうか
l心も慌てるというのは、慌ててる感情と自分が一緒になっているのでしょうか
だとしたら、自我が消えてないということだと思います
慌てるというのも自我あっての反応ですし、それと自分が一緒になっているのですから
慌ててる自分をただ観ているというなら観照者の視点だと思います
その場合は自我と離れているという意味で自我は消えてのと同じだと思います
非二元に関してマハラジはこのように語っています
「何も私ではない」が第一段階だ。
「すべてが私だ」がつぎの段階だ。
そのどちらも「そこに世界が存在する」という観念にかかっている。
この観念もまた放棄されたとき、あなたはあるがままの非二元のあなたとして残る。 >>904
なるほど、観賞者という視点があったのですね。
てっきり自我が消滅したことで、真我になったのだと思っていました。
もう真我になったのに、逆転現象も起こらないしどうしたものだろうと行き詰まっていました。
多分、観賞者の状態になってるのかもしれません。
次の段階はその観賞者さえいなくなる段階を目指せばいいんですね!
ほんと為になります。感謝しかないです! >>898
利己性が全くない状態の自己が即ち魂であり神性であり、我が内におられたことを晴天の霹靂のように知りました。これは神への愛と隣人愛に利己性を手放した時に突然起こりました。
私は瞑想をしたことがないのです。
ヴェーダンタによると心理的傾向により達成するための道がいくつかあるようですね。 ふーむ。しかし厳密に言えば、覚者は他人の為に
何かをしようとは思わないだろう。
熱いとか痛いとかいうことが分かるようになるから、
それに対して反応するようになるだけだ。
まだ目覚めていない人は、センス(実感)がないので
反応することもない。 "私"と"他者"の境界線が消えて、ワンネスの段階に入ると
他者の為、という考えも無くなってしまうだろう。
それがそれであるだけ。主体も対象も無い。まるで謎々だね。 それでも尚、覚者は、言いうる。
「世のため人のために身を捧げることが私の喜びだ。」
私たちはみな誰もが、月を枕に浮気性な夢を見ているのだ。 トニーパーソンズのノンデュアリティ は
縁起のことかな。。と、思った。
それを、ふっと感じる瞬間とか。
人は多次元世界に住んでいるから。 宇宙は調和を保ち
一体となって動いている、ていう
宇宙の摂理。 例えば
トランプ氏も北朝鮮問題も
裏があったとしても
全体で見ると
必然的に起こっている
というように。 自分で決めているようで
決めていない。
波動の世界、感応の世界だなぁ。。と思う。 そこで大切になってくるのが
自律になると思います。 >>877続き
生贄の習慣をやめさせたのは
聖霊です。 あらゆることに意味があり、外せないピースは
一つもない。
宇宙は、個々人が自由意志によって力強く
考え生きる現実を大らかに包み込んで、自由意志を
遥かに超えた完全なる秩序の絵を描いている。
となれば、自由意志が大事、とも言えるし
本当は自由意志はないんだよ、と言うこともできる。
そういうことなのでしょう。 そうですね。
摂理は神の法だと思います。
それで僕は
>>535 こう思います。 >>902
自我が、消えた
こころが静かである
このように意識しているのです
他者に批判された
仕事が慌ただしく心が動揺する
これもまた意識しているのです
この自己を意識する活動が、見ているのです
観照は、この意識の方向が変わることです
見ている自己を見ている
この見られている自己のハートが静まり、観照している意識も落とします
こうなると良いものも悪いものもあるがままにあることになります
意識してあなたが、そうするのではない
あなたが意識していることを止めることです
それが自我の消滅にいたるまで
しかし、この、消滅には、わたしはまだ到達してませんので、おそらくの話ですw >>904
そういうことでしょうね
ニサルガダッタさんの、言葉ですか?
そこに世界が存在する
なるほど徹底して内側の見識を奪ってしまおうとしているのか >>906
わたしは、この、意志が止まった時にある
外側の変化にこだわるべきでないのではないかと思い始めています
この視野の変化を、進めていくには、ふたたび再現しよう、維持しようという、意志が、そこに働いて、またもや苦しむからです
しかし一方で、この、苦しんでいる自己活動を、この地点から消失させていく意志的努力がいるのかも知れないとも感じるのです
ここで混乱してしまいますが、やはり、このような状態には固執しないことがノンデュアリティなのでしょう >>923
ノンデュアリティの方法論としては、
大いに固執するのがよろしいかと。
「努力するのは誰か?」 裸の王様で
囚われていない子供は
「 王様は裸だ 」
と、言った。
囚われている大人は
沈黙した。 >>924
わたしだ
そうするとわたしは、意志でもなくなるのか
見ているのもわたしではあるが
見ないでいるのもわたしであるw
わたしが風景の、変化を眼にしている
このわたしを消失させる
と言ってみても、このわたしは、どこにあるのだろうか、、、
努力している
つまり、意志を止めようとしている
しかし、意志が休むことは確かにある
これは、わたしが消えていることか
消えているというのは、元なしとのことか
元々、わたしではない
しかし、この変化そのものはある
不思議だ
ここに世界が存在する
これは疑いなくあるとしか思えない >>925
裸の王様
ずいぶん読んでなかったからおもしろい
何かがあるはずだ
と思って見ていくが、なにもないのかw
そこが真我であるとそうなのかもしれない 言語で表現不能な領域になってしまう
なんでもないもの
不可知の領域には私が在るもなくなる
あるものがある、あるがままである世界は、わたしが不可知の領域にいるとき、
この世界の意識そのものを魂であるこのハートで抱いている時の、わたしの不可知性とでもいえるようなところが顕在化することではないだろうか
しかし、これを日常でも、同じというのは、どうしてそうなるのか不思議だ
やはり、修行していって身に付けることなのであろうか 他者からの批判が、感情を揺さぶる
仕事に集中する
そのように活動的にあるときに
なにゆえに、この不可知の領域が世界を抱くなどということが実現しているのだろう
愛があればこそ顕在化するものが、それ以外のときには喪失されるように感じる
しかし攻撃的にある社会で、愛にあることは自我に耐えられるようなものではない
怒ろうがなにしようが、大丈夫とするしか、このことの実現はないのかもしれない
追いかけていかないで自然にしていることで、悪いと思っていたものも、許すしかない
のではないでしょうか?
まだわかりませんが、とにかく、わたしの感情を閉じ込めることは苦しみを生む >>910続き
縁起、カルマとすると
地球
国
地域
家
人
となり
この次元は
それに気づいて癖直しをしていく場所かな。。と、思いました。 そう考えると
>>373 の
トニーパーソンズの言葉は
わからない。 "私"って何?
その境界線は?絶対条件は?
努力するのは誰?
努力しているのは、何? >>930
もっと良くありたい、と願うことと
もっと良くならなければいけない、と考えることは
似ているようで違うものです。
それはちょうど、音楽家と警察官のように違うのです。 >>931の
>373
自由意思→自由意志
です。
すみません。
>>933
もっと良くというよりも
楽になるからです。 逆転現象って覚醒した人全員に起こる?
それともマハルシマハラジ大田和菜穂みたいな指導者として本出すレベルの特別な人にだけ起こる?
逆転現象が起こるまで覚醒した人は、本書けるくらい独自の叡智や世界観がある?
マハルシレベルに覚醒しないと逆転現象が起こらないなら、ほぼすべての人類は覚醒できないってこと?
じゃあなんのために覚醒の意味がある?数億人に1人しか覚醒できない教えで、人類は救える?
いくらマハルシや大田和菜穂が覚醒の素晴らしさを語っても、誰もそこに到達できない。
そんな教えってある?誰も救われない教え。
それともノンデュアリティを実践すれば、誰でもマハルシレベルまで覚醒にいたれる?
じゃあ実践しようと思っても、具体的な実践方法がないのどういうこと?
ラマナマハルシはわかる。日常で私は誰か?と問い続ける実践。
ノンデュアリティを実践してる人は、みんなこの方法のみで行ってるの?
だってマハルシも大和田菜穂も瞑想は否定してる。瞑想で覚醒には至れないと断言してる。
じゃあどうしろってんだ?具体的な実践方法をもっと示してくれよ。
もう覚者の自慢話にはうんざりだ。
ムージのサットサンをみてみろ、信者はみんな覚醒できないことで悩んでる顔してる。
覚醒を放棄しちゃえばそんな悩む顔しなくていい。
覚醒求めるな、探求をやめちゃえ、それが悟りだから。
うそです。そんなもの悟りじゃありません、ただの放棄です、諦め。
もうどうしようもない、どうすることもできない、指導者達は難解な単語を並べて混乱させる、
具体的な方法論を誰も言わない、だから誰も救われない、覚者の自慢話にはうんざりだ。 >>935
アンタねぇ・・・悟りってさ、老若男女問わず
誰でも簡単になれますよーって。
本気でそんなもんだと思ってるワケ?
はぁ・・・居るんだよねー、そういうカンチガイしちゃうヒト。
誰でも簡単に悟れるなら今頃、
猫も杓子もみーんな悟ってるーっつの。
・・・ま、そのやる気だけはさ、ウチも認めてあげなくはないかな。
だからアンタ、やる気があるなら、ウチのスレに来な。
手取り足取り悟りについて教えて教えてやろーじゃん。
まぁ?尻尾巻いて逃げつつグダグダ相変わらず
能書きだけ垂れてるのも?アンタの自由だけどねー。
どうぞご勝手にぃー。
http://fate.5ch.net/test/read.cgi/spiritual/1512218371/l50 人は何かになれそうだからってそれになろうとするのかな
それでは報酬が欲しいだけみたいだよね
なれるかどうかわからなくても自分はそれをするのがすきだ、それをせずにいられない、
そういう人がそれをしていけばいい
結果的にそれになれるかもしれないしなれないかもしれない
マハルシも誰も瞑想で覚醒に至れないなんて断言してない
それらは覚醒に直接関係しないというだけ
間接的にはいくらでも関係している
瞑想も自己探求も何もしないで覚醒した人なんてほとんどいないからね
みんな覚醒するまでに瞑想したりいろんなことを試している、そして覚醒している 努力に固執している人には努力しなくていいと言えるかもしれない
努力しなくていいということに固執している人には努力してみたほうがいいと言えるかもしれない
固執している人には固執しなくていいと言えるかもしれない
固執しないことに固執している人には固執していいと言えるかもしれない あ。。そうだ。
>>917の
弥勒菩薩半跏思惟像が
イエス様という理由は
この手と足の組み方の癖が
イエス様だからです。 >>935
逆転現象というのは、世界がわたしとひとつになることでしょうか
それとも世界から覗き込まれる視野のことでしょうか
だれにでも起きることだと思いますよ
起きるというか、見方が変わってるだけ
悟りがそれのことかはわかりませんが、、、
求めることをしないでというのは方法ですよ
想念が回らなくなるのも同じです
わたしは誰かと問うと、わたしは掴めないので、どんどん不可知の領域に気づくのかもしれませんねマハルシさんの方法
しかし鬱積した気持ちがあるので、気がついてもすぐに軽くならないだけだと思います >>936
まあ非常に少数の人々が覚醒してきたようなのは間違いないですね
しかし、この元々あるところに気がつくのは、難しいことではないはずです
なぜ疑念が残るのか、この疑念の払拭が人によって様々な心理傾向があるから難しくなる
しかしこれは縁の中で導かれているのではないかと思うのです
どうして理解がわいたのか、自分でもわからないことだから
好きだったからというのはあるよね
ひとは愛を求めるようにできているとしか >>937
そうだね
自分がよいと思うことを学んで実際の活動の中で実践することを繰り返す
様々に追求していくことで、いろんな気づきが少しずつ形成されていく
でも、わからないことも残る
どうして、このような意味不明なことが解けるのだ?
一体全体、なんのことを言っているのかさっぱりわからない
しかし気になる
そして、そこに真理の響きのようなものを感じてしまうのだ
非常に惨めな思いをしても、また、理解の訪れれば嘘であることと本当のことの見極めが深まっていく
まあ、そんな風にやってます 覚醒になぜ具体的な道がないかというとそれは個人(個我)の構成が人それぞれだから
どうしたら幸せになれますか、という問いに具体的な方法が言えないようなもの
幸せの概念なんて人それぞれで幸せのなりかたなんて言えない
その人が幸せの意味を本当にわかっているのかもわからないし
その問いには、あなたにとって幸せが何なのか考えてみて、としか言えない
無責任な人なら、お金を得なさいとか自分の夢をかなえなさいとか人から愛されなさいとか言うかもしれないが、
それでその人が幸せになるかどうかはわからない
どうしたら覚醒できますか、という問いには、
あなたが誰なのか問いなさい(あなたがどのような個我を持っていて、自分で自分を何だと認識し、同時に錯覚しているのか明確にしなさい)としか言えない >>935
僕はあなたに同意してしまう。
大和田菜穂さんや
他の日本のノンデュアリティ の方の動画を
拝見したのですが
「 概念が無いので 私はいない。
飲みものを飲んでも飲んでいない。
ことは起こっているだけ。
目標も立てない。
でも旅行の予約は入れます 」
と、意味不明でした。 人は自分がわかるものが好きで自分がわからないものは嫌いだ
それゆえ自分がわかるものは正しいと思い自分がわからないものはおかしいと思う
しかし自分がわからないものの方が正しく、自分がそれをわからないだけかもしれない
ただ言えることは、自分がわからないものはわからないものなのだから、それが正しいかおかしいか、それも自分にはわかるはずがない
言えることは、わからないものがあり、それをわからない自分がいるということだけだ わからないものがあり
それをわからない自分がいる
本当にそう思います。
非二元は (二ではない)
と、されているので
(二つで一つ)という
私の体験とは違うものなのかな。。と思いました。 >>944
眼前世界とわたしの対立
これが不幸の原因であると感ずる
主に他者との関係性、社会生活との関係性のことである
これが敵対しているのを、なんとかして、融和する方へ転換しなければならない
この世界の内容物から離れ去ることで、そのように不可知の視野から全体として在る
このことを進めてみよう
あっているかは、まだ、わからない >>945
わたしから分離している
そのような印象がありますね
行為が起こる判断もある
しかし、その主体的活動の範囲と意識しているものが離れている
しかし離れた先の意識は、それらも含めて愛そのもののように在るのかもしれません なまじ言葉というものを操れるばかりに
言葉というものが鳴き声に過ぎないことがわからない。
思想や見解は
一種の排泄物である
文明もそうだ。歴史もそうだ。
一本の木。それは同時に、
ひとつの宇宙でもある。
見た目の形に惑わされないことだ。
難しい言葉の、難しいリズムに。
複雑な理論も
根本は同じ。
それがわかればこそ
複雑なものも
容易く扱えるだろう。 https://plaza.rakuten.co.jp/thisman/
新時代のキリストはこっくりさんを呼んで12種類の動物霊を使役するのだ。
新時代のキリストはこっくりさんを呼んで12種類の干支を使役するのだ。
新時代のキリストはこっくりさんを呼んで12種類の星座を使役するのだ。
それが13番目に現れた蛇使いのことであり、蛇を使う者とは
イシュタルに加護された者のことを云う。彼女は喜んで協力してくれるだろう。
桃は蓮の花の形。これから桃太郎になってくれる男女は、
日本の地に多く現れるだろう。
新時代の十二使徒とは、こっくりさんを呼び寄せた男女に
協力してくれるアストラル霊だ。 >>950
このスレッドも、あなたにはとても良い影響があると思うよ。 勿論あちらでも歓迎するけど、この負荷はちょうど良い。
あなたの体験は根本的に、ノンデュアリティ的じゃない。
けれど、ちゃんとその違和感にこうして食らいついている。
その種は実り多い。あなたの進み方は、間違っていない。 純粋意識は
命が共鳴するところ
自然と感謝が溢れてくる
そこだと僕は思う。 ごんとやら、あなたはいい感覚してるよ、尊敬するよ。
だがな、あの世は悟りを開いてもイシュタルの支配下にある。
悟りの境地が何か知ってるか?
あれさえ憑依でそう思わせてるんだ。
もう真面目にやるのは諦めて霊を呼んだ方がいい。
空海もoshoもイシュタルには口出し出来ないんだ。
クリシュナムルティなんてもう存在してない。
詳しくはオカルト板のアセンションスレの205の後半を見てくれ。
また、遊びにくるよ。 すまん。206の間違いだ。あと、出来れば
おーぷん2chのオカルト板の意味不明なフレーズを書き込むスレも見てくれ。 アートマンとブラフマン。
二つで一つ。
命の共鳴。 ごんさん。あと言っておきたい事がある。
悟りを開いてもあの世で大人しくなったと喜ばれるだけだからね。
成仏というのは神の支配に対して何も言わない人を増やす為の口実だったんだよ。
生きてる人間がするべき事は成仏を目指す事じゃない。
霊界の神の狡猾さを見抜いて生きてるうちに反発者を増やす事だ。じゃ。
あの世で悪魔の期待通り、
何も言わないだけの人間になって帰った事を後悔しないようにね。 悪魔とは蜘蛛と蛇に象徴される
それは背中と首にある
恐怖と囚われのことである
神の光はこれらを一掃するのである
それは意識の光であり純粋性である
利己的な人間はたくさんいるが、それは、背中の中央から支配されている、また、首の背後の領域と通常意識との間に挟まった思念によってである
これらは一掃される
恐怖と疑念が武器であるこれらは、イメージを利用しているが真我は、不可知の点から意識、世界を総括的に抱くのだ このような神話的な物語は、人間精神の構造を譬えているのである
一粒の種死なねば種のまま朽ちる
死ねば大樹となり、鳥たちがきて休む
などもそうだ
恐怖や不安、怒りはあってもいい
しかし、このあるものがあなたを支配しては苦しくなるであろう
神聖なるもののみの世界はなく、神と悪魔があるとしても、神によることによって悪魔は力を奪われるのである
これらはイメージとして語っていることであり、意識の光であるもの、世界、そして真我、魂などは具体的なものである
想念の中で膨らますものではない 眼前世界、純粋意識、ハート
これらは同じものであり、あなたです
そしてわたしです
これが忘れられて苦しいのです
思い出して、この、世界、意識、魂が、この質が、ニッコリ笑うのを抱いたら
愛が溢れます
帰ってきたからなのです
わたし自身、本来の姿へ 眼前世界は純粋意識であり
純粋意識はハートにある
と言えるかもしれません
このハートにあるものを抱くのは真我である、あなたであり、愛であるあなたです
愛であるものが、わたし自身に戻ることです
愛そのものであるものが、そのままにあることがそれであるのです
なにもしないでください
と言うのは、元々の本来の姿が、安心そのものだからなのです >>923
私の場合、頭で理解したことではなく、神への愛が強まるほどに自然に体験していったというものでした。
私にとって祈りとは神を感じるものでもしかしたら瞑想と同じものなのかもしれません。
一切の苦しみから解放された時、そこで解脱知見が必ず自分自身で確信的にあります。この世のイメージと違うことに驚くかもしれません。
誰に何を言われようと戻ってこようと変わることがない絶対的な「救われた」を経験するのです。 >>971
まだ私はその絶対的な確信はありません
たまに触れている ノンデュアリティ とスピリチュアルの違いが
僕は分かりません。
僕は体外離脱で
霊太陽を見せていただき
真理と歓喜 (至福)と赦しを体験しました。
命の法則です。
仏像の光背が霊太陽です。
宗教絵画にも光背が描かれています。 あなたは私
私はあなた
でも
あなたは私ではない
私はあなたではない 蓋を開けてみれば、結局科学が一番宗教に近かったわけだ
その道理から信じることもなく人の心に浸透しているという意味では
宗教とはそれを隠すための目くらましなのかもしれんね だがそれも人の進化だ
退化という大きな後退を経て初めて高みにいけるのか
それが不朽不滅である魂の目的なのかもしれん
ならば大きく後退しようではないか
もっと遠くもっと深くあの地平が見えなくなるまで
そして全てが暗闇に飲み込まれたら走り出すのだ
最も深い闇を見たからこそ、最も神に近い所にいる >>976続き
ノンデュアリティ は
命の根源と、霊統を
混合してしまっているような気がします。 >>973
その霊太陽は、背後から抱けます
そして、それ自身が存在として、あなたと溶け去ることで、見るものが見られるものになるのです
このボールには質感があり、そのひとつあることを実現することで、心理的傾向が徐々に落ちていきます
しかし、このとき、そのイメージを再現しようとするのではなく、あくまで、わたしの側の意志の根っこを鎮める方をする
イメージで見てしまうと、ひとつになれません
事実の世界に観ると、そしてあなたが受け入れることで、風景はガラッと逆転します
赤ちゃんのときのような、見られている
あなたは、これを見たのだろうか?
同じような経験が、わたしもあります ここで感情が歓喜しますが、この歓喜も沈黙の安心から不思議に見ます
この世界の内容物であるあなたは私です
そしてわたしはあなたです
しかし、ほんとうのあなたは、わたしでもあなたでもないのです
このボールの反映が、あなたを苦しめるのは、あなたが他者、感情に同一化しているからです
そうではありませんか? あなたの自我を沈黙させると共に、他者とわたしの感情的同一性、悲喜こもごもからも、離れ去ってあなた自身に帰ることが悟りなのです
そして、それは、あなたと思っていたものの、つまり、思念感情活動のない領域です
熟睡していた意識が、起きているときにあるようなものです
起きている側の意識が、それに気づいて、ひとつに溶け去る
心理的傾向が変化していく
そうではないでしょうか? あなたは自己を傷つけることで、他者も批判するようなことであるのです
これが人様々であるので難しいのです
癖、習慣、影響によって、複雑な個人が成立しているのですから、誰もが同じではありません
ある人は元々、緊張せず、認識や責めることがゆるやかであり収縮していない
他の人は非常に臆病で警戒を怠らず、自他共に叱責し続けている
その原因である過去の出来事、愛情の不足であるものは、容易に解けない
真理の沈黙はひとつでも、個人は様々であって一様に語ることも知ることもできない
わたしにしか不可能であるのだが、このわたしがわたしを沈めることはできない
そこで神は、あなたを非常に惨めにしてしまうことで、あなたを助かるのだ
優れた魂は、惨めな人生を送るのであり、覚者などと賛嘆されているものは、この貧しさを悪いものであると説かないできた
霊の貧しいものこそ幸いである等々
また事実、五合庵で暮らした良寛さんもいる
なかなかこうはなれない、わたしがいる
まあなれるわけはないがw >>973
スピリティズムというのは、決まった教義も
定義もない曖昧な神秘体験のまとまりなので、
何か別の教義と比較することはなかなか難しいですね。
私見ですが、どの教義大系も大抵、霊統を重視する
基礎の領域と、精神の根源的な部分を重視する
核心部分、この2つの領域を持っていると思います。
それは、石や木などの、それぞれ異なった素材を通して
彫刻を行うようなものだと思います。
教義の基礎領域で私たちは、素材について学びます。
それを学び終えると徐々に、物の形や動き、
彫刻における美とは何かなどについて
学んでいくのではないでしょうか。
ですので、それぞれが共に大事なのだと思います。 >>980
霊太陽は常に自分の正面にあり
守護者が間に入れば
守護者の光背となり放射状に広がります。
霊太陽の霊流は
霊統を通して流れてきます。
守護者もまわりも全てが光輝き
その霊流に包まれた時の至福は
地上世界では体験できないものです。
仏像や宗教絵画は
それを表していると思います。
僕はその後、クンダリニー で
意識が繋がりました。
ノンデュアリティ の動画を見ていて
僕の体験と少し似ている体験をされた方が
いらっしゃったのですが
その方が
「私はいないというよりも
一人の独立した存在ではなかったことが
分かった」
と、仰っていました。
明らかに霊統だと思いました。 >>979の
命の根源と霊統を混合しているという言い方は
変でした。
すみません。
ノンデュアリティ は
霊統が曖昧というか
分かりづらく感じます。 あなたは、その眼前の球体をわたしと分けて対象としているのでしょう
そしてそれがわたしの霊統であると観るのでしょうか?
霊統という言葉は、わたしには馴染みがなく、なんのことかわかりませんが、息の通りのことかもしれませんね
これらのことは、目の前のその球体、意識、世界、は一つというのは、共通している
ということなのです
同じ太陽をわれわれが分化して所有するものと錯覚しているのです
これらは無限の変化であり、これは、錯覚した心理傾向を鎮めていきます
わたしは、この全世界であり、この全世界は同時に仏なのです
あらゆる活動があり、それでいて、何も起こってはいないとノンデュアリティでは表現されているのです こちら側から見ているものが分化させ、対象に分かれていると確信しているのです
この内的活動と外界が、つまり情意と世界活動が、純粋意識としてひとつなのです
あなたが世界と敵対すると、あなたが傷つくのは、対象ではないからなのです
この全世界は空にして、色であり、永久不変の無限でありながらも限定されたひとつをもつものなのです
このひとつとは世界であり、その沈黙でもあることであり、ふたつがふたつにないことです
それば、自然なことであり、不為
なすことなく、あるものがあるのみです
変化はありません
そのものがあるだけで達成されることなく、あなたの役は奪われるところです レス数が950を超えています。1000を超えると書き込みができなくなります。