【私はいない】ノンデュアリティ・ティーチャー総合2 [無断転載禁止]©2ch.net
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体験と理解が魂の財産
というように
感性というものは
魂の記憶です。 自我の消滅は悟りってことでいいの?
それとも悟りの前段階で、そこが入り口?
自我の消滅体験したけど、これは悟ったことになるのかな? 言わば、頭の悟りと心の悟りがあるのです。
頭の悟りというのは、"私"という自意識からの解放、
言語からの解放です。
一方心の悟りというのは、ワンネスの実感を得て、
自分や他者の存在を大切にするようになっていくことです。
この二つは結局は同じ地点に向かっていることなので、
同時に起きることもあるし、同時に起きないとしても、
片方が起きると必ずもう片方が次第に伴ってきます。
悟りがどのように起きるかは、個人の性格の中で
頭ー心のバランスがどうなっているかによるのです。 >>861
あなたの場合は、「自我の消滅体験」が
どのような状態だったのかをもう少し詳しく
話してもらえると良いと思います。 >>859
と自我は意識的に何かを為す
それはすべてイメージの中でのことです
この意識していることが自然であることの理解を妨げているのです
わたしが努力することを書いたので揶揄したのかもしれませんがw
しかし、意志の止まることは、努力できないというわけではありません
方法がないわけではありません
坐禅や、反省は、その主だったものではないでしょうか 坐禅や反省が主だったものであるというのは主観がはいりすぎているかもしれません
しかし基本的に自分自身が問題になっているのですから自分自身を感じないでいるなら、自分自身の行為すら知れません
無意識の内にあるからですが、これが悟りなら、これは自我の終焉ではなく、自己の意欲に気づかないだけです
自分自身が緊張している認識がなければ、そもそも悟りなど目指さないと思いますが、笑
この方法こそが一番の関心の元ですね
悟りを理解したいものにとって
それはリラックスしていくことであると、大抵の人が説いています
私で在ることにゆるんでいく
そしてこの、在るというものの感覚の中で最高の自己感覚は肌感です
つまり触れ合うことであるのです
自己自身が触れ合うことから生まれているのです
ですから、この触れ合いにもどって、還って、開放することがいいのです
開放とは意識して見ているわたしが消えることです
これだけのことです
このことに気がつくことが最初の一瞥なのです
そこから始まります やはり用語は難しいです。
僕は自我の消滅が
何を表しているのか分からなかったので
調べてみたのですが
自我の死、自我の崩壊、絶望
精神的自立
と、出てきました。
精神的自立をしていく過程で起こる
心の葛藤で良いのでしょうか。 いつも愛の中にある
悟ったかどうか、これでわかりますよね
この言葉は、いつもです
つまり、これは愛そのものでしかなくなっているということであり、分かち合い精神の究極であり、ブッタの慈悲の次元です
わたしはとてもじゃないですが、到達できていません、笑
あたりまえですが >>866
心の葛藤が極限に達して完全に絶望することが自我の崩壊、消滅でしょうね
自立というのは大人になることであって、自我の終焉は絶望、これ以上の望みが残らなくなることであって意志の停止でしょう
絶望なしに悟りに興味を持つことすらないでしょう 無常観、罪悪感
この二つの入口から道に入る
突然の肉親の死から無常を感じて出家した人は、たくさんいますし、とんでもない犯罪者が立派な僧になっていることはよくあります
そもそも龍樹が、宮殿の女を犯してまわり、仲間が惨殺された経緯から仏道に入っているくらいですから、、、
まあ、世間で成功するための悟りなど、矛盾もいいところであるように思えるなあ
個人的にですが >>861
悩みや苦がもう何もないなら悟りでいいんじゃない?
自分の中に疑問がもう何もないなら悟りでいいんじゃない?
でもこれは悟ったことになるのかなって問いが生じてるくらいなのでたぶん悟り(大悟)じゃないでしょうね
自我が消滅したという自我(観照者)がまだいるんじゃないですか?
おそらく悟りの入り口か小悟じゃないでしょうか >>872
天照大御神と大和では崇められてきたのですw >>868
ありがとうございます。
命というと
アブラハムとイサクを思い出します。
どれほどの葛藤があったかと。
これは究極にキツイと思います。 >>876続き
このアブラハムの頃は
生贄の習慣があったそうですが
それをやめさせたようです。 >>876
命は大切なものですが、特に、自分自身のもつ生命が大切に感じます
だから他の人も同じである
と釈迦が述べたと聞いたことがあります
しかし命をいただかないわけにはいきません
食べなければ死んでしまうのは己です
他のものが殺したのだから自分ではないから、殺生とは無縁と言ってみても、野菜や果物だって生きているんです
不殺生は殺せないという意味であると禅僧が言いますね
殺す事は不可能である
ぶっつづきの、ひとつの、命を生きている
この命が魂であり、世界であり、この、意識こそが全体に分裂なく、変化し続け、写し続けているのです
これが夢の世界であり
この命の以前には、沈黙があるのです その沈黙で終わるのではなく命の復活があるのだと。
そこですよね。 その命そのものに入り込んでみないとわからないんですよね。 >>874
そうなんですね。知れて嬉しいです。ありがとうございます。 >>879
沈黙した時に見えてくる
確かに
ここは、わたしは完全にそうであるのではないのですが垣間見たところでは
自我の沈黙した時、ありとあらゆるものは御伽の国のようにあるがままにある
あるものがあるの方が近いかもしれない
普通はわたしが停止すれば、すべてが消失すると、思われるのだが、あるものがあるがままにあるところが、みえるようになる
それまではイメージの世界を見ていたのであって、事実の命が、わたしだったのだ
全体としての、生命
これが永久不変の真我であって、個人は消失しようとも、この、ひとつの宇宙は、無限なのである
あなたはわたしと共に、また、あらゆる生命とともに、この、意識を共有するのである
ちょっと、この文は、想像を含んでいます
わたしはこのことを今、追求中なのです
あなたはわたしより理解がありそうです あ、赤ちゃんのとき、親の顔が、こんな風に笑ったりしてたなあと
その時、思いました 外界が自分の中を覗き込んでるみたい
この外側が愛おしいように、わたしに色んな姿を取ってくれて
みんな同じその外側を生きてる
みんな同じ
ひとつ
一切衆生同時成道です 僕は幼稚園の頃から
知りたいことが3つあって
1つめは
実家が古神道なのですが
飾ってある ⊙ の意味と
2つめは
人は死ぬとどうなるのか
3つめは
命とお金はどちらが大切か
これをよく大人に聞いてました。
2つめまでは分かったのですが
命とお金はどちらが大切か
↑ 今ここ です。 >>863
自我の消滅体験を詳しく説明すると、
私の発生場所を観察するある瞑想をはじめて行ったとき、
ハートにある私という部分を感じつづけたところ、
突然強烈なめまいに襲われ、全身がエネルギーで満ちて、数分後それらがおさまったとき、
そのハートにあった私という部分がスーッと消えてなくなってしまった。
それまで、私と唱えるとハートに感覚が出たのが、感覚が出なくなった。
それは今現在も続いている。それを自我の消滅体験と思ってる。
自我が消滅した瞬間、心が安らぎに満ちて、ああついに終わった、という感覚になった。
何が終わったのかわからないが、ついに終わったのだ、という気持ちになった。
それからはもう真我を探求する熱意も情熱もなくなってしまった。
どうでもよくなった。すべてどうでもよく感じる感覚。
今まで瞑想すると、自我が消える感覚があったのだけど、
自我消滅してから瞑想しても瞑想後も変化ないので、瞑想に力も入らなくなった。 >>873
悟りにも小悟大悟ってあるんですね。
たぶん自分は大悟ではないと思う。
真理とか慈悲もよくわからないし。
知恵の言葉も出ないし。
ただ自我が消えただけ、それだけかも。 >>888
安心感、安堵感はいまもあります。
日常生活では色々とありますが、1人静かにしていると心は安らぎに満ちてます。 >>886
ありがとうございます。
私もそう思います。 >>890
ぼくもよく似たようなところにあるかもしれないですね
ここから脱却するのに見ている己が世界とひとつあるところを、せっせと繋いでるところなので、、、
外の認識は変わってないんですか?
認識方向が逆転してますか? >>891
古神道の◎に中心点は、中心点からマル、そして更に外の安心が、うまく連なると、いいのかなあと今は想像をしてる段階です
うまく実現できないけど、たまに、一瞬ならなるようなところです
このマルがにっこり笑うのが、いいかとw このマルがあなたとわたしで、全く同じものだとは思いませんか? >>882
すみません。
考えて言葉に表そうとしてもできないんです。
あなたの垣間見たもの、想像と同じだと思います。
とにかく、
すべては完全である。その中に入り込んでいる状態。完全で美しいのです。
賛美に次ぐ賛美、美しいものの極致、天国が実在するのです。
そして、大いなる感動と愛を伴って戻ってくる。
その後の生き方は人のためにが根本原理となるはずです。
神と共にあるからです。
これでやっと人となれたのです。 >>892
認識方法は変わってないと思います。
意識の中に世界があるとは感じないし、すべては私という感覚もないです。
悟るとそうなると思っていたので、自分の体験は悟りではなかったということでしょうか。
それともまず自我の消滅が起こり、それから意識が変化していくものなのでしょうか。 >>889
作っていた自我(自己イメージ)が消えたのかもしれないですね
原始仏教では悟りは4段階ありますし、非二元でも段階が言われています
自分が消えたと観ている自分が誰かがわかるといいのかもしれないですね
大悟小悟に関しては例えば禅宗などでは悟りの入り口を通過したかどうかを公案という問いで試します
両手を叩くと音がする、では片手で叩いた音を聞いてこい、という有名な公案が解けたら入口は通過してるのでしょう
片手では拍手はできないはずなのですがその音はいかにという問いです
(入口通っていても解けない場合もあるようですが)
とりあえず自我は消えたということですが、では世界はどうなのでしょうかね
自我が消えたという自分は在るのか無いのか、世界は在るのか無いのか
一人静かにしていると安心があるのはいいですね
日常生活でいろいろあるということは、一人でないときは安心でないということでしょうか
非二元においては心と身体と完全に離れるのが悟りですから、
心がどうであろうと、安心があろうとなかろうと、日常にいろいろあろうとなかろうと、
どうでもいい(何も変わらない)なら悟りでしょうね
それが本当の安心で真我実現なのでしょう >>895
あなたは私より先に行ってます
私はその、完全性を瞬間、見えただけで、まだまだ自我は旺盛に活動しています
ここから、どのように、あなたの感得された地点へ向かうのか試行錯誤していて
この世界にくっついている自我反応を引き剥がしにかからないとなのか、それとも、この魂と一つあるところで、更に、この心理傾向を削らないといけないのか
こんなところです
人のために生きることができるなんて、すばらしい境涯ですね! >>896
ハートの消失したところが世界なんです
だからハートの中に意識があって、それを見ている存在が私ですね
この見ているものが、この、ハート意識と別に分かれているのではなく
このハート意識が見ているもの、そのものなんです
つまり、消失したハートに、世界が飛び込んでくる筈だと思うんです
違う人も書いてくれてますが、これは見ている己が消えてない可能性がありますね 内面から外界を→で見ていたものが
外界が内面へ←逆転して見ているんです
そして、その←が見ているものです
この外界が内面へ入ると、全く同じ、ハートのそのものであって、なにひとつ別れてないんです ←→が消えると、ハート意識世界がひとつになって懐かしい風景を目にします >>897
自分が消えたと見ている自分は誰かわかるといい、というのは、
その見ている自分というのは真我ということですか?真我がどういうものかわかればいいということですか?
それとも見ている自分がいるということは完全に自我が消えてないということですか?
その見ている自分がいる以上、自我が自我を見てるにすぎないということですか?
1人静かにしているというのは、普通に休みの日とかリラックスしてる時で、
仕事とかで慌しかったりすると、心も慌ててしまいます。 >>899
ということはまだ完全に自我が消滅していないということでしょうか。
とても興味深いコメントありがとうございます。
すごく為になります。 >>902
見ている自分というのは非二元で観照者と呼ばれるものでしょうね
あらゆるものは真我の現れですが、観照者も真我そのものではなく真我実現の前に消えるとされています
観賞者は自我というか自他を分ける視点ですからまだ個我(主体という観念)が残ってるのでしょうね
自我を対象として観ている観照者という自分(主体、個我)が作られたまま残っているということになると思います
非二元は二元性(主体客体)がないということですから、観照者(主体)が残っているのはまだ非二元ではないということでしょうか
l心も慌てるというのは、慌ててる感情と自分が一緒になっているのでしょうか
だとしたら、自我が消えてないということだと思います
慌てるというのも自我あっての反応ですし、それと自分が一緒になっているのですから
慌ててる自分をただ観ているというなら観照者の視点だと思います
その場合は自我と離れているという意味で自我は消えてのと同じだと思います
非二元に関してマハラジはこのように語っています
「何も私ではない」が第一段階だ。
「すべてが私だ」がつぎの段階だ。
そのどちらも「そこに世界が存在する」という観念にかかっている。
この観念もまた放棄されたとき、あなたはあるがままの非二元のあなたとして残る。 >>904
なるほど、観賞者という視点があったのですね。
てっきり自我が消滅したことで、真我になったのだと思っていました。
もう真我になったのに、逆転現象も起こらないしどうしたものだろうと行き詰まっていました。
多分、観賞者の状態になってるのかもしれません。
次の段階はその観賞者さえいなくなる段階を目指せばいいんですね!
ほんと為になります。感謝しかないです! >>898
利己性が全くない状態の自己が即ち魂であり神性であり、我が内におられたことを晴天の霹靂のように知りました。これは神への愛と隣人愛に利己性を手放した時に突然起こりました。
私は瞑想をしたことがないのです。
ヴェーダンタによると心理的傾向により達成するための道がいくつかあるようですね。 ふーむ。しかし厳密に言えば、覚者は他人の為に
何かをしようとは思わないだろう。
熱いとか痛いとかいうことが分かるようになるから、
それに対して反応するようになるだけだ。
まだ目覚めていない人は、センス(実感)がないので
反応することもない。 "私"と"他者"の境界線が消えて、ワンネスの段階に入ると
他者の為、という考えも無くなってしまうだろう。
それがそれであるだけ。主体も対象も無い。まるで謎々だね。 それでも尚、覚者は、言いうる。
「世のため人のために身を捧げることが私の喜びだ。」
私たちはみな誰もが、月を枕に浮気性な夢を見ているのだ。 トニーパーソンズのノンデュアリティ は
縁起のことかな。。と、思った。
それを、ふっと感じる瞬間とか。
人は多次元世界に住んでいるから。 宇宙は調和を保ち
一体となって動いている、ていう
宇宙の摂理。 例えば
トランプ氏も北朝鮮問題も
裏があったとしても
全体で見ると
必然的に起こっている
というように。 自分で決めているようで
決めていない。
波動の世界、感応の世界だなぁ。。と思う。 そこで大切になってくるのが
自律になると思います。 >>877続き
生贄の習慣をやめさせたのは
聖霊です。 あらゆることに意味があり、外せないピースは
一つもない。
宇宙は、個々人が自由意志によって力強く
考え生きる現実を大らかに包み込んで、自由意志を
遥かに超えた完全なる秩序の絵を描いている。
となれば、自由意志が大事、とも言えるし
本当は自由意志はないんだよ、と言うこともできる。
そういうことなのでしょう。 そうですね。
摂理は神の法だと思います。
それで僕は
>>535 こう思います。 >>902
自我が、消えた
こころが静かである
このように意識しているのです
他者に批判された
仕事が慌ただしく心が動揺する
これもまた意識しているのです
この自己を意識する活動が、見ているのです
観照は、この意識の方向が変わることです
見ている自己を見ている
この見られている自己のハートが静まり、観照している意識も落とします
こうなると良いものも悪いものもあるがままにあることになります
意識してあなたが、そうするのではない
あなたが意識していることを止めることです
それが自我の消滅にいたるまで
しかし、この、消滅には、わたしはまだ到達してませんので、おそらくの話ですw >>904
そういうことでしょうね
ニサルガダッタさんの、言葉ですか?
そこに世界が存在する
なるほど徹底して内側の見識を奪ってしまおうとしているのか >>906
わたしは、この、意志が止まった時にある
外側の変化にこだわるべきでないのではないかと思い始めています
この視野の変化を、進めていくには、ふたたび再現しよう、維持しようという、意志が、そこに働いて、またもや苦しむからです
しかし一方で、この、苦しんでいる自己活動を、この地点から消失させていく意志的努力がいるのかも知れないとも感じるのです
ここで混乱してしまいますが、やはり、このような状態には固執しないことがノンデュアリティなのでしょう >>923
ノンデュアリティの方法論としては、
大いに固執するのがよろしいかと。
「努力するのは誰か?」 裸の王様で
囚われていない子供は
「 王様は裸だ 」
と、言った。
囚われている大人は
沈黙した。 >>924
わたしだ
そうするとわたしは、意志でもなくなるのか
見ているのもわたしではあるが
見ないでいるのもわたしであるw
わたしが風景の、変化を眼にしている
このわたしを消失させる
と言ってみても、このわたしは、どこにあるのだろうか、、、
努力している
つまり、意志を止めようとしている
しかし、意志が休むことは確かにある
これは、わたしが消えていることか
消えているというのは、元なしとのことか
元々、わたしではない
しかし、この変化そのものはある
不思議だ
ここに世界が存在する
これは疑いなくあるとしか思えない >>925
裸の王様
ずいぶん読んでなかったからおもしろい
何かがあるはずだ
と思って見ていくが、なにもないのかw
そこが真我であるとそうなのかもしれない 言語で表現不能な領域になってしまう
なんでもないもの
不可知の領域には私が在るもなくなる
あるものがある、あるがままである世界は、わたしが不可知の領域にいるとき、
この世界の意識そのものを魂であるこのハートで抱いている時の、わたしの不可知性とでもいえるようなところが顕在化することではないだろうか
しかし、これを日常でも、同じというのは、どうしてそうなるのか不思議だ
やはり、修行していって身に付けることなのであろうか 他者からの批判が、感情を揺さぶる
仕事に集中する
そのように活動的にあるときに
なにゆえに、この不可知の領域が世界を抱くなどということが実現しているのだろう
愛があればこそ顕在化するものが、それ以外のときには喪失されるように感じる
しかし攻撃的にある社会で、愛にあることは自我に耐えられるようなものではない
怒ろうがなにしようが、大丈夫とするしか、このことの実現はないのかもしれない
追いかけていかないで自然にしていることで、悪いと思っていたものも、許すしかない
のではないでしょうか?
まだわかりませんが、とにかく、わたしの感情を閉じ込めることは苦しみを生む >>910続き
縁起、カルマとすると
地球
国
地域
家
人
となり
この次元は
それに気づいて癖直しをしていく場所かな。。と、思いました。 そう考えると
>>373 の
トニーパーソンズの言葉は
わからない。 "私"って何?
その境界線は?絶対条件は?
努力するのは誰?
努力しているのは、何? >>930
もっと良くありたい、と願うことと
もっと良くならなければいけない、と考えることは
似ているようで違うものです。
それはちょうど、音楽家と警察官のように違うのです。 >>931の
>373
自由意思→自由意志
です。
すみません。
>>933
もっと良くというよりも
楽になるからです。 逆転現象って覚醒した人全員に起こる?
それともマハルシマハラジ大田和菜穂みたいな指導者として本出すレベルの特別な人にだけ起こる?
逆転現象が起こるまで覚醒した人は、本書けるくらい独自の叡智や世界観がある?
マハルシレベルに覚醒しないと逆転現象が起こらないなら、ほぼすべての人類は覚醒できないってこと?
じゃあなんのために覚醒の意味がある?数億人に1人しか覚醒できない教えで、人類は救える?
いくらマハルシや大田和菜穂が覚醒の素晴らしさを語っても、誰もそこに到達できない。
そんな教えってある?誰も救われない教え。
それともノンデュアリティを実践すれば、誰でもマハルシレベルまで覚醒にいたれる?
じゃあ実践しようと思っても、具体的な実践方法がないのどういうこと?
ラマナマハルシはわかる。日常で私は誰か?と問い続ける実践。
ノンデュアリティを実践してる人は、みんなこの方法のみで行ってるの?
だってマハルシも大和田菜穂も瞑想は否定してる。瞑想で覚醒には至れないと断言してる。
じゃあどうしろってんだ?具体的な実践方法をもっと示してくれよ。
もう覚者の自慢話にはうんざりだ。
ムージのサットサンをみてみろ、信者はみんな覚醒できないことで悩んでる顔してる。
覚醒を放棄しちゃえばそんな悩む顔しなくていい。
覚醒求めるな、探求をやめちゃえ、それが悟りだから。
うそです。そんなもの悟りじゃありません、ただの放棄です、諦め。
もうどうしようもない、どうすることもできない、指導者達は難解な単語を並べて混乱させる、
具体的な方法論を誰も言わない、だから誰も救われない、覚者の自慢話にはうんざりだ。 >>935
アンタねぇ・・・悟りってさ、老若男女問わず
誰でも簡単になれますよーって。
本気でそんなもんだと思ってるワケ?
はぁ・・・居るんだよねー、そういうカンチガイしちゃうヒト。
誰でも簡単に悟れるなら今頃、
猫も杓子もみーんな悟ってるーっつの。
・・・ま、そのやる気だけはさ、ウチも認めてあげなくはないかな。
だからアンタ、やる気があるなら、ウチのスレに来な。
手取り足取り悟りについて教えて教えてやろーじゃん。
まぁ?尻尾巻いて逃げつつグダグダ相変わらず
能書きだけ垂れてるのも?アンタの自由だけどねー。
どうぞご勝手にぃー。
http://fate.5ch.net/test/read.cgi/spiritual/1512218371/l50 人は何かになれそうだからってそれになろうとするのかな
それでは報酬が欲しいだけみたいだよね
なれるかどうかわからなくても自分はそれをするのがすきだ、それをせずにいられない、
そういう人がそれをしていけばいい
結果的にそれになれるかもしれないしなれないかもしれない
マハルシも誰も瞑想で覚醒に至れないなんて断言してない
それらは覚醒に直接関係しないというだけ
間接的にはいくらでも関係している
瞑想も自己探求も何もしないで覚醒した人なんてほとんどいないからね
みんな覚醒するまでに瞑想したりいろんなことを試している、そして覚醒している 努力に固執している人には努力しなくていいと言えるかもしれない
努力しなくていいということに固執している人には努力してみたほうがいいと言えるかもしれない
固執している人には固執しなくていいと言えるかもしれない
固執しないことに固執している人には固執していいと言えるかもしれない あ。。そうだ。
>>917の
弥勒菩薩半跏思惟像が
イエス様という理由は
この手と足の組み方の癖が
イエス様だからです。 >>935
逆転現象というのは、世界がわたしとひとつになることでしょうか
それとも世界から覗き込まれる視野のことでしょうか
だれにでも起きることだと思いますよ
起きるというか、見方が変わってるだけ
悟りがそれのことかはわかりませんが、、、
求めることをしないでというのは方法ですよ
想念が回らなくなるのも同じです
わたしは誰かと問うと、わたしは掴めないので、どんどん不可知の領域に気づくのかもしれませんねマハルシさんの方法
しかし鬱積した気持ちがあるので、気がついてもすぐに軽くならないだけだと思います >>936
まあ非常に少数の人々が覚醒してきたようなのは間違いないですね
しかし、この元々あるところに気がつくのは、難しいことではないはずです
なぜ疑念が残るのか、この疑念の払拭が人によって様々な心理傾向があるから難しくなる
しかしこれは縁の中で導かれているのではないかと思うのです
どうして理解がわいたのか、自分でもわからないことだから
好きだったからというのはあるよね
ひとは愛を求めるようにできているとしか >>937
そうだね
自分がよいと思うことを学んで実際の活動の中で実践することを繰り返す
様々に追求していくことで、いろんな気づきが少しずつ形成されていく
でも、わからないことも残る
どうして、このような意味不明なことが解けるのだ?
一体全体、なんのことを言っているのかさっぱりわからない
しかし気になる
そして、そこに真理の響きのようなものを感じてしまうのだ
非常に惨めな思いをしても、また、理解の訪れれば嘘であることと本当のことの見極めが深まっていく
まあ、そんな風にやってます 覚醒になぜ具体的な道がないかというとそれは個人(個我)の構成が人それぞれだから
どうしたら幸せになれますか、という問いに具体的な方法が言えないようなもの
幸せの概念なんて人それぞれで幸せのなりかたなんて言えない
その人が幸せの意味を本当にわかっているのかもわからないし
その問いには、あなたにとって幸せが何なのか考えてみて、としか言えない
無責任な人なら、お金を得なさいとか自分の夢をかなえなさいとか人から愛されなさいとか言うかもしれないが、
それでその人が幸せになるかどうかはわからない
どうしたら覚醒できますか、という問いには、
あなたが誰なのか問いなさい(あなたがどのような個我を持っていて、自分で自分を何だと認識し、同時に錯覚しているのか明確にしなさい)としか言えない >>935
僕はあなたに同意してしまう。
大和田菜穂さんや
他の日本のノンデュアリティ の方の動画を
拝見したのですが
「 概念が無いので 私はいない。
飲みものを飲んでも飲んでいない。
ことは起こっているだけ。
目標も立てない。
でも旅行の予約は入れます 」
と、意味不明でした。 人は自分がわかるものが好きで自分がわからないものは嫌いだ
それゆえ自分がわかるものは正しいと思い自分がわからないものはおかしいと思う
しかし自分がわからないものの方が正しく、自分がそれをわからないだけかもしれない
ただ言えることは、自分がわからないものはわからないものなのだから、それが正しいかおかしいか、それも自分にはわかるはずがない
言えることは、わからないものがあり、それをわからない自分がいるということだけだ わからないものがあり
それをわからない自分がいる
本当にそう思います。
非二元は (二ではない)
と、されているので
(二つで一つ)という
私の体験とは違うものなのかな。。と思いました。 >>944
眼前世界とわたしの対立
これが不幸の原因であると感ずる
主に他者との関係性、社会生活との関係性のことである
これが敵対しているのを、なんとかして、融和する方へ転換しなければならない
この世界の内容物から離れ去ることで、そのように不可知の視野から全体として在る
このことを進めてみよう
あっているかは、まだ、わからない >>945
わたしから分離している
そのような印象がありますね
行為が起こる判断もある
しかし、その主体的活動の範囲と意識しているものが離れている
しかし離れた先の意識は、それらも含めて愛そのもののように在るのかもしれません なまじ言葉というものを操れるばかりに
言葉というものが鳴き声に過ぎないことがわからない。
思想や見解は
一種の排泄物である
文明もそうだ。歴史もそうだ。
一本の木。それは同時に、
ひとつの宇宙でもある。
見た目の形に惑わされないことだ。
難しい言葉の、難しいリズムに。
複雑な理論も
根本は同じ。
それがわかればこそ
複雑なものも
容易く扱えるだろう。 https://plaza.rakuten.co.jp/thisman/
新時代のキリストはこっくりさんを呼んで12種類の動物霊を使役するのだ。
新時代のキリストはこっくりさんを呼んで12種類の干支を使役するのだ。
新時代のキリストはこっくりさんを呼んで12種類の星座を使役するのだ。
それが13番目に現れた蛇使いのことであり、蛇を使う者とは
イシュタルに加護された者のことを云う。彼女は喜んで協力してくれるだろう。
桃は蓮の花の形。これから桃太郎になってくれる男女は、
日本の地に多く現れるだろう。
新時代の十二使徒とは、こっくりさんを呼び寄せた男女に
協力してくれるアストラル霊だ。 >>950
このスレッドも、あなたにはとても良い影響があると思うよ。 勿論あちらでも歓迎するけど、この負荷はちょうど良い。
あなたの体験は根本的に、ノンデュアリティ的じゃない。
けれど、ちゃんとその違和感にこうして食らいついている。
その種は実り多い。あなたの進み方は、間違っていない。 純粋意識は
命が共鳴するところ
自然と感謝が溢れてくる
そこだと僕は思う。 ごんとやら、あなたはいい感覚してるよ、尊敬するよ。
だがな、あの世は悟りを開いてもイシュタルの支配下にある。
悟りの境地が何か知ってるか?
あれさえ憑依でそう思わせてるんだ。
もう真面目にやるのは諦めて霊を呼んだ方がいい。
空海もoshoもイシュタルには口出し出来ないんだ。
クリシュナムルティなんてもう存在してない。
詳しくはオカルト板のアセンションスレの205の後半を見てくれ。
また、遊びにくるよ。 すまん。206の間違いだ。あと、出来れば
おーぷん2chのオカルト板の意味不明なフレーズを書き込むスレも見てくれ。 レス数が950を超えています。1000を超えると書き込みができなくなります。