【私はいない】ノンデュアリティ・ティーチャー総合2 [無断転載禁止]©2ch.net
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私と呼ぶこのアイデンティティーはどこからどうしてやってきたのか知らない
私という自覚も同じ
何も選んでいないし、何も知らない 全ての無意味を看過した到達者が、
その上で更に何事かの実現や挑戦を望むとき
それがどれほど超越的な意味を持つことなのか、
私たちには分かるはずだ。 匿名掲示板なんて喧嘩するためにある
喧嘩したくなければ、外でやれ! 聖者的虚弱の問題に耐えきれなかった人々が選んだ方法とは、
エゴへの盲従によって精神活動を活発化させることだった。
これと全く同じ現象が、精神の退行だ。
自立能力を失った精神は、やり直しの為により子供の段階へ帰ろうとする。
だが一部の知者達は、退行せず、"私"という自意識を中心とした
言語の世界を超越する方向を見出し、精神の更なる高みに辿り着いた。 習性というもの、こころの動揺というものは、たとえ真我と世界の理解が進んでも、残っているものである
その度に、離れ去っていることで、その動きが様々ある中の統一が起こってくるのだ
これらは熟練されなければならないので、様々な方法では混乱して、進まない
そこで、自分の良いと思うものを選んで、慣れていかなくてはならない
生活の中で、生活を超えた地点を常に持ち込まなければならない
眠りの安心が、自己の本質であるなら、その、邪魔をしているのが自我である
つまり、それは評価なのだwwww トニーパーソンズのノンデュアリティ で
覚醒されたと言われる方の体験が
左脳に
何らかの障害を持たれた方の体験と似ている。
多分トニーパーソンズは
左脳の動きに抑制をかけ
β波を低下させていると思われる。
オーム真理教が取り入れていた
フルフィルメント瞑想に似ている。 意味を持たせる左脳を低下させるから
トニーパーソンズがフェラーリを乗り回しても
そこに意味は無いんだと思う。
変なの。 左脳には分析力があります。
覚醒には
右脳と左脳の両方の働きが必要です。 右脳左脳の両方が必要ということは
検索すると分かると思います。 トニーパーソンズのノンデュアリティ で
覚醒されたと言われている方が
「 虚無感 」を感じたと書かれていることと
意味はなかった
で、終わってしまうこと。
覚醒は自分を知ることなので
内観では
そこから更に分析していきます。
原因を探り
どうすれば良いのかも分かるので
魂は解放され満たされていきます。 純粋に論理化された不二一元論としての「ノンデュアリティ」が、
実感的な部分を蔑ろにしてしまうというのは確かにあると思います。
世界は「在る」
この実感こそ私たちの魂の本質であり拠り所ですが、
純粋な論理は「全ての存在は幻である」と結論付けてしまうのです。
しかしこれは逆説的なことなのですが、私個人が思うには、
覚醒の初期段階が実感(心)寄りのものとして起こるにしろ、
論理(言葉)寄りのものとして起こるにしろ、どちらでも良いのでは
ないでしょうか。 なぜなら現実的には、論理寄りの状態で達成された解放は
Mさんも仰っている通り一時的な虚無感の中に没入していき、
その虚無感の圧力によって結局は心と言葉のバランスを
取り戻していくからです。
また同じように、実感寄りの状態でワンネスを理解した方も、
最初は自分が全能の神になったような充実感を得るのですが、
現実の方はちっともそこへ伴ってはきませんので、この場合は
現実からの圧力によって論理的な状況把握を否応なく
身に付けていくものと思われます。
ですので、最終的には、どちらも同じということになると思いますが
問題はただ、「マインド/ハート」「頭/心」「論理/実感」の二極があり、
そのバランスによって覚醒初期の段階が人それぞれ異なってくる、
ということではないかと思います。 あなたは眠っているときに世界から消えている
なにがあるというのかw
純粋な経験には個人など存在していない
無の上に、おまけがあるみたいなもんだ
要するに評価しているのだよ?
はかりごと、して、なにやらよろしいものに辿り着くなんてありません
なにをやらせようとしてるのかしらんが、ビジネスしてもいいが、語口を聞けば、あなたはこうしたらいいのだよとねw
こうするもなにも、動いたらあかんのだよ笑 迷いというのは、迷っているからあるだけで、迷ってるときに、なにが迷ってるか見るだけでいいじゃないかwwww
ふられて凹んでいるとか、悪いことしてしまって凹んでるのが、だいたい、そんなとこ
迷ってるのは、わたしじゃないかw
他人は、わたしが、どうなっても面倒みること叶いませんよww
わたしはいない
ってのは、この悩みが無用になることでしょ
複雑なのは、悩みがあっても、迷わないことが理解しづらいから
活動しているのは、世界であって、その、世界の動きは、あるようにあるだけなのだw
都合よくない 悟る前、あるいはちょっと悟った後に鬱々とするとか恐怖感がわくというのは修行者によくある話
なんでかというとこれまであると思ってた自分(自我、エゴ)が無くなっていってるからね
一般人においては自我が自分なわけだから自我が無くなるとくことは自分が死ぬというのと同じこと
だから死に向かっていると無意識に感じて鬱々とするし恐怖もわいてきたりする
だけど鬱々としてるのも恐怖を感じてるのもその無くなろうとしてる自我自身なんだよね
自我が俺は消えたくないと鬱々とし恐怖を感じている、それだけの話
そこから本当に自我が無くなれば(自我が自分でないと自我から離れられれば)、
そういうった負の要素を感じる主体(自我)がもうないわけだから当然自由になっていく
自我からの自由だよね そうそう、海の中で水槽を割るようなもの。
中身がどっかへ行ってしまうと恐れるが、
実際は空に解け、力増すのみ。 僕は
虚無感や恐怖感というより
自分が何に囚われているのかが分かった時
嬉しかったし
感謝が出た。
これ、成長って言うやつだと思う。
自我の成長。 内観してると
最終的に
命や摂理や共生が出てくる。 そして内観をすると
いかに自己肯定が大切なのかが
分かってくる。 マハルシは自己実現を仰っているし
イエスキリストも、同じ。
キリストの意味は
無垢であるということ。 *M* 悟ったつもりで連投してるネットしか相手がいないキチガイ 君は悟ってないから、私たちのことが羨ましいんだね。
それで、自分の中の悪い物を他人に押し付け、
相手が非道徳的な醜い対応をするのを見て、
自分だけが惨めな存在じゃないと実感したいんだね。 欠伸が出るほどのんびりとした、
いかにも人間らしい対応だ。
良いんですよ、そのままで、
もそっと精進するがよろし。 人間は例えひとりになっても、世界と対峙しており、また想念も止むことなし
しかし、社会に生きて世俗的にあっても、ひとりある孤高の人々もいたようだ
批判を恐れるのなら優れた人の批判を恐れるべしと述べた人が鎌倉時代にいたようである
人は批判的な生きものである
どこにいても同じである、笑
何を言いたいかといえば、己の優れたことを述べたいのだろうがw
世界の中にある他者の自我へのアクションは、なかなかに手強い
惹かれないことが剥奪する
情け無用であることが慈悲になることも
あるのかなあ
悟りは、常人ごとではない 普通ではない
ということを気に病む人たちがいるw
普通ではないから人を超えるわけである
社会と噛み合わないと悩む人がいるw
彼らは批判する生きものであり、価値観に生きているのだから、合わせられないでいい
人々と同じで悟ったということはない
ズレていて当たり前であるwwww
純粋経験の場で評価の外れたところでは、都合がよくないことが多くなる
うまくいってる証
かもしれんなあ
かも、ね 書店へ赴いても碌な本が売られてない
幸せになる?
方法ばかりが目立つわけだが、諦めなさいというような本はない、笑
現代日本の精神が、如何に過去の栄光を忘れ去ったのかよくわかることである
正法眼蔵も、ヴァガバットギータも、スッタニパータも無門関も良書は、巨大な書店さんしか取り扱わず
まあAmazonさんとかは、あらゆる書を置くか
しかし、本当に優れたものには評価も付かず、そして廃刊になっており少部数が、わずかに売られているようなことであるw
人は真理を嫌うようにできているのだろう おおそれは言い得て妙だ。
人は真理を嫌い、それでいて真理を求める。
どっち付かずに人間があり、中途半端なところが要するに
ハビタブルゾーンというやつらしい。 2ちゃんしか主張の場がないキチガイの巣窟、悟りなんか1000年早いわ まだまだというのは
僕もそう思う。
だから一人一人内在神と繋がる師が
いらっしゃるんだと思う。
トミーパーソンズの事だけど
彼の乱暴なやり方を批判している
ノンデュアリティ ティーチャーの方もいらっしゃる。
教える側の影響力を
もっと考えた方が良いのではないかと
彼から離れていく
ティーチャーの方もいらっしゃるようだし。
大和田菜穂さんの動画を見ると
トミーパーソンズの影響なのか
途中で内観を止めていることに
気がつくだろう ❓
もちろん
摂理のことは語っていらっしゃるけれど。
ノンデュアリティは
内観を通して内在神と一体になることだと
僕は思うし
守護者と繋がった方も
増えてきていると思う。
智慧の目って言うだろ ❓ アジシャンティなどは、彼らには何を言っても通じないと半ば諦めていたようだ。ニュートンの引力はどう説明するのかと聞いたら 笑って誤魔化して答えられなかったんだ。 例えば
大和田菜穂さんの動画で
仕事に就いても長続きがしない
という質問者の悩みに対して
仕事は長続きしないといけないという
他人の価値観、評価に囚われなくても良いし
嫌だったら辞めて良いよ ( 笑 )
(囚われている)私はいないんだから。
で、終わっていた。
僕もそれはそうだと思う。
質問者の方は
まだ自分の本当にやりたい事が見付からない状態で
就いた仕事が
自分のやりたい仕事じゃなかったってことだと思う。
でもそれは自分を知ることによって
選ぶ仕事が変わってくるから
それを上手に引き出していくのが
ティーチャーだと思った。
今は小中高、大学の指導でも
自分をまず知ることの大切さを
言われてるよ。 彼女は世界が愛だ、と主張している。
愛の中にいると。世界は幻想だと言いながら、だよ。外側に意識が向いていて 私はいないから内側は無いと思っているから 内観をしない。
信者も同じ調子だね。 彼女の誤解はね、この世界はエネルギーしかないと主張するところだね、空しかないから 分離はないと主張するところ。だから 何処にも向かってないと言えるし、魂の成長もないと言うんだよ。内観の必要性もないとね。 だが個々人の成長段階や持っている理論について評論を始めると、キリがない。
私たちは地に涌き起こることを見るのではなく、ただ星を目指せば良いのだ。
天井を押し広げることこそが世界に広がりをもたらす。
少なくとも私たちは、内観の伴わない不二一元論は正しく空論に
過ぎないということを、この場で確認できた。
それは良いことだし、十分な成果ではないか。 自分を探そうと占いや性格判断とかで必死に自分を見つけようとする。
本当の自分はどういう性格でどういう特徴があってどういう人間なのか。
それはたぶん誰もわからない、自分のことが一番よくわかっていない。
だから自分探しの旅に出たり、人と交流したり、色々な趣味や経験をすることで自分を発見しようとする。
多くの人はそのように生きてるだろう。
でも、自分はけして見つからない。
なぜなら、私はいない、のだから。
そもそも私という人間など存在しないのだから、見つけることなどできない。 外側に自分を見つけようとするといないに決まっている。占いや自分探しの旅は全て外側だ。
そんなところに断定された私などいない。
純粋な内なる光は内観を経て、ようやく 真の自己、閃光な輝きが光りだす。 自分で強く感じられるもので良いと思うけどね
それが外側であっても内側であっても
できるだけ自分で何もかも決めて人生を生きたら十分だと思っているわ
もちろん素晴らしい人たちの神性な経験とかに憧れはあるけどね
自分の生き方とは全然違うからな、自分の選んだ生き方を最高のものとして生きるわ >>708
智慧の眼は全世界を映している
そのような体験や内面の静寂から、あなたのいう守護霊との繋がりがあったりもする
それらが知覚された時には、興奮するものだが、時が経てば普通になる
そして、その形を持ち込むことで、自己の快楽を得ようとしてしまうだろう
そういうものは、忘れてしまうのだ
この意志の根本が、ハートに落ちることで、愛が溢れるが、この愛は、保持しようとすれば消滅してしまうw >>710
仕事というものは人の欲求に応える行為であるからして、どのようなものでも与えることに繋がっているのである
社会のなかで嫌なことをしても人々の支えになることができている
仕事は慣れるまでが大変であり、また、その仕事の中で自己の優位性を保ちたいなどと、欲をかくとつまらなくなる
奉仕するには頭を下げるのがよい
踏ん反り返ってる人たちは、己の滑稽さに気づいていないが、まあ、そのプライドの鎖骨によって、おおいに閉鎖された緊張を持つ
解放されたなら、プライドの片鱗もない >>713
内と外が別れてない
普段、内面と思われているのは、感情を伴った思いのことであろう
この想念の混乱が苦しみであり、この混乱の鎮静が不二一元の統一的均衡をもたらす
それは外界である、そして、真の内なるものは、言葉で表すことも、認識に昇ることもない
普通の段階では、認識される悉くは、外界の事象であるのに、それを分割して、我と世界と対峙していると錯覚しているのだ
意識について、理解が深まっていない
世界は内面にあるのだw >>720
そう。世界は内面にある。内側と外側という幻想そのものが私たちだ。
捉えられぬ霧を捉えようとする認識と思弁の罠。
それは、在る。これは、在る。
私はそれを美しいと言おう。私はそれを素晴らしいと言おう。
私は在るというものであり、無いというものではないからだ。 そう、無ではないものが唯一存在するそれ。
それだけが永遠に在る。生まれもしないし死にもしない。一なるもの。 意識は波動です。
そしてこの意識が命です。
だから内観は
とても大切だと思います。 内在神は鏡のようなもので
自分を映し出す鏡です。
真我と言われるものです。
道しるべでもあります。 自我と真我が融合して
調和するところに
命があります。 この自然の摂理
法則は
凄いな。。と思います。
生態系にも自然の摂理は
現れていて
生態系を考えていく
ギリギリの時代に入っていると思います。 身と魂の隔てなく
真我は命そのもので真理です。
思考をする場所ではないけれど
一人一人に内蔵されている真我。 真我の目覚めた意識の状態になると、自分という感覚なくなるの?
それとも自意識はちゃんとあるの? ほんとに真我がわかった人はなかなかいないだろうから聞いてもまともな答えは返ってこないと思うけど、
少なくとも我への捉われが薄くなっていくと自分という感覚はなくなっていくか自分が自分ではないという感覚になっていくよ
自意識はなくなるか、自分の意識という感じではなくなっていくかと 魂に内蔵された真我によって
磨かれた魂は
真に澄みきり光輝く。
この調和するところに
命があると思います。
不二、二にして一。
調和だと思います。 意識については
内観すると
共有意識に気づくと思う。
霊統のこと。
自我の概念が変わると思います。 >>730
自意識は幻想なので、いずれ無くなりまふ。
文明の発展に伴って、儀式宗教が
意味を持たなくなってくる様子と似てまふね。 >>732
真我との調和。
正にそれですね。
個我という幻想が重い荷物となって、
私たちの周囲を滞らせている。
個我の幻想が消えると真我は濁りなく
純粋な形で動き出す。
するとそこには、真我の性質である
完全な調和、純粋な存在の輝きだけが、
残る。
これがつまり命ですね。
それは掛け替えのないもの、
賛美に値するものだ。 >>735
個我の幻想、
我執 とも言われている利己主義な考えや
それに基づく物事の執着、
なかなか気づきにくいコンプレックスなんかも
そうだと思います。
こういうものを
少しずつ手放していくことで
魂の振動数、周波数が高まり
霊統と意識が繋がりやすくなり
そして
大きな自分と成っていくと思います。
真我は生態系を見てもわかるように
摂理、共生というものがあって
>>719さんの仰るように
人のお役に
という意識は
正に真我意識だと思いました。
真我 >>721
在るというものは捉えられない
捉えられないから自我からしたら無である
なにごとか見識として捉えるなら、それは
真我ではない
状態の移り変わりを、悟りとするなら、それは破壊されること必然である
自我の学ぶことの不可能なものが、元来あるものでり、不滅の真我である
これといって指し示すものは、ない >>726
自然の摂理は真我の見る夢の世界である
その摂理の世界は、生滅する
体と心と世界は永続しないものであり、その虚無性こそが救いとなる
無我にして無一物
これほどの絶望感は自我にはないだろう
なにももたない
わたしすらいない
しかし、これが、逆に救いとなるのだw それは違う。
救いとは完全な幸せです。
無ではない。
無から有が生まれなければ救いではない。 虚無を超えて 唯一を見出すことが至高なるものだね。 >>738
それについては、私たちは完全なトートロジーに陥るだろう。
真我は意識によって捉えられない。
真我を表す言葉は無い。
つまり全ての見識、思想、言葉は、
真我以外のものであり、虚偽なのだ。
私たちは真我について「ない」と言う。
しかし他でもなくその行いによって、
「ない」という言葉が作られてしまう。
私たちは思索する。思案する。
それによって真我からまた離れていく。
息づく。生きている。
それによって真我からまた離れていく。
宇宙がある。世界がある。意識がある。
それによって真我からまた離れていく。
ああ、だがどうだ。
一体何が、真我から離れたというのか?
それらはみなひとつの、
繋がりに過ぎないというのに。 私たちのこの世界、この夢の性質に関することなのだ。
例えば夢の中で「これは夢だ」と強く念じれば、
私たちは目を覚ますことができるかもしれない。
そして一度目を覚ましたならば、夢の世界は消える。続きもない。
だがこの世界はどうだ。強く念じれば、深く瞑想すれば、
世界そのものが消えるか。
いいや、違う。せいぜい個人的な肉体が滅びるというだけだ。
なぜだ?なぜ私たちは目を覚ますことができないのか。
念じる力が弱いから?修行が足りないから?精神が未熟だから?
いいや、違う。私たちが、夢そのものだからだ。
私たちは、他ならぬ夢そのものだからだ。
一体どうして、自分自身から目覚めるというようなことがあるだろう。
そんなことは有り得ない。
私は"在る"という者だ。これ以上強い言葉はない。これ以上強い輝きはない。
世界は在る。私は生きている。あなたもそうだ。全ては素晴らしい。
全ては完全だ。 そう。最初から完全だった。
世界が完全だから私は完全か?私が完全だから世界は完全か?
不二なのでこの疑問自体が意味をなさない。
空を観て仮(夢)と知り、それを虚無と観ず完全さと知る。
人間として生きていることの不思議を等身大の自分に
戻って完全さを楽しむ。
他者に語る意味があるとすればこの一点にあると思う。 完全なんてありませんよw
もちろん整然なる自然界の掟は厳しくも法則的に運行されておるわけで、完璧ですが、自己にとっては不都合なこともありますから
在るといっても、その美しさを感じることに主眼がおかれたら、苦しみにも変わります
なにももたない
わたしもいない
これは絶望感ですw
この無一物、無我というのは、さいてーの事実で在るはずです
ところが、それが開放になる 人を離れ法を離れる
これは、自分から開放され、さらに、世界からも開放されることであり、これは、事前にあることでなされるのです
事前というのは、事が認識される前の空性のことですが、それは認識に昇らないのです
だから悟りには人は登場しませんし、世界も登場しません
真我にはなにもありませんw
空っぽ
なので、それを手に入れることはないのです 崩壊させられることで開放なるわけです
意識、世界の永住不変なりと、そのように誤ったことはありえないので、自我は、なにも頼りにする事がなく、本来、無一物である
無一物、無の一物
虚無性です
この虚無性は自我にとってのもので、その自我にとって最悪な事態が悟りですw 厭離と離貪と滅尽
によりて取ることがないゆえに解脱する
このようにブッダはときました
なにももたない
わたしすらいない
その時に苦しみは完全にない この時に世界は光輝に満ちますが、そのことに主眼がおかれるなら持ち去られるのです
光輝に満ちた至福の安楽は、おまけみたいなもので、あくまで主眼は、意志の停止であり、智慧の完全性におかれるべきなのであります
これは内面の虚無性に他なりません
外界の事象の夢幻の如くにしてきらびやかなるのは、この虚無性によって付随したものであり、それが完全なる実体だとするのは、おそらく破壊されるでしょう
なぜなら、それは行為によるのであるなら、意志によるのであるなら変化するからです
無であることは事前にあることで、自己ができることは何もありません
気がつくことがあるだけで、なんらかの意志や行為が、それを運ぶわけでもなく
誰かが達成するわけでもなく
悟った人などどこにも残らないのです しかし、それはまだ何か、個我の
「こうありたい」という欲求を映してはいないだろうか。
虚無感とは、虚しさなのでは?
だとしたら虚しさとは、「もっとこうあってほしい」という
何事かへの妄想であり、偏見であり、願望から生まれるものだ。
どうして世界へ「これ以上」を願う必要があるだろう。
世界はこれだ。私たちは受け入れるだけでいい。
しかし部分的にではなく、完全に。
そこに個我の見解が入り込む余地はない。 知識は人々を盲目にする。
彼らの目は知識で一杯になりすぎて、観ることができない。
あなたが質問をする前から、彼らは出来合いの答えをもっている。
彼らはいつでも答える用意がある。
彼らはあなたの質問など聞いていない。
彼らは質問者に耳を傾けていない。
彼らは質問者の実存になど耳を傾けない。
彼らは質問者のなかをのぞき込み、相手が何を言おうとしているのかを見ようとはしない。
彼らは既成の答えをもっている。 夢を見ていることを知ることと
夢から覚めることは
全く違う経験になりますか? 知ることは継続的な蓄積です。
一方で覚めることとは、あることの終わりと始まりです。 >>753
夢を見ているものを夢の中の人々は知ることがないのであって、夢を見ている者が夢だと気がつくことがあるだけであるかも?
わたしは救われているのはそこだけかも? 人間が眠りから覚めれば、この世界が展開しているわけだが、この世界に眠りが目覚めれば、虚無があるのだw
ガラリとしてなにもなし
そのようにダルマは言い
自性は空性であると大乗の教えるところ
それが目覚めたる真の我であり
本来の面目躍如であり
その無と、この世がどちらも対象にわかれずしてあるときに、この世は美しい
そして自由は本来の幸福を与えるが、それは捕まえれば消える 何かの変化を見るが、その快感に束縛されれば消えるのである 個人的な見解を述べよう。
私は率直に言って、伝統的なアドヴァイタの教義や、
仏教の無常観には疑問を抱いている。
ブラフマーとマーヤーという対立軸。
煩悩即菩提と述べつつも、なお煩悩と菩提とを
切り分け優劣を付けようとする便宜的姿勢。
今、あなたもまた、眠りと目覚めとを別の世界のように
分けようとしてはいないかと私は感じている。
ある時間経過の中で、先ず苦に満たされた悪い状態があり、
さらにそれが滅尽された寂静の、より良い状態があるのだと見ること。
私はそうは思わない。存在とは、エネルギーの部分的な
凝集であり、部分的な滞留なのではないか?
実在とは、相対化された無だ。
それを無として見ても、有として見ても、実相は同じ。
ただ変化だけがあるのだ。光り輝く変化の太陽だけが、
私たちの精神には到底理解しえないような規模で、
時を越えて存在しているのだ。 >>758
光に満ちた世界は、訪れることもあり、ないときもあり
それはイメージであり、わたしにとっては、それは足枷となったのだ
無であれ、空性であれ、光であれ
なんであろうと現れたものを堅固にしようとすれば崩壊するからである
だからと言って光に満ちた世界にある人が、救われているならなんの問題もない
わたしは、現れたものを取らないこと捨てないことが、つまり、動きがやむことが、静寂であり、眠りの顕在化であり救いなのだ
世界が美しいとしても、世界が美しいとは見たくないのだ
そう言ったときに、美は消えてしまうからだ >>759
なるほどどうやら、あなたから見ると私は
目の前に現れた幻想をより堅固にしようと
注力しているように見えるらしい。
だが私自身で自らの状態を説明すれば、私は個我を脱し真我そのものとなって
完全に脱力し、大河に漂っているだけ。
そして私から見るあなたは、まだどこか流れに
逆らおうとしているように、そのように見える。
どちらが正しいかということもあるまい。
不二一元論、ノンデュアリティ、様々な宗教教義。
それらはあなたも恐らく理解しているであろう通り、
詰まる所は個々の人間の心情を映す鏡に過ぎないのだから。 おお、なるほど・・・つまり内観だ、私たちの違いは。
私は自身の言葉、自身の思索、自身の眼差しの中に、
その本質として、生命の生きようとする意図を見る。
この宇宙の存在し続けようとする意志を。
更にその根底にある変化への意志を。
私とあなたは、違うのだ。心のあり方が違う。
だから論理の解釈も違ってくる。例えばそれは人と獣の違いだ。
私は自然に近いから、人間らしい考えは時々奇異に感じる。
ただそれだけのことだったのだ。 禅では
不二は一体のもの
または、一つの如し
と、言われているそうです。
サマーディ ( 瞑想 )は
生命エネルギー体としての自分を知り
摂理と一体であることを感じていく方法かな。。
と思います。
体外離脱もそう思います。
ヴィパッサナー ( 洞察 )は
意識体としての自分を知り
統合した意識であることを感じていく方法かな。。
と思います。
クンダリニー もそう思います。 だから
精神的自立と自律のことかな。。
と、思ってしまう。 現象で起こる様々な事柄も
人ごととは思わず
摂理として考えていきたいと思います。 クンダリニー ヨーガは
瞑想として扱われていますが
クンダリニー は
洞察です。 真我は
分かりやすい例えだと
閻魔様だと思います。
出来るところから
ぼちぼちやってます。 真我は
自分を照らす鏡。
それで
閻魔に例えられているのかな。。
と、思います。
真我は神の遺伝子。
一人一人神の遺伝子を持つ
神の子です。 僕は聖者じゃないので
わからないけれど
ユング心理学では
ペルソナとシャドウは
言われていますね。
マザーテレサの手紙が公開され
考えさせられた方もいらっしゃるのではないでしょうか。 >>770
「不気味の谷」みたいなものがある。
道徳能力が一定以上に高まると、人は自己の欲求を厳密に抑制し始め、
非常に規律的な態度を取るようになる。
厭世、無気力、抑鬱、無関心。
しかしさらに道徳能力が高まると、その虚弱の谷を超えて
世界創造の領域に入り、精神は全く別の新たなエネルギーに
満たされ、再び動き出す。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています