「京都にもヘイト条例を」 ウトロ地区で友好の集い [少考さん★]
「京都にもヘイト条例を」 ウトロ地区で友好の集い | 共同通信
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2024/02/04
Published 2024/02/04 19:34 (JST)
Updated 2024/02/04 19:43 (JST)
伝統打楽器の演奏を披露する京都・ウトロ地区の住民でつくる「ウトロ農楽隊」=4日午後、京都府宇治市
在日コリアンが多く住む京都府宇治市のウトロ地区近くの会館で4日、「日朝友好新春の集い」が開かれ、住民や朝鮮学校の生徒らが音楽や舞踊を披露した。川崎市で反差別運動に取り組む崔江以子さん(50)が講演し、ヘイトスピーチに刑事罰を科す川崎市条例の成立過程を振り返り「京都にも安心して暮らせる条例を」と呼びかけた。
崔さんは、ウトロと同じく在日コリアンの多い川崎・桜本地区を2015年、ヘイトデモが襲った時のことを振り返った。「死ね」と叫ぶデモに、地域の子供たちから「差別は駄目だと言う大人が、なぜデモを止めないのか」「止めるルールがないなら作ってよ」と問われ、法整備を求め地域住民と運動を始めた。 自国の日本ヘイトをどうにかしてこいよ
義務を果たせ 安倍政権が作ったヘイトスピーチ規制法で裁かれ実名晒され特定されるネトウヨ
おめ
地方は安倍政権が決めた制度にしたがってるだけ 日本と半島は水と油
決して相容れないし友好はありえない >>4 誰もヘイトではなく政治的批判で
ほとんど裁かれてなどいないが何を言ってるのか意味不明。 京都は異常すぎるだろ
舞妓さんに対するペドレイプ推進の上日本の文化と観光の目玉にしたり日本人に対する言論弾圧を推進とか 日本人が食糧難で餓死者が出るところだったのに、在日なんか受け入れてもらえると考えるほうがおかしいだろ、皆殺しにしたとしても非難される謂れなんかない。
正当防衛でしょ。 ここまで「ウトロ地区放火事件」(実刑確定済)についてのコメントなし。
あれ?事件を忘れた訳がないよね??
「ヤフコメを見て、実行を考えついた。承認欲求を得たかった」と報道各社の接見で語ったらしいけど……。
で、「僕の考えた、在日コリアンの、ウトロ地区の歴史」なるものを裁判所で話しまくって、
「あぁ、こりゃあ動機に情状酌量の余地ないわ…」と、求刑から割引なしの実刑になりました(失笑)。 友好と言うなら「仲良くしよう」だろ。
共通の敵で結束するのを友好とは言わない。
韓国人は本当の意味での友好を理解出来ない。
韓国に友好国なんかあるか? 友好と言うなら「仲良くしよう」だろ。
共通の敵で結束するのを友好とは言わない。
韓国人は本当の意味での友好を理解出来ない。
韓国に友好国なんかあるか? 「俺達を特別扱いしろ」
は不公平になるだけで友好には繋がらないな 気に入らないなら、お国に帰ればいいのに。
ドMなの? 要するに少しでも傷ついた人間がいたら傷ついた原因を全て取り除けば
傷つく人間がいなくなるって理屈なんだろう。
ネットで「死ね」と書かれて「はいそうですか」と死ぬような人間にまで
配慮しなければいけないんだからな。
仮にそんな人間がいたとしてあらゆる言論や人間関係を変質させてまで守らねばならず
しかもサヨクが攻撃する対象にだけは適用されないというご都合主義なんだから
サヨクに政治を委ねるとこういうことになっていくという反面教師にはなる。 大体サヨクなんて多数派でもなんでもなく少数のうるさい集団ってだけだからな。
多数派工作と政権叩きとネトウヨ弾圧と思想押し付けしかやらないし
他人の弱みに付け込むことだけは異様に鼻が利く連中がマジョリティなわけないよな。 まあ俺はサヨクの綺麗な言葉にくるまれた獰猛さを暴き虚飾をはぎ取ることしか興味はない。
それで何が変わるわけでもないだろうが外から見た見栄えが悪くなれば
ちょろまかされる人間も減るし付け狙われる人間の心の重しも軽くなるだろう。
人助けだな。 誹謗中傷する権利が法で保証されていないのは当たり前なんだろうが
権利として明文化されていないことは何もできないという決まりがあるわけじゃなし
他人の権利を全く侵害しない生き方なんてものが本当に可能なのかという疑問が一点と
誹謗中傷を非難している連中が誹謗中傷をしてない保証はどこにもないということ。
侮辱罪なる悪法が成立するようだが誹謗中傷を肯定しないことと制裁を加えることは次元の違う問題。
批判と中傷の線引きも曖昧だし誹謗中傷にも重いもの軽いものと言った質の違いもあり
大体論争なんてものは相手を傷つけることが避けられないものだからな。
モラルを気取って人を叩けば誹謗中傷じゃないぐらいに思ってるのかも知らんが
自由には責任が伴うなんて筋違いの大仰なことを抜かすのなら
自分たちの隙だらけの発言も全部規制の対象になるってことを自覚したらどうだと。 自分たちの批判は正しくて綺麗な批判。
対立者の批判は間違った汚い批判。
この構図をやたらと振りかざすのもリベラルの特徴。
自分たちが批判するのは当たり前のことで批判される側に回る
可能性など全く想定していないので
いざ批判されるととにかく道徳的な威圧で相手を屈服させる以外の対応はなく
出来ない場合は対象への憎悪を歯止めなく肥大させる。 誹謗中傷とか名誉毀損とかも相手の隙を突く粗探しみたいになってる感じはする。
本当に効いているかどうかは考慮の対象外で言葉の乱暴さに対するアンテナで自動的に選別して
むしろ相手の失言を訴訟で追い込むネタとして楽しんでる感じすらあるよな。 俺はあの裁判ってものが勝っても負けてもどうも好きになれず
その理由は司法の判断って言うものが世間の本音や常識とかけ離れたものになる
可能性が高いことが一つと
あと公的機関の信用保証を使って勝者と敗者を決めるってやり方が好きになれない。
なければ社会秩序は維持できないがその必要不可欠な重要性を自己都合で曲解し
何でもかんでも裁判を利用して世渡りする人間に
何のリスクもないのではやったもの勝ち社会になるので
判決如何に関わらず批判することだけはサイレントマジョリティとしての責務と考えている。
何を言ったところで訴える奴は訴えるんだから思う存分好きにやればいいが
一般人を巻き込むのであれば自己満足に浸る横着な態度とは向き合わせるつもりでいる。 向こうがひたすら大袈裟に被害を言い募ってくることは分かり切ってること。
それに引きずられて押し切られるかどうかでこういう訴訟の勝敗は決まるんだろう。
絶対に大袈裟に言ってくることは百も承知の上で戦略を練るしかないよな。
大した差別意識もない事象に差別を見いだす姿勢なんていうのは
俺から見れば無自覚な差別意識の裏返しにしか見えないし
言えば何でも通る構造ってものがあるのならそこには無自覚ではいられないよな。 このように名誉毀損の訴訟の動機が名誉の回復などではなく個人的怨恨に過ぎないことが明らかになってくる。
まあ名誉毀損でそんな理不尽な被害がある場合はほとんどないしそういうものなんだが
それが悪質な誹謗中傷だという向こうの主張を受け入れるとして低下した社会的評価の実体とは何か
ということは問いかける必要もあるだろう。
おそらく批判の正当性が認められないであろうという目論見の元に訴えてくるので
実際に正当な批判とは認められないのだろうが正当と認められない批判がそれだけの理由で犯罪を構成したり
損害賠償の対象になるのかという社会通念と密接に関わる根の深い問題とも向き合うことになるだろう。 30年位前宇治市住民だった時、確定申告で税務署近くのウトロを通ったことがあった。
あの辺、異常に小便臭かったんでなんでだろうと不思議に思ったら、
下水道が整備されてなかった、と言うことだった。
市が立ち退きを勧めていたらしく、
不法に住み着いていた半島民のためにわざわざ下水道は作らないと言う。。
ウトロという名前も後から知ったよ 誹謗中傷は言葉の表面的な加害性だけではなく強度も質の見極めの指標にはなり得るってこと。
軽い気持ちで言った悪口と心の底から相手を憎悪する呪詛が同じではないし
その悪口を真実だと固く信じ込んでいるのなら間違いを指摘されても認めることはないからな。 結外籍居留民が都合良いことを
ワーワー言うてるだけに思うのな。 善行の名の元に国民の罪悪感を刺激して過去からの現状を否定することがリベラルの真の狙い。
現状の否定をテコに積み重ねる善行ではあるので見返りの有無に関わらず
必ず打倒すべき敵が意識されており政治闘争に組み込まれた条件付きの善意であり
社会への感謝や恩返しといった前向きな動機に基づく善意ではない。
動機が不純なので言葉と身体が一致せず、である以上無償の善意なんて困難でしんどいことを
引き受ける覚悟もないと考えるのが自然ではあるんだろう。 不平不満や憎悪をテコにした善意が世の中の役に立つのかと言えば立たないから批判されている。
役に立たないだけなら放っておけばいいんだろうが人に押し付けるから周りからウザがられる。
ネガティブな善意の矛先は大抵社会秩序の維持に必要な立て付けを悪として解体するモチベーションに
向かうので善意であれば社会が良くなるというのは自己満足の幻想で現実においては衰退を加速する。 今後は復讐の正当化とかも司法の問題に浮上するんだとは思うわ。
被害者と言いさえすればどんな行為に対しても認定されるのなら誰でも被害者と主張するし
何を言っても無限に事情が斟酌されるのであれば事実上の言いたい放題の無法状態だからな。
世の中には明らかに過剰防衛ってものがあるのと無自覚な加害性って問題もでてくるわな。
これは一般論だが社会問題として何らかの判断の更新を求められる時がくるだろうな。
順法闘争ってのにはそういう側面もある以上司法判断の絶対視はできないし
まあリベラルが裁判沙汰ではしゃぐのは問題は常に相手にしかないという主観が
客観的であると社会に公認されているという万能感に支配されているんだろう。
勝った勝ったと浮かれてればいいし、ただやり過ぎればいずれボロを出すというのが個人的見解。 まあ裁判っていうのは極めて真面目な態度で臨むもので洒落や冗談が通じないので
他愛ない揶揄や悪口に悪質な悪意を見いだそうとすれば見いだすことは可能で
言葉が本人の意図から独り歩きして解釈の暴走が起きる可能性は否めない。
大体の場合侮蔑の意図をもって先制攻撃を仕掛けた場合や露悪的な表現を使った場合は
加害性が認定されやすい傾向にあるんだろうが
それが司法判断の全ての基準になってしまっては
良識の名の元に他者攻撃を行う人間のやりたい放題になってしまうので
攻撃に主体性のあるなしに関わらず加害性が社会通念上許容できるレベルを超えているかどうかや
そこに至る道筋に妥当な根拠があるかどうかで判断するべきもので
悪意の質や強度は道徳的性向や修辞で免罪されるべきものではない。 些細なことで被害を訴え相手を断罪したり正しさの元でやりたい放題する人間が
常日頃の振る舞いでも信用するに足る人間かどうかっていう疑問はある。
善行にしても体を張ったり欲得と絡まない規範を自分に課すことができるのかとか。
そういう人間の言うことを聞いていると一見まともなことを言っているようで
反論しづらい響きを伴っているんだが所詮それだけのことで
正しさの威圧の元で他人を黙らせる効果しかなく
つぶさに見ていけばいくらでも不整合を抱えているし
根っこにある動機が作為によるものである以上論理が不自然なものになるのは当たり前なんだろう。
今までの経験からこういう連中を納得させることは無理で
モラルの裏に隠れた言葉の暴力性を削ぎ落すしかない。