能登半島地震は、正月の一家だんらんを奪った。揺れで崩れた土砂の中から、救助される家族を待つ人がいる。ビニールハウスに避難し、身を寄せ合う家族がいる。被災地は8日、雪景色の中、地震から1週間を迎える。

 ビニールハウスやお寺の広場、保育園……。能登半島地震の被災地で、住民が自主的に集って生活する「自主避難所」が増えている。こうした拠点は行政の支援が乏しく、寒さや水不足にさらされる被災者の疲労はピークに達しつつある。

 「地域の絆で耐え抜いてきたが、そろそろ限界だ」。会社員の道下貴寿さん(65)は先が見通せない避難生活の窮状をこう訴える。

 甚大な被害が出ている能登半島北部の石川県輪島市。道下さんが妻とともに身を寄せるのは、市街地から約2キロ南の山間部にあるビニールハウスだ。

 畑を覆うように取り付けられたハウスは幅約4メートル、長さ約60メートル。この空間で最初の地震が起きた元日から、高齢者を中心に最大約20人が肩を寄せ合うように避難生活を送っている。当初は幼児や90代の女性も含まれていた。

 この地区で暮らす道下さんは1日、自宅で震度6強の激しい揺れに見舞われた。自身の家は難を逃れたが、周辺では家屋の倒壊も目立ち、すぐに近隣住民の安否確認に走った。

 無事だった高齢者について、約1キロ離れた市運営の指定避難所(公民館)に車で連れて行こうとしたが、道路のあちこちでひび割れや陥没があり移動が難しい状況だった。

 今回の地震は帰省シーズンを直撃し、年末年始をふるさとで過ごしていた家族連れや観光客らも被災した。道下さんの耳には避難所が人であふれているとの情報も入り、公民館に向かうことをあきらめた。そこで頼ったのが、知人のビニールハウスだった。

 畑の上にベニヤ板を敷き、自宅からカーペットや毛布、石油ストーブを持ち込んだ。地震の直後はハウスの電源でこたつが使えたが、翌日から停電した。

 7日にはハウスの屋根に雪が積もった。冷え込みが強まる中、ストーブは燃料の残量を気にしながら使っており、主に毛布にくるまって寒さに耐えている。トイレはハウスの一角にシートを張ってスペースを設けているほか、屋外も活用する。

道下さんらはこの場所について輪島市に伝えたため、数日前から水が入ったペットボトルやパンが届くようになった。食料は避難者の家からも持ち寄ってしのいでいるが、断水に悩まされているという。水は雪をストーブで溶かし、近くの川からくみ上げて確保したこともある。

 被災地では地震が後を絶たず、ハウスが倒壊する危険性とも隣り合わせの日々が続く。道下さんは「高齢者が多く、いつまでこんな生活が続けられるか分からない。私たちの街や暮らしはどうなってしまうのか」とうなだれた。

 輪島市内は本来、48カ所の指定避難所があるが、このうち14カ所が建物の損壊などで受け入れを中止している。収容先の減少が自主避難を招く一因にもなっている。

 徳島大の中野晋特命教授(地域防災学)は「過酷な避難生活が原因で災害関連死を招いてしまったケースも過去にあり、自主避難所は健康面や安全面でも大きな課題がある」と指摘。「行政は速やかに公的な避難場所を確保し、被災者たちを誘導してほしい」と訴えた。【二村祐士朗】

毎日新聞
2024/1/7 21:23
https://mainichi.jp/articles/20240107/k00/00m/040/198000c