甥の山上徹也が安倍晋三元首相を銃撃した2022年7月8日の事件から、まもなく1年が経とうとしている。

 事件後、私はマスコミ関係者に事件の背景を説明してきた。徹也の幼い頃に父親(私の弟)が自死したことや、徹也の母親が旧統一教会に多額の献金をしたことが原因で一家が破産したこと、さらには障害者だった徹也の兄が将来を悲観して自死したことをなどである。そうした事件の背景を説明することが伯父としての社会的責任だと考えたからだ。

 徹也の捜査は終了し起訴されたことで、私は、自分の任務を終えたと考えている。ところが事件から1年という節目が近づいているからか、最近、再びマスコミ関係者が私のところにやってくるようになった。その一つひとつに対応するつもりはないため、以下、徹也に関することを記しておくことにした。

■海水浴場で見せた笑顔

 まずは彼の少年・青年時代に触れておきたい。

 彼の父親が自死したのは1984年、徹也が6歳の時だった。その翌年1985年の夏、私は徹也兄弟と私の息子3人を連れ、彼らの祖先である上人(僧侶)が建立した和歌山県内の寺院を訪れた。徹也兄弟の父親が眠っていることや、寺院を建立した上人のことを知っておいてほしかったからだ。

 寺院を訪れた後、私たちは近くの静かな海水浴場に行き、しばらく遊泳した。浮き輪をつけて懸命に泳いでいたあのときの徹也の破顔は今でも鮮明に覚えている。その後の人生で抱えることになる苦難の道を露とも知らず、目は輝いていた。

 次に徹也に会ったのは約10年後。母親が旧統一教会に多額の献金をしたことが原因で大学受験をあきらめ、公務員になるための専門学校に通いたいと援助を求めてきたのだ。私は徹也の希望をかなえようと、学費を援助することにした。

 徹也は勉強して専門学校を修了し、希望していた消防士の試験を受けた。筆記試験は通ったものの、最後の身体検査で強度の近眼が問題となり、不合格となってしまう。

 やむをえず徹也は海上自衛隊に入隊する。ところがこの時期、徹也は、実家にいた障害者の兄が極度の貧困状態に置かれていることを知る。一緒に暮らしていた母親は旧統一教会のイベントでたびたび韓国に行っており、残された兄は食べるものすらままならない状態に置かれていたのだ。

 兄の境遇を知った徹也は自分の生命保険で救済しようと、自殺を図った。結局未遂に終わるのだが、徹也は兄のことについても、自分自身の将来についても光明が見いだせない状況に陥っていた。

 自殺未遂から数カ月後、私は、兵庫県伊丹市にある自衛隊病院で養生していた彼のもとを訪ねた。「しばらく私の家に来て勉強をやり直すか」と訊くと、彼は喜び、顔に生気が戻ったような気がした。

 今思い返すと残念極まりないのだが、私の家に来る話は前に進まなかった。私の妻にがんの兆候が見つかったからだ。彼を自宅に招くのは難しいと判断し、「あの話はなかったことにしてほしい」という手紙を書いて送った。

 手紙を読んだ徹也の落胆はいかばかりだったか。

 それから3年後の2005年、徹也の兄はみずから命を絶った。葬儀で、徹也は兄の遺体に覆いかぶさって号泣していたと聞いている。葬儀の時、私も徹也の側にいてやりたかったのだが、実は私もがんの術後にあって、床に伏せていた。

■母親の豹変

 次に徹也の姿を見たのが、2022年7月、安倍元首相を銃撃したニュースを報じるテレビ画面の中となった。

 事件直後、奈良にいた徹也の母親と妹に連絡し、すぐに大阪府下の私の家にタクシーで来させた。マスコミや警察から保護するためである。それから約6日間、私の自宅は多くの記者、カメラマンに囲まれ、まったく出入りができない状況となった。

 その間、私は奈良地方検察庁に2人を保護している旨を伝え、二度にわたって検事らに来宅してもらい、徹也の母親らの検事調書を作成してもらった。

 急ぎ検事に調書を作成してもらったのには理由がある。誰かが(徹也の)母親に入れ知恵し、旧統一教会に都合のいい供述やメッセージを出させる懸念があったからだ。そうなる前に、検事にしっかりと調書を作ってもらって事実認定をしておきたかった。

 そして、当時の私の判断は間違っていなかったと思っている。

2に続く

東洋経済オンライン
6/23(金) 5:02
https://news.yahoo.co.jp/articles/822284eb7ed0fae0191fec10e90d636d6e3c7e19