太平洋戦争末期、兵庫県三田市内のニュータウン地下にプロペラ工場が秘密裏に建設されようとしていたことを7日付の三田版で紹介すると、複数の読者から新たな情報が寄せられた。建設工事には3千人を超える朝鮮人が労働者として動員され、三田学園の生徒や地元住民らも手伝ったという。周辺の民家には、工場で使われる予定だったとみられる石材も残っていた。(小森有喜)
 「戦況が悪化する中で旧陸軍は完成を急ぎ、過酷な現場で朝鮮人労働者が働いていました」

 在日韓国・朝鮮人の歴史を研究する「兵庫朝鮮関係研究会」の徐根植(ソ・グンシッ)代表(69)=同県尼崎市=が話す。80年代後半に聞き取り調査をしたところ、動員された朝鮮人は募集を受けて希望したり、強制的に祖国から連れてこられたりした人々だった。

 トンネルを掘る作業はノミを使った手掘りで、崩落の危険を伴った。「朝鮮人は海軍将校に並んで歩かされ、列を乱すと竹刀で突かれた」「工事中に3人の死者が出て遺体は近くに埋められた」などの証言もあったという。

 米軍の報告資料などによると当時、戦闘機のプロペラを製造していた尼崎市の住友金属工業プロペラ(現・住友精密工業)の疎開先として近畿圏の6カ所が選ばれた。うちウッディタウンのけやき台周辺(当時、有馬郡広野村)では4カ所の地下工場が計画され、総面積は計約1万8500平方メートル。地下トンネルの長さは600メートル以上にも及ぶ予定だった。

 工事は45年2月に始まり、軍事機密として公にされないまま進められた。地元住民も加わり、三田学園の3年生も土砂をトロッコで運ぶ作業に就いた。短期間で建設できる「半地下工場」もあり、徐々に専門業者も集まる中で一部が終戦1カ月前に完成したが、稼働せずに終わった。

 朝鮮人労働者の一部は職を失い、半地下工場跡などに身を寄せた後、「嫁ケ淵」に朝鮮人の集落ができたという。「下井沢」にあった労働者宿舎は子どもに朝鮮語を教える校舎として使われるようになり、後に有馬朝鮮初級学校(78年に閉校)へと発展した。

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 90年代からウッディタウンの開発が始まり、地下工場を知る人は減った。しかし98年5月に陥没事故が発生。トンネルの真上にあった10世帯が転居する事態になり、埋め立てられた。

 近くに住む有鼻至澄(よしきよ)さん(68)=三田市=宅には遺構が残っていた。蔵の土台や庭の飛び石に長さ2メートル、厚さ20センチほどの御影石が約20枚使われ、それぞれに直径約4センチの穴が空いている。これらは地下工場で機械を固定する石台に使われる予定だったと伝わる。

 当時、工事に関わった「鹿島組」(現在の鹿島建設)の社員数人を有鼻さんの祖父が下宿させており、自宅を改修中だったことから、いらなくなった石材をお礼として譲ってもらったという。

神戸新聞
2020/08/22 05:30
https://www.kobe-np.co.jp/news/sanda/202008/0013624082.shtml