■星野源への冒涜

 星野源「うちで踊ろう」もまた、ひとりの表現者としての彼の純粋な思いが生み出したものだ。アコースティック・ギター1本で録ったシンプルな楽曲をInstagramにアップし、そこに「誰か、この動画に楽器の伴奏やコーラスやダンスを重ねてくれないかな?」というメッセージを添えたアイデアは、「自分にできること」の最良の形だ。

 なぜなら彼はここで、不特定多数の人々との“コラボレーション”を成し遂げたからである。あるいは成し遂げようと試みたからである。“感覚”によって人と人とがつながれるわけで、しかもその行為自体がきわめてクリエイティブだ。

 1980年代の初めごろ、表参道の裏手にあったギャラリーになんとなく入ってみたら、思いもかけず自分自身が“作品”になってしまったことがあった。なんのことはない。名前すら憶えていないそのアーティストは、「ギャラリー内にいる人、入ってきた人すべてが作品」になるというインスタレーションを行なっていたのである。

 当時の私は、そのことにいたく感動し、共鳴したのだが、今回の星野源の取り組みにも似たニュアンスを感じた。制限があってもアイデア次第でなにかを生み出せるという事実を、あのときのアーティストも今回の星野源も、同じように証明してみせたからである。

 とはいえ、たままた足を踏み入れた人が作品になってしまうインスタレーションとは違って、「うちで踊ろう」の場合は、参加者に求められるべき大切なものがある。

 まずは創造性だ。歌を歌うのでもいい、ラップをするのでもいい、楽器を演奏するのでもいいが、そこに自分が加わることによって“作品としての質”が高まることに意味があるのだ。したがって参加者には、相応の意思が求められるわけである。

 そしてもうひとつはリスペクト、すなわち敬意、もしくは誠意である。星野源というアーティストが、なぜこうした試みをしたのかを理解し、その行為に敬意を払ってこそ、参加する意味が生まれるということだ。

 つまり「うちで踊ろう」におけるコラボレーションには、星野源への敬意、そして「自分にできること」を形にすることができる表現者としての誠意が求められるべきなのである。

 こうして生まれたコラボ作品によって気持ちが楽になったという人がひとりでもいたとすれば、そこには絶対的な価値が生まれる。そして、その大前提として求められるのは、言うまでもなく人間としての知性だ。

■お坊ちゃん総理の4つの間違い

 さて、そこで問題になるのは、我が国の総理大臣の“パフォーマンス”である。そこに、上記のような創造性や敬意、人間としての品位、想像力が備わっていたと言えるだろうか?

 彼の“表現”について、多くの酷評が寄せられていることは多くの人々が知るところである。だから蒸し返しても意味はないが、しかしそれでも改めて問題視すべきは次の4点である。

1:官僚から出たアイデアらしいが、そこに疑問を感じることなくOKしてしまった、人としての“薄さ”

2:あんなもので国民が納得するだろうと考えた底の“浅さ”

3:コラボレーションでもなんでもない、単なる“盗用”であること(を理解できない“考えてなさ”)

4:星野源に対する“誠意のなさ”

 1に関しては、お坊ちゃん体質丸出しとしか言えない。いかにも幼いころから周囲にがっちりガードされ、敷かれたレールの上を「なにも考えずに」進んできた人間らしいペラペラ感である。しかも2には、国民をなめ切った首相と自民党の思いがはっきりと表れている。

2に続く

論座
印南敦史 / 作家、書評家
2020年04月16日
https://webronza.asahi.com/culture/articles/2020041500002.html