文部科学省で事務次官を務めた前川喜平氏が、読者からの質問に答える新連載「“針路”相談室」。今回は不祥事の際に関係者が言う「覚えてない」という言葉について。

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 皆さん、こんにちは。前川喜平です。私は38年間、文部科学省(旧文部省)の役人を務めましたが、2017年に退官。今は一民間人で自由の身です。

 退官の理由は、文科省の天下り問題の引責ですが、その後、政権からひどい仕打ちも受けました。加計学園の獣医学部新設問題について、政権に批判的な姿勢を隠さなかったからでしょう。実際、会見を開いて「行政がゆがめられた」などと発言しました。

 文科省内では、賛否両論あったようです。でも、そのとき、ずっと組織の中で仕事をしてきた私は、本当の意味で自由になれたと感じました。

 さて、このたび、世間の皆さんからの質問に答える本企画「“針路”相談室」を始めることになりました。こんな私が、偉そうにアドバイスなどはできませんが、組織の中にいながらも一人の人間としてものを考え、判断することができる「折れない個人」のあり方については、自分なりに考えてきたつもりです。

 文科省では、私は「面従腹背」でした。それは、組織の中で「自分」「個」を保つための、私なりの策でもありました。大きな組織の中で日々やりたくないことを散々やらされ、さまざまな権力者にこき使われたり、怒鳴られたり、褒められたりしていると、自分が一人の独立した人間であることを忘れそうになる瞬間があります。つぶれてしまわないためには、折れない個人でいる心構えが何より大事でした。

 一民間人として、自由になった今の私の座右の銘は、「眼横鼻直(がんのうびちょく)」。目の前にあるものを、そのまま、ありのままに見るという意味です。難しい言葉で難しいことを話している人や、権力やたわ言に惑わされず、自分の目で見て、自分の頭で考える。当たり前のように思えますが、大人になるとこれが結構難しい。常に自分に対して健全な懐疑心を持つことができてこそ、成しうる技でもあります。

どんな疑問に対しても、唯一無二の答えというのは、この世には存在しないと私は思っています。組織に属していても、組織の論理が自分にとっての正しい答えを導いてくれるわけでもなければ、困ったときに組織が必ず助けてくれるとも限りません。結局は自分で考えて、自分なりの答えを出さないといけない。でも、それができるようになれば、本当の自由が手に入ると、私は思います。

 この連載を通じ、特にこれからを生きる若い皆さんに、折れない個人でいるためのコツみたいなものを、少しでも伝えられたらと思っています。どんな小さな悩みや相談でも結構です。日ごろ、ぼんやりと考えながら、答えが出ないようなことがあれば、とりあえずご相談ください。ひょっとするとお役に立てるかもしれません。

Q:最近の報道、例えば、政治家や官僚の国会での答弁や、不祥事に対する対応などなどを見ていると、立場のある人は都合が悪いことに対して、「記憶がない」「覚えてない」と答えて、それでいつも済まされているように見えます。僕は、覚えているのに「覚えてない」と言うのは卑劣なことだと思ってきたので、ちょっとした会話の中でも、その言葉を使う気にはなれません。でも、それなりに社会的に地位のある人が「覚えてない」で窮地を乗り切っているのを見ると、都合が悪くなったらそう言えば良いのかと、妙に納得してしまう自分もいて……。なんだか気持ちが晴れません。(東京都・29歳・男性・契約社員)

A:覚えているのに覚えていないというのは、なかなか巧妙なうそです。なぜなら、覚えていないということを、うそと実証しようがない。「覚えていない」と言っている人の心の中に入ってみないことには、それが本当かどうかわからないですからね。

 確かに、人間関係の中では、「覚えていない」としらを切ったほうが、物事がスムーズに進む局面というのは、あるものです。うそというのは、人生を乗り切る上でのある種の必要なテクニックと言えるかもしれない。場面に応じて、うまく使い分けるというのが、大人の賢さと言えるのかもしれません。

 もちろん、基本的にはうそは悪で、ダメなことです。でも、絶対にダメだと考えなくてもいい。世の中にはうそをつくしかない場面というのもあります。それは私自身にも、身に覚えがあります。


つづく

※週刊朝日  2018年9月7日号

https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20180829-00000010-sasahi-pol&;p=1