https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20180815-00010970-gentosha-ent

ある日突然目覚めてしまう、エセ「愛国心」

 「愛国奴」とは私の造語のようなもので、「愛国者」と一文字しか違わないが、愛国や保守を語っている分際でその実、「愛国」という虎の威を借りて卑小な自尊心を満たし、他国人を差別し見下し、デマを真実と思い込み巷間に頒布させている人たちのことである。要するにクズだ。

 「すなわち、不幸は、自分が知らない間に、知らない場所で、勝手に育っていって、ある日突然、目の前に現れるという、重要な事実に、である。幸福は、逆だ。幸福は、ベランダにある小さなかわいらしい花の苗だ。あるいは番のカナリアのひなだ。目に見えて、少しずつ少しずつ成長する」(村上龍『69』)

 この箇所の不幸を愛国奴に、幸福を愛国者に置き換えるのが最もわかりやすい。愛国奴はほとんどの一般公衆の知るところのない、狭い自閉した論壇やネット空間から突然発生する。

 一方愛国者は、あるいはその中にある愛国心は、地域共同体や社会組織の一員として生きていく中で、少しずつ少しずつ目に見える形で成長するものだ。生まれたての赤ん坊が「日本万歳」と言ったら大事(おおごと)だが、30歳くらいになってようやく祖国や故郷を慈しむ感覚が芽生えて結実し、遅くとも40歳ごろまでには一応、社会や世界に対しての疑義と同時に、歴史的経緯を知ることで尊崇の念も高まって、バランスがとれるようになる。このようなコモンセンスともいうべき感覚を身につけた成熟した自立体を、私は愛国者と呼ぶ。だが、愛国奴はそうではない。

 「ネットde真実」という言葉がある。それまで社会や政治や歴史に全く無知だった人間が、校正や編集を一切経ていないネット動画やブログを読むことで、まるで熱病に感染したかのように突然、「愛国という名の真実」を声高に叫ぶようになる。

 繰り返すように愛国心とは、一朝一夕に出来るものではない。愛国心というのは経験を前提としており、偶然発見するものとか、瞬間的に探知できるものではない。しかし、社会や政治や歴史について幼年期から全く無関心のまま、青春期を経ても同じく無関心のままでも相応に学歴や社会的地位を手にすることのできる、この奇妙に歪んだ戦後日本において、「ネットde真実」という愛国の発見のカタチは実にお手軽だということで、これが繁茂している。

 彼らは「愛国心に目覚めた」というフレーズをよく好んで使う。しかし愛国心は目覚めるものではなく涵養(かんよう)するものだ。何かを涵養するには長い期間が必要だが、目覚めるのはたやすい。たやすいがために、彼らはこのお手軽な「ネットde真実」とか「愛国心に目覚めた」という形式に飛びついていく。

 しかし、土台となる基礎的な知識や経験、素養が全く欠落しているから、豆腐の上に建造したプレハブのようにその基礎は脆(もろ)く、あっという間に崩壊する。

 愛国奴は、ネット右翼とか似非(えせ)保守などという言葉に置き換えることも可能だ。なぜならすでに述べたとおり、愛国奴のほとんどは自閉的な保守論壇やネット空間をその苗床にしているからである。本来「保守」とは、人間が不完全であることを前提として、人間の理性よりも歴史や伝統にその価値観を置き、漸次的に社会の改良や変化を志向する姿勢である。

 ところが現在の「保守」は、朝日新聞と中国と韓国を憎み、沖縄の反基地活動家を「支那の工作員」と罵倒すれば資格十分というのだから、18世紀末にその原型が確立された「保守」の定義とは、何もかもかけ離れている異形の存在だ。わかりやすく言えば現在の「保守」も、その「保守」に必ず付帯する「強固な愛国心」も、デマとトンデモと陰謀論を元に、刹那的に形成された似非保守であり、愛国者ではない。こういう連中を包括的に愛国奴、と呼べば便利だと思う。

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(略)

■古谷 経衡
著述家。1982年北海道生まれ。立命館大学文学部史学科(日本史学)卒業。政治、インターネット、ネット保守、若者論などを中心に幅広い視座で執筆活動を展開。ラジオ・テレビのコメンテーターとしても活躍。『日本を蝕む「極論」の正体』(新潮新書)、『女政治家の通信簿』 (小学館新書)、『愛国奴』(駒草出版)など、著書多数。