https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20180809-00000011-sasahi-peo

 膵がんで8月8日に死去した沖縄県の翁長雄志知事。

 最期まで米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)の名護市辺野古への移設に強く反対し、7月末には「最後のカード」であった辺野古の埋め立て承認の撤回に踏み切ったばかりだった。

「週刊報道LIFE」(BS−TBS)でメインキャスターを務めるTBS記者、松原耕二氏は著書『反骨 翁長家三代と沖縄のいま』(朝日新聞出版)の中で、翁長氏から直接聞いた数々の印象深い言葉を書き残しているが、翁長氏は病気の発見を境に、いい意味で「変節」したと見る。

 当時那覇市長で自民党に所属していた翁長氏に、健康診断の際に初期の胃ガンが見つかり、2006年4月7日の記者会見で自らそれを公表する。初期といいつつ、胃の全摘という命にもかかわるものであった。

「(胃ガンが)発見されたときは二年の命だな、と自分で決めていましたね」

 同書の中で翁長はそう振り返っている。

 一カ月に及んだ入院生活の間で、翁長は自分の人生を考えたと話す。夢だった那覇市長の仕事は全力でやってきた、でもこの時まで生きてきた自分は、本当に全力を尽くしてきたと言えるだろうか、と。

 術後の経過も良好で、転移も見られなかったことから、翁長は公務復帰を果たす。頬がこけ、一回り細くなった身体で臨んだその会見でも、こう語った。

「突然、ガンを宣告され、入院、手術と非日常的な日々を送るなかで、初めて人生を振り返ることができました」

 当時から翁長は普天間基地の硫黄島移設を訴えたりしていたが、あくまでも沖縄自民党の保守本流議員としてであった。ところが、ガン以前と以後では、翁長の顔つきが変わった、と松原氏は感じた。そこに松原氏は翁長氏の内面の変化を感じ取る。

(略)

 知事選に出ること、何より自民党と袂を分かって知事選に出ることは、翁長にとってそれまでの人生と決別するほど大きな出来事だったに違いない。しかもそれは、「自分は保守にいたからこそ、国を動かすのがいかに大変かわかっている」と翁長が語る、その国と果てしなく対立することにもなるのだ。しかしその一方で、それは基地をはさんで保守と革新が争うのをなんとかしたいという、子どものころからの自分の原点に立ち戻り、それを実現する一歩を踏み出すことにもなる。

 市議会議員、県議会議員、那覇市長、県知事と歩んできたが、癌の発見以後、翁長氏は、全沖縄のために、本当にやるべきことに目覚めたのではないだろうか。

 徹底して地元の意向を無視し、基地移設に邁進する政府に対し、県民を代表して拳を振り上げ続けたのだ。

 知事になった翌年の15年5月に、3万5千人を集めて開かれた(辺野古移設反対の)県民集会。出席した翁長は、丁寧な言い回しながら、喧嘩するとき口にするような激しい沖縄弁を使って、あいさつをしめくくった。

「うちなんちゅー うしぇーて ないびらんど(沖縄をバカにするんじゃありませんよ)」

 ほっそりしたその表情は、晴れやかにすら見えた。

 沖縄は大きな精神的支柱を失った。