主導権を握られないためにも
武田 砂鉄

■「精一杯擁護するぞ」と意気込む人たち

「こんなの、今までだったら何回も政権が吹っ飛んでいるはず」という突っ込みというか愚痴を方々で聞く。しかし、安倍政権は吹っ飛ばずにいる。

森友学園問題、加計学園問題、イラク日報問題、財務事務次官セクハラ問題、裁量労働制の不適切データ問題……政権やその周辺で山積する問題の特徴は、「ない」が堂々と「ある」に変わるということ。毎日、新聞をめくるたびに、何がしかが「発見」され、誰かが形だけ謝ったり、しらを切ったりしている。

そこにもうひとつの特徴を見出すとすれば、生じた問題に対して「そんなに大した問題ではないだろ」という手厚い擁護が向かうこと。「ない」とされていたものがあったり、会っていないと言っていたのに会っていたり、セクハラしている音声は自分の声だと言う人が多いけど、自分の声というのは、自分の体を通じて聞くので分からない、と言ってみたりする人たちを、手厚く擁護するのだ。

その度に呆れる。呆れた後で、無理があると分かっているのに押し通す気持ちっていかほどだろう、朝起きて「今日も精一杯擁護するぞ」と意気込むのも大変そうだなと、相手の気持ちを勝手に想像してみたりもする。回避する方法として、もうちょっとテクニカルな方法もあるはずなのだが、あえて稚拙で愚直な方法を選んでいるようにも見える。

議論を単純化すれば、いかなる議題でも争う構図を作ることが出来る。どんな証拠が出てこようが「記憶の限りでは会ってない」と言えば、その真偽について、あっちとこっちに分かれ、騎馬戦状態が出来る。こちらは、グラウンドが汚れていますよ、と指摘しているだけなのに、いつの間にか、そのグラウンドで騎馬戦を行うことになる。絶対数が味方の騎馬になってくれるという自覚があるから、そういうことを言う。

■忖度の証拠を出せ、という矛盾

新著『日本の気配』の「はじめに」で、そのタイトルをつけた理由をこのように記した。

「なぜ、空気ではなく、気配なのか。空気読めよ、とは言われるが、気配読めよ、とは言われない。気配なんて読めないからだ。

今、政治を動かす面々は、もはや世の中の『空気』を怖がらなくなったように思える。反対意見を『何でも反対してくる人たち』と片せば、世の中の空気ってものを統率できる、と自信に満ち満ちている。

『空気』として周知される前段階を『気配』とするならば、その気配から探りを入れてくる。管理しようと試みる。差し出された提案に隷従する私たちは、『気配』から生み出される『空気』をそのまま受け流す。それは政治の世界だけに留まらず、メディアの姿勢にしても、個々人のコミュニケーションにおいても同様ではないか」

昨年、流行語大賞に「忖度」が選ばれたが、長年言われてきた、空気を読むのを得意とする日本人の心性を、改めて別の言い方で形容したに過ぎない。明確な意思決定がなくても、いつのまにか物事が一つの方向に流れていく。強制する人間の意図が明確ではないのに、強制が絶対化する。

「私や妻が関係していたということになれば、首相も国会議員も辞める」という安倍晋三首相の具体的な発言があちこちで忖度を発生させたが、具体的な発言と忖度の発生に因果関係を明示することは簡単ではない。首相の関与があったのではないですかと具体的に尋ねても、ありません、と答えることがいつまでも可能なままである。無理あるだろ、と多くの人が思っているが、ありません、をひとまず受け止めるしかない。

逆に首相は、証拠を示せ、と言う。だが、忖度って、証拠がないから忖度なのである。だから、自分や妻は具体的な質問には答えないくせに、忖度を具体化してみろ、という。

作家・橋本治が、忖度という言葉の仕組みについて、こう述べている。

「『他人の胸の内を推し量る』が『忖度』なのだから、『忖度』には実体がない。『忖度』自身は曖昧模糊としていて、『忖度して○○をする』になって、やっと実体が生まれる。でも、『忖度』は『○○をする』になるための媒介だから、実体が生まれてしまった時に、『忖度』はどうでもよくなって消滅してしまう」(「ちくま」2018年5月号・連載「遠い地平、低い視点」)


続きはWebで

現代ビジネス
2018.4.30
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/55402