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2017/08/10(木) 21:01:19.65ID:CAP_USER9https://www.kobe-np.co.jp/news/shakai/201708/0010450707.shtml
太平洋戦争末期、特攻を志願して出撃に備えた海軍飛行予科練習生の名簿が、兵庫県高砂市内で見つかった。予科練出身の青年たちは、存在自体が秘密とされた基地でグライダーの訓練を積んだ。そのうちの一人、磯野辰治さん(89)=同市今市=が写真や装備品などと共に、所属分隊の名簿を保管してきた。「(死と隣り合わせだった)私たちの二の舞いを若者たちが演じないように」と、願いながら。(小尾絵生)
1943年5月、志願して15歳で鹿児島海軍航空隊に入隊した。予科練生として約2年間、軍事学などの基礎教育や水泳訓練などにどっぷり漬かった。
44年夏ごろ、予科練生は講堂に集められ「特攻に志願する者は紙にマルを書け」と告げられた。「前線で戦う先輩たちの応援に行きたい気持ちでいっぱいだった。みんなマルを書いた」
戦局が行き詰まった45年5月、海軍は長野県南牧村の野辺山を特殊兵器搭乗員の訓練基地とした。全国8カ所の海軍航空隊に所属していた約1200人の特攻志願者が集められた。磯野さんも野辺山に移り、米軍のB29爆撃機を迎撃するロケット戦闘機「秋水」の搭乗員を目指し、グライダーの滑空練習を繰り返した。秘密訓練地とされ、家族へ出す手紙などにも「野辺山農場」と記した。
本土決戦に備え、同基地では戦闘機の秋水と、特攻機の桜花の搭乗員養成を目指していたとされる。秋水は弾数100発の機関銃を備え、戦闘後の帰還を前提としていたが「機関銃を撃ち、それが駄目なら体当たりするってことやったと思う」と磯野さん。桜花は実戦配備されていたが、秋水は試作機の飛行実験が成功せず、実用化に至らなかった。磯野さんも実施部隊に移る直前に終戦を迎えた。
玉音放送は雑音でよく聞き取れなかった。翌日、上官から敗戦を伝えられ、全身から力が抜けた。「命が助かったと思うと同時に、ようやく地に足が着いた心地がした」と振り返る。
敗戦から復員まで数週間、野辺山にとどまった際、磯野さんの所属した第101分隊の名簿を仲間と作った。全国から集められた195人の名前と兵籍番号、住所などが記されている。「馬ふん紙」と呼ばれる薄く質の悪い紙だが、神戸や旧加東郡など兵庫県出身の4人を含め、一人一人の名前が読み取れる。その多くは鬼籍に入った。
「精神教育の結果、死を恐れる間もなく訓練に打ち込んだ。後から思えば、死ぬための訓練なんてみじめなもんだ」。地元企業を定年退職した後、平和を祈って始めた写経を今も続けている。